「人口問題と近代社会――マルサス『人口の原理』にもとづく考察」要旨

法政大学大学院修士課程  挾本 佳代  


 
  本稿は、トーマス・ロバート・マルサス『人口の原理』An Essay on the Principle of Population (1798, 1803, 1826)の考察を中心に、彼が呈示した二公準すなわち「食糧の必要性と情念の不可避性」から生じてくる人口問題が近代社会においてどのように対処され、その結果、なぜ論議すべき問題の対象外へと捨象されるに至ったかを論究するものである。マルサスの論理に対立する論理としては、近代社会を構築した啓蒙主義、ユーピア思想、古典派経済学、功利主義の四つの思想を取り上げて考察し、近代社会の特質を明確化した。
   各章の要旨は以下の通りである。

第T章 マルサス『人口の原理』の成立過程
   『人口の原理』公刊から四五年前に行われた人口論争と、マルサスがこの著を執筆する直接のきっかけとなったウィリアム・ゴドウィンのユートピア思想への反対論理を考察し、『人口の原理』の成立過程を論及した。とくにマルサスは、人間から「純朴な気風」が喪失すると商工業が発展し人口が減少する、というロバート・ウォーレスの歴史観、人口観から多くのものを摂取している。また、マルサスはゴドウィンに対し、人間が社会制度を改良して、理想社会を形成していくことの限界を知らしめてくれるのが人口問題であると提示した。

第U章 経済学者マルサス
   「賃金ファンド」および「富」の定義に関し、マルサスと古典派経済学との対立を考察した。マルサスの論理におけるこの二つの概念は、ともに「食糧」である。

第V章 マルサスにおける二つの幸福観
   マルサスの論理における「個人(貧者)の幸福」と「社会の幸福」を論及した。彼の含意は、それぞれ「欠乏しないこと」「貧困と犯罪がなくなること」であり、その論理において「幸福−食糧−人口」という概念が一本の微妙な糸によって結ばれ、連及し合っている。

第W章 人口問題と近代社会
   近代社会における人口問題の対処のされ方を、バーナード・マンデヴィル『蜂の寓話』、アダム・スミスおよびジェレミー・ベンサムの論理から探究した。とくにマルサスは為政者の視点で貧者の幸福を最優先事項として捉えていることがわかる。それは、スミスの『道徳感情論』において市場における経済活動から脱落して、貧者を「社会的な死」へと追いやる「仲間意識」すなわち「見せかけの規範」に警鐘を鳴らすものである。

第X章 穀物法論争と一国の幸福
   マルサスとリカードとの間で行われた穀物法論争を考察した。この論争で、マルサスの目指していた経済体制は、少なくともその理想においては「食糧自給経済」であったことが論究されると同時に、貨幣経済の発展を目標とする古典派経済学との対立構図が明確化する。なお、一七七〇〜一八七〇年にかけてのイギリス国内のパンの価格に関する実証研究を取り上げることで、当時の小麦価格の変動をより正確に把握した。

第Y章 二〇〇年後の人口問題
   マルサス『人口の原理』公刊から二〇〇年後の世界に生きるわれわれが抱える人口問題の様相を、一九九四年九月に開催された国際人口開発会議において採択された「ICPD行動計画」にもとづいて考察した。

   以上の本稿の論究を通し、近代社会は、あるべき人間の理想像を掲げる一方で、あるべき国家の理想像に到達するべく富の集積に邁進する社会であったことがわかる。しかし、その一方で、その理想とはかけ離れた労働者の窮乏化、失業者・貧者の増加、犯罪の多発といった深刻な社会問題が生じる、といった実態を突きつけられた社会でもあったのである。マルサスの論理と対立する近代社会を構築した四つの思想は、すべてそういった人口問題から生じてくる社会問題を、人的に操作可能な内生変数として自らの論理の中で対処している。しかし、これらに対し、マルサスは人口問題を人間が操作不可能な外生変数として対処し、生物的身体の強靭な力から生み出される人口問題に敢然と立ち向かった。近代という時代は、人口問題の対処方法として以上の二つの方策のいずれかを選択するという分岐点でもあったのである。