2005年後期分講義
以下に、後期の講義の内容の重要な部分だけを、記します。講義日では区別していないので、2回にわたってお話してきた部分も、まとめて提示しておきます。
最終日にお話した分は、前期からのまとめでもあったのでアップしていません。
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デュルケムの提示した社会類型からも共同体を探求していくことにしましょう。
デュルケムの社会類型論は『社会分業論』(以下、『分業論』と略記)に提示されています。この著作の公刊は1893年。また、後でみていく『自殺論』の公刊は1897年。ただし、それに先立つ調査研究は1888年に「自殺と出生率」という形で出されています。
『分業論』では「環節的(型)社会と有機的(型)社会」という社会類型が提示されています。「環節的社会」とは、未開社会が環虫類(同じような節が連なった体形をしている昆虫)のように、主として血縁から成る集団(氏族)がいくつも結びつきあっている社会のことをいいます。デュルケムは、環虫類が同じようなひとつひとつの節を連結し、生命を維持していくためには、その節それぞれが類似していなければならないことに注目をしています。だから、「環節的社会」は、同質的で類似した氏族から形成されるものだと主張されました。この時の結びつき具合のことを、デュルケムは「機械的連帯」と呼んでいます。というのも、血縁を中心とした諸氏族は、血縁以上に強い結びつきをもっていないために、氏族間は争いごとが発生するや、氏族ごとにバラバラになりやすいからです。その容易に結びつきを解いてしまう可能性があることを、デュルケムは「機械的」だと主張しています。
それに対し、近代社会は「有機的社会」であると説かれています。デュルケムが主張してやまなかったのは、フランスでは国家と個人とのあいだに「職業集団」「同業集団」が介在することによって、社会内部の個人が相互に強固な結びつきをもっているということでした。彼が例に挙げている司法に携わる職業集団は、「司法官、弁護人、代訴人、陪審員、原告、被告」などがいて、各々が集団を円滑に動かす機能を果たし、互いに関係を持ち合いながら、ひとつの裁判が成し遂げられます。つまり、裁判を終えるためにはこの職業集団内部が密接なやりとりをしなければならない。デュルケムはそのような職業集団に象徴される、社会内部のやりとりを「社会分業」と呼んだのです。このときの結びつき具合が「有機的連帯」と呼ばれています。先の「機械的連帯」とは違って、職業集団内部の分業が細分化すればするほど、つまり「分業」が進展すればするほど、個人は自らの属する職業集団ごとに異なる「道徳」にしたがって、個人はより結びつきを強くすると主張されています。生物の体内システムが無数の構成要素の相互作用を張りめぐらすことによって生命活動を維持させていることになぞらえて、デュルケムは近代社会の人間のつながりを「有機的連帯」と言いました。「道徳」に注目したことから、この「有機的連帯」を「道徳的連帯」と呼ぶこともあります。
デュルケム自身、こうした分業を「文明の根源」であると主張しています。彼にとって、「有機的社会」は「環節的社会」よりも「分業」が進展している分だけ、より文明が進歩した社会形態でした。そのため、デュルケムは「環節的社会から有機的社会へ」人類の社会形態は進展していくと主張しています。
以前から解説してきたように、社会類型論を提唱する社会学者の理論的な姿勢にはおおむね2種類あります。一方は近代(現状)称賛型、他方は近代(現状)批判型でした。デュルケムの場合はどちらだったのでしょか。自=社会はともかく、西欧近代社会の過去に対する立場は明らかです。特に近代社会を構成原理のひとつとして従来捉えられてきた「社会契約説」に対する立場は、彼が職業集団に注目していたことからすると、つぎにように考えられます。すなわち、デュルケムが国家と個人のあいだに職業集団を介在させたのは、国家と個人が個人の自発的な契約にもとづいて、直接結びつきあっているとした「社会契約説」の否定もあったからだ、と。「社会契約説」の詳しい説明は、後日どこかで行うことにします。いまは、個人が直接、自発的に国家と結びついて、国家に主権があることを理論づけるものであると社会契約説を理解しておいてください。
本来、「社会契約」が完全に社会の中で徹底されているならば、個人は不安定になることも、バラバラになることもないはずです。しかし、近代社会ではそうはならなかった。デュルケムは、フランス革命によって旧体制下における職業組織が破壊され、「国家に相対する存在としては、無数のちりぢりの不安定な個人だけが残されたのである」と『自殺論』で述べています。そうした拠り所をなくした個人が引き起こす社会問題として「自殺」を取り上げています。つぎは、この『自殺論』をみていくことにしましょう。
この『自殺論』は非常に興味深い著作です。デュルケムが生きた、1880年代から1890年代にかけてのフランス社会の現状を、自殺に関連する多くの統計資料を駆使しながら見事に浮上させているからです。ところで、講義でも言いましたように、『自殺論』を読んでみる場合には、中央公論新社「世界の名著シリーズ」ではなく、中央公論新社の文庫『自殺論』をお勧めします。前者は部分訳(抄訳)であり、後者は完全訳だからです。収録されている、デュルケムが引用した統計資料の数も違いますし、何より文庫版は安価ですから、そちらをぜひどうぞ。
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デュルケムが、後に『贈与論』を公刊する文化人類学者であり甥であるマルセル・モースの統計収集力の助けを借りてまとめあげた自殺の種類は、つぎの3種類です。「自己本位的自殺」「集団本位的自殺」「アノミー的自殺」です。
簡単にそれぞれ説明していくことにしましょう。まず、「自己本位的自殺」とは、字義からも推察されるように、「宗教、家族、政治」などによる結びつきが弱いために、個人が社会的に孤立化した結果、引き起こされる自殺です。この自殺は未開社会では発生せず、近代社会で発生するものだと考えられる、とデュルケムは説いています。
「集団本位的自殺」とは、個人が自らの集団に埋没した結果、その集団の「価値観」、名目、運命などにしたがって発生する自殺です。これは未開社会にも見られるとデュルケムは考察しています。この自殺の象徴例は「軍人」の自殺であるとデュルケムは捉えていました。
「アノミー的自殺」とは、個人が自らの欲望を肥大化させ、それが達成されずに不安になったり、焦燥感を抱いたり、幻滅してしまうこと(アノミー的状態・無規制的状態)が、自分の意志ではどうにもならない、経済恐慌など急激な社会変化によって強く引き起こされた結果、発生する自殺です。
確かにデュルケムが提示しているように、当時の西欧諸国の中でフランスにおける自殺の発生件数はかなり高い。それらを綿密に調査し直し、検討することで、デュルケムは何より、自=社会すなわち「有機的社会」に「アノミー的自殺」が多発し始めたことを、自=社会を社会診断する上で重要な一側面であると捉えました。では、その高い自殺率を抑制する解決策を彼はどのように考えていたのでしょうか。何か有効な手だてはあると考えていたのか、それともないと考えていたのでしょうか。
デュルケムは職業集団すなわち同業組合によって、アノミー的自殺は回避することができるのではないかと主張しています。同業組合がきっちりと確立されれば、社会や経済体制において無秩序状態がなくなり、個人の欲望も抑えられ、組合の中にいるということで分相当な分け前で納得することができ、組合員相互の新たな道徳も作られる、と彼は述べています。この同業組合は、自己本位的自殺にも有効であると捉えられています。
以上考察してきた『社会分業論』と『自殺論』から、デュルケムの社会類型論にみる共同体観をみていくことにしましょう。
まず、そもそも、デュルケムが著作のタイトルとして「社会分業」としたのはなぜなのでしょうか。通常「分業」と言われると、私たちは18世紀にアダム・スミスによって提示された、近代的な工場体制の中で、生産性を上げるために採られた分業のことをイメージします。アダム・スミスの『諸国民の富』(『国富論』)の中で主張された分業体制の効率は、ひとつの工場体制を超越して一国の産業体制や、やがて世界システムにおける分業においても問われるようになっているのは周知でしょう。デュルケムが生きていた19世紀末も18世紀末にはイギリスで産業革命が成功し、大陸であるフランスにもその影響は飛び火していたのは事実です。フランス経済にも分業体制は十分に採られていた。つまり、デュルケムが「社会分業」と提示することで意図していたのは、「経済分業」との峻別だったのです。
だから、デュルケムは「経済分業」がさまざまな領域に浸透し、個人が歯車の一部分となって全体を見通すことができないままに働き続ける結果、拠り所を失ってバラバラになりがちになる、という弊害とは逆に、「社会分業」が進展すると諸個人が強固に結びつくようになると主張したのです。この主張は、『自殺論』を十分に検討すればわかるように、アノミー的自殺が増加した背景には、「経済分業」の進展も深く関係していることも踏まえた上でなされています。すなわち、デュルケムの自=社会に対する強い希望的観測――「経済分業」の弊害を「社会分業」で補うことができるはずだとする希望的観測――も盛り込まれていることがわかります。
しかし、その主張をくみ取ったとしても、それを正当化するために、「有機的社会」以前の未開社会を意味する「環節的社会」が、「経済分業」の進展した「有機的社会」よりも氏族を基軸としているために氏族相互、人間同士の結びつきが弱いと主張されているのにはかなりの疑問が残ります。デュルケムの主張の根拠が、氏族相互を結びつけているのは血縁だけであるから、というものだったからです。これまでにお話ししてきたように、社会学にみる共同体観の多くは社会類型論の前者の社会――「A社会とB社会」と言及されているなら、A社会――であると捉えられてきました。このとき、A社会が血縁を中心にした、自然の中に生きる近代社会以前の(未開)社会であることがほとんどでした。しかし、デュルケムの場合はそうなっていません。「環節的社会」は血縁を中心にした未開社会ではあるけれど、人間相互の結びつきは「有機的社会」にはかなわないからです。
こうしたデュルケムの主張は、「環節的社会」と「有機的社会」を類型する際、人間と自然との対峙を突き詰めていないところに起因しています。デュルケムの場合、もし共同体とは何か、と問われれば、社会分業が進展し、人間が相互に道徳的連帯をもった「有機的社会」のことをいう、と主張する可能性がかなり高いと言わざるを得ません。「共同体とは何なのか」ということを考える上で、このデュルケムの主張はよくよく検討される必要があります。
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これまでに明らかになったのは、社会学が社会類型論に言及しながら想定する共同体観と、経済学が資本主義経済の前提として想定するそれとでは質的に異なる、ということでした。以前、社会類型論で「AとB」と対比されている場合、Aが共同体を指すことが多いと解説をしたことがありましたが、これから2回にわたって考察していくのは、その例外です。しかし、例外であるにもかかわらず、それは、多くの場合、例外としてではなく社会類型論の典型として挙げられることがほとんどです。ですから、みなさんも注意をしながら聞き、深く考えてほしいと思います。
スペンサーの提示した社会類型論に「軍事型社会と産業型社会」があります。この類型論は『社会学原理』の中で展開されています。その類型論の前提となる、彼の「社会」観はどのようなものだったのかをまず考察していきましょう。
スペンサーの社会観は社会システム論にもとづいています。それは「社会有機体説」と呼ばれるものです。「社会」は「有機体」であると主張されたこの社会システム論は、いまから150年ほど前の社会学の黎明期に提唱されたものであることがクローズアップされて論じられるあまり、洗練されていない稚拙なものであると偏見をもたれることが往々にしてありました。しかし、「社会は有機体である」との発想は、今日の生物学的知見にもとづくならば「社会は生命システムである」ということを意味しているのであり、また「社会は〈群相〉に他ならない」と主張しているのと同じことなのです。〈群相〉は前期にも解説したように、「群体の生存様態」です。つまり、スペンサーの社会有機体説は今日の生物学的知見――生命システム、生命ネットワーク、生態系――を正しく射程におさめて論じられたものであったと考えられます。ということは、「群体の生存様態」というときの「群体」とは、人間だけから成るものではないことがわかります。人間の生存を可能にするためのあらゆる生物、風土、環境なども含まれています。
スペンサーはなぜ19世紀半ばにして、今日の生物学的知見を予想するかのような社会システム論を論じることができたのでしょうか。それは、彼が人間社会と〈自然〉の在り方を深く追求し、進化論を基礎とした社会学を構想していたからです。
今日〈自然〉を追求するためには進化論が不可欠であると言うことができます。なぜならば〈自然〉とは何万種もの生物種を包摂する全体を指す概念であるはずであり、〈自然〉を追求するということは同時にそこに生きる生物種を追求することに他ならないからです。46億年前に生まれたとされる地球上で、38億年ほど前に生命体が誕生しました。その生命体が長大な時間をかけて様々な生物種に多様化し、その一種として人間が存在しているわけですが、生物種の多様化の歴史を辿る上で不可欠なのが進化論なのです。
つまり、進化論を基礎としたスペンサーの社会観では、決して人間からだけ成る社会が想定されてはいませんでした。その人間も、功利主義的個人ではなく、功利主義的発想によって封印された生物学的人間が想定されていました。生身の、生きた人間が想定されていたのです。生態系を射程に入れて環境問題に取り組もうとしているいまのわたしたちからするならば、このスペンサーの考え方はごく当たり前のものです。現にわたしたちは、肉や野菜を食べたりして生きているのですから。
