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今日資料としてお配りしたのは、内藤正明・高月紘ほか『まんがで学ぶエコロジー』(昭和堂、2004年)の「4.生態系と人間」という章でした。
チェックをしておいてほしい箇所は講義でお伝えした通りですが、この資料を通して理解していただきたかったのは、「生命システムとしての社会」という考え方とイメージです。「生命システム」「生態系」「エコシステム」という言葉を、わたしたちはよく耳にします。この言葉を用いて話をすれば、環境への関心の高い人なのだなと、思わせることができてしまうほどです。しかし、実際、人間は生態系を離れて生きていくこともできないし、社会を維持し存続していくこともできません。これは紛れもない事実です。
人間の歴史は、自然界に存在しないものを作り続けてきた歴史だとみることもできます。この資料にもある抗生物質もそうですし、いまわたしたちが重宝して使用しているペットボトルなどのプラスティックもそうですし、かつてレイチェル・カーソンが厳しく批判したDDTなどもそうです。自然界に存在しているものならば、自然に返る(循環する)ことができます。しかし自然界に存在していない、科学の力によって作り出されたものは、自然に返ることはできずに、いつまでも残り続けてゴミになります。このゴミの処理の仕方でわたしたちは悩み、処理の過程で排出される有害物質に困らされているといえます。
この講義では前期の環境社会学の基礎を踏まえ、社会システムと環境との対立状況や、社会システムと環境がどのように折り合いをつけていけるのかを探っていければと思っています。
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後期に行われるこの講義で、常に頭に入れておいてほしいキーワードがあります。ひとつが「生態系としての社会」です。もうひとつが「コモンズ」です。
自然に対する考え方の違いとして、「深いエコロジー」的立場と「浅いエコロジー」的立場も解説しました。前者は、生態系を保全するために、自然や動植物に権利を与えることを試みる一方で、人間には自然を作りかえる権利はないと主張する立場です。後者は、人間に役立つというただそのために自然を尊重する立場です。
一見どちらの立場も自然環境を保全するために主張を繰り広げる立場のように思われますが、それぞれに問題点を抱えているのでした。諫早湾の干拓に生きるムツゴロウや奄美大島のアマミノクロウサギなどを厳酷として、破壊活動を繰り返す人間に「自然の権利」を訴える訴訟を起こす、その根拠となっているのが前者の立場の主張です。ですが、自然や動植物に「自然の権利」を与えるのは誰なのか、裁判で自然や動植物の代弁を行うのは誰なのか、を考えてみればわかるように、結局人間が自然や動植物に成り代わるしかないのです。これで「深いエコロジー」的立場の主張は行えるのでしょうか。後者の立場では、「人間に役立つ」という観点を考慮に入れるということは、結局人間中心主義に陥ってしまわないか、という問題点がつきまといます。どこまでが「人間に役立つ」レベルになるのか、ということが重要な問題です。
「コモンズ」には2つの考え方がありました。ひとつは「みんなの共有資源そのもの」という考え方でした。これは「誰のものでもない資源」「オープン・アクセス資源」という考え方につながっていきます。もうひとつは「共有資源をめぐる人と人との関係を規定する所有制度」でした。入会権などがそうです。
この講義では特に「コモンズ」というキーワードに焦点を当てていきます。「コモンズ」という言葉は、環境問題と同様、この問題が語られるときに一緒に出てくることが多くなってきている言葉です。ギャレット・ハーディンの書いた論文を端緒として、「コモンズの悲劇」が環境問題と合わせて論じられるように、です。しかし、これらの言葉はきちんと理解をしていないと、言葉だけが一人歩きをしてしまって、結局何が重要な問題であり、その核心部分は何なのかがわからなくなってしまう危険性も出てきます。
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さて、今日は焼畑農耕について考えてみましょう。「コモンズ」についての2つの考え方のうち、第1の考え方は「みんなの共有資源そのもの」でした。この考え方を広げていくと、「地球もみんなの資源」となります。数年前に、「地球はみんなの共有資源なのだから、それを破壊する焼畑農耕はやめさせよう」とも受け取れるCMが流れて大きな反響を呼びました。
