2005年4月12日(火) 前期第1回講義
この講義では「社会経済思想史」を、「社会」と「経済」をどのように先人達が考え取り組んできたのかをたどることで追っていく予定です。
しかし主に取り上げていくのは、いわゆる経済理論のメインストリームを作り上げ補強してきた思想・考え方を提示した思想家たち(経済学者、社会学者)ではありません。どちらかというと、メインストリームから排除されてきた思想家たちにスポットをあてていきます。
なぜそうするのか――。それは、理性的な人間の利潤追求を第一目標に掲げる経済活動を支持する経済理論だけではおそらく解決不能なアポリアが、現代社会に生きるわたしたちの目の前に存在しているからです。たとえば人口問題や環境問題といったアポリアに対する深い洞察を、メインストリームから排除されてきた思想家はすでに200年前から150年前に行っています。直接アポリアに対して発言を行うことはなくとも、「人間とはいかなる存在か」という思想家ならば誰もが最終的に考える問題について、メインストリームの思想家とは異なる考えをもっていたとみることができるからです。
こうした思想家たちは、「経済」についてもメインストリームの思想家たちとは異なる考えをもっていたようです。この問題については追々考察していくことにしましょう。
講義はできるだけ翻訳された原典資料を読んでいくことを中心にして行ってきたいと考えています。資料はその場限りでしかお渡ししませんので、お休みになったときなどは友人たちにコピーをさせてもらってください。
それでは、半年がんばっていきましょう。
2005年4月19日(火) 前期第2回講義
今日はB.マンデヴィル(1670-1733)の「ブンブンうなる蜂の巣――悪者が正直者になる話」を読んでいきました。
マンデヴィルが生きた当時の人間の社会を、蜂の巣として比喩しています。何より理解していただきたかったことは、まず人間とはいろいろな感情の複合体なのであるとマンデヴィルが主張しており、さらに彼はこうした人間の特質が繁栄していく社会の大きな支えとなると考えていたということです。
詳細な解説は翌週に回すとして、今日はマンデヴィルの皮肉を存分に味わってもらいたいと思います。
それでは、また来週に。
2005年4月26日(火) 前期第3回講義
先週読んだマンデヴィルの「ブンブンうなる蜂の巣」は、それが収録されている本のタイトル『蜂の寓話』として知られています。この作品について、少し解説を加えておくことにしましょう。
「ブンブンうなる蜂の巣」という散文は、1705年に匿名で公刊されました。匿名ということもあり、内容がショッキングであっても社会からは無視されています。
1714年には『蜂の寓話』として公刊され、その中に「緒言」「ブンブンうなる蜂の巣」「序文」「美徳の起源についての考察」「注釈」(20項目)が収録されています。このときもまだ匿名でした。そのために社会からは無視されています。
1723年に再度公刊された『蜂の寓話』は、「緒言」から「美徳の起源についての考察」までは同じで、「注釈」(22項目)が項目数が増えています。さらに「慈善と慈善学校についての試論」「社会の本質についての考究」「索引」が収録され、匿名ではなく、マンデヴィル本人の名前で公刊されています。これは非常に注目をされました。
『蜂の寓話』の時代背景で必ず押さえておいてほしいのは、重商主義が世界中を席巻し、当然マンデヴィルが風刺したイギリス社会も同様だったということです。マンデヴィルはオランダ人で、医師となったあとでイギリスに帰化しています。そうした関係からもイギリス社会を客観的に考察することが可能だったのかもしれません。
重商主義とは、西欧諸国の資本主義生成期に、資本の本源的蓄積を促進することに関連した経済政策、経済思想、経済諸学説などの総称です。簡潔にいうならば、重商主義の時期は、資本主義の生産様式が西欧諸国で成立するために、商業資本によって市場拡大が促進されていた時期ということができます。