「社会」を〈群相〉であると考えるならば、人間とその他の生物を隔てる必要性はどこにもないと主張していたスペンサーのいう「軍事型社会と産業型社会」とは、どのような意図から構想された社会類型だったのでしょうか。
まず、それぞれの社会の特徴を考察していくことにしましょう。「軍事型社会」の特徴はつぎの通りです。大きな割合を占める戦士、軍隊の指揮系統にみられる「集中化のシステム」、「身分」にもとづく自由・財産管理、強制的な協働。個人は国家によって支配されており、古代エジプトやインカ帝国がその原型とされています。「産業型社会」の特徴はつぎの通りです。個人は自らの生計を維持するための働き手、構成員の「個性」を追求する、個人の自由・所有の完全な維持、個人による「自発的な協働」。個人をしばる「独裁的な規制」は一切ありません。
従来の社会類型論に対する考え方を踏まえるならば、「軍事型社会」が近代社会以前であり、「産業型社会」が近代社会となります。また、社会学者スペンサーが生きているのは、その「産業型社会」ということにもなります。しかし、果たしてそのように単純に理解していいのかどうかは、かなり疑問です。
確かにスペンサーは「産業型社会」が、経済的分業や職業の専門化を通じて社会が複雑化しているものだと述べています。社会システムの外側の「外部システム」、内側の「内部システム」、両システムの間に存在する「第3のシステム」が区別されるようになり、それぞれは「規制システム」「維持システム」「分配システム」であると命名されています。これらのシステムは相互依存関係にあり、たとえばその例としては、政府・軍隊、産業、交通・通信網であるとされています。
しかし、彼の進化観や自然観や人間観を踏まえると、こうした社会システム論は、社会が自然環境と相互作用している、すなわち社会が「生命」をもって自然環境と対峙している一個の有機体であると考えるべきだと主張するためのものであり、社会システムは分業化が細部にわたって進展しつづけていくことを強調したものではなかったということがわかります。その強力な証拠が、スペンサーが「産業型社会」とは構成員の「個性」の追求がなされる社会であるとの主張です。
経済的分業が進展しつづけると、人間は各自が人工システム(人為的システム)に絡め取られ、「個性」を徐々に喪失してしまうようになることは、いまの教育改革が「子どもの個性を豊かに」という目的を掲げていることからも明らかです。また、私たちがどれだけのシステムや制度に取り囲まれて生きているかを考えてみてください。実にさまざまな制度やシステムが現代社会には存在しています。たとえば社会保障制度を考えてみてください。この制度だけでもいくつもの保険・年金・福祉制度が網羅されています。しかし、こうした制度はそれだけで綻びがない、完璧なものであると言えるのでしょうか。私たち人間は、ひとつの制度(システム)で解決できなかった綻びを別の制度(システム)で補おうとしてはいないでしょうか。制度(システム)の綻びという問題は、新たな制度(システム)をつぎつぎに設定することによって回避され解決されるのでしょうか。この制度(システム)の鼬ごっこのような悪循環は永遠に続いていってしまうのではないでしょうか。私たちはもはや人工システムの膨大なネットワークから抜け出ることがかなり難しい状態にあります。
そうであるならば、「産業型社会」を「個性」が維持される社会であるとスペンサーが主張していた対象は、近代社会ましてや当時のイギリス社会であったはずはありません。イギリスはあとでみるように、スペンサーの目を通すと「没個性化」が進展する「奴隷」だらけの国に写っていたのですから。
スペンサーは進化論を基礎として論理を構築していましたから、「軍事型社会から産業型社会へ」というフレーズが意味していたのは、社会はやがて「軍事型社会」から「産業型社会」へ「変化」していくのであり、近代イギリスはその途上にあるということだと判断することができます。そうでないと、没個性化が進展しつつあるイギリスで「個性」が維持される、と正反対の社会状態を主張したスペンサーの論理の整合性がなくなってしまいます。
つまり、「産業型社会」は近代社会を構想したものではなかったのです。
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私たちの現代社会は国家を擁しています。この国家を制度(システム)の集大成であると見るとき、果たしてさまざまな制度(システム)が細部にわたって設定され、それらが相互に作用し合ってさえいれば国家は完璧なものになるのでしょうか。
この問題に19世紀半ばに疑問を投げ掛けていたのも、これまでお話ししてきたスペンサーです。
スペンサーは晩年に公刊された『人間対国家』の中で、彼の生きたヴィクトリア後期の国家体制に対して痛烈な批判を行っています。
工場法は当初繊維工業だけに特定されていたのが、半世紀の間に拡大適用されるようになり、非常に広い範囲の産業において実施されるようになりました。しかしこうした状況をスペンサーは快く受け止めてはいませんでした。なぜなら、どの産業に属していようが工場法を制定する政府によって、人間は「画一的な労働者」にしつらえられてしまうからです。工場法は名目上は労働者の保護立法であると解されることが多いのですが、スペンサーの目には労働者に対する国家干渉の拡大として映っていました。『社会静学』以来人間の個性を強く尊重すべきだと主張してきた彼にとっては、「画一的」な存在に人間が強制的におかれるのは、ゆゆしき事態だったのです。
ヴィクトリア後期は「改革の時代」とも称されるように、1860年以降に組閣された自由党内閣によって数多くの法令がつぎつぎに制定されていった時代でした。スペンサーはつぎのようにその一例を挙げています。「1870年には、公共事業委員会に地主制を改革し小作農の土地購入を可能にする権限を付与する法令が制定された。学校用地を購入する学校委員会を設置する教育局を設定する法令が制定された。この法令は地方税によって無料で〔委員会〕学校を提供することによって、学校委員会に児童の授業料を払わせ、両親に児童を通学させることを可能にするものであった。果物缶詰工場と魚の塩漬け工場での女性と児童の雇用に関し、さらなる制約が加えられた工場法が制定された」[『人間対国家』、挾本(2000):268-7]。「改革の時代」の象徴は、工場法と教育法の制定に見ることができます。
特にこの時代に制定された工場法は、現在の私たちにも関係する労働法の基礎となったものです。現在、国会で制定されている法令の数の方がヴィクトリア後期に比べると勝っているかもしれません。しかし、法令がつぎつぎに制定され、人間が知らないあいだに数多くの制度やシステムに絡め取られていっている、その状態はヴィクトリア後期も現代も何ら変わりはありません。こうした状態は、私たち人間の個性や自由を束縛するものとなってはいないでしょうか。
以前にも述べた通り、このスペンサーの主張は、現代教育の問題点の核心部分を突いているといえるのではないでしょうか。「個性を尊重する教育」をいまの小学校や中学校では目指そうとしていますね。みなさんには、そのような目標を掲げなければならなくなってしまった、そもそもの社会的原因がどこにあったのかをよく知ってほしいと思います。
当時の教育法についても、スペンサーは同じような主張を繰り返しています。初等教育が実施されるようになると、児童を幼い頃から画一的な教育制度の中に入れ込んでしまい、やはり個々の個性がつぶされてしまうのではないか、とスペンサーは主張しています。また、工場法と教育法がつぎつぎに制定される事態から、ヴィクトリア時代をスペンサーは「奴隷制到来」の時代と述べています。個々の人間が国家によって個性を押しつぶされるのは、人間が「奴隷」に成り下がったとしか考えられない、というわけです。
このような制度をつぎつぎに人間に対して課していく政治家に対し、スペンサーが不信感を抱いていたとしても何の不思議もありません。人間本来の在り方を追求してしまった彼にとっては、ヴィクトリア時代の政治家が国家権力に振り回されて、自らの欲望だけのために邁進する存在に映っていたからです。しかし、その当の政治家が行っている法律制定といった政治活動も、巨大な国家というシステムの前では微々たる影響しか与えることはできないのです。
『人間対国家』の中で、人間が巨大な国家というシステムによって、その個性を抑圧されているような事態を、何よりもスペンサーは危惧していました。彼は将来的にこうした事態がさらに悪化すると睨んでいたからです。
以上の話を総括するならば、「軍事型社会と産業型社会」という社会類型は、スペンサーという社会学者が近代社会を賞賛して提示したものではなく、むしろその逆で同時代の近代人にかなり切実な警鐘を鳴らすために提示したものであったことがわかります。「産業型社会」は、その名に「産業」があるからといって、産業革命以降の分業の進展した社会の光の部分だけにスポットライトを当てたものではなかったのです。近代社会はまだ「産業型社会」には到達していない――という辛辣ではあるけれど、近代社会が「産業型社会」に変化してほしいという希求さえも織り込まれていた警鐘を提示していたのが、「軍事型社会と産業型社会」だったのです。だから、この社会類型から「共同体」を導き出すのはかなり困難だといえます。スペンサーの共同体観は、「軍事型社会」に投影されているのではなく、「軍事型社会」とも「産業型社会」とも説明されない部族社会や自然社会の描写の中に盛り込まれていたからです。
ヴィクトリア時代の政治状態を通して国家というシステムに疑問を感じていたスペンサーは、どのような政治体制を理想と考えていたのでしょうか。それは代議制ではなかったのは確実です。『人間対国家』の中では明確に述べられてはいませんが、彼の〈自然〉と人間が一体化した社会をその論理の基底に想定していたことからするならば、〈自然〉が作る政治体制をこそ理想としていたのでしょう。具体的にはアフリカ南部の原住民であるホッテントット族や同じくアフリカ南部のベチュアナ人・・・などの、土地に根ざした「慣習」にもとづく未開社会での政治体制です。
すなわち、明確に提示されてはいませんが、スペンサーが理想としたのは、政府という形態を擁することなく古くから民族・部族に伝えられる「慣習」によって、人間のふるまいが規定されるような政治体制だったと考えられます。彼が「慣習」に言及して政治体制を論じていたことに注目をしなければなりません。「慣習」とは人間が〈自然〉の中で生きていく上で不可欠な規範だからです。
こうした主張をみても、スペンサーが進化論を基底にした論理を貫いてヴィクトリア社会を考察していたことがわかります。進化論にもとづけば、ホッテントット族やベチュアナ人などの社会がイギリスのヴィクトリア社会よりも劣った社会であり、やがてそれらが発展・進歩していかなければならない社会であるとスペンサーはまったく考えていませんでした。彼の構想した進化論にもとづくシステムは、人間が〈自然〉に包摂されるものであったからです。
ホッテントット族などの社会の中で、人間が〈自然〉を恐れ、敬いの対象とし、祭りや儀礼を行ってきたのは、人間が〈自然〉を超越して存在することはできない、すなわち人間は〈自然〉を操作することはできないということを、そこ(未開社会)に生きる人間が看取していたからです。スペンサーはそのように未開社会が存続してきていた事実を前にして、人間はそもそも国家がなくても生きていくことができる存在であるのだと主張していたのです。
ここで、以前にお話しした「倫理」「道徳」を思い出してほしいと思います。国家を擁している社会が制度や人工システムの力を借りて人間をとりまとめているのに対し、国家をもたない社会でそれを行うために必要なものは何なのか。持つ者と持たざる者との間には何の差別もない。ここでそういう人々の間で何らかのまとまりを作り上げているものは何なのか――。ここで人々の間に根付く「慣習」、「倫理」、「道徳」を考えたと思います。
以前考察したのは、近代社会以降の人間社会の中で用いられる「倫理」「道徳」「徳」が誰によって押し進められ、推奨されているか、ということでした。日頃当たり前のように使われている「倫理」「道徳」はある集団の中に(教室の人間の中に)その外部から挿入された「あるべき規範」となってはいないか、と考察を進めたと思います。その「あるべき規範」は、人間が〈自然〉と対峙して集団を営んでいる時に必要な「生きる上で必要なふるまい」と決定的に異なってもいました。
たとえば、〈自然〉と対峙して人間が集団で生きており、その中で独自の「倫理」を備えている様子は、今村昌平監督による映画「楢山節考」で描写されています。とくにこの作品は、「共同体の外側」に老人を出すことで、村の人口調節を行い、村を存続維持させていることを教えてくれます。ちなみに、この作品は1983年にカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得しています。
この共同体では、「お山」に70歳までに老人を出すだけではなく、人間が集団で生きていくために守らなければならない「掟」があります。ひもじい思いをしている仲間を裏切って、自分だけがいつもお腹一杯であることは特に許されない。掟を破った一家を根絶やしにすることも当然のことだったのです。機会があれば、ぜひビデオで観てみることをお勧めします。
さて、「倫理」について思い出してもらったところで、M.ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も合わせて考察してみることにしましょう。
この『プロ倫』で注目をしなければならないのは、当時ドイツが切実に必要とした「資本主義の精神」の成り立ちを、宗教――「禁欲」、「勤勉」、「救済信仰」――と絡めて論じられているということです。