コスモ石油のCM「生きるために森を焼く人たちに、森を守ろう、というう言葉は届かない」がそれです。CMのナレーションそのものは資料でお配りした通りです。反響の大きさに、一番最初のCMのナレーションは改変され、いまコスモ石油のHPで見ることのできるものは、もともとのものとは違うものです。
コスモ石油のCMがいう通り、焼畑農耕は地球にダメージを与えるやめさせるべき農法なのでしょうか。人類学者の焼畑農耕の定義から考えてみましょう。井上真『コモンズの思想を求めて』(岩波書店、2004年)を参照しています。井上さんは主にインドネシアの熱帯雨林をフィールドとして研究を重ね、焼畑農耕にも詳しい研究者です。
焼畑農耕とは「森林・草原を伐り払い、倒れた樹木や草などを燃やしてかあ、陸稲、イモ類、雑穀類などを栽培する農業の一形態のこと」です。もともと火を使用することよりも、一回ないしは数回作付けをした畑を放棄して、別の場所に移動することに主眼が置かれています。もとの畑に戻ってくるまでのサイクルは10年ほどだといいます。
本来10年ほどサイクルをあけた焼畑農耕は、明らかに持続可能な土地利用のはずです。しかし、いまこの焼畑農耕が3つに分類されなくてはならない事態に追い込まれています。
一つは「伝統的焼畑農業」です。これは焼畑農耕民による持続可能な焼畑農耕であり、長いサイクルの循環型のことです。文化人類学者が認める焼畑は、これを指しています。
2つ目は「非伝統的焼畑農業」です。これは「非持続的」で地力収奪的な火入れ開墾のことです。これを担っているのは、1)農村地帯や都市から新たな土地を求めて森林地帯にやってきた入植者、2)かつて伝統的焼畑農耕を営んでいた焼畑民族たちです。「火入れ開墾」を主眼とするこの農耕を、文化人類学者は焼畑とは認めていません。
3つ目は「準伝統的焼畑農業」です。伝統的焼畑農業が変容し、次第に持続性を減退させつつあるサイクルの短い焼畑農業のことです。一見すると伝統的焼畑農業と見えるものの多くはこの類型に含まれるといいます。
コスモ石油のCMがいうような森林破壊と焼畑農業の関連は、2つ目の「非伝統的焼畑農業」ならば納得がいきます。むやみな火入れ開墾は森林消失につながるからです。しかし、これは人類学者の認める「焼畑農業」ではなく、それの担い手も、もともと森との持続可能性を保ちつつ焼畑農業をやってきた焼畑農耕民ではなく、農村地帯や都市から流入してきた入植者たちでした。短い間で効果を最大限に上げようとした火入れ開墾は、焼畑農業と混同してはならないのです。コスモ石油のCMはこの混同をそのまま文面にしてしまったものだと思われます。そのために、人類学者から相当な非難を浴びました。
わたしたちは森林の持続可能性を保ちつつ、伝統的な慣習にしたがって生活している人たちに、その生活形態を変えろと口を挟むことができるのでしょうか。もし地球を「コモンズ」と呼ぶならば、すべての人間が同じように生活をするようにならすことを環境保全というのかどうかも合わせて考える必要があります。
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焼畑農業の定義をお話しました。今日考察する中国海南島には、リー族というかつて焼畑農耕を営んできた少数民族が住んでいます。この海南島に関する最新の人類学研究は、前回同様、東京大学出版会から公刊されている『島の生活世界と開発2 中国海南島』(2004年)を参考にしています。焼畑農耕の終焉、環境の保全、観光政策の推進――この3つをキーワードにして考えていきましょう。
海南島の人口は700万人、うちリー族は100万人で、彼らは山間部に住んでいます。中国の焼畑農耕に対する政策は、つぎの通りです。1986年 海南島五指山が保護区となり、焼畑・山焼きおよび狩猟採集が禁止。1993年 中国全土において、焼畑・山焼きが禁止。リー族は1986年以降、海南島で焼畑農耕を営むことができなくなってしまい、事実上、焼畑農耕民でいることを断念せざるを得なくなってしまいました。
中国政府は、焼畑農耕を禁止すると同時に、中国周辺部の農村の貧困政策と環境保全の2つを同時に解決する方法を迫られることになりました。焼畑農耕の禁止は、海南島五指山という荘厳な森林を保全する目的でもあったからです。ここで、先週の焼畑農耕の定義を思い出しておいてください。焼畑農耕が森林消滅となってしまうのは、どのパターンの焼畑だったでしょうか。
