2005年4月15日(金) 前期第1回講義
この講義ではわたしたちの社会をシステムとして捉えていきます。その上で、システムの中に生きるわたしたちの問題点を探っていくことにします。
来週からシステムの定義など、みなさんに少しずつ覚えてもらっていかなければならない事柄が出てきます。ひとつずつこなしていってください。
それでは、また来週に。
2005年4月22日(金) 前期第2回講義
今日はこうした「システム」という言葉の使い方を踏まえて、「システムとは何か」というところから考えていきましょう。
まず、「各々異なった働きを持つ複数の構成要素が全体としてある一定の作用を実現するようなもの」をシステムと呼ぶことにします。各要素の持つ「働き」を「機能」と呼ぶことができます。この場合、各要素がどのように組み合わされているかを表現する言葉は「構造」です。
この結果、システムには構成要素間にシステム特有の階層性があり、同時に全体性があります。このような事実は、意識化されているかどうかは別にして、非常に早い段階から、おそらく未開時代から知られていたはずです。部族内に老齢の酋長がおり、男と女と子供がいる。酋長がいわゆるまつりごとを取り仕切り、部族内の人間はそれに従う。ここにも部族というシステムに階層性があることがわかります。
構成要素が人間であるか、生物であるか、無機物であるか、人工物であるか、などに従って例を挙げれば、規律によって行動する軍隊、個体が集合して生きる生物群、地質的造形、機械器具などはすべてシステムであるといえます。
もちろん、社会もシステムです。
上記の意味において、社会を「社会システム」であるとしましょう。
先に「各々異なった働きを持つ複数の構成要素が全体としてある一定の作用を実現するようなもの」をシステムと定義しました。では、この定義を踏まえている「システム」はすべて同質であるといえるでしょうか。
例えば車とASIMOと人体の3つを比較してみてください。いずれも何万個もの構成要素からなる精巧な「システム」です。またいずれもひとつの全体として一定の作用を行っています。
この3つのシステムの比較において考慮しなければならない問題は、それらが〈生命〉をもっているか否か、です。〈生命〉に照らして考えてみるならば、先の車とASIMOには〈生命〉は備わっていません。たとえASIMOが本当の人間の子供のように愛くるしい仕種を飼い主である人間にしたとしても、です。車とASIMOはエンジンやスイッチを入れなければ作動することはありません。そのエンジンやスイッチを入れるのは人間です。車とASIMOは人間というその「システム」以外の何者かによって起動させられるシステムです。ここまで書いてこれば、生きている人体は車やASIMOと同質のシステムであると見なすことはできないでしょう。人体は一日の始まりと終わりをスイッチによって管理されているわけではないし、眠っている時にも呼吸をして常にその「システム」は動いているからです。
どうも「システム」は「人工システム」と〈生命システム〉に大別しておかなけれならないようです。両システムの違いは、以下の3点に集約することができます。
1)「人工システム」が「部分を集めてひとつの全体とし、ある全体としての作用を与えることができるもの」であることに対し、〈生命システム〉とは、そのようなことができない「システム」である。
2)「人工システム」のシステムと構成要素は「人間によって目的を与えられ、作られたもの」であるのに対し、〈生命システム〉のシステムと構成要素は「自然によって作られ、宇宙の法則に従うもの」である。
3)「人工システム」は「人間の知的な構想力にもとづき短時間で出来上がるもの」であるのに対し、〈生命システム〉は「自然のもつ悠久の時間をかけて作られてきたもの」である。
特に〈生命システム〉に注目して、上記3点を解説してみましょう。
1)′〈生命〉がバラバラの肉片を寄せ集めれば生まれてくるものかどうか、または人体を構成している必要不可欠の栄養素であるタンパク質や炭水化物・・・を集めて固めさえすれば生まれてくるものかどうか――と考えてみると明白になるでしょう。
2)′〈生命システム〉における個々の構成要素は、胚からの生物の発生の際に見るように、細胞分裂により異なる器官に形成されていく過程を経て、やがて異なる働きを持つようになります。同じように、生物種の多様性は(まだ特定されていませんが)古細菌からの系統発生によって形成されたと考えられるようになりました。つまり、〈生命システム〉の構成要素の機能は、最初から決定されているものではなく、その進化過程において作られていくものなのです。
3)′〈生命〉の起源を生物学的知見にもとづいて遡っていくならば、それはおよそ38億年ほど前に生命体が誕生したと考えられています。2)と関連しますが、〈生命〉は38億年という時間をかけて、現在地球上に存在する何百万とも何千万とも言われる種へと多様化していったのです。
「システム」は「人工システム」と「生命システム」に二分されます。それぞれの特質は列挙した通りですが、それでは「社会」はそもそもどちらのシステムであり、そして社会学ではどちらのシステムであると捉えられてきたのでしょうか。それは次回講義することにしましょう。
「ドラえもんはどちらのシステムですか」「遺伝子組み換え植物はどちらですか」「クローン人間はどうですか」――。いつもこのような質問がきます。どうぞ講義で話を聞きながら、身近に起こっている社会問題に惹きつけて、講義の話を頭の中で展開していってください。これらはどちらのシステムだと思いますか。今日の話の内容からするとどうなりますか。私たちの社会はどちらのシステムだと峻別することなくきてしまったために、特に生命倫理、生命システムに関する社会問題を引き起こしているのではありませんか。・・・などなどということを前期のあいだでしっかりと考えていってください。それが最終的にこの講義も目的でもあるのですから。
