「検討すべき点」としてコメントいただいた問題点は、以下の7点にまとめることができると存じます。
1)第1部で検討を加えたジョナサン・H・ターナーのスペンサー研究以外に、本書に関連して評価すべきスペンサー研究はないのか。2)第2部でカントやヴェーバーに言及し、彼らの論理における「普遍性の由来」を明確にした意図は何か。3)本書第3章、第4章におけるカント解釈が矛盾するのではないか。4)本書がスペンサー絶対主義にもとづいていないか。5)スペンサーの論理における「科学」「道徳・幸福・自由」「リベラリズム」に関する本書の規定が、現代的意味においてそのまま肯定されるのか。6)概して、自然と社会を同一視することができるか。社会に固有の装置である国家や法など自然と異なる特殊性をどのように位置づけるのか。7)スペンサーのオルガニックな観点が、近現代へのアンチテーゼ以外に、具体的にはどのように採用されるか。その方策について。回答1)本書の問題が提示されている第1部冒頭で、既存のターナーによるスペンサー研究にのみ言及し、他のスペンサー研究への考察が欠けているとの仰せですが、本書を執筆するに際し、私は過去30年間のAmerican Journal of Sociology、American Sociological Review、British Journal of Sociology、Cahiers internationaux de sociologie、Sociological Reviewといった海外の主要社会学雑誌ならびに『社会学評論』等日本の社会学雑誌を調べ、本書の問題関心に合致し論及すべきと判断される論文がなかったことを確認しております(日本のスペンサー研究に関しては、博士学位請求論文の副論文として提出しました「スペンサーにおける社会有機体説の社会学的重要性」の注を参照下さい)。既刊のスペンサー研究も同様に確認しております。ここで30年間という時間的期限を設けましたのは、本書のテーマを支える中立説にもとづく進化論が木村資生によって世界に初めて発表されたのが1960年代半ばであったという事実を意識したためです。もちろん過去30年間に上記の社会学雑誌でスペンサーの社会学に関する研究がまったく掲載されていなかったわけではありません。例えばいくつかの例を挙げるならば、ウィリアム・L・ミラーの研究(Miller, William L. (1975): "Herbert Spencer's Optimum Development Path", British Journal of Sociology 26, pp. 477-85.)では、スペンサーの進化観に付せられる「適者生存」という既存のステレオタイプを越えるものではなく、個人が競争原理に基づく社会の中で勝ち残っていくことが、その幸福であると考察されています。しかしこの研究は、スペンサーの提示した進化論の核心部分を捉えたものではないことから本書では言及しませんでした。ワーナー・スタークの研究(Stark, Werner(1961): "Herbert Spencer's Three Sociologies", American Sociological Review 26, pp. 515-21.)では、スペンサーの『心理学原理』『社会学原理』『人間対国家』という3つの著作において社会の捉え方が異なると考察されています。しかしこの研究も、スペンサー理論の本質に迫ることなく、単に言葉尻だけを捉えて彼の社会観を把握しようとしたものであり、スペンサーにおける社会観は初期の『社会静学』から一貫して変化していないとする本書の主旨とはかけ離れたものであることから言及しませんでした。ロバート・G・ペリンのAmerican Journal of Sociologyに1976年に掲載された論文に対する評価は、本書161ページで論及した通りです。スペンサーの執筆した一次資料と1836年から1992年にかけて発表された1760編もの膨大なスペンサー研究を先のペリンがまとめた著書が公刊されています(Perrin, Robert G. (1993): Herbert Spencer: A Primary and Secondary Bibliography, Garland Publishing, Inc. .)。本書では、特にこの著書に言及することがなかったので参考文献にも掲載しておりませんが、ペリンのこの著作の中で、本書が言及したターナーの研究は次のように絶賛されて紹介されています。