そもそもリー族は山間部に住み、集落の近くには水田、背後の山の近いところには「常畑」、遠いところに「焼畑」を作ってきました。焼畑よりも遠い山では、山焼きをして草原化し、水牛を放牧してきました。このような自然を最大限に活用する生活を成り立たせるためには、水田周辺の雑草を利用したり、焼畑周辺で小動物を狩猟する技術がなければならなかったことはいうまでもありません。リー族は、焼畑と水田という2つの場だけではなく、焼畑や水田の周辺で多様な自然利用が行われてきました。焼畑周辺の空間は、いわば自然と人為的空間の接点であり、野生の動植物利用を行う場でもあったのです。
お配りした資料では、リー族が行ってきた焼畑の1年が髣髴するような現在の農耕の仕方が載っていました。決して恵まれた環境とはいえない立地に「アン」と呼ばれる「棚田」を作り、アンの中で何種類もの作物を作っていました。これは以前考察した沖縄の宮城島の在地リスク回避戦略とよく似ています。一部の作物がダメになったとしても、何種類もの作物を植えていれば、全滅することがないからです。
またリー族はご飯の副食として、水田周辺の雑草をよく食べる習慣をもっていました。これは最近の化学調味料の発達で、たとえ雑草であっても食べられる程度の味付けをすることができるようになったという時代的背景ももちろんあったと思われます。しかし、海南島以外の中国人でも見向きもしないような雑草に関する知識が、リー族には豊富に根付いていました。
これ以外にもリー族には周囲の自然を存分に活用するための慣習と知恵が蓄積されていました。「誰かが育てたもの/植えたもの(リー語:ワー)」と「自然に育ったもの/生えたもの(リー語:ワッサウ)」をきっちりと区別するしてきたのも、貧弱な自然環境を共同体で有効活用するためであったと考えられます。リー族は生活する土地の中で、こうした自然を活用するための規範を伝統的に培ってきたのです。逆にいうならば、これがあったからこそ、共同体が存続してきた、ということができます。
しかし、以上のような焼畑農耕、雑草の利用、棚田の利用、自然環境を活用するための規範(内部的な資源利用の規範)――は、すべて焼畑農耕の禁止によって根こそぎ覆されてしまうことになってしまいました。リー族の住む中国海南島という社会システムは、「自然環境保全」という中国政府の政策のもとに、「外部的圧力」と対峙させられることになり、結果的に「内部的な資源利用の規範」は「外部的圧力」に屈する形となってしまいました。それが、中国海南島で展開されている観光政策です。
リー族は中国政府が推し進める観光地を海南島に作り上げることに賛成しています。自分たちの家に観光客が見物に訪れ、踊りを披露し、ありもしないような山岳信仰を押しつけられても、「自分たちが作った作物が売れるからいい」とか「にぎやかでいい」と、いまのわたしたちからするとかなりのんびりした感想をもらしています。講義中でもお話ししましたように、中国でパンダを保護するためにもうけられたパンダ山にしても、土産物の薫製を作るための草木を伐採してはならない地域で伐採しないと、売れ続ける土産物を生産することができず、何のための保護地区なのか、という結末になってしまった実例もあります。リー族の観光政策に対する対応は、まだせっぱ詰まったものではない分、のんびりしているのかもしれません。しかし、リー族自身が「こんな生活に満足できない」という思いが募りだしたら、どうなるのでしょうか。
中国海南島の観光政策は、いまもなお進展中です。海南島に生きるリー族の社会システムと環境はこれからどのように折り合いをつけていくのでしょうか。目が離せない事例のひとつのはずです。
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ソロモン諸島の開発と保全の問題を、ソロモン諸島というシステムの内部から考察していきました。参照している文献は、以前から島についての考察をするときに取り上げてきたのと同じシリーズです。『島の生活世界と開発1 ソロモン諸島 最後の熱帯林』(東京大学出版会、2004年)がそれです。この本を公刊するにあたっての研究は、前にもお話した通り、非常に良質な最新の生態人類学研究です。
ソロモン諸島の西部州では、1960年代から外国資本による大規模な森林伐採がおこなわれてきました。国家総輸出額の60%が森林伐採による木材輸出です。しかし伝統的な生活を営んできた人々にとっては、現金収入が得られるとはいえ、自分たちの土地で木材伐採を受け入れるのか否かについては、同じソロモン諸島でもさまざまな考え方があることがわかります。
先に提示した最新の生態人類学研究では、こうした木材伐採が人々に受容される過程において、伐採地を共有する人びと、対象社会の人びと、集団間における合意形成「コンセンサス形成」が行われるか否かが考察されています。