それでは、また来週。
2005年5月6日(金) 前期第3回講義
少し復習をしましょう。先週、社会がシステムであるとお話ししました。その「システム」とは、各々異なる機能をもつ構成要素が組み合わさって、全体としてある一定の作用をするものでした。
また、「システム」はその本質を突き詰めるならば、人工システムと〈生命システム〉とで峻別しなければならないものでした。AIBOと犬は、単に「共にシステムである」と言及するだけでは不十分でした。前者は人間がスイッチを入れなければ動かないし、後者は人間がどうこうすることができない〈生命〉を持っているからです。ここまではいいでしょうか。
〈生命システム〉に関し、注意しなければならないことがあります。それは、〈生命システム〉とは1個の生命体のシステムを指すだけでなく、同時に多数の生命体がひとつの全体として作り上げているシステムをも指すということです。たとえばある土地の生態系を考えてみてください。バクテリアに始まって、さまざまな昆虫や、その昆虫の住処や餌となるさまざまな樹木、草といった植物があり、その植物がつける実を食べるさまざまな動物があり、そしてその動物を食べる人間がいる。何十、何百種類もの生物がひとつの土地に、関連し合って生きています。
しかし、こうしたある土地の生態系が破壊されてしまうことが往々にあります。森林伐採や座礁した船舶から流出したオイル流出によって環境汚染が進み、生態系を担う一部の生物に直接的な支障が起こるや、連鎖反応的に間接的な支障が次々に起こり、徐々に生態系全体に影響が及んでしまうこともあります。たとえば、諫早湾が封鎖されてしまって、貝やムツゴロウや鳥に影響が出ていることがよく報道されていましたけれども、それはほんの一部の生態系の支障にすぎないのです。だって、諫早湾を中心に海苔養殖をしている漁師の人たちの生計にも大きなダメージが与えられているくらいですから。この諫早湾にしても、明らかにその生態系は病気になっていると言うことができるのではないでしょうか。
ということは、ある土地の生態系は病気になり破壊することもあれば、回復する途中であることもあれば、うまく循環していることもある。つまり、生態系という時には、その土地に棲息する個々の生物はもちろん、それらが全体でどのように「共生」しているのか、も考えられていることがわかります。同時に、「システム」という観点から生態系を考えるならば、1個の生物も〈生命システム〉をもっており、その生物の群体からなる生態系もそれ全体で〈生命システム〉を成しているということになります。つまり、非常に大きな観点から見るならば、地球もそれ1個で〈生命システム〉であると言うことができるのです。
では、言葉の意味から「社会」を考えるのではなく、その状態から「社会」をイメージしてみることにしましょう。次の3つの中で、どれが一番「社会」に近いでしょうか。
1)積み上げられた色とりどりのつみ木。
2)メダカの群れ。
3)様々な部署が関係し合って、成り立っている総合商社。
1)は突発的な力が加わると、すぐにでも崩壊してしまいそうですね。そしてまた誰かに積み上げてもらわなければなりません。なぜなら、色とりどりのつみ木は無機物だからです。つみ木が自主的に積み上がることはありません。
2)のメダカの群れは、きっちりではないけれど何となくまとまりながら、スイスイと小川を泳いでいっているように見えます。たとえば小川の中で、1匹のメダカだけが別の方向を向いて泳いでいってしまっているケースをあまり見かけることはありません。天敵が襲ってきて、泳いでいく方向を変えなければならない時には、群れ全体でその方向を変えます。個々のメダカから成る群れはあたかも生きているかのように動いています。
3)の総合商社は、多数に分化した部署が会社全体の経常利益を増大させるために、互いに関係し合いながら切磋琢磨しているところです。総合商社をはじめ会社組織は、定款という規則によって、その目的や活動などについて定められています。多数の部署には多数の人間が属しています。しかし総合商社はそこに属する人間の目的や欲望の追求に一切関係のない、定款に従って経営されています。つまり定款がなければ、そこで働く人間の存在いかんにかかわらず総合商社は存在することができないのです。
1)は一番「社会」とはかけ離れたものでしょう。積み上げられている1個1個のつみ木は〈生命〉がないですし。
すると2)と3)が残るわけですが、3)において定款の存在を考慮に入れるならば、総合商社はたとえどんなに相互の部署が関連し合っていたとしても、定款によって会社の存在如何が拘束されている限り、人間の「社会」と呼ぶには不十分であると言わざるを得ません。しばしば「会社は社会の縮図のようなものだ」と言われることがありますが、それは個々の部署での人間関係の在り方が、会社よりも広域な地域社会などにも援用されうる場合が多いということを意味しているのに相違ありません。
3)のメダカの群れが結果において残りました。メダカの群れを「社会」と見なすことに違和感を覚えますか。別にこのメダカは、「社会的昆虫」と呼ばれるミツバチやアリに置き換えても構いません。それとも、人間以外の生物に「社会」が存在するとの言及に違和感を覚えるでしょうか。
1個のメダカはもちろん〈生命〉をもっています。同時に1個のメダカは群れを成して、他のメダカと関係しながら群れの中で共生しています。この群れは自然環境が整えば、メダカ個々の繁殖活動を通して大きくなることも、またその結果いくつかの群れに分化することもあります。群れを成していることでメダカは天敵からその身を守り、種を存続していくことができるのです。それとは反対に、メダカの生存に適さない自然環境に見舞われると、この群れ全体は絶滅してしまうこともあるのです。