「力強く説得力をもって、スペンサー社会学の新たな真価を論じ、彼に反対するスペンサー研究者たちの『偏屈な考え全体』に終止符を打っている。スペンサー社会学が当時『深遠な』ものであり、今日においても『有益かつ今日的意味のある』ものであると議論すると同時に、スペンサー社会学に向けられた数多くの誤解を払拭している」[Perrin(1993):888]。ペリンの著作が公刊されたのが1993年であり、この時点以前で最も評価すべきスペンサー研究がこのターナーの研究であった、という本書の主張をペリンの著作は裏書きしてくれています。念のために付け加えておくならば、本書第3部で紙幅を割いて取り上げた政治学・政治思想領域におけるデイヴィッド・ワインステインの研究は1998年に公刊されたものであるため、ペリンの著書の中では言及されていません。しかし、もしペリンがこの周到なワインステインの研究を評価したならば、ターナー同様に賛辞を惜しまなかったであろうことは想像に難くありません。2)本書が第2部においてイマヌエル・カントやマックス・ヴェーバーの「普遍性の由来」に言及したのは、主として2つの理由からです。第1点は、タルコット・パーソンズが晩年に著した「人間の条件パラダイム」を詳察すると、必然的に彼が言及しているカントやヴェーバーの論理に触れざるをえず、そこを通過しなくては「人間の条件パラダイム」の核心部分に迫ることができないと判断したからです。パーソンズは第2部第3章で考察した通り、社会学を普遍的な科学として設立するために生涯を通じて奔走し、この大問題を解決するためにカントやヴェーバーの主意主義的論理を摂取し応用せざるをえませんでした。パーソンズは観察者側と対象側双方に「普遍性の保証」を求めることで、社会学を普遍的な科学と見なそうとしたからです。というのも、本書中でも言及しましたが、主意主義的社会学者という観察者が対象=社会を外側から客観的に把握するには、パーソンズが採った観察者側と対象側双方に「普遍性の保証」を求めるという唯一の方法を採らなければその客観性は保たれないからです。もっともこのパーソンズの試みに綻びがあったことは言うまでもありませんが。第2点は、パーソンズを起点として社会学で本格的に展開されることになった社会システム論の問題性そのものを緻密に検討することを通し、ジョン・ロック以来連綿と受け継がれてきた「自由な個人」が集まることによって社会になるとした近代社会の構成原理を追求するためです。この原理は、馬の前に馬車をつなぐようなものだと存じます。そもそも本書が冒頭で問題提起した「社会システム論は〈自然〉を理論化してきたか」という問題は、パーソンズやその批判継承者であるニクラス・ルーマンが提示した社会システム論だけから論及することのできる容易な問題でも、彼らだけに理論化してこなかったその責任を押しつける問題でもありません。パーソンズはロック以来の西欧近代社会の遺産を受け継ぎ、その後ルーマンはパーソンズの社会学的な貢献を受け継いで社会システム論を確立しました。パーソンズ、ルーマン両者の社会システム論の瑕疵は彼らだけの問題ではなく、近代社会の根幹部分に深く連なっている問題でもあったからです。そこで本書では第3章で展開したように、「普遍性の由来」に照らしてロック、カント、新カント派、ヴェーバーという理論系譜を辿ることによって近代社会の構成原理である理性主義、啓蒙主義の所在を明確にし、その結果パーソンズが「人間の条件パラダイム」の中で様々なサブシステムを設定せざるを得なかったことが浮上してきました。以上2つの点から、本書ではカント、ヴェーバー両者の「普遍性の由来」に言及することは不可欠であると判断し、紙幅を割いて考察しました。3)本書第3章、第4章におけるカントの評価が矛盾するのではないかとのご指摘ですが、矛盾は一切ありません。まず第3章第1節末尾部分におけるご指摘の箇所を引用するならば「すなわちカントは、人間という主体が自然法則を、『悟性』によって確実に把握することが可能であると主張した。これは人間の『悟性』が、自然法則をも限りなく正確に概念という形において作り上げることさえ可能であると読み込むこともできる。まさにカントは人間の認識能力と自然法則を前に、究極の選択をしたのであった」[強調ママ]。次にご指摘の第4章第2節の箇所は以下の通りでした。「『L→A』に付された『自然の理解可能性』は・・・前述した通り、それはカントの先験的哲学に依拠し対象側に〈普遍性の保証〉を求めるための理論的装置であった」[強調ママ]。