こうした時期にマンデヴィルはあるがままの人間の姿から社会を描こうとしたのです。
マンデヴィルのイギリス社会風刺で注目すべき点は、「私悪」(または「個人の悪徳」「私的悪徳」)が「公益」につながるとしたところにあります。「悪徳」とは公共のことは考えずに、何であれ自分の欲望だけを満たす行為を突き進めることです。これに対し「美徳」とは「悪徳」を行おうとする本性の衝動に逆らい、他人の利益や自らの情念の克服のために努力することです。マンデヴィルの場合、当時のイギリス社会は「私悪」こそが、たとえば政治家の巧妙な管理によって公益に変えられるなどしていると考察していたからこそ、蜂の巣の中の蜂たちはせっせと私欲と私益を追求していたのでした。
マンデヴィルのこうした考え方の根底には、経済思想のメインストリームを支えるひとつの思想である功利主義があります。功利主義については後日時間を割きますが、いまはこのように考えておいてください。すなわち、「個人の利益(幸福)」が集積されると「社会の利益(幸福)」になる――と。マンデヴィルの場合では、「個人の利益(悪徳)」が集積されると「社会の利益」になっていたのです。
こうしたことも考え合わせて、もう一度『蜂の寓話』を楽しんでみてください。
それでは、また来週に。
2005年5月10日(火) 前期第4回講義
今日はアダム・スミス(1723-90)の『道徳情操論』と『国富論』の理論的な位置づけをみていくことにします。
一般に『国富論』はメインストリームの思想を支える重要な作品として捉えられています。『国富論』の初版は1776年、以後改編が続けられ、5版が1789年に公刊されています。
しかしスミスは『国富論』よりも前に『道徳情操論』を公刊しています。その初版は1759年、以降改編が続けられ、6版が1790年に公刊されています。この状況を見ても、スミスは『道徳情操論』にかなりの力を注いでいたことがわかります。
今日お配りした『国富論』と『道徳情操論』の一部分から読みとってほしかったことは、スミスは「利己心をもつ個人」と「同感をする中立な第三者」をどのように捉えていたかという問題点です。
この問題はいわゆる「アダム・スミス問題」といわれているもので、解釈が分かれるところです。つまり、アダム・スミスがどちらに力点を置いて(イギリス)経済を考えていたかがポイントとなります。スミスが「利己心をもつ個人」の経済活動に重点を置いていたとする解釈では、利己心をもつ個人は、同時に他の利己心をもつ人間に対して、同感をする中立な第三者となるとされます。そのため、社会の中ではこの「利己心をもつ個人」と「同感をする中立な第三者」が二極化することはない。誰もが利己心をもつ個人であり、同感をする中立な第三者となりうる。つまり、利己心をもって経済活動にいそしむ個人と、経済活動で失敗をした他人に同感(同情)する個人は、同一の人間として取り扱うことが可能だとするのが、この解釈の骨子です。人間は、自らの利益を獲得するために経済活動をする一方で、市場原理から脱落してしまった他人を同情するものだというわけです。しかし、この解釈に無理はないのでしょうか。
他方、スミスがメインストリームの思想家であることから一旦離れて、なぜ『道徳情操論』を『国富論』よりも早く公刊し、さらに『国富論』を書いた上でも改編を続けているのかという点を考慮するならば、スミスは「同感をする中立な第三者」をこそ重視していたとする解釈があります。つまり、個人の「利己心」と「同感」は矛盾しないとみるのではなく、「神の見えざる手」によって導かれる「利己心」がひたすら邁進する近代社会の幕開けの時期に、「同感」をする人間像とその道徳観を描くことで、スミスは個人の「利己心」だけに翻弄されるイギリス近代社会の埋め合わせをしようとしていたのではないか。スミスはメインストリームの主流となる思想と、そこから脱落していく思想との間で、無理をしていたのではないかとも考えることができます。
スミスの二つの理論を照らし合わせることで、彼の生きた時代の近代社会がいかに経済発展に翻弄された不安定な社会であったとみることもできます。なかなか興味深い問題です。