ヴェーバーがこの論考を公刊したのは、社会学の黎明期を少し過ぎたあたりの時代です。黎明期に活躍したコントとスペンサーが、単なる思いつきではなく社会学を構想したのは、近代社会にフランスもイギリスも突入して、近代以前の社会との変質を目の当たりにしたからです。とくにスペンサーの著作ではいたるところで、イギリス社会の変質を詳細に記すと同時に、それに対する懸念が出されていました。「このまま近代化が進展していって、人間は大丈夫なのか」。スペンサーの著書を読むと、このような不安を彼が抱いていたことがわかります。しかし、ヴェーバーはドイツ人です。イギリスに遅れて、近代化を急速に推し進めようとする国内的な事情をもっていたドイツでは、ヴェーバーのいう「資本主義の精神」が早く培われるために、宗教と経済がある意味結託する必要があったはずです。「禁欲」をして「勤勉」に励み、労働をすれば「死後に救われる」という「救済信仰」は、それが資本主義の原動力になることは知らずとも、一般民衆には受け入れられやすいはずです。
このヴェーバーのいうプロテスタンティズムの「倫理」は、明らかに民衆の社会に外側から外挿されたものです。それは、法律や制度という形態を取らずに、「宗教」という、一見人々の心の中からわき上がり、必要とされるかのように見える形態をとっています。ヴェーバーのいう「倫理」も近代社会以降の、近代化の原動力としての機能を背負わされたものであったといえます。わたしたちが考えるべき「共同体」の「倫理」であるのかどうか、各自よく考えてみてください。
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有賀喜左衛門は20世紀半ばに活躍した農村社会学者です。もっとも著名な作品は『日本家族制度と小作制度』(1943)です。これは次回以降に解説していきますが、社会学のみならず民俗学や文化人類学にも影響を及ぼした作品でもあります。
有賀喜左衛門の『日本家族制度と小作制度』を考察していくことにしましょう。
有賀喜左衛門が農村社会において注目したのは、「同族団(もしくは同族組織、同族集団)」です。有賀はこの同族団を通して日本の社会構造の特徴を提示しようとしました。資料にもあるように、同族団は「同一の氏神祭祀を中心とする父系をたどる系譜的関係の家の集団」であり、そこにおいては本家−分家(地主−小作人)の間で、親類同士の間で、農民同士の間でユイが自発的に行われていることが記述されています。同じ氏神を祀ることが人間集落に重要な意味をもっていたことは、以前読んだ有賀の「炉辺見聞」を思い出してみればいいでしょう。ウチとソトを人間が意識的に区別するその理由、境の神が必要だった理由・・・を確認しておいてください。
有賀は本家−分家、地主−小作人間の本来強制的であったユイと、やがて分家同士や小作人同士で自発的に行われるようになったユイの、2つのユイが同時に農村社会に存在していたと主張しています。ユイを通して同族団の人間同士が強固な結びつきをもっていたことが考察されています。
注意をしなければならないのは、有賀喜左衛門が同族団を中心に日本社会を考察し、それの結びつきが特に農村社会の特徴であると主張したことは、必ずしも小作制度を堅持しなければならないという主張があったからではないということです。有賀の『日本家族制度と小作制度』が公刊されたのは1943年です。戦後、有賀喜左衛門の同族団に関する研究は、封建的な小作制度を維持することをよしとしたものであったと少なからぬ誤解を受けました。しかし小作制度が正式に解体したのが1947年から50年にかけてGHQの指導のもと実施された農地改革であったことも合わせて考えれば、終戦間近とはいえ1943年当時は小作制度抜きにして日本の農村社会は語ることができなかった、といえます。封建的かそうでないかという観点よりも、小作制度を通して培われてきた農村社会での人間同士の結びつきの一特徴を有賀喜左衛門は考察したのであり、またそうした結びつきさえも徐々に農村社会から、いや日本社会から無くなりつつあるのだと有賀は懸念していたのではないでしょうか。そういう風に捉えてみると、『日本家族制度と小作制度』は有賀喜左衛門の相当に苦しい心情さえも透かし見えてくる研究であることがわかります。
では小作制度の中で同族団としての結びつきをもっていた農村社会は「共同体」であるといえるでしょうか。ここはかなり注意して考えてほしいと思います。いくつかの点から考える必要があります。まず小作制度というシステムはどんなシステムか、という点を考えなければなりません。前期にもお話ししたように、これは明らかに人工システムです。人間が作り上げ、そして人間によって解体される人工システムです。
つぎにその小作制度そのものは、地主が小作人から基本的には現物納、一部金納の小作料を受けるものであったという点です。1943年当時を考えてみても、日本は農民をはじめとする第一次産業従事者が70%以上だったとはいえ、資本主義経済が浸透していました。小作料が金納されるようになればなるほど、地主は経済活動の基盤を広げていくことになります。その逆に小作人はますます地主を中心とした経済(地主経済、商品経済)から隔離されていくことになる。つまり、地主は小作料を吸収することで経済制度という人工システムにどっぷりと浸かるようになっていったとみることができます。
そうであるならばユイが見られ、強制的ではない人間同士の結びつきがどんなに強固であったとしても、そうした側面からだけで同族団を「共同体」であるとみなすのは片手落ちではないでしょうか。人間は生活している限り、必ず経済活動をしています。資本主義経済における活動だけが経済活動ではないことはいうまでもありません。沈黙交易のような物々交換も経済活動です。人類学のいう「自然埋没者」として生きる人間(集団)が、自然の中で集団を維持するために別の集団とモノとモノ、モノと人間を交換するのも経済活動です。ですから、どんな経済活動を基盤として人間や人間集団が生活しているのかという点は、人間集団を考察する上で欠かすことはできません。つまり、小作人は完全に浸かっていなかったとしても、小作料を受け取る地主が完全に浸かっていた資本主義経済を基盤としていたのが小作制度である限り、その小作制度を基盤として形成されていた同族団はもはや「共同体」の要素を喪失してしまっているといえます。大塚久雄の『共同体の基礎理論』をもう一度思い出してみてください。
有賀喜左衛門はもちろんすでに地主が資本主義経済に取り込まれていたことも承知していたでしょう。これが農村社会固有の特徴ではなく、日本全体の社会組織にも通ずる特徴であることも承知していたでしょう。やがて資本主義経済が人間と人間との結びつきではなく、金を仲介として人間とモノとの結びつきを強固なものにしてしまうことも容易に予測していたでしょう。だからそうした時代の流れの中で、有賀はいまかろうじて存在する同族団の中でみられる人間同士の結びつきに注目をせざるを得なかったのではないでしょうか。
この有賀喜左衛門のイエ制度からみた共同体観と、きだみのるの『気違い部落周遊紀行』を合わせて、深く「共同体」を考え直してみてください。
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有賀喜左衛門の小論「炉辺見聞」のうち「他処者(よそもの)のことなど」(昭和3年『民族』所収)を読みました。これは自分の属している共同体を維持するために、人々が長年とってきた風習を主に長野県上伊那郡平出付近で有賀喜左衛門が聞き書きしたものです。
興味深いところが多々ありました。人々が村と呼んでいるのは行政によって区画された○○村ではなく、「村とは一つの氏神を戴き、これを共同に祭祀する人々、家々の集まりであって、その間には一種の血縁関係に似たものが流れ、共通の暗示によって、無意識にまたはそれを意識して生活しているものでなければならなかった」(pp. 271-1)。つまり行政によって区画された○○村では、村とはいえ血縁関係に似たものはなくなってしまっていて、そこに根づく「わたしたちはこの村の一員なんだ」といいう意識がもてないのだと調査した村人が感じていたことがわかります。このことからも、共同体とは国家によって作られ維持されるものとは異質のものなのではないかという疑問が出てきます。
有賀喜左衛門のいう村に生きる村人は、自分たちの共同体の秩序維持を願うために村と村との境界に「境の神(道祖神)」をおき、共同体への侵入者を防ごうとしました。侵入者は旅人や他の村の人間だけではなく、疫病といった病魔も含まれていました。この侵入者が「他処者」です。
行政区画によって村と村が統合されてひとつの○○村とされてしまうと、道祖神の置かれていた場所はもはや村の入口ではなくなり、やがて道祖神の意味も忘れられてしまうようになり、他処者も村を自由に行き来することができるようになる。しかしそうなっても以前の村と村との間には、他処者扱いが風習として残っていたと有賀喜左衛門は調査しています。子供たちが学校の帰り道に、別々の出身の村へ帰る別れ道に差しかかると淡い敵意を抱いて石を投げ合ったりする。「鳥追い」の行事では、「お互いに自分の村の田畑からいたずらする鳥を追い出して、他村に送ってしまおうとするので、喧嘩になったのだ」(p. 274)。村に移り住むようになった他処者は「来たり者」と呼ばれ、軽蔑されてもいました。養子や嫁として入ってきた「来たり者」が村人から受ける仕打ちにもいろいろなものがありましたね。
こうした村人の強くもっていた共同体を維持しようとする意識は、行政区画による大きな村ができ、人々が内外を自由に出入りするようになるにつれて、徐々に変化していってしまうことは容易に想像がつきます。有賀喜左衛門は、「だんだんなくなりはするだろうが」、「変化したといわれながらも、ちがう形で存在を続けてはいる」と主張しています(p. 277)。昭和3年段階ですでに、相互に顔がわかり、血縁関係のような密接な人間関係を営んでいた共同体とそこに生きる人間の意識が徐々になくなろうとしていたことがわかります。この時代のあとに戦争も勃発します。わたしたちはこうしたことも事実として受け止めながら共同体を考えて行かなければなりません。
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柳田国男の『母の手毬歌』(1945、『村と学童』から改題)の一部を読んでみました(岩波文庫『こども風土記/母の手毬歌』より)。
柳田国男の作品を読み解く場合、重要になるキーワードが「常民」です。柳田は日本各地のごくごく普通の農民を常民としました。彼の思想では、日本各地で地域差はあれ、日本はもともと稲作に基礎をおいた単一の民族だとされていました。この考えを言葉を付け足して言い換えるならば、もともと日本人は、これまでの講義からも明らかになってきたように、自然と対峙しながらもその恩恵を受ける方法(農業、漁業、林業)で生計を立ててきたのです。つまり、柳田国男はいまのわたしたちのように第2次産業や第1次産業で生計を立てている人間を民俗学の対象とはしていなかったということです。
戦前から戦後にかけての時代背景を考えれば、日本人が農業から乖離するにつれて喪失しつつあった「自然と人間との関係」やまさに「共同体における人間関係」を記録する必要に迫られたのでしょう。特に『母の手毬歌』は、戦後に公刊されたものの、実は戦中の学童疎開に行っていた子供たちに、当時すでに失われつつあった共同体における人間の所作を伝えるものでもありました。これも将来を担う子供たちにこそ、日本全体がなくしていくであろう共同体観を伝えなければならないと柳田が痛感したからに違いありません。このようなことも考えながら、お配りした資料を再度読んでほしいと思います。
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今日は宮沢賢治の作品「なめとこ山の熊」(『童話集 風の又三郎』岩波文庫、1999年収録)を読みました。宮沢賢治の童話はみなさん、子供の頃からよく親しんできたことでしょう。『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』などなど、教科書にも収録されている童話もありますから、内容はよくご存じかと思います。その宮沢賢治をどうしてこの講義で取り上げるのか。今日はそのところをよく考えてほしいと思います。
宮沢賢治が病弱で若くして亡くなったことはよく知られています。彼が詩人であり童話作家であっただけでなく、農学校の教員であったことに注目をしてみることにしましょう。宮沢賢治は彼自身も盛岡高等農学校農学科の出身であり、花巻農学校に1921年から1926年まで勤めています。時代がちょうど昭和にさしかかるこの時期、日本各地では国によって農業試験場が設けられ、地域ごとの気候条件を考慮した米の品種改良が行われるようになりました。「農林○号」という今日よく聞かれる農林番号がつけられる農林番号品種が登場するのが昭和にはいってからの時期だったのです。宮沢賢治が農学校で教鞭をとっていた時期は、国が稲を中心とした農作物の育種に力を注ぎ始めた時期であり、彼自身もそうした国の政策と無縁であったわけはなかったといえます。宮沢賢治は彼が生まれ育った岩手県の風土を農業のプロとしての目で観察し、その土地に生きる人間を深く見つめていたのです。
さて、今日読んだ作品は短編ですが、自然と人間の関係を深く見つめた宮沢賢治を考える場合には常に参照される重要な作品です。熊と熊捕りの人間との関係を、考えながら読んでみてください。細かな補足は講義でした通りですが、深く読みこめば読み込むほど、奥行きのある作品であることがわかります。宮沢賢治の童話はこのように読むこともできるのです。さらに付け加えるならば、宮沢賢治が農学校を辞め、童話の執筆に専念するようになった背景には彼自身の体調以外に、日本における農業以外の産業の躍進がめざましく、その結果自然が破壊されつつあった、ということもあったであろうことは想像に難くありません。当然、熊捕りとその他の人間とのやりとりに象徴されるように、自然が破壊されれば共同体内部の倫理も破壊されてしまうのは講義でもお話しした通りです。宮沢賢治の作品では、共同体、人間、自然三者の関係が示唆されています。
