原文はここです


 ハーバート・スペンサー著 秋元 理訳
 「笑いの生理学」 (初出 "Macmillan's Magazine" March, 1860)

 

 なぜ我々は子供が大人の帽子をかぶっているのを見ると笑ってしまうのだろうか?また、肥満体型のギボンが優美なプロポーズをした後にもかかわらず、その自重のせいで立てなかったという文章を読んで、我々が笑ってしまうのはいったい何が原因なのだろうか?そのような問題に対しての通例の答えは、笑いとは不釣合いを認識した結果生じるものであるという事だ。この答えに対して、笑いは極度の喜びを感じたときやまた単に、気分が高揚しているだけでも生じるものなのではないかというあたりまえな批判を受けるとは思わないが、しかし、さらにそこにはまだ、おかしな身体運動が引き起こす不釣合いの感覚はどこから来るものなのかという本当の問題が残っている。なかには、笑いは他者に対する優越感に関係した喜びによるものだと断言している人たちもいる。つまりそれは、我々が他人の屈辱的状況を見た時感じるものである。しかし、この理論は第一に、たとえその理論の一部が真実であったとしても、笑い以外の様々な感情を引き起こす場合の優越感が、当然あるのではないかという致命的な反対を受けやすい。そして第二に、我々が単に面白い冗談に笑ってしまうように、誰の優越感に関係の無い場合も多数あるのではないか。さらにそれは、笑いのある一つの事象を一般化したに過ぎないし、これらの状況下でのおかしな身体運動の引き起こす笑いの説明にもなっていない。ではどうして、極度の喜びや、ある一つのアイデアが思いがけなく違ったときに、顔、胸、腹部の特定の筋肉が収縮してまうのであろうか?この問いに答えることは不可能ではない。それは生理学的見地から見てはじめて説明できるのである。

 どんな子供でも、足をくすぐられているときに、その足をそのまま固めて動かないようにしようとしても、うまくいかない。また、手を突然近づけられたときに、目をつむらないでいられる人間はそういない。くしゃみや咳のように、意思とは全く関係無く、また意思に反して、引き起こされるこれらの筋肉の動きは生理学者が反射運動と呼んでいるものである。この反射運動には、感覚によって生じた無意識の身体的運動だけでなく、それとは別の心臓の動悸や消化中の胃の筋肉の収縮などのような、感覚とは関係の無い、無意識の身体運動が加えられなけねばならない。さらに、昆虫類や芋虫、軟体動物のような生物の自発的に見えるおもな行動は、眼球の虹彩部分が光の強さによって変化する拡張収縮運動などと同じような、完全な自動的運動なのだと生理学では考える。そして、それは、求心性神経(末端から中心に向かう神経)で感じた刺激が神経中枢まで届いて、そのあと、遠心性神経(中心から末端に向かう神経)に伝わって、ひとつ、あるいは多数の筋肉に収縮現象を引き起こすという法則を明確化させるのだという。

   ある条件下の中では、この原理は自発的な行動を認める。神経作用は常に筋肉運動を伴う傾向がある。また、神経興奮がある程度まで強くなると、常に、筋肉運動が起こる。感覚によるものであっても、またそうでなくても、反射運動だけでなく、ある程度の緊張状態になると、それとは一見直接的に関係の無いような特別な筋肉に収縮現象を引き起こすのである。そして、他人の感情を推察するような行動は、興奮状態がある程度のレベルまで高まると、神経構造というものが、たとえそれが意思に関係していてもいなくても、筋肉構造に連動するものであるということを我々に示してくれる。寒さによる震えは普通ではない筋肉収縮を暗示するものである。その無意識的な運動は、まだ寒さが軽いはじめの段階では、一部分でのみ起こるものかもしれないが、寒さがひどくなると、ほとんど体全体で起こるようになる。また、指にひどい火傷を負ったときに平静を保つのは、とても難しい。顔の表情が歪んだり、手足が動いたりしてしまうのが良い例である。もし、ある人が何か彼にとって良い事を聞いたにもかかわらず、顔の表情にも体にも全く変化が無かったら、その人はあまり喜んでいないか、または、異常に自制心の強い人だと推測されるであろう。この推測の仕方は、喜びというものはほとんど例外無く、筋肉の収縮を引き起こすものであるという普遍の考えを示すものであり、またそれだからこそ、喜びというものは言動や態度、そしてまたその両方に表れるものなのだという考えを暗に示しているのである。そして、我々は人間の生命が危険な状態にあるとき、たとえば、絶望的といわれていた全身麻痺の患者が、一度だけだが、その手足を動かしたということを聞いたときに、さらに、我々ははっきりと、神経と筋肉の興奮の関係をそこに見ることができる。そして、それは感情と感覚は身体の動きに連動しているという事と、感情や感覚が激しくなると、それに伴いその身体の動きも激しさを増していくという事を証明するのである。
 *いろいろな事例に関しては、「音楽の期限と機能」というエッセイを参照。