それでは、また来週に。
2005年5月17日(火) 前期第5回講義
今日は功利主義について考えてみることにしましょう。これはメインストリームを支えるひとつの思想でもあります。
お配りした資料はJ.ベンサム(1748-1832)の『道徳および立法の諸原理序説』の一部分です。これは1789年に公刊されています。ただしその9年前に脱稿されています。アダム・スミスの『道徳情操論』が1759年初版、『国富論』が1776年初版ですから、ベンサムの著作がこれら二つの著作の初版に影響を与えたとは言うことができませんが、スミスが改編を重ねている時期にはこのベンサムの著作は公刊されることになっているわけですから、スミスも目にしている可能性はかなり高いはずです。
功利主義とは、簡潔にいうならば「個人の幸福(功利)」を集積していけば「社会の幸福(功利)」となるとする考えです。ベンサムは人間の感覚を「快楽」と「苦痛」に区別することができ、さらにそれらを点数化することが可能であるとします。つまりベンサムは個人の中に抱える感覚を点数化し、さらに個人が集まっている社会を支える感覚を点数化しようとしたのです。これをベンサムの快苦痛原理といいます。
確かに功利主義が徹底されて「社会の幸福」すなわち「公益」を計算することができるのならば、現代のわたしたちはアポリアを抱えることはなかったかもしれません。人口問題や環境問題が、経済活動に代表される「個人の幸福」を集積していった結果、「社会の幸福」とは決してならなかったために生じてきてしまった問題であることが自明となっているいま、功利主義の弊害はかなりの程度でわたしたちを襲っているとみることも可能です。
ベンサムのいう原理から、いまのわたしたちがおかれている位置や立場を考え直すようにしてみてください。
それでは、また来週に。
2005年5月24日(火) 前期第6回講義
今日はT.R.マルサスの『人口の原理』を端緒にして、マルサス(1766-1834)の近代社会論を考察していくことにしましょう。
現代、人口問題はアポリアとしてわたしたちの目の前に存在しています。しかし、特に人口増加は、たった今、人類が問題にしはじめた問題ではありません。すでに18世紀末からこの問題に関して人類に問題提起をしていた論者がいました。それがイギリスの経済学者マルサスです。マルサスは『人口の原理』という著書を1798年に公刊し、以後5回も版を重ねて人口問題に対する危機意識を人々に訴え続けました。
マルサスが提唱した最も有名な理論は、食糧が算術級数的に増加するのに対し、人口は幾何級数的に増加する――というものです。つまり食糧の増加に追いつかないほど人口が増加し続ける結果、両者はアンバランスになり、社会には「悪徳(犯罪)と貧困」が増加すると彼は考察していました。マルサスはイギリス国内の人口増加と食糧供給量のアンバランスだけを考察していたのではなく、この当時から地球全体におけるこれらの問題にも視野を広げていました。現在の穀物生産量のおかれている状況とは異なるものの、「人口」が「食糧」が不可分の関係にあるということは間違いありません。
ここで経済学が前提にする「経済的行為」を考えてみましょう。非常に簡潔な言い方をすれば、この行為は人間がいかに効率的に利益・利潤をあげるかという「目的」を遂行することにかかっています。たとえ、理論上、需要と供給の関係曲線から、「こういう場合では最大利益は獲得できない」と提示されている場合でも、裏を返せばそれも利益の最大化を目的とする理論化であることがわかります。「経済的行為」は利潤最大化という「目的」に支えられています。
では、そうした目的に支えられた経済的行為の主体は誰でしょうか。それは経済学においてはまさしく「理性的な人間」です。18世紀半ばにアダム・スミスがいう「神の見えざる手」に導かれて経済的行為をするのが、この理性的な人間です。啓蒙思想、功利主義、理性主義といった近代社会の構成原理と呼ばれるものを支えて、近代社会を担ってきたのも、この理性的な人間です。理性的な人間は、本能だけに突き動かされる動物と違って、(神によって創造されたのであるし、)理性的に正しい判断と行為をする、と確信されていました。