第3章で明確になったカントの先験的哲学の核心部分を本書の問題関心に引きつけて平易に言い換えるならば、人間が主体となって対象を判断する、ということになります。そう解釈するならば、第3章第1節で明示したカントの「究極の選択」とは、悟性にもとづく認識能力がありさえすれば、人間が主体となって自然法則を上回る法則を見出し、それを概念化することができると断言していたことを意味しています。そう踏まえるならば、「人間の条件パラダイム」における「L→A」すなわち「テリック・システム」から「物理的・化学的システム」に向けて賦与された意味「自然の理解可能性」を解説した第4章第2節の箇所も同様に解釈することができます。パーソンズは人間が自然法則を概念化する(操作する)ことが十分に可能だとしたカントの先験的哲学に即して、「自然」を理解可能であると見なしていました。しかしカントの先験的哲学に従うならば、パーソンズにおいて自然という対象すらも実は人間の悟性によって作り上げられたものであると判断されていたと考えられます。すなわち、「カントの先験的哲学に依拠」する限り、究極的に人間が人間の悟性の産物である対象側に〈普遍性の保証〉を求めていることに他ならなかったのです。以上の理由から、ご指摘いただいた2カ所のカント評価には一切矛盾がないことが明確になったと存じます。4)本書が「スペンサー絶対主義」に貫かれ、批判的・相対的観点が希薄であるとの仰せですが、私は本書がスペンサーを絶対化しているとは考えません。本書が「社会システム論は〈自然〉を理論化してきたか」「社会システム論は進化論的発想に立って理論展開されてきたか」という問題提起を行った主たる理由は、これまで功利主義者、社会進化論者、社会ダーウィニストであるといういわれなき偏見や迷信を付せられたスペンサーの社会学理論の中に、現代社会の基本前提にまで批判の目を向ける現代的意義を見出したからです。従来言い古されてきたステレオタイプを払拭し、スペンサーの提唱した社会学理論の現代性に論及する場合には、その核心部分を確実かつ正確に抽出する必要があります。そのための不可欠な理論的作業として、本書は「総合哲学体系」を中心として初期の『社会静学』から晩年の『人間対国家』までのスペンサーの著作に隈無く論及し、その核心となっている原理を追求しました。そうした理論的作業が「スペンサー絶対化」であると見なされるものではないと確信しております。スペンサーに対する批判的・相対的観点が希薄であるとの見解がなされるひとつの理由には、スペンサーが同時代の社会学者と直接論争を繰り広げなかったために、意見対立する論争相手の論理を本書の中で展開不可能であったことがあるかと存じます。スペンサー社会学に対して反論を行った社会学者としては周知のところではエミール・デュルケムがいますが、スペンサーと世代が異なるデュルケムはスペンサーの死後に『社会分業論』などの中で一方的な反論を展開せざるを得ませんでした。その反論の核心部分は、本書では〈機能〉概念に論及して第7章第8節において展開しています。デュルケムの〈機能〉概念に関しては、デュルケム研究も踏まえ、本書ではデュルケムの論理も正確に抽出するように細心の注意を払ったつもりです。第7章第8節中の「集合表象」に関する註や特に副論文「スペンサーにおける社会有機体説の社会学的重要性」を参照していただければ、本書の理論的な過程と前提をご理解いただけると存じます。また批判的・相対的観点のひとつとして、清水幾太郎がスペンサー理論を「滑稽」と評価していたとご指摘を受けましたが、正確に記すならば清水は「コントとスペンサー」(『世界の名著 コント/スペンサー』中央公論社、1980年)の中でスペンサーの社会有機体説を単に「滑稽」なものであったと決めつけたのではなく、「・・・スペンサーにおけるアナロジーは、滑稽なものに見える一歩手前のところにあったように思われる」[清水(1980)1995:40、強調引用者]と述べています。清水はスペンサー以前から存在していた有機体説に比べて、スペンサーに代表される19世紀の有機体説は生物学が進展した分、生物有機体の細部にわたる構造や機能を社会の中に見出さねばならず、そのような生物学の進展と有機体説の鼬ごっこが「滑稽」に見えるところがあると論じました。しかし、清水はスペンサーが社会有機体と生物有機体の相違点を列挙しており、そうした鼬ごっこには完全に陥ってはいないと判断しているように思われます。