 しかしながら、神経の興奮が引き起こす唯一の現象はこれだけではない。内臓構造もまた、筋肉構造と同じく影響を受けやすいのである。その、心臓や血管(これらは、実際、すべてに収縮性があり、筋肉構造と関係のある感覚は限られている。)は、我々が毎日それを証明しているように、圧迫や痛みで簡単に影響されてしまう。すべての激しい感覚は心臓の鼓動を早める。そして、心臓というものはどの程度敏感に感情に反応するのかという疑問は、心臓と感情の関係ととても良く似た現象によって証明される。それは、消化器官による現象にとても良く似ているのである。心理状態の影響による様々な事柄を考慮に入れなくとも、消化不良による主な利点を見つけるのには十分である。他の病気にしてみても、気持ちの良い環境にいる場合や、うれしいニュースを聞いた場合、そして場所を移動したりする場合の気持ちを考えれば、感情がどの程度に、消化器官の活動に影響を与えるのかを証明するのに十分である。楽しい感情が内臓を活発化させることは明らかである。

   そしてもう一つ、神経が刺激されると現れる現象がある。その現象は刺激が弱いときに、よく現れる現象である。それは刺激の受けていない部分の神経にも刺激を与える。それは人が静かに考えたり、感じたりしているときに良く起こる。これによって、我々が「意識」と呼んでいるこの状態が成立するのである。すべての感覚はなんらかの意識や感情を引き起こす。そしてその意識や感情が、他の意識や感情に連続的に影響を与え続けていくのである。一つの神経であっても数個の神経群であっても、中枢神経内に緊張状態があると、我々に感覚、意識、感情を引き起こす、そしてさらにそのほかのその神経と連動した神経機構にも緊張状態を引き起こしていくのである。このようにしてエネルギーが伝わっていくことによって、一つの意識や感情が消えてゆき、そしてまた新たな意識や感情を生んでいくのである。

   しかし、我々は、ある刺激がどのようにして感情を引き起こすのか、どのようにして身体構造上の身体機関によって意識というものが構築されるのかということはまったくわからない。我々は決して解決されることの無い謎に行き当たったのだろうか。でも、まだ我々にはまだその謎を解くための情報を手に入れられる可能性がある。我々は神経が刺激を知覚したとき、その情報を神経中枢に伝える3つのチャンネルを見つけることができる。つまり、もっと適切に言えば、3つの段階のチャンネル、と表現すべきであろう。それらは刺激を身体器官と全く関わりの無い神経中枢に伝え、そうすることにより様々な感情や意識を引き起こさせる。また、それらは刺激を各所の運動神経系に伝えていき、それにより筋肉に収縮現象を引き起こす。さらに、それらは刺激を内臓系神経系にも伝え、消化器系に影響を与えていくのである。