しかし、主にアダム・スミス以来しっかりと確立した経済学において、そうした理性的な人間という経済学の前提に疑問を持つ論者もいました。それがマルサスです。彼は理性的な人間ばかりがいるイギリス社会では本来発生するはずのない社会問題に着目します。それが人口問題でした。18世紀末、イギリスは産業革命の成功という光の部分とはまったく逆の闇の部分にも悩まされていました。人口の増加、救貧区の増員・増加、犯罪の増加などです。まず、次世代の人間は理性以外の情念をもたないと生まれてこない。もし、人間が理性的であれば、どうしてその情念を制御して人口増加に歯止めをかけることができないのか、マルサスはこう『人口の原理』で問題提起しました。貧困、犯罪、都市化、環境問題の悪化・・・、人口増大を根本的な原因として発生してくるさまざまな社会問題が地球上にあることは、今日の私たちならば正しく実感することができるはずです。マルサスが18世紀末に提示した問題は、いまなお生き続けているといえます。
マルサスはメインストリームから脱落した経済学者として捉えられることがしばしばです。人口と経済の問題は、経済学にしてみれば経済が発展していけば増加する人口を養うだけの国力を蓄積することができるとして、解決済みの問題として扱われてきたからです。マルクスがマルサスを批判したのはこの観点からです。しかし、本当に人口と経済の問題は解決したのでしょうか。このようなことも考えながら、マルサスの論理を理解していってください。
それでは、また来週に。
2005年6月7日(火) 前期第7回講義
今日はマルサスと親友であり論敵でもあったD.リカード(1772-1823)との論争から、マルサスの先見性を考察していくことにしましょう。
穀物法論争(1813-15)は、従来つぎのように解釈されてきました。フランスからの輸入穀物価格がイギリスにどのような影響を及ぼすかという問題について、リカードが資本家を擁護して、安価な穀物によって労働賃金と生産コストの低下、生産利潤の上昇を主張し、マルサスが安価な穀物が輸入されることで打撃を受ける地主階級を擁護した、と解釈されています。
もともとイギリスは穀物輸出国でした。それが1760年代頃から輸入国に転じています。主に大陸フランスによって維持されてきたイギリス国内の穀物価格の安定は、1793年の英仏戦争が勃発し、フランスからの穀物輸入が困難になると、国内の穀物価格が高騰し、不安定となってしまいます。この時期、たとえばイギリス国内では生産性の低い土地などに対しても耕作が行われるなどして、1813年には一時的に豊作にもなります。ナポレオンの大陸封鎖も、その敗勢によって徐々に解かれるようになり、イギリスには再び輸入穀物が供給されるようになります。
穀物法はイギリス国内の穀物市場における国産穀物の独占・優位を目的とするもので、もともと1773年に制定され、1791年、1804年に改正法が制定されています。穀物法論争としては、1813年から報告書が作成され、1815年から議会で審議されています。その結果、1815年には国内穀物価格1クォーターあたり80シリングまでは輸入穀物の全面的な禁止が決議されています。マルサスが事実上勝利をしたわけです。しかし1846年にはこの穀物法は撤廃されています。
さて、この穀物法論争において、マルサス、リカード双方の主張を検討していくならば、それは以下のとおりになります。
マルサスが穀物法に反対したのは、その法律が労働賃金に影響を及ぼすというよりも、国内農業を疲弊させてしまうと考えていたからです。彼がもっとも恐れたのは、安価な輸入穀物が国内に流入することで、長期的にイギリスの農業が衰退し、輸入穀物に完全に依存してしまうことでした。しかし当時すでにイギリスは商工業において繁栄を遂げていて、歴史をさかのぼって穀物輸入国に戻るわけにはいかない。だから、少なくとも「自給」を掲げることによって、マルサスは穀物自由貿易の制限を検討しようとしていたと考えられます。彼の穀物輸入論争のリーフレットの中には「安全は富よりも重要である」との文言もあるくらいです。