それが「滑稽なものに見える一歩手前」と表現させたのではないでしょうか。清水幾太郎のスペンサー観を正確に踏まえるためには、彼が『思想』1933年11月号および12月号に掲載した「日本社会学の成立に就いて」も参照することが必要ではないかと考え、これも参考にいたしました。しかし、清水のスペンサー社会有機体説に対する意見もまた、従来捉えられてきたように社会有機体説は「アナロジー」にすぎないという考え方に基づいたものです。そして同時に、こうした清水のスペンサー社会有機体説に対する考え方は、後に発展する社会システム論が社会システムの〈機能要件〉を列挙することによって、社会システム全体が過不足なく連動すると判断した論理へと、結果的に通ずるものであると考えられます。その最たるものがルーマンが提起した「オートポイエシス」であることは本書第2部において詳細に展開した通りです。この意味においても、本書は清水が「滑稽なものに見える一歩手前」と評価したスペンサーの社会有機体説に対する従来の誤解と偏見を踏まえ、その核心部分を呈示しています。それゆえ、清水幾太郎のスペンサー社会有機体説観に言及するまでもなく、彼が呈示していた問題点は本書においては既に明らかにされていると存じます。5)ご指摘の通り、本書は、スペンサーの論理において「科学」は現象に対する「予知能力」(第6章第5節)と規定し、また「道徳」「幸福」「自由」は〈生命〉に関連させてそれぞれ「人間が生まれつきのままでいること」、「生存すること」、「種が存続することの前提条件」(すべて第8章第5節)としています。リベラリズムは「政府の権威によって人間の自発的協働が減少させられることがない社会状態を目指す政治思想」(第9章第1節)と規定されていると論及しています。このような規定をスペンサーが行った背景には第3部で繰り返し述べたように、近代社会がすでに〈自然〉を理解しつくし改善可能であると過信する人為的な〈メカニカルな法則観〉を有し、人間が生物として個性を疲弊させられることなくありのまま生き続けることが困難な状況に置かれていたからです。本書で主張されているスペンサー社会学の理論的背景をご理解いただけるのならば、上記の規定が現代的意味においてそのまま肯定されるか否か、というご質問は本書の主張を汲んでいただけなかった結果出てきたものであると思わざるをえません。本書では、なぜスペンサーがこのような規定を近代社会に提起しなければならなかったのかに重点を置いているのであり、その規定が現代社会に通用するか否かを問題にしているのではないからです。スペンサーは「科学」や「道徳」「幸福」「自由」や「リベラリズム」が、人間が人為的な国家を形成する以前には本来的にはいかなる存在であったのかを問題にしていたからこそ、上記の規定を提示したのです。そのことを踏まえるならば、現代社会に対しては、未開社会や前工業化社会を除き、スペンサーが主張した規定をそのまま肯定することは限りなく不可能に近いと存じます。しかし逆に言うならば、スペンサー社会学から抽出された上記の規定を、そのまま肯定することができなくなってしまった現代社会は近代社会と同じ問題をより重篤にした状態で抱えている社会であると証明されてしまったのも同然なのではないでしょうか。現代社会は近代社会よりもその問題が深刻化しているために、第1部冒頭で言及したように、地球規模の人口問題や環境問題を抱えることになっていることは誰もが知る事実です。そうであるからこそ、私たちはスペンサーが呈示していた〈オルガニックな法則観〉を容易に受け入れることがすでにできない社会に生きているのだという事実を真摯に受け止め、社会学第一世代であるスペンサーの論理を切実に検討しなければならないのではないでしょうか。6)このご指摘も残念ですが上記5)同様、本書の主張を汲んでいただけなかったために出てきたものではないかと存じます。スペンサー社会学の核心部分には、特に第3部第9章で詳察しました通り、近代以来、国家や法といった人為的装置が存在したために人間は生物として生きることができなくなってしまった、つまり人間は〈自然〉とは同化することのできない人為的システムの中にしか生きられなくなった、との主張があります。すなわち、スペンサーにおいて国家や法は〈自然〉と対立する「人為」であると位置づけられています。そうした主張を裏付けるために、スペンサーは未開社会に深く論及し、人間が本来的には国家という人為的装置が存在しなくとも生きていくことのできた生物であったと主張したのです。