2005年4月13日(水) 前期第1回講義
この講義では「共同体とは何か」を考えていきます。この問題を解き明かすには、「共同体」は「社会」に置き換えることができるのか、人間と自然の関係をどのように考えたらいいのか、という問題も重要になってきます。すなわち共同体と自然の関係も深く考える必要が出てきます。
前期には経済学の領域に分け入る必要が出てきます。みなさんは社会学部の学生ではありますが、社会科学という学問を考えれば、社会学も経済学も同じように目配りをすることも要求されても不思議ではありません。
非常に大きな問題を射程に入れているのですから、途中で投げ出すことなく取り組んでいってほしいと思います。
それでは、また来週に。
2005年4月20日(水) 前期第2回講義
先日、この講義では、最終的に「共同体」という言葉や考えが用いられるとき、それは私たちが日常的に用いている「社会」という言葉や考えで置き換えることができるのかどうか、についても考えていくと話しました。今日は「共同体」そのものの学説史に踏み込んでいく前に、「社会」を意味や理論からではなく、イメージ的に捉えることから試みてみることにしたいと思います。
まず、「社会」というものは、人間だけが営んでいるものでしょうか。「そうだ」という方と「そんなことはない」という方がいらっしゃるでしょう。「そんなことはない」と主張する方は、アリやハチやサルなどの生態を思い浮かべているのかもしれません。「そうだ」という方の中にも人間以外の生物が「群れ」で生活している生態を知っている上で、あえて、そう主張している方もいらっしゃるかもしれません。あえて主張する理由は「人間の社会は、他の生物が作ることができない固有のものである」ということかもしれません。簡単にいえば、人間の社会とサルの社会は違うから、ということなのかもしれません。サルは国家をもたないし、制度をもたないし、何より理性的な人間が作り上げる精巧な社会形態とサルのそれを一緒にして、同レベルで比較しようとすること自体が気に入らないのかもしれません。
確かに最近NHKのドキュメンタリーで頻繁に放映されている動植物の生態に関する番組では、「アリにも社会があるのです」などとナレーションが入ってきます。そのとき、番組を見ている私たちは何の違和感ももつことはありません。アリが実に緻密な巣を作り上げ、女王アリと働きアリは見事に役割分担がなされていて、そこには命令指揮系統がきっちりと組み込まれている。それらは官僚制度を彷彿とさせ、まるで「人間の社会のようだ」と思えるほどのリアリティをもっているからです。また、こうした動植物の生態が「生物学」や「動物行動学」といった講義の中で解説され、「アリには社会がある」と耳で聞いたとしても、その時みなさんにはきっと違和感はないはずです。
しかし、それが「社会学」という学問の講義の中で「アリにも社会がある」といい、「人間とアリの社会は同じだろうか」と問いかけるやいなや、多くの人が違和感を感じるのは、おそらくその背景に「人間とアリを比べるなんて」とか「人間の社会とアリの社会はまったく別物なのに」という思いが少なからずあるからなのではないでしょうか。
もちろんこうした問いかけをしている私も、人間とアリの社会が形態からしてまったく同じものであるとはさらさら考えていません。アリには国会や裁判所はないし、国会議員を選出することもないし、制度から逸脱して制裁が加えられることもない。けれど、それはこう考えてみれば当たり前のことなのです。アリにはそんなシステムや制度はなくても、種全体は生き延びていくことができるのだ、と。ハチもサルも同様です。自然の中で、まず個体が生き長らえ、そして種全体が断絶することなく生き延びていく上で、現代人が作り上げているようなさまざまなシステムなどは必要ないのですから。アリもハチもサルも、個体と種が生き延びていくことに必要な以上の、過剰なシステムを作り上げることはないと言い換えることもできます。
それに対して人間はどうでしょうか。アリやハチやサルとは異なる身体的特徴をもち、その長所も短所も生かしながら、人口を増やし、生活地域を拡大し、その生活地域を包摂する自然の中で生きていくのに必要な農業や牧畜といった生業を進歩させ、ある時は道具を作って生産性を上昇させたりしてきた。人間がこれまで築いてきた文明を生物学と人類学両方の観点から考察したものに、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)という著作があります。これを合わせて読んでもらえば、古代から現代にいたるまで、人間がどのように文明を作り上げ、進展させてきたのかがわかってもらえると思います。もちろん、このとき、人間は「社会」を営んでいます。人間という種が生き延び続けていくために、必要な生活形態をもっていたに違いないからです。
ということは、そもそも「社会」とは、人間にせよアリにせよ、その種が生き延び続けていくために必要な生活・棲息形態が組み込まれた、生存様態(生きている状態そのもの)であったことがわかります。
しかし、人間はその文明化の過程で、他の生物と同様に自然と共生をしている状態からやがて突出し、自分たち人間にだけ都合のいい生存様態のために邁進するようになります。ちょっと考えてもらえばいろいろな事例を挙げることができるはずです。森林を伐採して住居を建てたり、工場を建てる。工場では、自然の中で採ってこればすむはずだった食糧ではなく、自然界の中では決して生み出されないような必要以上の道具や機械などが生産される。利便性をとことん追求する。産業革命はその典型的な例です。
社会学が誕生したのは、いまから150年ほど前、ちょうど産業革命が成功し、人間がつぎからつぎへと過剰な生産物を生み出し、それにしたがって、人間の生きている状態そのものが劇的に変化していった時期だったのです。産業革命の成功によって作り出された新たな生存様態=「近代社会」は、そこに生きる個々の人間の力も通用しないほどの勢いをもった急流となり、怒濤のごとく、そういう生存様態をもたない人たち=未開人をも巻き込んでいったのです。こうした、人間の生きている生存様態の劇的な変化に疑問をもつ人がいてもおかしくありません。「このまま進展しつづけるとどうなってしまうのか」「これでいいのか」「なぜこういうことになってしまったのか」。例えば、19世紀半ばにイギリスで社会学を提唱したハーバート・スペンサーもそうした疑問を切実に感じていた社会学者の一人です。
つまり、歴史的に社会学は、アリやハチやサルの生存様態から突出することにならざるを得ないように追い込まれていった、人間の生存様態を疑問視するところから始まっているのです。しかし、非常に皮肉なことに、人間は産業革命以降に新たに作り出されることになった生存様態=近代社会を、より進展させることに邁進することを試み続け、疑問を抱くことに重要性を見出すことをしなかったのです。
だから、社会学では、黎明期に提示された重大な疑問そのものが反映された社会観ではなく、人間だけの、近代という時代に適応した社会が論じられるようになってしまったといえます。そこで、人間の社会が、そもそも生物が自然の中で生き延びていくために必要な、生物個々の生存様態であった「社会」という観点から論じられることも、アリやハチやサルの社会とそれらが本質的には同質であるという観点から論究されることもなかったのです。ここに、生物学や動物行動学でいう「社会」と、社会学でいう「社会」が少なからぬ質的な差異をもたなければならなくなってしまった背景があります。
この講義で人類学や生物学の考え方も取り入れながら「共同体」を考えていこうとするのは、まぎれもなく私たちが生きているからです。私たちは生きているから、「共同体」や「社会」を営むこともできるし、また生き延びるためにもそれらが必要になってくるのだ、という考えが根底にあるからです。ですから、ここで「社会」という時には、いわゆる近代以降に突出することになった近代社会を意味するものだけを指しません。私たちの社会は、状態としてすでに近代社会の形態を備えています。しかし同時に、そういう形態だけを追求してきてしまったために、自然から乖離してきてしまったために、近代以前の人間が当たり前のようにもっていた生存様態を手本にしなければならないようなアポリアを発生させてしまっている。地球レベルでの環境問題などがそれです。「共同体」ということを考える前に「社会」を考えていくと、必然的にこうした環境問題にぶち当たるのです。なぜぶち当たることになるのか、ということにアプローチするためにも、人類学や生物学などの知見が必要になってきます。
これまで話してきたように、「社会」とはその構成員が人間であろうが人間以外の生物であろうが差異なく、それ全体でひとつの〈生命〉をもち、存続・維持されていくものであるということができます。人間もホモ・サピエンスという生物の一種です。ならばどうして人間だけが他の生物と全く違う形態の「社会」を営んでいると断言することができるのでしょうか。確かに人間の「社会」も生物界に包摂されており、その生物界全体は1個の〈生命システム〉=生態系を成しているのです。
1個体のメダカも〈生命〉をもち、メダカの群れ全体も〈生命〉をもっているという、生態学的にはごくごく当たり前の事実に注目するところから、「社会」のイメージをたててみることも重要なのではないでしょうか。
さて、「社会」を生物種が生き延びていく上での生存様態と直結したものでもあると考えるとき、ここでさらにもう一歩踏み込んでみるならば、「社会」とは、〈生命〉と密接な関係をもっているものであることがわかります。
ここで〈生命〉について考えてみるならば、それは「個」としても「群」としても観察することができます。例示したメダカでいうならば、一匹のメダカも生きているし、メダカの群れも生きている。また、人間が生きているという時には、人間の身体を構成する個々の細胞も生きているし、それから成る身体全体も生きているのです。人間の〈生命〉の在処を細胞にあると考えるのか、身体全体にあると考えるのか。少なくともわかっているのは、特別な状況を除き、細胞も生きていると同時に身体全体が生きているという状態を、人間が生きているというはずです。つまり、〈生命〉とは、「個」が生きているからいうのか、「群」が生きているからいうのか、このいずれかが真実であるのかと問うこと自体が質的になじまない存在なのです。
ここでこれからの講義でも何度も繰り返して出てくる用語について、ひとつ定義を行っておきましょう。〈生命〉に関連し、個体の生存様態を主として指す時には「個相」という言葉を用います。同様に群体の生存様態を主として指す時には〈群相〉という表現を使用します。先に言及したメダカの群れが全体として生きているその状態を表現するのが〈群相〉です。つまり〈群相〉とは「社会」であると言うことができます。これは参考書として挙げている拙著『社会システム論と自然』で定義しています[挾本(2000):183]。
「社会」を構成している私たち1人1人は生きています。そして「社会」全体も健康であったり、病気になったり、戦争で破壊されたりすることもあることからするならば、確実に〈生命〉をもっていると言うことができます。〈群相〉という言葉は、そういう状態を的確に表すためのものです。
ところで、先にもいった通り、「社会」を生物種が生き延びていく上での生存様態と直結したもの=〈群相〉と考えるならば、まずその生物種の〈生命〉そのもの鍵を握っているのは、それらが棲息する地域の自然環境であることがわかります。その棲息地にはその生物種のエサとなる生物が棲息しているか。簡単に手に入るのか。天敵となる生物種がいるか。棲息地そのものの気象条件はどうか。土地の成分はどうなっているのか。水は容易に確保することができるのか・・・。などなど、棲息地のいわゆる「生態系」そのものが、ある生物種の〈生命〉そのものの存否を占うことになるのです。
今日、「生態系」や自然環境すなわち〈自然〉を追求するためには進化論が不可欠であるということができます。なぜならば〈自然〉とは何万種もの生物種を包摂する全体を指す概念であるはずであり、〈自然〉を追求するということは同時にそこに生きる生物種とさまざまな生物種の関係し合っている状況=生態系を追求することに他ならないからです。およそ46億年前に生まれたとされる地球上で、38億年ほど前に生命体が誕生しました。その生命体が長大な時間をかけて様々な生物種に多様化し、その一種として人間が存在しているわけですが、生物種の多様化の歴史を辿る上で不可欠なのが進化論なのです。
「社会は〈群相〉である」とお話ししてきました。〈群相〉とは個体が集まった群体の生存様態を指す言葉でした。つまり、群体を構成している個々の個体も生きているし、その群体自体も全体として生きている――という発想に基づくのが〈群相〉という言葉でした。
こうした大胆な発想を社会学の黎明期である19世紀半ばにして打ち出していたのが、ハーバート・スペンサーです。スペンサーの理論的な裏付けは、すべて進化論にありました。スペンサーの社会観、共同体観については、後日共同体の学説史を解説するときに、詳しく解説することにしましょう。
次回は進化論の解説から始めることにします。それでは、また。
2005年4月27日(水) 前期第3回講義
進化論と聞いてパッと頭に思い描くのは何ですか。チャールズ・ダーウィンが進化についていち早く1859年に『種の起源』を著したということが多いのではないでしょうか。また「適者生存」とか「自然選択(自然淘汰)」とか「生存競争」とか「弱肉強食」という言葉であるかもしれません。
また私たちは日頃から無意識のうちに「進化」という言葉を多く使っています。「携帯は進化する」。「リムジンバスは進化する」。どこかの携帯電話のCMだったかと思うけれど、このフレーズの意味することは「いままでの携帯より、感度がよく、薄く、軽く、安い・・・」といった良いことずくめの携帯が出来上がったということです。「より時間に正確で、座席も快適、短時間で成田空港に到着するリムジンバスになった」ということが主張されるために「進化」という言葉が用いられているのです。