他方リカードは、国防は不要であるとしていました。その理由はイギリスと貿易関係にある国々において、国際分業が成立しているからです。穀物価格の低下→賃金の低下→利潤の増大→蓄積の促進→高度経済成長→雇用の増大・賃金の上昇――この流れで、輸入穀物を活用することでイギリス国内の商工業はさらに繁栄していくと、リカードは考えています。
また、リカードにとってマルサスの懸念した「人口」は完全に操作可能な従属変数でした。市場の需給関係と賃金を操作し、利潤追求をすることで人口問題は解決されるとしていたからです。そのため、下層労働者階級の幸福や過剰人口から発生する貧困・犯罪といった社会問題は二の次とされていました。
マルサスが穀物法に反対をしたのは、リカードほど楽観的に国際分業体制と国際治安問題を並列して考えていなかったからです。いざ戦争が勃発すれば敵国に食糧を供給する国などあるはずはないことはいうまでもありません。商工業の発展は、自国の需要をまかなうだけの穀物生産を維持しながら行うべきだと、食糧自給経済を唱えたのがマルサスでした。このマルサスの指摘は、現代の食糧事情に照らしても、中国が食糧輸出を一切しなくなるとどうなるかということを考えれば、その重要性は認識されるのではないでしょうか。
それでは、また来週に。
2005年6月14日(火) 前期第8回講義
今日は小テストを行いました。問題は「これまでの講義でわかった、経済思想のメインストリームから脱落してしまった考え、思想の重要性を解説しなさい」でした。答案をつけていて感じたことは、メインストリームの特徴を併記しつつ、傍流となってしまった思想家たちの重要性をうまく記述していった人の答案が説得力があるということです。メインストリームなのか傍流なのか――についての別れ道は講義で再三述べてきたところですので、ここらへんでもう一度きちっと整理し直しておいてください。
それでは、また来週に。
2005年6月21日(火) 前期第9回講義
今日からH.スペンサー(1820-1903)の思想を考察していくことにしましょう。お配りした資料は短い論考「進歩について」でした。
スペンサーの著書はほとんど日本では翻訳されていません。ですから、お配りして資料にしても、彼の思想のほんの片鱗しかうかがうことはできません。スペンサーの体系的な思想については拙著を参照してみてください(挾本佳代『社会システム論と自然――スペンサー社会学の現代性』法政大学出版局、2000年)。
スペンサーの社会システム論は「社会有機体説」と呼ばれるものです。「社会」は「有機体」であると主張されたこの社会システム論は、いまから150年ほど前に提唱されたものであることがクローズアップされて論じられるあまり、洗練されていない稚拙なものであると偏見をもたれることが往々にしてありました。しかし、「社会は有機体である」との発想は、今日の生物学的知見にもとづくならば「社会は生命システムである」ということを意味しているのです。スペンサー自身の言葉でいうならば、社会は「有機的世界を通じた緻密な統合」をなしているのです(『生物学原理』)。つまり、スペンサーの社会有機体説は今日の生物学的知見を正しく射程におさめて論じられたものであったと考えられます。
スペンサーはなぜ19世紀半ばにして、今日の生物学的知見を予想するかのような社会システム論を論じることができたのでしょうか。それは、彼が人間社会と「自然」の在り方を深く追求し、進化論を基礎とした社会学を構想し、社会を捉えようとしていたからです。