つまりメダカの群れは1個体のメダカ同様、〈生命〉をもっていると考えられます。〈生命〉をもっているからこそ、上に述べたようにメダカの群れは自然環境と絶妙な調整を行い、そして種を存続・維持していこうとするのです。
これまでみてきたように、「社会」とはその構成員が人間であろうが人間以外の生物であろうが差異なく、それ全体でひとつの〈生命〉をもち、存続・維持されていくものであるということができます。人間もホモ・サピエンスという生物の一種です。ならばどうして人間だけが他の生物と全く違う形態の「社会」を営んでいると断言することができるのでしょうか。確かに人間の「社会」も生物界に包摂されており、その生物界全体は1個の〈生命システム〉を成しているのです。
「社会」は〈生命〉と密接な関係をもっていることがわかりました。ここで〈生命〉について一度考えてみるならば、それは「個」としても「群」としても観察することができます。例えば、先のメダカでいうならば、一匹のメダカも生きているし、メダカの群れも生きている。また、人間が生きているという時には、人間の身体を構成する個々の細胞も生きているし、それから成る身体全体も生きているのです。人間の〈生命〉の在処を細胞にあると考えるのか、身体全体にあると考えるのか。〈生命〉とは、このいずれかが真実であるのかと問うこと自体が質的になじまない存在です。
これからの講義では、この人間を含む生物が生きているという紛れもない証拠である〈生命〉に注目しながら、「社会」をより深く考えていきたいと思っています。今日は、これまでみなさんが持っていた「社会」という考え方がバラバラになってしまったかもしれません。しかし、それでいいのだと思います。新しい考え方や新しい視座を得て、ご自身なりのものの考え方や見方を構築していってほしいと思います。今日はその第一段階として、既存の基礎を壊したと考えてみてはどうでしょうか。この第一段階を恐れることなくやり遂げた方の方が、例年、テストなどでは見事な解答を寄せてくれることになります。がんばってください。
それでは、また。
2005年5月13日(金) 前期第4回講義
ここでこれからの講義でも何度も繰り返して出てくる用語について、ひとつ定義を行っておきましょう。〈生命〉に関連し、個体の生存様態を主として指す時には「個相」という言葉を用います。同様に群体の生存様態を主として指す時には〈群相〉という表現を使用します。先日言及したメダカの群れが全体として生きているその状態を表現するのが〈群相〉です。つまり〈群相〉とは「社会」であると言うことができます。これは参考書として挙げている拙著『社会システム論と自然』で定義しています[挾本(2000):183]。
簡潔に、私たちが〈群相〉に着目する必要がある理由を述べるならば、そもそも社会とは1人1人生きている人間が集まり、そして生活している状態をこそ念頭におく必要があるからです。そうすることによって、私たちは、人間が生きている状態そのものを捉えることができるからです。もちろん、ここには人間が人間だけで生きているのではないという生物学的観点からの見解も含まれます。また同時にそこには、人間が人間同士様々な行為をし、コミュニケーションを行っているという社会学的観点からの見解も含まれています。
復習もかねて、もう一度考え直してみましょう。「メダカの群」とかなり突飛にも思える例を挙げて説明した〈群相〉概念も、よくよく考えてみれば納得のいく社会についての考えであることがわかります。「メダカの群」そのものが〈自然〉から影響を受けて、その規模を大きくしたり小さくしたりすることが、人間社会ではどうなるか・・・ということがすぐ思い浮かばないかもしれません。どうですか。例えば、私たちが未開民族で焼き畑農業と狩猟を半々で行って生活を営んでいるとしましょう。5つの家族でそれぞれ6人ずついる。30人規模の集落だとします。
ある年は、天候もよくタロ芋やヤム芋が豊富に採れ、小動物を捉える狩猟もまあまあ上手くいったとする。こういう時は、5つの家族はまず食糧に困ることは何もなく、さらに子供の数が増えていくことさえある。増えた子供に対しても食糧が豊富にあるから、子供を餓死させることもない。各家族の規模が大きくなったことによって、5つの家族が2つと3つの家族に分かれて、少し離れた別の地域で生活していくこともありえます。離れた地域に住むことによって、それぞれの集落で別の言語を話すようになることも、こういう契機から発生することもあります。
この年とは反対に、大干魃に見舞われ、タロ芋やヤム芋はほとんど全滅し、小動物もポツポツにしか獲れないとする。こういう時は、5つの家族全員が同様に食糧危機に見舞われますね。幼い子供や女の中には餓死者も出てくる。そういう時こそ30人規模の集落だと何とか生き残っていこうと知恵を絞り出すものなのだけれど(雨乞いをしたり、祈りをしたり・・・)、その祈りも虚しく、全滅してしまうこともあり得る。これは〈自然〉の力の前に、ただ為す術もなく人間が無力でいるという典型的な例です。
人間からなる集落であっても、メダカの群同様、〈自然〉に大いに影響を受けて、その規模を拡大したり、縮小したり、果ては崩壊したりすることだってあるのです。なぜなら、生物はみな〈自然〉に包摂されて生きているからです。これは別に未開社会だけに限らないことは言うまでもないでしょう。大型の台風に見舞われた村落に川が決壊したりして大洪水を引き起こし、その村落を水浸しにしてしまい、数年経ってもそこに人間の集落が再び復活することがない地域だって、過去の日本にはいくつもあったのですから。