また「人間はサルから進化した」と使われることもあります。しかし、この言葉の裏側にはどこか「人間はサルとは違う」「人間はサルよりも賢い」「人間はサルよりも進んだ生き物だ」・・・という意味を私たち人間側が含ませていることはないでしょうか。もしそうであるならば、ここで使われる「進化」も「携帯は進化する」同様「よくなった」という意味で使われていることになります。
つまり、今お話した例において「AからBへ進化した」と言われる時には、「AからBへ進歩した・発展した」ことを意味しているのです。これを「発展法則」「発展図式」に則った考え方であると言うことにしましょう。この考え方は啓蒙思想以来、近代思想に蔓延していたものであるとも考えられます。
後日、また改めて解説を加えることもありますが、啓蒙思想というのは、非常に簡単にいうならば、人間が生来的にもつ理性に「光を当て」、その理性にもとづく人間によって理性的に間違いのない社会を形成しようとする考えです。17世紀後半、イギリスのジョン・ロックらによって提示されたのが始まりだとされています。以来、啓蒙思想はイギリスだけではなく大陸のフランスやドイツへも伝播していきます。特に、この思想では「進歩」という考え方が重要な役割を果たしています。というのも、人間が理性をもつということが、人間よりも下等だとされたサルなどの動物よりも遙かに「進歩」した状態であると考えられていたからです。ですから、啓蒙思想においては、人間と動物との間には越えられない深い溝があったのです。そこには動物から人間が「進化」したという発想は一切なかったのです。
先の携帯やリムジンバスのCMのように、私たちの中に強く、いつの間にか根付いてしまっている進化観は、実は現在の生物学的知見に照らすと不十分であり、根本的に誤っていることがわかります。現在最新の進化論は「中立説」と言われるものです。これは日本人の分子生物学者の木村資生氏が1960年代の半ばに世界で初めて発表した理論です。1960年代半ばに発表して何が最新だ・・・と思われるかもしれませんが、既存の理論を打ち破って新たな理論が誕生する時というのは、一般にすぐには受け入れられないものなのです。発表後いろいろな裏付けや証明がされていって初めて「すごい理論」となる。だからこの「中立説」も十分に認識されるようになるまで30年近く経ってしまったのです。
今日の生物学的知見にもとづく「中立説」とは、これまでダーウィンが提唱したと狭い意味でも解釈されてきた進化論――「自然選択(自然淘汰)」つまり環境の変化に応じて、それに適応することのできた種だけが生き残り、適応することができない種は「直ちに」死滅する、と特にダーウィン以降の人間によって解釈されてきた理論――を、さらにミクロなレベルにまで注目して改良したものです。ダーウィンの時代から150年ほど経たいまの時代で最も注目すべきは、遺伝子レベルまで人間がたどることができるようになったということです。「中立説」はそこに着目しています。つまり、環境の変化を受けてある種は生き残ったり、ある種は絶滅したりするが、中には遺伝子レベルだけにそうした変化をとどめて、すぐに「生存」「絶滅」という形で発現させない種も存在する。こうした「中立」の遺伝子をもった種――簡単に言うならば、すぐには良くも悪くもならない種。良くも悪くもなる可能性を遺伝子レベルに蓄えた種――が長い時間をかけて子孫を継承していった結果、やがて目に見えるような「形態変化」を生じることもある。これが「中立説」の骨子です。
ですから、「中立説」に従って「進化」を説明するのならば、「進歩」や「発展」ではなく、DNAレベルで「変化」することなのであると言うことができます。
つまり生物は厳しい環境の変化を受けるとすぐに、その環境の中で生きていくのに便利な「固い表皮」や「強靱な筋肉」を持つことが可能になるのではないのです。1個の生物がすぐにそのような「形態変化」をしたり、また次の世代にいきなりそのような「形態変化」をした子孫が生まれてくるのでもない。生物は自然の影響を受けてミクロレベルで変質した「中立」の遺伝子を蓄えながら子孫を継承していき、長い時間をかけて、やがて環境に即した多様な種を作り上げていくことになるのです。これを「種の多様化」と言います。
たとえば講義で例に挙げた「オサムシ」は、初めは1個の「オサムシ」の祖先型が5000万年という長大な時間をかけて、それぞれの地域の環境に即した多様な40種もの「オサムシ」を作っていったのです。5000万年で40種――。これをどのように捉えるのか、はみなさん次第です。
社会学の黎明期に活躍したハーバート・スペンサーは、ダーウィンの同時代人でありながらも、期せずして現在の「中立説」と違わないような進化観をもち、それをベースにして社会システム論を構築していきました。というより、彼の進化観が今日でいうところの「中立説」であると解釈しないと矛盾が出てきてしまうような主張や共同体観を近代社会に対して行いました。これは後日きっちりと解説しましょう。
さて進化論を押さえたところで、ここでもう一度、「社会」とは何だろうかと考えてみてください。最初に述べた通り、「社会」を生物種が生き延びていく上での生存様態と直結したものでもあると考え、そして、それを確実に追求するためには「生態系」をも考慮に入れなければなりませんでした。しかし、ここで注意をしておきたいのは、「生態系」や前回定義した〈群相〉は、ひとつの生物種だけで成り立つものではないということです。〈群相〉を定義するときに言及した群体も、ひとつの生物種が集まった場合もあれば、さまざまな種が集まった場合もある。「生態系」に関してはいうまでもなく、「ある土地の生態系は・・・」と言われるときには、その土地に棲息するありとあらゆる生物種が、当然人間も含め、複雑な網の目のような関係を維持して、生きながらえているという状態を想定しているはずです。
たとえ、ホモ・サピエンスという生物種が生き延びていくために必要とされ作り上げられたのが「共同体」であれ「社会」であれ、ホモ・サピエンスがそれ自身だけではたった数日ですら生き延びていくことができないことも考え合わせてみれば、「生態系」や〈群相〉の考え方をまったく外して、ホモ・サピエンス=人間がどのように生きているのか、ということは根本的には説明できないのではないでしょうか。
それでは、また。
2005年5月11日(水) 前期第4回講義
今日は経済学理論の一番のベースになっている考え方を――経済的行為、目的、理性的な人間――という観点から考えていきます。
経済学が前提にする「経済的行為」とは、非常に簡潔な言い方をすれば、人間がいかに効率的に利益・利潤をあげるかという「目的」を遂行することにかかっています。たとえ、理論上、需要と供給の関係曲線から、「こういう場合では最大利益は獲得できない」と提示されている場合でも、裏を返せばそれも利益の最大化を目的とする理論化であることがわかります。「経済的行為」は利潤最大化という「目的」に支えられています。
では、そうした目的に支えられた経済的行為の主体は誰でしょうか。それは経済学においてはまさしく「理性的な人間」です。18世紀半ばにアダム・スミスがいう「神の見えざる手」に導かれて経済的行為をするのが、この理性的な人間です。啓蒙思想、功利主義、理性主義といった近代社会の構成原理と呼ばれるものを支えて、近代社会を担ってきたのも、この理性的な人間です。理性的な人間は、本能だけに突き動かされる動物と違って、(神によって創造されたのであるし、)理性的に正しい判断と行為をする、と確信されていました。
こうした「理性的な人間」のことを、経済学においては「経済人(エコノミックアニマル)」ともいわれています。
しかし、主にアダム・スミス以来しっかりと確立した経済学において、そうした理性的な人間という経済学の前提に疑問を持つ論者もいました。それがトーマス・ロバート・マルサスです。彼は理性的な人間ばかりがいるイギリス社会では本来発生するはずのない社会問題に着目します。それが人口問題でした。18世紀末、イギリスは産業革命の成功という光の部分とはまったく逆の闇の部分にも悩まされていました。人口の増加、救貧区の増員・増加、犯罪の増加などです。まず、次世代の人間は理性以外の情念をもたないと生まれてこない。もし、人間が理性的であれば、どうしてその情念を制御して人口増加に歯止めをかけることができないのか、マルサスはこう『人口の原理』で問題提起しました。貧困、犯罪、都市化、環境問題の悪化・・・、人口増大を根本的な原因として発生してくるさまざまな社会問題が地球上にあることは、今日の私たちならば正しく実感することができるはずです。マルサスの18世紀末に提示した問題は、いまなお生き続けているといえます。
「目的」をもった「理性的な人間」が「経済的行為」を行う。このときの「行為」にまつわる前提は、社会学で取り上げられる人間の行為の前提と同じなのでしょうか、違うのでしょうか。
実は同じです。やはり社会学も前回に述べた通り、啓蒙思想、功利主義、理性主義の思想に積み重ねられてきた思想的な前提を背景にしているからです。特に、理性的な人間が目的をもって行為を行う理論については、経済学も多くを負っているマックス・ヴェーバーが定式化しています。
今日は特に「目的」という問題に注目してほしいと思います。それでは、また。
2005年5月18日(水) 前期第5回講義
社会学説史を紐解いてみたいと思います。社会学では社会の捉え方には概ね2つあると考えられてきました。ひとつが社会実在論であり、もう一つが社会名目論です。
社会実在論とは、全体としての社会は、その構成員である諸個人には還元することができない、個人を越えたひとつの実在であるとする考えのことです。非常に簡潔に言うならば、「社会というものが存在する」という考えです。これは社会システム論の基礎となる考えでもあります。社会学説史という社会学の一領野において、後日お話しするスペンサーの社会有機体説も、この社会実在論であると考えられ分類されています。この社会実在論は、社会を捉える上では、方法論的集合主義を採るとも言われることがあります。
社会名目論とは、社会の実在を認めず、社会を構成員の諸個人の相互関係や行為に還元する考えのことです。同様に非常に簡潔に言うならば、「社会という1個の実在はなく、あるのはその構成員の相互関係と行為だけだ」とする考えです。これは(社会的)行為論の基礎となる考え方です。社会学説史上において、たとえばヴェーバーの行為論などがここに分類されます。この社会名目論は、方法論的個人主義を採っていると言われることもあります。
19世紀半ばの社会学の黎明期において提唱されたのは、進化論というパラダイム転換を背景にして誕生した社会有機体説という社会システム論でした。しかし、時代の流れは社会を構成する各構成員の目的や行為を分析するいわゆる行為論へシフトしていくことになります。「社会があるか、ないか」という観点よりも遙かに身近に感じられる人間の行為の方に、より信憑性があると考えられたからでもあるのかもしれません。「社会」は目に見えないけれど、人間の行為は目に見えるから、ということもあったのかもしれません。人間がどんな目的をもって、どのように行為をするか、そしてその分析が結果的に人間の相互行為の総体であるとされる社会の秩序維持に役立つと考えられたからかもしれません。もちろん、そうして行為論にシフトしていった背景には、人間の経済的行為や各国経済の隆盛があることは否めません。
しかし、ここで注意をしてほしいのが、行為論で考えられている人間は、まず第一に「ある目的をもって行為する理性的な人間」が前提とされているのであって、そこには「血の通った生物としての人間」は重点的に(ほとんど)考えられてはいないということです。行為論の立場からするならば、「生きている人間」を行為の主体とすることは暗黙の了解事項として取り扱われているのかもしれません。
では、ここで「目的」を考えてみることにしましょう。経済学では「利潤最大化をするために」という目的が掲げられていることを述べました。先週お話した通り、その主体は「エコノミックアニマル」でした。社会学の行為論では決してひとつにくくられない「〜するために」という目的が、やはり同じようにあるとヴェーバー以来考えられています。しかし、人間は必ず目的にしたがって行為をするものなのでしょうか。何気なく本能的に行ってしまう、ふとしたクセなどの行動はどうなるのでしょうか。明確な目的がなければいけないものなのでしょうか。ふとして行った行為の意味を「〜するだめだったのだ」とあとで見つけだすことも少なからずあるでしょう。あとになってその行為の意味を「〜するためだったのだ」と目的を説明することで自分自身を納得させることもあるはずです。
「行為」と「目的」について、今一度考えてみてください。それでは、また。
2005年5月25日(水) 前期第6回講義
先週お話しした社会的な目的に関連するならば、わたしは、人間が目的を持って生きるということを批判しているのではありません。もちろん人間は、ある社会の中で「出世したいから」とか「お金持ちと結婚したいから」という「社会(学)的な目的」をもって生きている状況は十分にありえると思っています。けれど、ここで生物を考えてみてください。生物は目的をもって生きているでしょうか。「No」と答える方が多いかと思います。なぜなら生物は人間のように理性や感情がないから・・・と言われるかもしれません。けれど、本当にそうでしょうか。生物にも感情はあると思います。人間と同じように。ただそれを言葉にすることができないだけです。では目的はどうでしょうか。これはやはり生物も目的をもって生きていると言えます。けれど、その目的は人間のように理性や感情に裏打ちされたものとは異なる性質のものです。ここは少し注意して考えなければなりません。