今日「自然」を追求するためには進化論が不可欠であると言うことができます。なぜならば「自然」とは何万種もの生物種を包摂する全体を指す概念であるはずであり、「自然」を追求するということは同時にそこに生きる生物種を追求することに他ならないからです。46億年前に生まれたとされる地球上で、38億年ほど前に生命体が誕生しました。その生命体が長大な時間をかけて様々な生物種に多様化し、その一種として人間が存在しているわけですが、生物種の多様化の歴史を辿る上で不可欠なのが進化論なのです。
進化論というのは神の存在を否定することなくしては成立しない考え方です。旧約聖書で描かれる創世記では、神の似姿の人間がまず創られます。他の生物よりも先にです。しかし現実は、ホモ・サピエンスが生物進化の途上で誕生したのは一番最後であることはいうまでもありません。「サルから人間に進化した」というのは生物進化的にも正しい言い方ですが。西欧社会を作り上げてきた根幹部分の思想では、この考え方はなかなか受け容れられませんでした。それはバチカンがいまだに進化論を全面的に受容していないところからも明らかです。西欧社会は、人間とサルとの間に決して越えられない溝をもうけて、人間社会を他の生物社会とは隔絶したものと考えてきたのです。特に19世紀半ばはそうでした。
スペンサーの思想における「社会」の考え方は、人間は人間だけで生きているのではない、との発想にもとづいています。人間は人間以外の生物を摂取しなければ生きていけないのならば、人間が世界で超越した存在であるはずがないとスペンサーは考えていたはずです。この考えを思想的に裏付けていたのが、進化論だったのです。
来週はこの19世紀半ばにしては特異な、しかし今日的には至極当然な、社会に関する考え方をもっていたスペンサーの思想を、「個性」という観点から現代社会に照らし合わせて考えてみることにしましょう。
それでは、また来週に。
2005年6月28日(火) 前期第10回講義
今日はH.スペンサーの思想と現代社会をリンクさせながら考察していくことにしましょう。キーワードは「個性」です。
お配りした資料は、スペンサーの『社会学原理』(1876-96)の一部分です。「究極的な人間とは、その個人の要求を公共の要求に一致させた人間のことであろう。彼は自発的に自らの個性を達成する中で、結果的に社会の単位としての機能も果たしている人間であろう。しかし、他のすべての人間が彼と同様にすることによってのみ、彼は独自の個性を達成することが可能になるのである」。
このスペンサーの主張はどのように受け止めればいいのでしょうか。「究極的な人間」は「個人の要求」と「公共の要求」を一致させた人間であり、「個性」を達成させている人間のことのようです。しかし、一人だけがこうした「究極的な人間」になればいいのではないことがわかります。ここでスペンサーがいう「個性」とは、一人だけが得られる突出した特質ではないことがわかります。この理由を考えていくことにしましょう。
例えば、私たちがどれだけのシステムや制度に取り囲まれて生きているかを考えてみてください。実にさまざまな制度やシステムが現代社会には存在しています。社会保障制度を考えてみてください。この制度だけでもいくつもの保険・年金・福祉制度が網羅されています。しかし、こうした制度はそれだけで綻びがない、完璧なものであると言えるのでしょうか。私たち人間は、ひとつの制度(システム)で解決できなかった綻びを別の制度(システム)で補おうとしてはいないでしょうか。制度(システム)の綻びという問題は、新たな制度(システム)をつぎつぎに設定することによって回避され解決されるのでしょうか。この制度(システム)の鼬ごっこのような悪循環は永遠に続いていってしまうのではないでしょうか。
私たちの現代社会は国家を擁しています。この国家を制度(システム)の集大成であると見るとき、果たしてさまざまな制度(システム)が細部にわたって設定され、それらが相互に作用し合ってさえいれば国家は完璧なものになるのでしょうか。
この問題に疑問を投げ掛けたのが、これまでお話ししてきたスペンサーです。
スペンサーは晩年に公刊された『人間対国家』の中で、彼の生きたヴィクトリア後期の国家体制に対して痛烈な批判を行っています。