   よりわかりやすくするためには、わたしはどんな場合においてもすべての神経の流れというものそれぞれの独立した神経ルートを持っていると言はなければならないだろう。それは、単純に考えて、どんな神経の流れでも常に限定されているということになる。しかし、これは全く持って事実とは異なるのである。滅多に、それもほとんど場合、すべての神経の流れが神経の緊張状態を引き起こすわけでは無い、そして、感情として意識に影響を与えることも無いし、また、一つだけの方向に作用するわけでもない。ごく当たり前ように、それは二つの方向に作用するものなのである。つまり、その神経の流れの行き先というもには、上記の3つのチャンネルのどれにも全く当てはまらないことはほとんど無いのである。しかし、神経の進む道は、いろいろな状況下で様々な種類のチャンネルに分けられていて、その中でも適切なバランスをとることにより、多様な方向性を持っているのである。たとえば、恐怖により走り駈られている人間の場合、その追い詰められた精神状態は、まず筋肉部分を刺激しようとする。そして、その状態の刺激の余りが急速に意識や感情に影響を与えていくのである。また、誉められたりして気分の良い状態の時、その状態の刺激のすべてがそれに続く感情やそれにふさわしい意識に向かうわけではない。ある部分の余りが内臓器系の神経に溢れ出して、心臓の鼓動を速めたり胃腸の調子を良くしたりするのである。さて、ようやく我々は様々な考察や事実を通して、人間特別の「笑い」という謎を解くための鍵を見つけられるレベルに達しようとしている。

   つまり、謎めいた方法によって我々が感情と呼んでいるものを引き起こすたくさんの神経の流れが、どんな場合においても、絶対的に、その進むべき道をいくつかの方向に分化させていくということが真実であると仮定した時、以下のような結論を導き出すことができる。つまり、神経が伝わって行くチャンネルの一つが全体的にもしくは部分的に閉鎖されていた場合には、伝達はそのほかのチャンネルに作用するということが言えるのである。さらに、二つのチャンネルが閉鎖されていた場合には、神経の流れの行く先は一つのチャンネルに重点的に作用するということになる。これは逆に言えば、何らかの要因によって、一つのチャンネルが普段よりも強く刺激された場合に、その他のチャンネルに対する影響が小さくなるということである。

 普段の生活での経験がこれらの結論を説明している。感情を外部に表現することを抑制しようとするのは普段の生活で良くあることであるが、この抑制は感情をより激しくする作用がある。例えば、本当に辛く悲しいときには、我々はなにも話をしないことが多い。これはなぜなのか?その理由は刺激を受けた神経が筋肉運動に作用していかないからである。この場合、その流れはそのほかの神経を刺激していき、よりたくさんの憂鬱な考えをどんどん引き起こしていく。そのようにして、大量の感情が増大してゆくのである。怒っている人の場合には、怒りを声に出したり暴力などによって爆発させる人より、内に隠している人のほうが大抵復讐を考えていることが多い。これはなぜなのか?前にも言ったように、これは感情が繰り返され、蓄積し、そして強調されているのである。同様に、文学作品などの喜劇的表現を鋭く理解できる人は、これはその人の感受性によって証明されるものであるが、そのような人は大抵、とても面白いにもかかわらず、かつしっかりとした含蓄のあるような事をしたり話したりするのうまいものである。

 一方で、身体運動が感覚を抑制する作用があるのも、周知の事実である。例えば、我々は怒っているときでも、速く歩くことによってそのいかりを和らげることができる。また、目標に到達しようと努力しているときに、頑張りすぎてしまうと、どんなに強い気持ちでも多少弱まってしまう。不幸なことがあった後で、なにか熱中しなければならないことがあった人は、何もすることが無かった人より悲しみが少なくてすむ。もし知力だけの興奮状態を調べようとするとしたら、疲れ果てるまで走ってから出ないとより効率的な方法をみつけることができないだろう。さらに、身体運動が感情や思考に影響を与える場合に起こる現象には、神経の流れがある一つの方向に集中することによって身体運動への影響が抑制される場合で見られた現象に相当する仕組みがあるのである。歩いている時、その時になにか驚愕すること、良いことまたなにか注意すべきことを思いついたとき、我々は立ち止まってしまう。また、椅子に座って足を組んでぶらぶらと足を揺らしていても、なにかを思いついたらすぐにその動きを止めるだろう。この力は内臓にも同様に作用する。強烈な精神の動きは何らかの作用を及ぼすのである。うれしいとか、悲しいとか、不安だとかいう、その他すべての精神的な変化は程度が激しくなると、食欲不振につながるようになる。また、食べたとしても消化不良を引き起こすようになる。ということは、純粋な知力に関する現象でさえも、極限状態になればこのような現象が起きるのである。