この「人間だけが目的を持って行為をしている」ということを、リチャード・ドーキンスのいう「利己的な遺伝子」という考え方から検討してみることにしましょう。1生物は、まずそれ自身が生き残ろうとする「利己的な遺伝子」に左右されて生存しています。人間以外の生物は、人間のような「社会(学)的な目的」をもってはいないけれども、明らかに「遺伝子によって突き動かされる目的」をもって生きているのです。ただし、その目的はただひとつ。「1個体が生き残る」ということです。
ですからこの意味において「生物も目的をもって生きている」と言うことができるのですが、その目的は生物自身というよりは、生物自身ではどうにも制御しようがない遺伝子がもっているものなのです。多少残念なことであるのですが、私たち人間もこの遺伝子レベルにおいて考えてみるならば、この私という人間の身体は、悠久の時を越えてきた遺伝子の「単なる乗り物」に過ぎないのです。そしてその乗り物は遺伝子だけが「生き残る」という目的によって乗り換えられ、遺伝子は次々と時を越えて存続していくのです。
しかし、こうした遺伝子レベルの話まで遡って、社会学や経済学では行為や目的が考えられることはありません。これまでは「遺伝子が目的をもっている??」と一笑されてしまうのがオチでした。そもそもこのような最新の進化論における生物学的知見が社会学には欠落していたのですから、遺伝子から行為を考えるという観点が組み込まれずにこれまで理論形成されてきてしまったとしても何の不思議もないのですが。
ですから、話をもとに戻すと、社会学や経済学において考えられている目的は、遺伝子レベルまで遡ったそれではありません。だから人間しか持たないと判断されているのです。ここですでに人間とそれ以外の生物、動物との間に、社会学理論・経済学理論はバッサリと深い溝を作ってしまっていることがわかります。
これから考察していく「共同体」という考え方にも、これまで解説してきた大前提があった上で展開されています。そこのところをよく気をつけて講義を聴いていってください。
さて来週からは、経済学にみる共同体観を深く検討していくことにしましょう。まず一番最初にみる大塚久雄の『共同体の基礎理論』は、土地と共同体の在り方を考察したものであり、さらに突っ込んでいうと、土地をめぐる人間の所有ぐあいから共同体の在り方を決定づけようとしたものです。特にここで設定されたひとつの概念「アジア的共同体」の解釈については、後日さまざまな批判的研究がなされています。それらのうち重要なものについては、後日みていくことにします。
さて、先ほど「土地をめぐる人間の所有ぐあい」から共同体の在り方を決定づけると言いましたが、その観点からすると、「誰が」「どのように」「土地を所有していたか」ということがポイントになってきます。
大塚のいう共同体の理論は、カール・マルクスの理論から強く影響を受けています。マルクスの理論は後日もう少し詳しくみていくことにしますが、いまはこんな風に簡単に理解しておいてください。つまり、マルクスの歴史観においては、原始共同社会の中に私有財産性が発生し、その社会がやがて資本主義社会に発展していくその間には、共同体が占取する(もつ)共有地と私有地が共存しているという土地の所有形態が持続されている。こうした持続されている土地の所有形態を基盤にして成立している社会が共同体であるとみなされています。
少し難しくなってきましたが、また次回に。
2005年6月1日(水) 前期第7回講義
さて、経済学にみる共同体観を検討していくことにしましょう。まず一番最初にみる大塚久雄の『共同体の基礎理論』は、土地と共同体の在り方を考察したものであり、さらに突っ込んでいうと、土地をめぐる人間の所有ぐあいから共同体の在り方を決定づけようとしたものです。特にここで設定されたひとつの概念「アジア的共同体」の解釈については、後日さまざまな批判的研究がなされています。それらのうち重要なものについては、後日みていくことにします。
さて、先ほど「土地をめぐる人間の所有ぐあい」から共同体の在り方を決定づけると言いましたが、その観点からすると、「誰が」「どのように」「土地を所有していたか」ということがポイントになってきます。
大塚のいう共同体の理論は、カール・マルクスの理論から強く影響を受けています。マルクスの理論は後日もう少し詳しくみていくことにしますが、いまはこんな風に簡単に理解しておいてください。つまり、マルクスの歴史観においては、原始共同社会の中に私有財産性が発生し、その社会がやがて資本主義社会に発展していくその間には、共同体が占取する(もつ)共有地と私有地が共存しているという土地の所有形態が持続されている。こうした持続されている土地の所有形態を基盤にして成立している社会が共同体であるとみなされています。マルクスの歴史観においては、ひとつの発展図式が想定されています。それは「原始共同社会→資本主義社会→社会主義社会」というものです。
マルクス経済学を基礎とした大塚理論で追求されているのは、マルクスが構想する「原始共同社会→資本主義社会→社会主義社会」へと発展していく過程の一部分すなわち「原始共同社会→資本主義社会」過程でした。この過程において、人間によってなされた土地の占取形態が注目され、どのように共有地と私有地が共存しているかを追求したのが大塚氏の『共同体の基礎理論』でした。つまり、「共同体」とは「原始共同社会→資本主義社会」過程のうち資本主義社会に到達する直前で終焉するものだと考えられています。
共同体の土地占取状態はどのように変化していくのか。大塚の主張をみていくことにしましょう。まず、原始的な「部族共同体」の中に、「家父長制的家族共同態」が成立してくる。「宅地」の周囲にある「庭畑地」が囲い込まれ、父系制にのっとってある「家族」が永続的に私的占取をするようになる。このとき囲い込まれた土地を「ヘレディウム」と呼ぶとされています。つまり、共同体によって共有されている土地の中に私有地が発生してくる。それが「ヘレディウム」です。
「ヘレディウム」を内包する共同体の組織は、(マルクスもいう)「農業共同体(または農耕共同体)」です。
ところで、大塚によれば、土地は共同に占取するけれども、そこで使用される「労働要具」が私的使用されることがある。共同体が変遷していくあいだには、必ずこのような状態が生まれてくると指摘されています。これを大塚は「固有の二元性」と名づけています。土地の共有制の中に労働要具の私有制が溶かし込まれている状態をいいます。大塚の観点からするならば、大地の懐の中に労働要具の私有制が抱かれている、ということになります。非常に簡単にいうならば、土地の共有制と労働要具の私有制が矛盾しないのだと、土地に住む人間はそのように受け取っていたという状態を指しています。だから、「ヘレディウム」はちょうど「固有の二元性」を保持したまま存在しているということになります。
農業共同体はつぎのように共同体の在り方を3段階に発展させていくといいます。(1)アジア的形態、(2)古典古代的形態、(3)ゲルマン的形態の3つです。
ここでひとつ注意しておかなければならないのは、以下の3形態は、マルクスが「原始共同社会→資本主義社会→社会主義社会」と順次発展していくとした「発展法則」(マルクス経済学でいうならば「唯物史観」もしくは「史的唯物論」)と同様に、時間が経過すれば順次発展していくものだと考えられているということです。各特徴をみていくことにしましょう。
1)「アジア的形態」では、土地の共有制のなかには「ヘレディウム」が依然として残っており、そこで生きる人間は血縁関係にもとづく「部族共同体」であるとされています。「ヘレディウム」というのは、宅地とその周囲の庭畑を私有している形態を指すのでした。
2)「古典古代的形態」では、土地の共有制の中に「ヘレディウム」から新たに「フンドゥス」という状態が生じてきます。「フンドゥス」とは、「戦士としての市民」(公有地の防衛と獲得のために共同労働としての戦闘に参加する人間)とその家族が私的自立するためにそこで暮らす土地エリアのことです。だから、「古典古代的形態」の私有制は「ヘレディウム」と「フンドゥス」が共存する形まで拡大されていることになります。こうした土地に生きる人間は、「都市共同体」の中に生きており、たとえば、ここでは、都市国家ローマのように、貴族もあれば平民もあれば奴隷もある、と貧富の差が少しずつ出てくる状態も発生してきます。
ここで少し考えをめぐらせておいてほしいのは、「貧富の差」が出てくると考えられている社会的(人間的)な背景です。先の「アジア的形態」では、共同体に生きる人々はその能力が特化されていなかったと想像することができます。農業もできるし、採集もするし、ときには魚を獲ったりすることもある。つまり、人間が生活をする上で「万能」であったということです。
しかし、「古典古代的形態」では「戦士としての市民」が出てくる。戦士という生業に特化される人間が出てくるようになったことに注目をしてほしいと思います。戦士をきっかけに、以後さまざまな生業に特化される人間が共同体内部に発生して、その結果として貧富の差が生じ始めることになるのです。
人間の万能性の喪失が顕著になったのは、イギリスで産業革命が成功した近代社会です。しかし容易に想像がつくのは、近代社会になってある日突然、人間が万能性を喪失したわけではないということです。いつ頃からその兆候が見られることになったのか。大塚氏はそれを「古典古代的形態」だと主張していたようです。
3)「ゲルマン的形態」では、土地の私有制が「フーフェ」という形まで拡大してきます。「フーフェ」とは、「村落共同体」によって共同に占取された土地が、その内部で各農民の家長によって、すべて私的に占取、所有、相続されていく土地の所有形態のことをいいます。だから、「ゲルマン的形態」においては、共同地でさえも農家の家長によって持分化されており、村落共同体の中からしだいに商品経済、貨幣経済が発展しはじめると考えられています。
「フーフェ」という形態にまで拡大した私有制は、封建制度を思い出してもらえるといいでしょう。マルク・ブロックの名著に『封建社会』がありますが、この著書については後日「社会学にみる共同体観」を解説するときに合わせてみていく予定です。前もって深く知りたい人は、翻訳書もありますからお読みになってみてください。
以上のような共同体の3形態を経て、資本主義社会に到達すると大塚氏は主張しています。先にも言いましたように、共同体が終焉すると同時に資本主義社会に発展する、言い換えるならば資本主義社会には、共有地が前提となって、共有地と私有地が慣習的に混在している共同体という形態は消滅しないと到達することができないことになります。
人間が生きていく上で絶対的に必要な土地の占取形態から、人間の生きている状態「共同体」を追求しようとした大塚氏の観点は非常に有益なものであることがわかります。来週はその観点に欠けていた部分を、後世加えられた批判からみていくことにしましょう。それでは、また来週に。
2005年6月8日(水) 前期第8回講義
先週までお話ししてきたことをまとめると、マルクス経済学では「原始共同社会→資本主義社会→社会主義社会」という発展段階を経て人間社会は進歩していくと考えられていました。大塚久雄の『共同体の基礎理論』の中では、「共同体」とは原始共同社会から資本主義社会への移行期にみられる、共有地と私有地の共存状態を指すのでした。
大塚理論における共同体は、マルクスの発展史観と同様に「アジア的形態→古典古代的形態→ゲルマン的形態」へと進歩していくものであり、それぞれ共有地以外に「ヘレディウム」だけが存在する形態、「ヘレディウム」と「フンドゥス」が共存する形態、「フーフェ」とは、「村落共同体」によって共同に占取された土地がその内部で各農民の家長によって、すべて私的に占取、所有、相続されていく土地の所有形態――という3つの私有形態が見られるのでした。共有地と私有地の共存状況から、人間の土地の占取状況から、人間の生きている状態を検討しようとしたのが大塚理論だったのでした。
「共同体」というと(たとえ批判的見地から論じていたとしても)必ずといっていいほど大塚理論が踏まえられていることからするならば、経済学ではいまなお『共同体の基礎理論』を大前提とした共同体観がとられていることがわかります。すなわち、経済学にみる共同体観には、人間が何らかの形で集団で生活をしていて、やがて時間が経過すれば、必ず資本主義化すると前提がおかれており、その資本主義の開始と同時に終焉するのが「共同体」であると考えられています。言い換えるならば、資本主義をとる社会形態以前の状態が「共同体」なのです。というのも、大塚理論に照らすならば、資本主義の大前提である私有財産制(または私的所有制)が確立し、金銭の多寡によって土地を完全私有することができるようになれば、共有地と私有地の差異は制度によって明確に確立し、人間が慣習として土地を使用したり相続していたりするという曖昧な状態はなくなるからです。私有財産制が、慣習を基礎として人間が集団で生きている状態に外挿された結果、その慣習を基礎とする社会状態が人間集団から必要とされなくなったのが「共同体」なのです。さらに言い換えるならば、私有財産制を確立させた人間の社会状態(すなわち資本主義社会)の方が、私有財産制の確立されていない、経済学のいう「共同体」よりもより発展している状態であると考えられていたのです。
経済学では、こうした「共同体」の中で人々がどのように結びつきをもって暮らしていたのかについてはほとんど言及されていません。このことを深く追求し、近代社会を分岐点にして、社会類型論に代表されるように、近代以前の状態と近代以降の状態を区別することによって、人々の結びつきに明確な変化があったのかどうかを探求したのが社会学です。社会学にみる共同体観は後日みていくことにしますから、経済学にみる共同体観との差異は頭の中に入れておいてください。
さて今日はまず「原始共同社会→資本主義社会→社会主義社会」「アジア的形態→古典古代的形態→ゲルマン的形態」というように、大塚久雄が提示した発展法則にしたがって社会形態が進展していくとした進歩観と、以前解説した私たちが日常的に使用している進化観ならびに今日の生物学的知見である中立説にみる進化観を比較してみることにしましょう。
