身体と文化の理論の源流 Re-examining the Theory of Body and Culture
  (第9回日本スポーツ社会学会大会, 上智大学, 2000年3月)
日本学術振興会 挾本 佳代  
Kayo HASAMOTO(Japan Society for the Promotion of Science)  



1.身体論の問題点

   周知のようにメルロ=ポンティの議論をはじめとして、他者という客体であると同時に自己の主体でもある人間身体の二重性は20世紀半ば以来集中的に議論されてきた[cf.Merleau-Ponty(1945)]。今日の身体論もまたその二重性の存在を共通の認識としている。例えばB.S.ターナーは、それを「人間は身体をもつと同時に、身体そのものである」と言い換えている[cf.Turner(1984)1996:37]。このように人間身体が当然のようにもつ二重性への論及が表面化した背景には、デカルトの論理に代表される心身二元論の呪縛からの脱却の試みがあったことは言うまでもない。なぜなら西欧近代思想自体が「身体から精神を、文化から自然を、感情から理性を」切り離す作業を一貫して行ってきた結果構築され[Williams & Bendelow(1998):1]、理性に対立する人間の生物的な身体に関する一切の側面を切り捨ててきたものだからである。
   つまり簡潔に述べるならば、身体論は心身二元論の批判を大前提としている。理性主義にもとづく人間の万能性への信奉を、理性だけでは制御不可能な生身の身体の存在を通して批判しているはずである。しかし身体論ではその理論的源流を求めたり、過去の社会学理論の再検討を行ったりする場合、なぜか生物学にもとづく「生物学的見地」は不必要であると見なされている[cf.Turner ibid.:62]。その「生物学的見地」は「社会ダーウィニズム、生物学的還元主義、社会生物学」[Turner ibid.:37]と一括りにされ偏見とともに身体論から排除されている。また時代的に有機体や進化論が大いに語られた古典的な社会学理論の中には、「本物の身体の社会学」[Turner(1991):6]は生まれてこなかったとも言及されている。(「生物学的見地」から語られたのはフェミニズムの議論においてであったとする見解もあるが[cf.Williams & Bendelow ibid.:211 -2]、ここで論及している西欧近代思想の構成原理を問う本質的な問題とは相容れない見解である)。
   しかし、身体を「生物学的見地」から一切論及することなしに、どうして身体が人間の「自然的かつ個人的な所有物」[Shilling(1993):17]であると言えるのであろうか。
 
2.身体と文化の理論への問題提起

   身体論が看過してはならなかった問題は、人間身体にまつわる二重性の確認とその追従ではなく、西欧近代思想の構成原理である心身二元論を本質的に批判し、理性主義に陥ることなくその呪縛から訣別しようとした過去の理論の再検討なのではないだろうか。そしてそのような理論にこそ理論的源流を求めるべきなのではないだろうか。
   この問題提起は、文化理論の源流を求める場合にもなくてはならないものである。というのも、人間の身体を通じて祖先から子孫に代々受け継がれていくのが、文化の根源的な形態であるからだ。この意味を十全に踏まえた身体と文化の理論の源流として、H.スペンサーとB.マリノフスキーの理論を挙げることができる。

3.身体と文化の理論の源流

   1)H. スペンサー
   スペンサーは初期の『社会静学』[Spencer(1851)1996]から一貫して「生物学的見地」を不可避的に必要とする進化論に基づき、人間と国家の本源的な在り方に論及した。彼の主張した進化論はいわゆる発展法則・発展史観に従うものではなく、生物が現在の存在・形態を確保するためにこそ変化し続けるという今日の中立説と期せずして一致するものである。スペンサーにおいて人間は生物の中に包摂される存在であり、同時に自然界の法則に従わざるを得ない存在であった。言い換えるならば、人間の理性は自然界の法則を前にして無力なものとして強く認識されていた[cf.挾本(2000)]。
   スペンサーの論理が心身二元論から隔絶したものであったとする有力な根拠として、(1)人間を含む生物全体を「自然」に包摂された存在であると捉え、人間だけが特別に理性にもとづく「社会」を形成する存在だとは考えてもいなかったこと、(2)在るべき人間社会として彼は「自然」と「社会」が完全に一致する未開社会を想定しており、「社会=理性の産物」と捉えることは一切なかったこと、が挙げられる。
   スペンサーにおける「文化」は「自然」すなわち土地に根ざした共同体の中でこそ受け継がれるものであり、人間の生物的身体の側面を忘れ、功利主義的・合理的要素を色濃くしていく西欧近代社会ではその存続はありえないと捉えられていた。
 
   2)B. マリノフスキー
   マリノフスキーは「クラ」の参与観察を通し、クラが「自然」と人間の調和を維持する確認行為であること、未開社会における人間の身体は幾世代にもわたるクラすなわち「文化」によってかろうじて保たれていることに論及した。彼における心身二元論からの脱却の試みは、現象の中の「実生活の不可量部分(the inponderabillia of actual life)」と呼んだものから「文化」を理論化しようとしたことに求められる[Malinowski (1922):18]。マリノフスキーは西欧近代社会に蔓延する理性主義の信奉への警告として、理性主義にもとづく科学では「不可量」な部分こそが「文化」であると主張していた。
 
[参考文献]
挾本佳代(2000):『社会システム論と自然』、法政大学出版局。
Malinowski, B.(1922): Argonauts of Western Pacific, George Routledge & Sons.
Merleau-Ponty(1945): La Phenomenologie de la perception, Gallimard.
Shilling, C.(1993): The Body and Social Theory, Sage Publications.
Spencer, H.(1851): Social Statics, in Herbert Spencer: Collected Writings, 12vols, Routledge /
      Thoemmes Press, vol. 3, 1996.
Turner, B. S.(1984): The Body & Society, 2nd edition, Sage publications, 1996.
------------(1991): " Recent Developments in the Teory of the Body ", The Body, Featherstone, M.,Hepworth, M. and Turner, B. S.(ed.), Sage Publications, 1991.
Williams, S. J. and Bendelow, G.(1998): The Lived Body, Routledge.

(追記:邦文htmlなのでフランス語のアクサンが落ちています。)