では、社会は〈群相〉であると明確に提唱した社会学者はいたのでしょうか。それは、来週講義することになるハーバート・スペンサーが第一人者であったと言うことができます。しかし、それ以後具体的に彼と同じ観点から〈群相〉概念を説いた社会学者は不思議なことにほとんど存在していない、と言わざるを得ません。
ではなぜ社会は〈群相〉であると、スペンサー以降の社会学者は社会を捉えることができなかったのでしょうか。いえ、なぜ彼らは社会をそのように捉えることをしなかったのでしょうか。
ここで少し社会学理論史を紐解いてみたいと思います。
社会学において社会の捉え方には概ね2つあると考えられてきました。ひとつが社会実在論であり、もう一つが社会名目論です。
社会実在論とは、全体としての社会は、その構成員である諸個人には還元することができない、個人を越えたひとつの実在であるとする考えのことです。非常に簡潔に言うならば、「社会というものが存在する」という考えです。これは社会システム論の基礎となる考えでもあります。社会学説史という社会学の一領野において、来週講義する〈群相〉概念を提示したスペンサーの社会有機体説も、この社会実在論であると考えられ分類されています。この社会実在論は、社会を捉える上では、方法論的集合主義を採るとも言われることがあります。
社会名目論とは、社会の実在を認めず、社会を構成員の諸個人の相互関係や行為に還元する考えのことです。同様に非常に簡潔に言うならば、「社会という1個の実在はなく、あるのはその構成員の相互関係と行為だけだ」とする考えです。これは(社会的)行為論の基礎となる考え方です。社会学説史上において、たとえばマックス・ヴェーバーの行為論などがここに分類されます。この社会名目論は、方法論的個人主義を採っていると言われることもあります。
19世紀半ばの社会学の黎明期において提唱されたのは社会有機体説という社会システム論であり、社会を〈群相〉と捉えようとする考え方であったのです。しかし、時代の流れは社会を構成する各構成員の目的や行為を分析するいわゆる行為論へシフトしていくことになります。「社会があるか、ないか」という観点よりも遙かに身近に感じられる人間の行為の方に、より信憑性があると考えられたからでもあるのかもしれません。「社会」は目に見えないけれど、人間の行為は目に見えるから、ということもあったのかもしれません。人間がどんな目的をもって、どのように行為をするか、そしてその分析が結果的に人間の相互行為の総体であるとされる社会の秩序維持に役立つと考えられたからかもしれません。
しかし、ここで注意をしてほしいのが、行為論で考えられている人間は、まず第一に「ある目的をもって行為する人間」が前提とされているのであって、そこには「血の通った生物としての人間」は重点的に(ほとんど)考えられてはいないということです。行為論の立場からするならば、「生きている人間」を行為の主体とすることは暗黙の了解事項として取り扱われているのかもしれません。けれど、行為とワンセットで目的が論じられる以上、このように言い換えてもいいかもしれません。行為論で必要とされているのは、「目的をもって行為するサイボーグ」であっても十分理論的には可能なのだ、と。
わたしは、人間が目的を持って生きるということを批判しているのではありません。もちろん人間は、ある社会の中で「出世したいから」とか「お金持ちと結婚したいから」という「社会(学)的な目的」をもって生きている状況は十分にありえると思っています。けれど、ここで生物を考えてみてください。生物は目的をもって生きているでしょうか――。「人間とは同じ目的をもってはいない」と昨今の生物学では解釈されています。来週はこの問題から始めることにしましょう。
今日はかなり難しかったかと思います。でもわたしたちが持っていると考えられている「社会」の成り立ちを考えているくだりですから、ちょっとぐらい難しいのは仕方ないです。あと数回でこの難しさは超えられると思いますから、がんばってください。それでは。
2005年5月20日(金) 前期第5回講義
さて、先週は、人間が目的を持って生きるということが確かにある、とお話ししました。もちろん人間は、ある社会の中で「出世したいから」とか「お金持ちと結婚したいから」という「社会(学)的な目的」をもって生きている状況は十分にありえます。
けれど、ここで生物を考えてみてください。生物は目的をもって生きているでしょうか。「No」と答える方が多いかと思います。なぜなら生物は人間のように理性や感情がないから・・・と言われるかもしれません。けれど、本当にそうでしょうか。生物にも感情はあると思います。人間と同じように。ただそれを言葉にすることができないだけです。では目的はどうでしょうか。これはやはり生物も目的をもって生きていると言えます。けれど、その目的は人間のように理性や感情に裏打ちされたものとは異なる性質のものです。ここは少し注意して考えなければなりません。
1生物は、まずそれ自身が生き残ろうとする「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス)に左右されて生存しています。人間以外の生物は、人間のような「社会(学)的な目的」をもってはいないけれども、明らかに「遺伝子によって突き動かされる目的」をもって生きているのです。ただし、その目的は「遺伝子自身が生き残る」ということです。それは当面においては、つまり、いま遺伝子自身が乗っている「1個体が生き残る」ということです。
ですからこの意味において「生物も目的をもって生きている」と言うことができるのですが、その目的は生物自身というよりは、生物自身ではどうにも制御しようがない遺伝子がもっているものなのです。多少残念なことであるのですが、私たち人間もこの遺伝子レベルにおいて考えてみるならば、この私という人間の身体は、悠久の時を越えてきた遺伝子の「単なる乗り物」に過ぎないのです。そしてその乗り物は遺伝子だけが「生き残る」という目的によって乗り換えられ、遺伝子は次々と時を越えて存続していくのです。