マルクス経済学や大塚氏の理論の根底に流れる進歩観は、まさに私たちが気づかないうちに当たり前のように用いてしまっている進化観とそっくりであることがわかります。今日言われるところのいわゆる「進化」と、ある地域にできた共同体の時系列的なモデルは、ともに必ず右肩上がりの線形を描きながら「発展」していくと考えられていたからです。こうした発展史観はこの他にも、たとえば人類の歴史が「狩猟採集生活→定住農耕生活」という経過をへると解説される時の根底にもあることが思い起こされるでしょう。
しかし、「狩猟採集生活→定住農耕生活」という発展経過を、人類はすべてとったのでしょうか。以前お勧めしたジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』では、およそ1万1000年ほど前から人類は世界各地にポツポツと文明を築き始めたが、それがすべて「狩猟採集生活→定住農耕生活」という経過をへたわけではないと主張されています。たとえば肥沃な土地に住む人間の集落は、別に定期的に農作物を耕作・収穫して集落全体を養っていく必要はなかったのではないかというのです。定住農耕生活は肥沃な土地で常に人間が食べるにことかかないほど野生種の植物が実をつけることのない地域でこそ、進展していったのではないかというのです。つまり、もともと肥沃な土地の集落では、栽培種を人間が育種する必要もなく、あえて定住農耕生活へその生活形態を変えることも必要なかった。狩猟採集生活にとどまることもあったのだ、というのです。
すべての人間集落が「狩猟採集生活→定住農耕生活」へと発展経過をとるのではなく、狩猟採集生活にとどまり続けることもあったというジャレド・ダイアモンドの主張と、大塚氏の理論は大きく異なります。とくに「アジア的形態」が必ず一様に「古典古代的形態」に進展する、とした部分に後世批判が生じることになりました。アンソニー・リード『大航海時代の東南アジア』TU(法政大学出版局)でも明らかにされているように、香辛料貿易で一度は世界貿易の表舞台に立った東南アジアは、一気かつ一様に大塚氏のいうところの「古典古代的形態」へと進展していくかのような情勢に追い込まれるのですが、結局のところはそれを拒否して独自の文明・生活文化を維持することを選択するのです。つまり、大塚氏のいう「アジア的形態」はその後多様に進展していくことが一切想定されていなかったのです。
もうひとつ、たとえば「狩猟採集生活→定住農耕生活」へと発展していくとした際の、そうした発展の「推進力」が何であったか、という問題も喚起しておきたいと思います。先のジャレド・ダイアモンドの著書では、気候の変化と人口の増加が大きな推進力となっていたと述べられています。しかし、大塚久雄の『共同体の基礎理論』には、集落外部の影響力である気候の変化はもちろん、集落内部から発生し、集落全体に影響力を及ぼしかねない人口の増加についてふれられているところは皆無です。それはなぜなのでしょうか。マルクス経済学では社会内部の人口増加はどのようにとらえられていたのでしょうか。
次回はこの「推進力」に関連して、大きなスコープから経済学にみる共同体観をみていくことにします。それでは、また。
2005年6月15日(水) 前期第9回講義
大塚理論の中ではほとんどふれられることのなかった、ひとつの共同体の形態を別の形態に発展させていく「推進力」が何であるかという問題は、実はマルクス経済学において社会内部の人口増加がどのように考えられていたのかを考えてみると明確になってきます。そこで、マルクスが大いに批判した経済学者の人口についての重要な考え方からマルクスの人口観をあぶり出していくことにしましょう。
18世紀末に『人口の原理』を著し、人口と食糧のアンバランスを問題視したイギリスの経済学者にトーマス・ロバート・マルサスがいました。マルサスは、産業革命が引き金となって、人口が徐々に増加し始めていたイギリス社会を考察し、人口増加にともなう社会問題の発生として貧困と犯罪の増加を指摘しました。資本主義経済が進展していけばいくほど、いまでいう「勝ち組」と「負け組」にはっきり分かれてきます。資本家の中でも勝ち組がいれば、負け組もいる。労働者も同様です。特に労働者の負け組は、教会が中心となった教区の中に設置される「救貧区」に収容され、国から援助を受けるようになっていくこともありました。当時のイギリスでは、人口増加につれて、この救貧区も満杯状態になっていたのです。
また人口増加が犯罪を増発させるということも、ロンドンの都市化に注目すると容易にわかると思います。都市化の進展は、社会における貧困層の発生と平行して、スラム街も同時に発生させるからです。そのスラム街では犯罪が日常的に横行するようになってしまうのです。
問題は、人口増加が貧困と犯罪を増加させ、そうした社会問題が収束することなくさらに人口が発生するという悪循環を招来するということです。救貧区には男も女も収容されていましたから、当然そこでカップルになるケースも出てくる。国から援助されてかろうじて生活している人たちも、何も生産しないかわりに子供を作ることも多かったのです。また犯罪も同様で、都市から都市に渡り歩く行商人が、行く先々で性的問題を起こして子供を作ってしまうこともあったのです。
マルサスが指摘した人口問題は、これだけにとどまりません。1815年ぐらいから始まった穀物法論争をみていくとさらに明確になります。マルサスは穀物法擁護派であり、マルサスの論敵であったデイヴィッド・リカードは穀物法反対派でした。ちなみに、この穀物法は改正を経て1846年に撤廃されています。
穀物法論争がイギリスで起こった背景には、ナポレオン戦争(1804〜14年)における大陸封鎖政策がありました。この政策は、フランスがイギリスの国力に打撃を与えるために一切の通商を断絶した政策であり、それによって、当時怒濤のごとく資本主義化を進展させていたイギリスは大打撃を受けることになりました。イギリスがフランスとの通商を断絶されて困るのは主に小麦の輸入でした。当時イギリスはすでに工業国化を邁進させていましたから、主食の小麦は輸入に依存するようになっていたからです。大陸封鎖とほど時期を同じくして発生した国内の4年連続の不作のために、イギリスでは小麦粉の値段(穀物価格)が2倍近くまで高騰し(1812年頃)、その直後今度は農業資本を投下する政策も合わせてとったために、穀物価格が暴落することになってしまいました(1814年頃)。1815年には恐慌が発生したのですが、1815年に穀物法は改正され、強行に試行されることになってしまいます。
具体的な改正穀物法の中身は、穀物価格が1クォーター80シリング以下のときは輸入を禁止、それ以上のときに自由輸入を許可するというものでした。1828年には穀物価格の変動によって関税も上下するようになる条項が設定されています。この改正穀物法によって、イギリス国内で生産される穀物の価格は安定し、同時に国内の農業も守られることになりました。
マルサスをはじめとする穀物法賛成派の主張は、穀物価格の低下が、国内農業の疲弊を招き、工業製品への需要さえも減少させる、というところにありました。これに対し、リカードをはじめとする穀物法反対派の主張は、穀物価格の低下が、賃金の低下、資本家の利潤の増大、国内に資本の蓄積を進展させ、社会的に雇用が増大し、労働者の賃金も上昇する、という図式に象徴されます。リカードの主張は、工業国であるイギリスは工業製品だけを作り続け、農業国は農業製品だけを作り続け、工業国は農業国から食糧を輸入すればいい、という考えに支えられています。しかしここで考えてみてください。このリカードの考えには、「労働者の数が増加する」という発想が一切入っていないのです。増加しつづける労働者にも、理論通りに国内に蓄積された利潤がプラスされた賃金を払い続けることができると予想されていたのです。
歴史を紐解くならば、イギリスはマルサスが懸念した人口問題を無視して、リカードの主張する経済理論を全面的に支持し、一気に工業化を推し進めることになりました。確かに当時はまだ労働者の人口増加をカバーするだけの生産性の増加を、イギリス自体がまだ保持していられたのです。ここでマルクス経済学がマルサスを批判した理由が浮上してきます。マルクスはリカード同様、国内の生産力がアップすれば、人口増加をカバーすることができると確信していたのです。だからマルサスの理論を批判したのです。大塚理論の中に「人口」という要件が共同体の発展図式の中に一切組み込まれていない理由もそのためです。けれど、リカードの理論には、玉突き状態で連鎖的に工業国の飛び火と工業国圏の拡大を招来し、最終的に工業国に農業製品を輸出する農業国が地球上からなくなってしまうことにもなりかねないという理論矛盾も内包しているのです。現在、先進国に農業製品を輸出する東南アジアを中心とする途上国が工業化をより進展させることになったら――。日本の将来はどうなるのか。13億ともいわれる人口を抱え、農業製品を多く輸出している中国が本格的に工業化をするようになったらどうなるのか――。こんなことを考えてみると切実にこの人口問題を捉えてもらえるのではないでしょうか。
現代社会において人口問題ほど重要な問題はありません。人口問題がすべての社会問題に多大な影響を及ぼしているといっても過言ではありません。人口問題がアポリア(最難問)であると言われているのはそのためです。考えてみてください、いま問題視されている環境問題――オゾン層破壊、CO2問題、森林伐採、砂漠化、気温上昇、地下水の減少などなど――は地球規模で増加する人口問題が明らかに原因となっているのがほとんどなのです。
『地球白書』でおなじみのワールド・ウオッチ研究所を設立したレスター・ブラウンも注目しているように、マルサスの論理はいまの私たちの時代を予見するかのような重要性をもったものだったのです。マルサスの論理では、人間が生きているということはどういうことか、ということを「生物学的な人間」の側面からも捉えられていたからこそ、人間が集団で生きる状態の将来像も正しく見通すことができたのです。そもそもリカードやマルクスら経済学者が想定していたような、「理性的な人間」だけから成る集団であったならば、人口問題は社会問題をまき散らして増加することなく、理性的にすべて回避することができたはずなのです。
「共同体」には、大塚理論では共有地と私有地が共存している状態であれ、人間が集団として生きているのはまず間違いありません。そうであるならば、「共同体」の変遷にはどんな形態がその過程として登場してくるのであれ、人口が大きく作用していることも間違いないのです。今日お話しした人口という要件は、これからみていく社会学や人類学にみる共同体観でも必要になってきますから、しっかりと頭の中に入れておいてください。
ところで、大塚理論における「共同体」の初期形態は「アジア的形態」でした。アジアという地域に特異的にみられる土地の占有状態を象徴してつけられた形態名だったわけですが、後世、この「アジア的形態」に関しては数多くの批判が寄せられることになりました。今日はその「アジア的形態」に対する批判の代表的なものを紹介することにして、経済学にみる共同体観をひとまず終えたいと思います。
大塚久雄も踏襲したマルクスの歴史観では、「アジア的形態」にある地域もやがてかならず資本主義社会に発展していくと考えられています。いまだ資本主義経済をとっていない地域は、それこそいまでいう「(資本主義経済に移行する、先進国に到達するまでの)発展途上国」だとみなされているわけです。そうであるならば、「アジア的形態」のままで人間が生活を営んでいる状態は、単なる一過性のものなのか、その状態は必ず「発展」しなければならないのか、資本主義経済に発展する以前の段階で「アジア的形態」にヴァリエーションが生じて多様化することはないのか、という重大な問題が発生してきます。
「アジア的形態」にヴァリエーションが生じて多様化し、各地域で人間がさまざまな文化を営んでいた、という事例は、以前も紹介したように『大航海時代の東南アジア』T、U(法政大学出版局)を読めばよく理解することができるはずです。
大航海時代に東南アジア地域は胡椒を中心とした香辛料の貿易によって、当時の先進国であったポルトガルやスペインという大国の巨大な経済システムに巻き込まれそうになる。もちろん胡椒という特産品は東南アジアなくして産出されていなかったわけですから、少なからず貿易をしていたわけで、ある一時期は大国の特異的な経済システムの一翼を担っていたわけです。「特異的な」というのは、胡椒という奢侈品や貴重品の貿易であって、日常的な必需品ではなかった、ということです。ここが大きなポイントになってきます。奢侈品である胡椒がなくても、大国の人間は生活していくことができる。だから、東南アジア地域は「完全に」大国の経済システムに巻き込まれずに済んだのです。自ら各地域の王が交易を断ることが可能であり、東南アジア地域は西欧の大国の文化に汚染される前に、独自の文化を守り通すことができたのです。詳しい経緯やどんな文化が維持されていったのか、についてはぜひ『大航海時代の東南アジア』を読んでみてください。
「アジア的形態」に象徴される地域は、他の資本主義経済システムにとってどのような意味があるのか、について追求する研究も出てきています。つまり、各地域がすべてマルクス経済学がいうように発展していくのではなく、「世界システム」の観点からみると「発展していない」地域もそれなりに意味があるのだという解釈です。もっと言い換えるならば、「世界システム」は、中心的に資本主義経済を担う地域だけで推し進めているのではなく、さまざまな資本主義経済もしくは資本主義経済への移行過程段階にある国家があって、はじめて推進されるのだという解釈です。