調査研究が行われたのは、ソロモン諸島のひとつであるニュージョージア島です。この島は、20世紀初頭にキリスト教が伝来するまでは首狩り(ヘッドハンティング)が行われていた島として有名です。この島の人々はまず「ブトゥブトゥ」と呼ばれる親族集団に帰属しています。この集団は土地を共有する基本単位として機能しているといいます。そしてこの親族集団が4つほどの集まったものが軸となって緩やかに統合され、地縁的な社会組織を編成しています。
ブトゥブトゥを政治経済的に総括してきたのは「バンガラ」、あるいはピジン語で「チーフ」と呼ばれる政治的リーダーです。チーフは、日常生活における政治的なリーダーシップを発揮しており、ブトゥブトゥの秩序維持に重要な役割を果たしてきたといいます。このチーフが土地と外部社会との関係を管理する役目を担っています。ニュージョージア島の伝統的社会には、分節化された複数のブトゥブトゥによって編成され、それらを統括する政治的リーダーはいません。
さて、今日お話したのは、先に挙げた調査研究がなされたヴァングヌ島、ニュージョージア島ムンダ地区、北部ニュージョージアの3例です。前者2つの地域では、森林伐採の誘致が試みられましたが、最終的には裁判所を舞台にしたチーフ間での紛争によって頓挫してしまいました。後者は土着発生的なキリスト教宗派の強力なリーダーシップによって森林伐採が受容されました。
ヴァングヌ島
森林伐採については否定的。1997年にブトゥブトゥのチーフの一人が他のチーフに相談することなくマレーシア系の伐採業者と契約を締結してしまいました。その結果、チーフの話し合いが行われたあとで、チーフたちは地方裁判所に提訴。しかし裁判所は伐採契約を正当なものとするという判決を下します。さらにチーフたちは高等裁判所へも提訴。開発拒否の署名がしるされた住民の嘆願書も提出され、最高裁では伐採業者との契約が不当なものとなりました。「ヴァングヌの土地は、すべてのヴァングヌの人びとのものであり、伐採業者に譲り渡すことは許されない。一部の人びとだけが勝手に土地を売却して利益をあげることはまちがっている」(p. 92)。人々はこのようにささやいているといいます。このヴァンヌグ島の事例では、伝統的な社会組織が森林伐採を否定する方向に作用したことがわかります。
カズクル ニュージョージア島南西部ムンダ地区
ブトゥブトゥによる実質的な土地管理がされており、現金経済の割合がかなり高い地域。伐採業者から支払われる多額のロイヤリティの配分をめぐって、土地紛争が頻発しているといいます。土地に対する権利をめぐる利害が錯綜し、3つの派閥に分かれています。カズクルは、もともとその名をもつ始祖と、その妻とのあいだに生まれた3人の子供を祖先としている地域です。
1)カズクルの3人の祖先ではなく、その祖先の一人の娘を特定し、この女性から出自をたどる人びとによって構成されている派閥。この女性が「土地の所有者」としての地位をもつとされています。この派閥は、土地の所有者としての集団としてのカズクルの土地すべてに対する権利をもっていると主張しています。
2)第2の派閥では、カズクルの土地を実質的に管理してきたのは、「土地の所有者の集団」ではなく「土地の監督者の集団」であると主張。「土地の監督者」は、土地の所有者や政治的リーダーよりも優越するとされています。
3)第3の派閥では、カズクルの土地に対するすべての権利は集団成員に共有されているという伝統的な見解をとっています。
この3つの派閥が1970年代後半から裁判所で土地紛争を繰り広げてきました。3つの派閥は森林伐採を推進しようとする点では共通しているが、各派閥が個別に伐採業者との交渉を行っています。そこには、ロイヤリティの配分を有利にすすめようとする思惑が見えると研究者は調査しています。
第3派閥がカズクル全域の森林資源を対象とする伐採計画を立て、森林局から伐採許可書を受けました。しかし第1派閥が「カズクルの東半分の土地の所有権」を主張。取り消しを訴える訴訟を起こしました。第3派閥による伐採許可証の申請手続きに不備があったと指摘し、裁判所は取り消しを裁定しました。その結果を、第1派閥はカズクルの東半分の土地の所有を認められたと判断し、単独で伐採業者と交渉をするようになってしまったといいます。
このカズクルの地域では、土地に対する権利の正当性を立証するために系譜を改ざんするなどの、権利意識が顕在化してしまっているといいます。そもそも伝統的にはすべての集団成員が共有してきた土地が、小集団の所有単位へと分割され、それぞれの派閥ごとに伐採業者の誘致をもくろむことになってしまっています。