工場法は当初繊維工業だけに特定されていたのが、半世紀の間に拡大適用されるようになり、非常に広い範囲の産業において実施されるようになりました。しかしこうした状況をスペンサーは快く受け止めてはいませんでした。なぜなら、どの産業に属していようが工場法を制定する政府によって、人間は「画一的な労働者」にしつらえられてしまうからです。工場法は名目上は労働者の権利・主張を擁護する保護立法であると解されることが多いのですが、スペンサーの目には労働者に対する国家干渉の拡大として映っていました。『社会静学』以来人間の個性を強く尊重すべきだと主張してきた彼にとっては、「画一的」な存在に人間が強制的におかれるのは、ゆゆしき事態だったのです。
ヴィクトリア後期は「改革の時代」とも称されるように、1860年以降に組閣された自由党内閣によって数多くの法令がつぎつぎに制定されていった時代でした。スペンサーはつぎのようにその一例を挙げています。「1870年には、公共事業委員会に地主制を改革し小作農の土地購入を可能にする権限を付与する法令が制定された。学校用地を購入する学校委員会を設置する教育局を設定する法令が制定された。この法令は地方税によって無料で〔委員会〕学校を提供することによって、学校委員会に児童の授業料を払わせ、両親に児童を通学させることを可能にするものであった。果物缶詰工場と魚の塩漬け工場での女性と児童の雇用に関し、さらなる制約が加えられた工場法が制定された」[『人間対国家』、挾本(2000):268-7]。「改革の時代」の象徴は、工場法と教育法の制定に見ることができます。
特にこの時代に制定された工場法は、現在の私たちにも関係する労働法の基礎となったものです。現在、国会で制定されている法令の数の方がヴィクトリア後期に比べると勝っているかもしれません。しかし、法令がつぎつぎに制定され、人間が知らないあいだに数多くの制度やシステムに絡め取られていっている、その状態はヴィクトリア後期も現代も何ら変わりはありません。こうした状態は、私たち「人間の個性」や自由を束縛するものとなってはいないでしょうか。
この『人間対国家』におけるスペンサーの主張は、現代教育の問題点の核心部分を突いているといえるのではないでしょうか。「個性を尊重する教育」をいまの小学校や中学校では目指そうとしていますね。みなさんには、そのような目標を掲げなければならなくなってしまった、そもそもの社会的原因がどこにあったのかをよく知ってほしいと思います。
当時の教育法についても、スペンサーは同じような主張を繰り返しています。初等教育が実施されるようになると、児童を幼い頃から画一的な教育制度の中に入れ込んでしまい、やはり個々の個性がつぶされてしまうのではないか、とスペンサーは主張しています。また、工場法と教育法がつぎつぎに制定される事態から、ヴィクトリア時代をスペンサーは「奴隷制到来」の時代と述べています。個々の人間が国家によって個性を押しつぶされるのは、人間が「奴隷」に成り下がったとしか考えられない、というわけです。
このような制度をつぎつぎに人間に対して課していく政治家に対し、スペンサーが不信感を抱いていたとしても何の不思議もありません。人間本来の在り方を追求してしまった彼にとっては、ヴィクトリア時代の政治家が国家権力に振り回されて、自らの欲望だけのために邁進する存在に映っていたからです。しかし、その当の政治家が行っている法律制定といった政治活動も、巨大な国家というシステムの前では微々たる影響しか与えることはできないのです。
晩年に執筆した『人間対国家』の中で、人間が巨大な国家というシステムによって、その個性を抑圧されているような事態を、何よりもスペンサーは危惧していました。彼は将来的にこうした事態がさらに悪化すると睨んでいたからです。