こうした遺伝子レベルの話まで遡って、社会学では行為や目的が考えられることはありません。これまでは「遺伝子が目的をもっている??」と一笑されてしまうのがオチでした。そもそもこのような最新の進化論における生物学的知見が社会学には欠落していたのですから、遺伝子から行為を考えるという観点が組み込まれずにこれまで理論形成されてきてしまったとしても何の不思議もないのですが。
ですから、話をもとに戻すと、社会学において考えられている目的は、遺伝子レベルまで遡ったそれではありません。だから人間しか持たないと判断されているのです。ここですでに人間とそれ以外の生物、動物との間に、社会学理論はバッサリと深い溝を作ってしまっていることがわかります。
そうであるならば、従来の行為論やそれを基盤にして理論構築されている社会システム論など、社会に関する理論において、社会の構成員に人間以外の生物も包摂することができるのでしょうか。できるはずがないのです。
〈群相〉とは先にも述べた通り、個体が集まった群体の生存様態のことを指しています。メダカの群ではメダカだけが可視的に映るわけですけれども、実はメダカの群もメダカだけで生きているのではなく、その餌となるプランクトンなどもメダカの〈群相〉の中には確実に含まれているのです。
ハーバート・スペンサーの主張した社会の在り方は、この〈群相〉概念にもとづいていると判断することができます。私たちが現在、地球が1つの生命システムである、と明言することができるのも、たとえ忘れ去られたとはいえ、過去にスペンサーが同時代の思想に紛らわされずにきっちりと〈群相〉概念を提示していたからです。スペンサーという先人が〈群相〉という人間が生きている状態を知る上で必要な知識の蓄積を行っていたからこそ、私たちは私たちが生きている現代社会の抱える様々な諸問題を正しく解明することができるのです。
さて、社会学において「社会システム」という術語が普及したのは、いまから50年ほど前の1950年代以降のことです。しかし、それに遡ること100年前に術語としては確立していなかったのですが、「社会システム」の概念は社会学に存在していました。ちょうどその頃は、19世紀の半ばでありいわゆる社会学の黎明期にあたります。
「社会システム」の概念化にはじめて成功した学者がスペンサーです。スペンサーは、社会学を他ならぬ「社会システム論」として創立した人です。
スペンサーの社会システム論は後日詳しくお話ししますが、「社会有機体説」と呼ばれるものです。「社会」は「有機体」であると主張されたこの社会システム論は、いまから150年ほど前に提唱されたものであることがクローズアップされて論じられるあまり、洗練されていない稚拙なものであると偏見をもたれることが往々にしてありました。しかし、「社会は有機体である」との発想は、今日の生物学的知見にもとづくならば「社会は生命システムである」ということを意味しているのであり、また「社会は〈群相〉に他ならない」と主張しているのと同じことなのです。つまり、スペンサーの社会有機体説は今日の生物学的知見を正しく射程におさめて論じられたものであったと考えられます。
スペンサーはなぜ19世紀半ばにして、今日の生物学的知見を予想するかのような社会システム論を論じることができたのでしょうか。それは、彼が人間社会と〈自然〉の在り方を深く追求し、進化論を基礎とした社会学を構想していたからです。
今日〈自然〉を追求するためには進化論が不可欠であると言うことができます。なぜならば〈自然〉とは何万種もの生物種を包摂する全体を指す概念であるはずであり、〈自然〉を追求するということは同時にそこに生きる生物種を追求することに他ならないからです。46億年前に生まれたとされる地球上で、38億年ほど前に生命体が誕生しました。その生命体が長大な時間をかけて様々な生物種に多様化し、その一種として人間が存在しているわけですが、生物種の多様化の歴史を辿る上で不可欠なのが進化論なのです。
以前「社会は〈群相〉である」と捉えられるとお話しました。〈群相〉とは個体が集まった群体の生存様態を指す言葉でした。つまり、群体を構成している個々の個体も生きているし、その群体自体も全体として生きている――という発想に基づくのが〈群相〉という言葉でした。
先にもお話しした通り、こうした大胆な発想を19世紀半ばにして打ち出すことのできたスペンサーの理論的な裏付けは、すべて進化論にありました。ここでスペンサーの社会システム論を詳しく話す前に、「進化」という現象について少し解説しておきましょう。
進化論と聞いてパッと頭に思い描くのは何ですか。チャールズ・ダーウィンが進化についていち早く1859年に『種の起源』を著したということが多いのではないでしょうか。また「適者生存」とか「自然選択(自然淘汰)」とか「生存競争」とか「弱肉強食」「優勝劣敗」という言葉であるかもしれません。
また私たちは日頃から無意識のうちに「進化」という言葉を多く使っています。「携帯は進化する」―どこかのCMだったかと思うけれど、このフレーズの意味することは「いままでの携帯より、感度がよく、薄く、軽く、安く、iモードがついている・・・」といった良いことずくめの携帯が出来上がったということです。同じように「リムジンバスは進化する」というのもありました。
また「人間はサルから進化した」とあまりに容易に使われることもあります。しかし、この言葉の裏側にはどこか「人間はサルとは違う」「人間はサルよりも賢い」「人間はサルよりも進んだ生き物だ」・・・という意味を私たち人間側が含ませていることはないでしょうか。もしそうであるならば、ここで使われる「進化」も「携帯は進化する」同様「よくなった」という意味で使われていることになります。