北部ニュージョージア
大多数が土着的なキリスト教宗派であるクリスチャン・フェローシップ・チャーチ(CFC)の信者。この宗派は、1932年からサイラス・エトというカリスマ的リーダーによって創設されました。亡くなったサイラス・エトと跡を引き継いだ息子は人びとの信仰の対象になり、神格化されています。信者は、サイラス・エトとその家族、「ホーリー・ファミリー」に対して絶対服従の態度をとっているといいます。
北部ニュージョージアでは、ブトゥブトゥの中でチーフは一定の政治的権限は認められているが、ブトゥブトゥの領域を超える事象を取り扱うことはできません。つまり、CFCの教えに反しないという姿勢が貫かれています。チーフは土地に対する権利が部分的に保証されてはいるが、土地について伐採業者と交渉することはできません。たとえばCFCが主導する開発計画が決定されれば、チーフは無条件で土地を供出しなければなりません。外部社会との交渉は「ホーリー・ファミリー」にゆだねられているといいます。
しかし、政府がCFCによる北部ニュージョージア全域の土地に対する権利の主張を拒否し、権利をチーフにあるとしました。それを受けて、CFCは「北部ニュージョージア木材会社」を設立。1980年に伐採業者との契約が成立、翌年から操業が開始しています。チーフは参加していません。一般の人びとでこの会社の存在を知らない者もいるといいます。
以上『ソロモン諸島 最後の熱帯林』による調査研究を踏まえるならば、ニュージョージア島という社会システムと環境との対峙には、3つのパターンがあることがわかります。わたしたちの現代日本とはまったく異なる生活文化環境であるために、一見まったく関係のない話のように思えてしまうかもしれません。しかし、土地の開発をめぐって、「土地に住むすべての人間」が係わることができる機会を保持するのか、宗教や特権を楯にして一部の人間が利益を独占するままにさせておくのかという問題は、「コモンズ」という観点から環境問題を考える意味でも非常に重要な問題となっています。「土地に住むすべての人間」という観点が、開発と保全と関係してくることが私的所有権が認められたいまの日本では難しいと考える人もいるかもしれませんが、たとえばダイオキシン問題と関係してくるゴミ処理場などが周辺地域に設置されることをめぐって地域住民が反対運動を起こすこともあります。たとえゴミ処理場が設置予定されている土地を国が買い上げていても、です。
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ソロモン諸島の抱える開発と保全の問題を考察していきましょう。参考にするのは、前回と同じ最新の生態人類学研究の本『ソロモン諸島 最後の熱帯林』(東京大学出版会、2004年)です。
前回みたソロモン諸島の中のニュージョージア島における事例を考察してわかったことは、開発に直面したときに親族集団を中心とする伝統的な村落社会や宗教などによって、地域ごとに土地所有に関する意識が異なり、異なる意識が外国企業と開発事業を進めようとする利害対立につながっているということでした。抜け駆けをする親族集団をたばねるチーフがいたり、チーフの権限を制限してしまうほど力をもつ宗教集団がいたりする場合もありましたが、ソロモン諸島全体からすると、チーフの政治的な交渉能力によって、外国資本による森林伐採が左右されることが多いようです。
およそ40万人の人口をかかえるソロモン諸島では、人々は5500もの村落に分散して居住しています。村落の半分以上は人口が60人に満たないそうです。
1960年代から進展した大規模な森林伐採を、以下の4つの時期に分けて考察することができます(pp. 174-9)。この考察を加えるときに、注意しておくべきことは、環境開発会議の開催年です。まず1992年にブラジルのリオデジャネイロで環境開発会議(地球サミット、UNCED)が開催されています。ここではアジェンダ21が採択され、「環境と開発に関するリオ宣言」と「森林原則宣言」も確認されています。また2002年には南アフリカのヨハネスブルグで持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD)が開催されています。
お配りした資料は、以下の通り。
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「ソロモン諸島の森林伐採の展開」
(『ソロモン諸島 最後の熱帯林』東京大学出版会、2004年、pp. 174-179より)
・第1期(1963年〜1981年)