本書中でも深く考察しましたが、晩年の『人間対国家』は決してレッセ・フェールを鼓吹するために著されたものではなく、生物的存在である人間と人為的装置である国家は本来的に対立するものであると切実に訴えられたものであったからです。スペンサーの論理的意図は、国家、法・・・といった社会システムにおける人為的装置が存在する社会=近代社会と、人為的装置を必要としなかった社会=未開社会を峻別して書き分けることにより、近代社会の抱える問題性を露呈させることにありました。ご指摘の問題点に引きつけて言い換えるならば、前者の近代社会は〈自然〉と社会を同一視することができない社会であり、後者の未開社会は〈自然〉と社会を同一視することができる社会となります。ただし、こうしたスペンサーが近代社会に対して危惧の念を抱きつつ提起した問題をそのまま現代社会に持ち越して、ご質問されたように「概して、自然と社会を同一視できるか」という問いを投げ掛けられるのは実に遺憾です。先に5)においても申し上げましたが、私たちの現代社会はたとえいかなる付帯事項をつけようとも、紛れもなくすでに〈自然〉と社会を同一視することができなくなった社会だからです。そうであるからこそ、私たちは現代社会における〈メカニカルな法則観〉の在処と問題性を直視しなければならないと考えています。本書は、この文明論的な大問題に論及していることを自覚しております。7)近現代に対するアンチテーゼ以外に、スペンサーの論理における〈オルガニックな法則観〉にもとづく具体的な方策がないとのご指摘ですが、理論ではなく実態において、スペンサーのようなオルガニックな観点の欠如が人間に化学物質を合法化して乱用させ、その結果環境汚染問題を引き起こしたという事例を挙げ、レイチェル・カーソンがどのような方策を採ったかということには第1部において言及しています。そもそも本書は「社会システム論が〈自然〉を理論化してきたか」「社会システム論が進化論的発想に立って理論展開されてきたか」と問題提起することによって、現代の地球規模で問題視されている人口問題や環境問題などの理論的根拠を明確にしたものです。スペンサー社会学の核心部分から抽出される〈オルガニックな法則観〉の欠如が100年後にこれらの社会問題として私たちに跳ね返ってきたと示唆したものです。つまり本書の意図はそこにあるのであり、現代社会における社会問題の解決策を呈示することにはありません。私は理論と実践は最終的には結合するかと思いますが、理論と実践が短絡的に直結するものではないと考えるからです。人間の理性が将来的にあらゆる社会問題を完全に解決する――という楽観的な前提を無視して、目的論に則った人口問題の解決方法を理論的に提示している興味深い論考があります。小林和之の「未来は値するか―滅亡へのストラテジー」がそれです[小林(1999): 『法の臨界 [V]法実践への提言』東京大学出版会、pp. 3-22.]。小林は「人類の存続」という人間が過信し、将来的に当たり前のように享受することができるとした甘い幻想を叩き壊すことによってしか、急速な人口増加と食糧難のアンバランスを解決する手だてはないのではないかと問題提起しています。つまり人類の存続という大前提を取り払ってしまえば、人間は各自欲求に従って食糧を口にすることができ、地球の資源を未来の人類に残すことなく使い切ってしまうことができる、と。こうした逆転的な発想の下で、子孫をこれ以上増やすことなく、死亡率が高い伝染病が蔓延すれば、人類は救われるのではないかと小林は述べています。小林の主張はもちろん「人類の滅亡」にあるのではなく、私たちが現在抱えている食糧問題と人口問題は既存の人為的な方策ではもはや解決不可能だというところにあることは一目瞭然です。しかし、小林の大胆でありながらも核心を突いた方策を、では現代の人間が採用するでしょうか。カイロ会議で締結された「持続可能な成長」「リプロダクティブ・ヘルス」というキャッチフレーズにもとづく人口政策を採っている現代人が、小林の方策に諸手を挙げるでしょうか。恐らく賛同されないのではないでしょうか。なぜなら理論と実践は直結するものではないからです。しかし小林の論考は私たちが置かれている恐るべき状況を透かし見せてくれるものです。本書も小林同様、現代人が置かれている状況をスペンサー社会学を基軸に論及するところにその意図を置いています。それゆえ具体的な方策に言及することはしませんでした。以上で「検討すべき点」としていただいたコメントに対する回答を終わらせていただきます。