しかし、このように「よくなった」という意味で「進化」をとらえるのは、いまでは不十分であると言わざるをえません。来週は今日の生物学的知見にもとづく進化論をお話しすることにしましょう。
それでは、また来週に。
2005年5月27日(金) 前期第6回講義
人間が生きているということを考える。生きている人間の社会を考える。これをつきつめていくと、どうも人間だけが特別な存在だ、と他の生物から切り離して考えるだけでは不十分なのではないか。そもそもは「システム」を考え、これが「生命システム」と「人工システム」に峻別されるのではないか、というところからきている問題提起でありました。だから「生命」を考え、人間を追求していくには、最近さまざまな研究領域で必要だと考えられている「進化」についても言及する必要も生じてくるのではないだろうか、ということも先週お話しした通りです。
しかしこれまで「進化」というと、どうもかつての発想だけが先行していることが多かったのもまた事実です。つまり、「AからBへ進化した」と言われる時には、「AからBへ進歩した・発展した」ことを意味しているのです。これを「発展法則」「発展図式」に則った考え方であると言うことにしましょう。この考え方は啓蒙思想以来、近代思想に蔓延していたものであるとも考えられます。
しかし、こういう風に私たちの中に強く、いつの間にか根付いてしまっている進化観は、実は現在の生物学的知見に照らすと不十分であり、根本的に誤っていることがわかります。現在最新の進化論は「中立説」と言われるものです。これは日本人の分子生物学者の木村資生氏が1960年代の半ばに世界で初めて発表した理論です。1960年代半ばに発表して何が最新だ・・・と思われるかもしれませんが、既存の理論を打ち破って新たな理論が誕生する時というのは、一般にすぐには受け入れられないものなのです。発表後いろいろな裏付けや証明がされていって初めて「すごい理論」となる。だからこの「中立説」も十分に認識されるようになるまで30年近く経ってしまったのです。
今日の生物学的知見にもとづく「中立説」とは、これまでダーウィンが提唱したと狭い意味でも解釈されてきた進化論――「自然選択(自然淘汰)」つまり環境の変化に応じて、それに適応することのできた種だけが生き残り、適応することができない種は「直ちに」死滅する、と特にダーウィン以降の人間によって解釈されてきた理論――を、さらにミクロなレベルにまで注目して改良したものです。ダーウィンの時代から150年ほど経たいまの時代で最も注目すべきは、遺伝子レベルまで人間がたどることができるようになったということです。「中立説」はそこに着目しています。つまり、環境の変化を受けてある種は生き残ったり、ある種は絶滅したりするが、中には遺伝子レベルだけにそうした変化をとどめて、すぐに「生存」「絶滅」という形で発現させない種も存在する。こうした「中立」の遺伝子をもった種――簡単に言うならば、すぐには良くも悪くもならない種。良くも悪くもなる可能性を遺伝子レベルに蓄えた種――が長い時間をかけて子孫を継承していった結果、やがて目に見えるような「形態変化」を生じることもある。これが「中立説」の骨子です。
ですから、「中立説」に従って「進化」を説明するのならば、「進歩」や「発展」ではなく、DNAレベルで「変化」することなのであると言うことができます。
つまり生物は厳しい環境の変化を受けるとすぐに、その環境の中で生きていくのに便利な「固い表皮」や「強靱な筋肉」を持つことが可能になるのではないのです。1個の生物がすぐにそのような「形態変化」をしたり、また次の世代にいきなりそのような「形態変化」をした子孫が生まれてくるのでもない。生物は自然の影響を受けてミクロレベルで変質した「中立」の遺伝子を蓄えながら子孫を継承していき、長い時間をかけて、やがて環境に即した多様な種を作り上げていくことになるのです。これを「種の多様化」と言います。
これから話していく、社会有機体説という社会システム論を展開したハーバート・スペンサーは、ダーウィンの同時代人でありながらも、期せずして現在の「中立説」と違わないような進化観をもち、それをベースにして社会システム論を構築していきました。というより、「中立説」であると解釈しないと矛盾が出てきてしまうような主張を近代社会に対して行っていたのです。
今日、なにやら生物学のような話を長々としてきたのは、スペンサーの社会システム論について、既存の社会学理論研究では何の疑問ももたれることなく、啓蒙思想同様「進歩・発展」の意味で「進化」が用いられてきたと理解されており、それはあまりに偏見に満ちた安易な解釈であると指摘するためです。
ところで、もうお気づきのように、進化論とは生物学だけの範疇にとどめて置かれるものではありません。「社会学と進化論がどうして関係あるんだ」と早急に嫌になって投げ出すのは止めましょう。進化論は、どの学問領域においてもいま最もホットな理論なのです。
例えば遺伝子操作に乗り出そうとしている医学、遺伝子操作された食品を生産する産業、生命の誕生をたどる生命誌、イギリスの研究所で誕生した羊ドリーに見られるようなクローン技術など、どれも進化論なくしては発展してくることがなかった学問、産業です。遺伝子操作、遺伝子情報といった話題は、私たちの生活に直接関わるところまできています。「将来ガンになる」「あと数年でアルツハイマー病になる」など、アメリカでは個人の遺伝子情報によって生命保険がかけられる資格があるか否かということも保険会社側で調査しているのではないかとも言われています。福祉や保険を研究している人たちの中には、将来は進化論を射程に入れないと、遺伝子情報を公開された後で公正な保険制度が成立しないのではないかと懸念している人もいるようです。医療技術の進歩は、遺伝子研究の進歩に比例しています。すでに大豆など遺伝子操作された食品が、知らない間に私たちの食卓にのぼっているわけですから、進化論と無縁とは言ってはいられないはずです。