「個性」の問題としては、スペンサーだけでなくマルサスも別の観点から考えていたことがわかります。アダム・スミス以来声高に叫ばれてきた「利己心」の尊重は、商工業の発展と引き替えに一体何を人間にもたらしたのか。それは農業を中心とする生業に携わっていたときに人間に備わっていた万能性を商工業が奪い去り、工場などをはじめとする人工システムの中の1パーツとしての役割だけを求められることではなかったのか。この事態は「豊かな個性」とは正反対の状態なのではないか。マルサスが自給経済を掲げ、たとえばフランスと戦争をしてもイギリス国民がこびへつらうことなく尊厳を保って生きていくことを主張したのは、「個性」の観点からでもあったことがわかります。
いまのわたしたちの社会の中で「豊かな個性を」と叫ばれるのは、よくよく考えてみれば、もうとうの昔に喪失してしまっている「個性」を築くだけの基盤のないところで、無理矢理、取り繕うために行われているのだということがわかります。しかし現代社会はもうそのようにしか主張することができなくなっている社会であることも事実なのです。メインストリームでは「個性の喪失」など考慮さえされていないことも考えれば、スペンサーやマルサスがいかに先見性があった思想家であることもわかるでしょう。
それでは、また来週に。
2005年7月5日(火) 前期第11回講義
今日は「経済」について、人類学の立場から考えてみることにしましょう。お配りした資料はエヴァンズ=プリチャード『ヌアー族』(1940)の一部分です。エヴァンズ=プリチャードはイギリスの社会人類学者です。フィールドはアフリカのスーダン共和国南部。そのナイル川とその支流の流域の平原に住む牧畜民がヌアー族(またはヌエル族)です。
DVD-ROM版『世界大百科事典』(平凡社)によれば、「経済」とは「衣食住など物在の生産・流通・消費にかかわる人間関係の全体である」とされています。現代社会でこの意味に照らして「経済」を考える場合、わたしたちは市場を中心とした市場経済をイメージすることがほとんどでしょう。
しかし、この『ヌアー族』から理解されるヌアー族の「経済」は、決して市場経済ではないことがわかります。これは単に1940年以前の調査結果だからという時代背景だけで片づけられる問題ではありません。なぜならば、いまなおたとえば東アフリカに住むボディ族などもヌアー族と同じような生活をしているからです。
資料からもわかるように、ヌアー族は牛とともに生きる人々です。牛は環境に依存する度合いが高い彼らにとって、生活の糧であるだけでなく、彼らの生活全般を支える役割を果たしています。成人式や結婚式などといった儀礼にはもちろん、法的な争いの場においても複雑な議論は、牛の色や年齢や性別などの「牛についての難解な用語」を駆使してはじめてなされうることがわかります。先の「経済」の定義にしたがうならば、「人間関係の全体」という部分に当然牛が組み込まれていることになります。
こうしたヌアー族の「経済」はどう考えても、市場経済ではないことは自明です。経済思想のメインストリームが支持したのが市場経済であるとするならば、メインストリームから脱落してしまった思想が支持しようとしたのが(各論者ごとに一様ではなかったにしても)市場経済でなかったことは確かです。そうであるならば「経済」という言葉はよく考えて用いなければならないことがわかります。市場経済を否定するということではなく、「経済」が一様な現象・活動ではないということを踏まえた上で、いまわたしたちがアポリアとして抱えるようになってしまった諸問題を考察し直すことが必要だと思われます。
大変大きな問題ですが、このことも合わせて社会経済思想を考えていってほしいと思います。それでは、また。
2005年7月11日(月) 前期第12回講義
今日はこれまでの講義をキーワードを取り上げながら、まとめていきました。いま一度、経済思想のメインストリームとそこから脱落した思想家の考えを対比させながら、市場経済にはそぐわない「経済」の考え方を提示しつづけた思想家の重要性を検討してほしいと思います。
それでは、また。
2005年7月12日(月) 前期第13回講義
今日で前期の講義は終了です。公開したテスト問題に対する注意を踏まえ、テストに臨んでください。みなさんの答案を楽しみにしています。
それでは、また後期に。