(1953年 原住民土地法廷を設置)
1963年 土地と土地権に関する法律を制定
1969年 森林木材法制定:外国企業への伐採許可を規制、持続可能な伐採量、そ れを維持するための伐採現場でのモニター制度を規定
1977年 集団名義の土地登録を認める法改正
森林木材法を改正:木材輸出総量は年平均26万立方メートル、これを持 続可能な産出量とした
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(参入していた外国企業:イギリスのリーバース社、オーストラリアのアラダイス社、米国のカレナ社など5社)
1970年代後半〜 リーバース社がコロンバンガラ島の政府所有地を伐採、同島の 慣習地にも進出したが、土地所有者からの反対にあい操業断念
1972年〜 リーバース社ニュージョージア島の北部4万ヘクタールの森林を伐採
1996年 ソロモン諸島での操業を断念し、撤退
・第2期(1981年〜1990年):政府が外国企業を誘致し、森林開発が積極的に推進された時期
従来の4倍もの伐採許可証を交付、慣習地も対象とされた
森林局のモニター制度などの規制を無視して、持続可能量を超える伐採が行われた
1984年 森林資源と木材利用に関する法を制定:企業側のインフラ整備、看過用 破壊防止、村落住民の生業経済保護などを遵守する条項を規定
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韓国系ヒュンダイ社、イーゴン社も操業開始
リーバース社撤退により、1980年代後半には木材産出量は減少
・第3期(1990年〜1997年):マレーシアやインドネシアなどの東南アジア諸国が熱帯林の伐採を制限した影響で、外国企業がソロモン諸島へ進出するようになる時期
ママロニ政権
政府機関は外国企業の利益優先の圧力に押され、環境整備や森林管理規制を十分に適用することができなくなった
企業の輸出量の確認も、企業任せ
輸出税の徴収も寛容になった
ヒリー政権
1993年 新森林政策の開始:森林伐採量の縮小、外国企業への国家管理体制の強 化
(木材輸出税の引き上げ、輸入価格・輸出量・品質と樹種の調査・確認、1997年以降の丸太材の輸出禁止、企業への操業実績にかんするヒアリングの実施)
ママロニ政権 1994年〜
再度、商業伐採優先
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1992年 輸出量60万立方メートル
1995年 自然林の産出量だけでも80万立方メートル 持続可能な生産量の3倍
・第4期(1997年〜):アジアの経済危機を受け、日本や韓国などからの木材需要減少、木材の国際価格が下落した時期
ウルファアル政権 1997年〜2000年
商業伐採の抜本的改革:木材産出量を40万立方メートル以下、オークション制による木材の販売価格を設定、木材伐採のモニタリングを徹底
1999年 新森林法を制定:企業の植林の義務化を規定
1999年 オーストラリア政府がソロモン諸島政府の森林政策の見直し、森林資源の保護、環境保全を推進するプロジェクトを開始
2000年 クーデターによるウルファアル政権崩壊
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1995年 輸出額4億米ドル
1998年 輸出額1億8000万米ドル→国家財政収入の3割減
1997年 輸出量 63万立方メートルに減少
1立方メートルの価格 1993年米120ドル 1998年米60ドル
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第二次世界大戦後のソロモン諸島の土地がどのようになっていたかというと(p. 171)、1)記録化された権利にもとづく土地(外国人、政府所有による土地)12%、2)慣習地87%、3)遊休地1%――。ソロモン諸島政府が外国企業に伐採権の認可を積極的に出したのは慣習地に対してでした。しかし、先週もみてきたように、もともと伝統的な村落社会が土地を管理してきた経緯があり、ソロモン諸島の87%もの土地はその管理下にあります。しかし、今日講義でお話したのは、その87%もの土地の森林伐採権の認可を、財政難にあえぐソロモン諸島政府が外国企業に与えてしまうという事態が生じているということでした。もちろんソロモン諸島政府も政権毎に政策が変わり、外国企業に対して厳しい措置をとる政権がなかったわけではありません。しかし、やはり財政難が響いて、外国企業に伐採権をつぎつぎに認可する状態は変わらないようです。