ですから最終的に人間を突き詰める学問である社会学も、もはや進化論と無縁であるとは言っていられないのです。
それでは、また来週に。
2005年6月3日(金) 前期第7回講義
今日はこれまでの総括として小テストを行いました。問題は「わたしたちの社会のなかで、人間が作り上げている数多くの人工システムと、生命システムがあつれきを起こしている事例を少なくとも1つ挙げてその問題を解説しなさい」でした。
採点をしていて感じたことは、これまでの講義をサラッと受け流してきたのか、そうでなかったのかが解答に反映されているということです。毎回考えながら聴いている人は、深い解答を作っています。
各自もう一度この問題について考えてみてください。それでは、また。
2005年6月10日(金) 前期第8回講義
これまで検討してきたように、わたしたちは地球という「生命システム」の中で生きています。「生命システム」の存在がなければ、生物は生きられないし、生物あって生きることができる人間の存在もありえません。
しかし人間は「生命システム」以外のシステムも作り上げています。それが「人工システム」でした。産業革命以降、人間は合理的に自然界には存在しないものを自分たちの都合のもとにつくりあげてきました。「生命システム」と資本主義経済の支える「人工システム」が混在する世界にわたしたちは生きています。この状態がいいとか悪いとかと論じることは、この現状を把握する上ではほとんど無意味なのでしませんが、この地球上に完全に「生命システム」のみで生活をしている人間は、いまやかなり稀少になってしまっています。
この混在状況は非常に複雑になっています。たとえ貨幣経済をあまり必要としない生活を営んでいようとも、わずかな貨幣の浸透によって「人工システム」の生み出すさまざまな商品が生活に入ってきています。テレビのドキュメンタリーでアフリカ大陸の熱帯雨林地域で生活している人々が、米国文化を象徴するロゴが入ったTシャツを着たり、シューズを履いていたりすることがあります。彼らが生活する「生命システム」の中にも「人工システム」がすでに浸透してきてしまっているといえます。
今日は身近なモノから「生命システム」の中だけは生きることができなくなってしまた現代人と現代社会を考えてみましょう。
最新の『地球白書2004-05』から「コットンTシャツ」というコラムをお配りしました(第7章p. 284-7)。みなさんはTシャツをよく着ますよね。このTシャツの原料である綿生産が地球に負荷を与えています。合成繊維よりもTシャツの方が「自然派」「地球にやさしい」などなどと考えられていますが、世界で大量生産されるTシャツを供給するには綿生産段階で農薬を使用しなければなりません。この農薬が地球を汚染しているという現状があります。
それではどうすればいいのか。オーガニック・コットンを使用すれば、農薬は使用されません。しかし、農薬を少なくとも3年使用しなかった土壌だけから生産されるオーガニック・コットンはまだまだ割高で生産量もそれほど高くはありません。
それだけではなく、オーガニック・コットンで織られたTシャツを作るまでの紡績から縫製までの製造過程で、できるだけ化学薬品や化学染料を使用しない立場と、オーガニック・コットンを普通の綿製品を混ぜて、化学薬品や化学染料を使用してTシャツを製造しようとする立場――の二つがあります。後者の立場だとオーガニック・コットンが製品の数%しか使用されていなくても、大量生産されることでオーガニック・コットン全体の消費量は拡大することになるので、「オーガニック・コットン使用」と銘打たれたTシャツが人々の手に多く行き渡るから、いいではないか、と考えられています。
これとちょうど同じ構造で展開されているのが、「遺伝子組み換え生物(GMO)」です。EUはこれが人間の健康や生態系にリスクを及ぼす可能性があるとの立場に立ち、GMOの使用やそれが含まれる製品の輸入に消極的です。一方アメリカ、カナダ、アルゼンチンなどはGMOが人間の健康に影響を及ぼすとは考えてもいません。EUとアメリカ等で対立が続いています。「牛肉への成長ホルモン剤」の使用についても、ほぼ同じ観点でEUとアメリカは対立しています。
Tシャツが中国などの工場で大量生産され、大量輸出されている状況を考えれば、普通の綿花を使用しようがオーガニック・コットンを使用しようが、資本主義経済という「人工システム」の中で生産されているのは確実です。それを前提とした上で、綿花という「生命システム」と綿花を生み出す生態系という「生命システム」に、できるだけ化学製品の農薬などを使用して生産量を増大しようとする資本主義という「人工システム」をできるだけ挿入しないようにしようとするのか、それとも人間の欲望や利潤追求にまかせて生態系への影響などを無視するのか。GMOが組み込まれた製品を大量に生産しつづけ、成長ホルモン剤を投与した牛肉を大量輸出しつづけるのか――。
いずれの場合も、最終的に消費者である人間にふりかかってくる問題であるにもかかわらず、自分とは関係のない問題として考えられていることが多いのではないでしょうか。資料を読み直すなどして、よく考えてみてください。なお、講義中に紹介した日本オーガニックコットン協会のURLは<
www.joca.gr.jp>です。遊びに行ってみてください。それでは。
2005年6月17日(金) 前期第9回講義