この「世界システム」の観点を中心的に提唱しているのは、イマニュエル・ウォーラーステインです。アメリカの社会学者・歴史学者です。ウォーラーステインの主張は、一国の国民経済はそこで完結するのではなく、その枠を超えて「世界経済」に取り込まれているということにあります。ウォーラーステインの「世界経済」は3つの構成要素地域があります。それは「中核」「半辺境」「辺境」です。たとえば16世紀には「ヨーロッパ世界経済」ともいうべき世界経済システムが完成しており、中核地域は西欧諸国、辺境地域は地中海地方、辺境地域は東欧と新世界――それぞれがこの経済システムを担っていました。この時期、アジアは3つの地域に組み込まれない「外部」地域でした。ウォーラーステインの主張では、この3つの地域が分業体制で世界経済を進展させていたのです。
たとえば1750年から1800年にかけてのイギリスを中心とした産業資本主義時代になると、この「ヨーロッパ世界経済」は拡大路線をとるようになります。ウォーラーステインによると、この時期は「中核」は西欧諸国――それもオランダ、フランスにかわってイギリスだけが台頭してきた――であることに変わりはありませんが、その他の地域が変動をすることになります。それまで「外部」地域だったアジア、アフリカ、トルコなどが「辺境」として組み込まれるようになる。ラテン・アメリカ各国が独立して「辺境」となり、ロシアは国家的機構が強い上に、もともと工業もそれなりに進展していたので「半辺境」となっていたのです。
ウォーラーステイン自身が繰り返しているように、彼はマルクス経済学に多くを負っています。しかし、この「世界システム」の考え方は、「辺境」「外部」地域がすべて「中核」と同じように進展していくことは想定されていません。むしろ、「辺境」「外部」地域が「中核」とは異なる役割を分業することができたからこそ、「中核」が資本主義経済を大いに進展させることができたのだ、と想定されていることがわかります。これも大塚理論の「アジア的形態」解釈に対するひとつの批判であることがわかります。
それでは、また。
2005年6月29日(水) 前期第10回講義
今日から社会学にみる共同体観を考察していきます。
ここまでの講義では、「共同体」の学説史として、経済学にみる共同体観を検討してきました。それからもわかるように、実は、私たちのやろうとしていることは決して易しい問題ではありません。社会学の領域に入ってくるとなおさらそうなります。
講義ではその考察を「社会類型」という考え方を起点にしてみていこうと思います。ある集団がどのような基礎的な特性をもっているか、を提示したものが「社会類型」ですが、実はこの「社会類型」論は、最近あまり言及されることがなくなってしまっています。しかし、だからといって、その考え方が私たちの最終的に追求したい「共同体とは何か」という問題を考察する上で有益ではない、ということはありません。そこで、あとで以下にいくつか「社会類型」を挙げていきますが、今日はまず、異なる観点から「共同体」を考察する準備を始めていくことにしましょう。その観点は「システム」です。
「各々異なった働きを持つ複数の構成要素が全体としてある一定の作用を実現するようなもの」をシステムと呼ぶことにします。各要素の持つ「働き」を「機能」と呼ぶことができます。この場合、各要素がどのように組み合わされているかを表現する言葉は「構造」です。
この結果、システムには構成要素間にシステム特有の階層性があり、同時に全体性があります。このような事実は、意識化されているかどうかは別にして、非常に早い段階から、おそらく未開時代から知られていたはずです。
構成要素が人間であるか、生物であるか、無機物であるか、人工物であるか、などに従って例を挙げれば、規律によって行動する軍隊、個体が集合して生きる生物群、地質的造形、機械器具などはすべてシステムであるといえます。
もちろん、社会もシステムです。
上記の意味において、社会を「社会システム」であるとしましょう。
「社会システム」と同じように、社会を言い表す言葉に「集団」や「制度」があります。人間集団、教室にいる学生の集団、盗賊集団・・・などなど「集団」という言葉を用いると、個々の人間が集まり、その人間たちが何をしているかどうかは別として、ひとつのまとまりを成している状態のイメージが立ちます。ですから、「集団」とは個々人の果たす役割(働き、機能)よりも、まず人間が集まっている状態を想定する言葉であるということができます。
例えば「集団」に関する社会学上の主な類型には、お配りした資料のように、次のようなものがあります。
H・スペンサー;「軍事型社会」と「産業型社会」
E・デュルケム;「環節的社会」「有機的社会」
F・テンニース; 「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」
W・サムナー ; 「内集団」と「外集団」
C・クーリー ; 「第1次集団」と「第2次集団」(後者はクーリー以後のアメリカ社会学者が提唱)
R・マッキーバー; 「コミュニティ」と「アソシエーション」
F・ギディングス; 「生成社会」と「組成社会」
高田保馬 ; 「基礎社会」と「派生社会」
今後、「システム」とか「社会システム」と言及して「共同体」の特性をみていくことが多くなると思いますが、その時は、以上のような考え方を踏まえていると理解しておいてください。
さて、本題に入ることにしましょう。なぜ、社会学者は自らも生きている社会(「自=社会」または「自社会」などと表記されることがある)と、ある比較すべき社会を二つに類型しようと(しなければならないと)考えた(試みた)のでしょうか。大別して二つの姿勢があると考えられます。ここで注意しなければならないのは、社会学が誕生した時代背景です。社会学は「社会学」という術語を作ったフランスのオーギュスト・コントやイギリスのハーバート・スペンサーといった、いわゆる社会学第一世代の頃には、すでに近代社会が確立し、その基盤に資本主義経済があったのです。そうした時代に社会学が誕生しています。この時代背景を社会学者はどう捉え、「社会」をどう考察しようとしていたのでしょうか。ここのところが、自=社会に対する姿勢にかかってきます。
そのひとつは、自=社会を批判的に捉え、近代社会以前の社会状態を「近代社会が喪失してしまった状態」として振り返る姿勢です。ここには近代社会に対する危惧があります。
もうひとつは、自=社会を好意的に捉え、近代社会をより発展させようとする姿勢です。ここには近代社会(未来)に対する称賛があると同時に、近代社会以前の社会状態の否定があります。
ここで経済学にみる共同体が、資本主義経済の前提であったことを思い出しておきましょう。
「社会類型」論の非常に難しいところは、前者の姿勢をとって近代社会を反省するとき、社会学者はその社会に生きているということです。いま自分が生きている自=社会を考察し、検討し、ときに批判を加える。だからといってこの自=社会から逃げることはたいていの場合、できない。このことは私たち自身のことを考えてもわかると思います。どんなに現代社会に批判を加えようとも、私たちはこの自=社会に生きていくしかない。だから、いま「社会」がどうなっているのか、どう捉えてみたらいいのか、をせめて「知る」ことが重要になってくる。それが「社会学」ではないかと考えています。
先に挙げたいくつかの「社会類型」論のうち、いずれも「前者」の集団状態・社会状態・システムの状態にあるのが「共同体」であると社会学では考えられることが多いのですが、来週、代表的な「社会類型」論のひとつであるテンニースの「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」を詳しくみていきながら、そのところを考えていくことにしましょう。
それでは、また来週に。
2005年7月6日(水) 前期第11回講義
先週8つの例を挙げた社会類型論のうち、今日はテンニースの提示した「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」を詳しくみていきました。
テンニースのいう「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」は、前者は「血縁、地縁、朋友」、後者は「大都市や国家」の中で契約によって結びついた人間関係を特徴とする集団状態です。
しかし、テンニースはこの2類型によって人間関係の集団状態だけを著書の中で提示したのではありませんでした。彼は、そうした集団状態にある人間個々の「意志(精神)」がどういう状態にあるのかも提示しています。それは、集団が「ゲマインシャフト」にあるときの人間は「本質意志」によって結合されており、集団が「ゲゼルシャフト」にあるとき、人間は「選択意志」にもとづいて集団を形成していると考えられています。ここでいう「本質意志」と「選択意志」について、テンニースはつぎのように述べています。
「一定の目的のために作られる人為的な道具または機械と、動物の身体の器官系統および個々の器官との間に認められるのと同様の関係が、前者に類似した性質をもつ意志集合体――選択意志の形態――と、後者に類似した性質をもつ意志集合体――本質意志の形態――との間にも観られる」(『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』下巻p. 12)。
簡潔に言い直すならば、「本質意志」とは、動物の身体内部の器官系統や個々の器官が「生命」をもって有機的に結合しているように、人間を愛情、感情、友情によって結びつける意志のことをいいます。そういう「本質意志」を「ゲマインシャフト」の集団状態の人間は、「本質的に」備えているのです。さらに言うならば、この「本質意志」は人為的にではなく、「ゲマインシャフト」という集団が形成されるある地域の中で「自然に」作られるものであることがわかります。
これに対し、「選択意志」とは、ある目的をもって人為的に作られる機械のように、人間が契約をもとに、合理的に、自らが受け取る利益を優先させる打算的な意志のことをいいます。このような「選択意志」が「ゲゼルシャフト」集団を支えているのです。
テンニースは、こうした異なる意志を備えた人間から成る2つの人間集団は、歴史的に「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」重心を移行していくだろうと述べています。彼の社会類型の興味深い点は、集団形態の変化だけでなく、人間の精神にまで踏み込んで考察していることです。このことは、「経済学にみる共同体観」の中でお話ししたように、共有地と私有地の混合状態から「共同体」を論じた理論と比較してみると一層明確になると思います。
テンニースの社会類型の特徴はもうひとつあります。それは、「概念一覧表」をみればわかるように、彼は「ゲマインシャフト」「ゲゼルシャフト」それぞれの中で、人間のつながりが「植物的・有機的」→「動物的」→「人間的・精神的」に重点を移しながら進展していくとも述べている点です。これは講義中にもお話しした通り、A.コントの「三段階の法則」を踏まえたものです。「三段階の法則」というのは、簡単に説明をするならば、人類の知識とそれに裏付けられた人間の精神が「神学的段階」→「形而上学的段階」→「実証的段階」へと進展していくという法則のことです。
しかし、テンニースのいう、たとえば「ゲマインシャフト」における「植物的・有機的」な人間のつながりの一例である「家族」、「動物的」なつながりの「近隣」、「人間的・精神的」なつながりの「教会」の3つの集団状態と、「ゲゼルシャフト」における「植物的・有機的」なつながりの「大都市」、「動物的」なつながりの「国家」、「人間的・精神的」なつながりの「世界」は、同時に発生する可能性もある人間集団であることがわかります。つまり、コントに倣って概念に取り込んだテンニースの人間のつながりにみる3つの進展状態は、必ずしも「植物的・有機的」つながりが消滅したから「動物的」つながりが発生してくるのでも、「動物的」つながりが消滅したから「人間的・精神的」つながりが発生してくるのではないということです。すなわち、テンニースは「ゲマインシャフト」、「ゲゼルシャフト」、3段階に進展していくとした理論、の3つの概念を使って、人間の集団状態を6つに類型したとみることもできます。6つの類型の混合状態が人間の社会であると考察していたと考えることもできるのです。だから、短絡的に「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」、それぞれの人間のつながりが「植物的・有機的」→「動物的」→「人間的・精神的」につぎつぎに進展していくと考えてしまうことは危険なのです。
ここまで考察してきたテンニースの社会類型論ですが、この「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」と、先週テンニース以外の論者の社会類型論は、それぞれ集団名は異なりますが、ほぼ内容的に近い特徴を表しています。その際、気をつけなければならないのは、「ゲマインシャフト」とほぼ同様の特徴を提示しているのが、「AとB」と類型された「A」の方の人間集団です。たとえば、「軍事型社会」「環節的社会」「内集団」「第1次集団」「コミュニティ」「生成社会」「基礎社会」――でした。「ゲゼルシャフト」は「B」の人間集団とほど同様であり、たとえば、「産業型社会」「外集団」「第2次集団」「アソシエーション」「組成社会」「派生社会」――でした。もちろん、論者ごとに細かな特徴は異なりますが、「A」は近代社会以前の人間集団の特徴を指している一方、「B」は近代社会のそれを指しています。そこで、社会学では「A」の状態にある人間集団の状態を「共同体」であると考えられる傾向が強くあります。
しかし、現段階ではまだ「共同体とは何か」を追求している最中ですから、社会学理論における「共同体観」の傾向がそのようなところにある、と理解しておいてください。
来週はテスト問題を公開します。それでは、また。
2005年7月13(水) 前期第12回講義
今日で前期の講義は終了です。前期に学んだ知識は後期の講義に生かされますから、夏休み中に再度考え直す機会を作ってもらえればいいかと思います。
テスト問題についての注意は述べた通りです。みなさんの答案を楽しみにしています。それでは、また後期に。