そうしたソロモン諸島の事情を憂えて、外国政府が援助の手をさしのべます。一番地理的に近いところにあるオーストラリア政府や、外国のNGO団体です。それらは外国企業の伐採現場をモニタリングする要員を教育して手配するなどの、内政干渉にならない程度の援助を行っています。いまのところ、日本政府や日本のNGO団体が援助を行っているということはなさそうです。
一国の森林資源をめぐって、国の内外でさまざまな動きがみられるソロモン諸島の現状は、伝統的な村落社会だけで土地や森林を管理することができなくなるほど、貨幣経済の影響が甚大だったということがわかります。この現状をわたしたちはどのように考えればいいのでしょうか。
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「環境と社会システム」がどのように折り合いをつけながら、互いに存続・維持されていくのか。これは非常に難しい問題です。そのために、これまで講義してきた内容も、幅広い観点から「コモンズ」「環境保全」という2つのキーワードを考察するもので、はっきり言って、一度ですべてを理解することができたりするような簡単なものではなかったはずです。
しかし、わたしたちが生きる時代は、白か黒かをはっきり区別することのできる問題ばかりが山積みされているわけではありません。どちらかというと、白黒つけがたい、時にはどちらの色にもなってしまうような側面さえももっている難問ばかりが山積みされているといってもいいような状態です。「開発」か「保全」か。これは、人間がいまと同じ経済活動をやめない限り、永遠に続く問題だと思われます。それだけに、この講義はみなさんに考え続けてもらわなければなりません。単に「自然と共存することは無理だろ」とか「人間が生きていくためには開発は仕方ない」と安直に考えるのではなく、どうしてこのような状態を善としてしまうようになったのか、どうしてこうした状態を受け入れない生活を営んでいる人たちがいることを忘れてしまうのか、どうしてわたしたちはこうした経済状態しか営めなくなってしまったのか――こうした問題を少しでも深く考えてほしいと思います。
今日は限られた自然環境の島に関する最新の人類学的研究が続くところで、小休止するために「病気」について考えてもらうために、小論をもってきました。松林公蔵「病気とは何か?――フィールドで考えた三つのパラダイム」(『エコソフィア』14、pp. 2-9、2004年)。この『エコソフィア』14の総合テーマは「病気という自然とどうつき合うか?」です。「病気という自然」という言葉を聞いて、ハッとしませんか。誰だって病気にはならない方がいいと思っているし、重い病気に罹ってしまうとときに死ぬこともあるわけですから。でもそうした人間中心的な考え方を一度取り去って病気を考えてみると、病気の原因ともなっているウィルスや遺伝子異常なども含めて、みな生態系の中に存在しており、あるときにはその生態系の一部である人間やその他の動物の体内に発病することなく眠った状態でいることもあることがわかります。ならば、それらすべてを含めて「自然」ということは可能なのです。
松林さんはニューギニアでの経験をもとに、「病気」には「Disease(疾病)」「Illness(やまい)」「Sickness(病的状態)」の3つの概念があり、近代医学は「Disease」のみの治療に専念するあまり、患者が本質的に求める「Illness」「Sickness」の緩和を看過してきたと主張しています。詳しい内容はお配りした資料にある通りですから、ここで繰り返すことはしません。この小論でもっとも注意をしてほしかった部分は、松林さんがつぎのように述べているところでした。
「ひとつの生態系、あるいは文明は固有の疾病をもたらし、時に疾病は文明や社会を変革さえする。・・・・・・アフリカに蔓延するエイズ、欧米諸国における心臓病とガン、これらは確かに生物学的レベルにおける疾病ではあるが、その時代の生態系や文明、社会の価値観と密接な関連がある。・・・・・・そこに病原菌があるからというだけで『病気』がおこるのではない。病原菌を伝播・繁殖させる条件があり、また感染した人の免疫系が感染を克服できないときに初めて発病する。その条件とは生態系とともに、人間がつくったもの、すなわち社会でもある。個人によって『発病』が自覚され、社会によって認知されたとき、『病気』がうまれる」(p. 9)。
完全に理解するにはあまりにも難しい問題ではありますが、「自然」を考える上で、今日の「病気」に関する観点は非常に重要です。みなさん各自が深く考えてくれるよう願っています。