今日は林真理『操作される生命』(NTT出版、2002年)の第3章第1節を読みました。
クローン技術を理解するためにチェックしておいてほしい箇所は講義で述べた通りですが、特に164ページの「クローン技術関連年表」は気をつけておいてほしいと思います。わたしたちが生半可な知識で一口に「クローン」と言っている技術はそもそも、家畜の繁殖時に活用されはじめたことだったのです。
林氏も主張しているように、家畜以外の動物や人間に対して「いつか可能になる技術」としてクローン技術を捉えることを、だから人間に対して活用していいのだ、ということにはならないはずです。わたしたちはクローン技術を人間に対して活用することの問題点を深く考えなければならないはずだからです。このことを抜きにしてクローン技術は語ることはできないはずです。
再度読み直して、よく考えてみてください。それでは、また。
2005年6月24日(金) 前期第10回講義
今日は実際に行われているクローン技術の現状を少しでも知ってもらうために、今井裕『クローン動物はいかに創られるのか』(岩波書店、1997年)の一部を読んでみました。
特に理解してほしかったのは、受精卵を用いた核移植と体細胞を用いた核移植の差異です。ドリーは後者によって作られたわけで、今後も応用されつづけていく可能性があるのはこの体細胞を用いた核移植だからです。
先週読んだ『操作される生命』と合わせて、読み直してみてください。それでは、また。
2005年7月1日(金) 前期第11回講義
人工システムに関連し、人工システムの集大成である現代国家の抱える問題点にはどのようなものがあるでしょうか。
たとえば代理母問題を考えてみましょう。今日は「ベイビーM事件」について取り上げました。参考にした本は小笠原信之『どう考える?生殖医療』(緑風出版、2005年)でした。
ベイビーM事件とは、アメリカで実際に起こった、代理母が契約に反して子供を渡さなかった事件のことです。代理母は確かに養子縁組を行おうとした未来の法律上の父母と事前に契約を結んでいます。けれど、その契約を不履行にしようとした代理母だけが非難されるべきなのでしょうか。裁判では、最終的に代理母にも親として子供と面会する機会を与える決定がなされました。これはこれまでにない決定でした。というのも、通常、精子提供者である父親が契約者であり、その男性に法律上の配偶者がいる場合、子供が卵子を提供している代理母から生まれてきたという事実は、戸籍上、記載されることはないからです。だから、この裁判で「自然上の」母親と子供は国家や契約によって切り離されるべきではないと判断されたのは、非常に重要なことだったのです。
この事件に関連し、「国家」、「生命」、「自然」を考えさせられる興味深い本が出版されています。ロビン・フォックス著『生殖と世代継承』(平野秀秋訳、法政大学出版局、2000年)がそれです。「生殖」と「世代継承」と聞いて何を思い浮かべますか。わたしは、これらの言葉が表しているのは人間の生命史そのものであると考えています。なぜなら、人間は生殖によって一個の生命として誕生し、その生命が時を経てすなわち「世代継承」を経て永遠に引き継がれていくからです。人間にとって「自然である」ということはどういうことか、という極めて重要な問題提起がこの本ではなされています。
この本ではベイビーM事件について、人間が「自然である」状態に国家や法制度が介入するべきではないとの強い主張がなされています。代理母問題以外にも興味深い事例を挙げて〈自然〉と国家・法制度・契約との対立に言及されていますので、夏休み中にでも読まれてみるのがいいかと思います。
それでは、また。
2005年7月8日(金) 前期第12回講義
前期の講義をまとめておきましょう。大きく2つのことをみなさんにお伝えしました。その1つは、私たちは「システム」という言葉を安易に利用して、自分が生きている社会を論じようとしますが、この言葉は前提を置かなければ正しい意味で使うことはできないものでした。「システム」は「人工システム」と「生命システム」に峻別をしなければなりませんでしたね。もう1つは、生きている人間の生存様態に他ならない「社会」を正しく語るには、人間が生きているという事実を如実に知らしめる今日の生物学的知見にもとづく進化論を基礎にしなければならないということでした。
「人工システム」の究極的な例が国家です。ひとつの制度やシステムの瑕疵(間違い)を繕うには、また新たな制度やシステムを作らなければならない。これを延々と続けていく運命を国家という「人工システム」は背負っているのでした。
今日、地球上ではさまざまな環境問題が発生しています。この環境問題がなぜ、私たち人間に切実な問題として突然発生してきたかのように見えるのか。この問いに答えるためには、人間が他の生物とひとつの〈生命システム〉をなしてこそ生きられるのだという事実を踏まえてこなかった、私たちの歴史―西欧近代社会の歴史―を紐解かなければなりませんでしたし、「システム」を2つに峻別して、人間が生きているということはどういうことなのか、という本質的な問題をも考えなければなりませんでした。
私たちが歴史的に現在いかなる位置・場所に立っているのか、いかなる「社会」に生きているのか、という重大な問題にアプローチするためには〈生命〉や〈自然〉が重要なキーワードになります。それを的確に、きっちりと示唆してくれるのが、〈生命システム〉です。この講義を聞いて考えたことをもとに、紛れもなく自分が生きている社会について考えを深めてほしいと思います。
それでは、また。
2005年7月15日(金) 前期第13回講義
今日で前期の講義は終了です。テスト問題は公開した通りですが、その際に注意したいくつかの点を守って、解答をしてください。みなさんの答案を楽しみにしています。