 このようなアプリオリの推論が正しいとすると、神経が刺激されるとどんな場合でも感情として知覚神経に作用するという事実は、実際には様々な道を通って伝わっていく。神経の伝わっていく道に三つの種類のチャンネルがあったとすると、状況に応じて、それらは作用するチャンネルやその数を選択する。何らかの原因によって一のチャンネルふさがれてしまったときには、他のチャンネルに対する作用が強くなる。そして逆に、神経の流れが、その要求に答えるために、一つのチャンネルに対して普段より強く作用すると、相対的にその他のチャンネルに対する作用が弱くなるのである。これらの前提を踏まえて、笑いという現象を説明していこう。

 笑いというものは筋肉の緊張状態の一種であり、またそれはある程度に感情が強くなったときに、無意識の内に起きる感情の放出のであるというのは一般的なことであるといえる。しかし、強烈な感情というもののそのほとんどすべてが、同じような現象を引き起こす可能性のあるものなのであるということを説明する必要があるのかもしれない。つまり、笑いを引き起こすのは滑稽であるという感覚だけではないのである。さらに、様々な楽しいという感情が笑いの原因に関わるだけでもない。逆に、我々は精神的な苦痛を感じたとき、自嘲的な笑いやヒステリックな笑いといったものもするものである。このほかにも笑いという現象の原因として、くすぐられた場合があげられる、またベイン氏によれば、寒さや激しい痛みなどによっても笑いが引き起こされるという。

 精神的なものであっても身体的なものであっても、笑いという現象の一般的理由は強い感覚であるとされる、そしてこの現象に含まれる体の動きはその他のものとは異なるものである。その理由は以下の通りである。これらには目的が無いのである。一般的に、感情に機敏に反応する身体運動というものは、その感情それぞれの目的に基づいて行われるものである。例えば、我々が危険を避けようとしたときや、満足感を手に入れようとするときなどがそうである。しかし、我々が笑っているときに胸部や手足が動くことには目的が無い。そして注目すべき点は、このような半発作的な筋肉の収縮運動は目的を持たないということだけでなく、制御されない力の影響によるものなのだということである。我々は、ここにこそ、笑いの特別な特徴を見つけることができる。このとき、それらの現象は、最初に、どのようにして筋肉に影響していくのか、そして次にどの部分の筋肉に伝わっていくのか。全く目的を持たない場合の、使われなかった神経の余剰は通常、習慣的な道を通る。しかしそれが使えなかった場合には、それよりも次に習慣的な道を通るのである。というわけで、これが感覚というものはとても敏感に動作系に作用するということの理由である。ところで、感情が最も影響を与えやすい場所は発生器官である。顎、舌、そして唇は強烈な興奮や満足を感じたときにだけ作用されるものではなく、穏やかな精神状態のときでも同様なことが起こるものである。つまり、この状態のとき、主な刺激の解放は強烈な感覚があったときと同じチャンネルで起こるということを示している。したがって、面白いことを感じたときに、その刺激が最初に伝わるのは口部周辺の小さく反応しやすい筋肉組織ということになる。そして、発生器官の次ぎに影響されやすいある筋肉組織は、様々な種類の感覚を感じたときに、いつもある動作をするものである。(もしくは、それと似た動作をする、と、でも言おうか。)つまり、それは呼吸器官なのである。喜びや痛みを感じているとき、我々の呼吸は通常より速くなる。それはできるだけ、血液中酸素濃度の増加が必要とされるからだろう。集中に関するような感覚も呼吸を速める様に働く。これらはよりはっきりと生理学的な事柄に反応しやすい。さらに感情というものは、最後には沈静化してしまうが、快感なものでも不快なものであっても、まず最初に呼吸機構に作用する。つまり、人体の筋肉組織の中で、我々が刺激を受けた場合、最も頻繁に作用されるところは呼吸器官なのである。筋肉組織に直接的に影響の無い刺激が伝わってきたときに、それは声をつかさどる筋肉に影響する。さらにはそれだけではなく、その刺激がとても強烈なものである場合、肺から空気が出るような筋肉に作用する。これよりも刺激が増加した場合には、うまくその刺激を分散させることができない。つまり、これらの筋肉組織だけでは扱えきれなくなるのである。この場合、ほかの筋肉組織も動員させてそれを補おうとする。例えば、そういうときには、前足が動く。子供は喜びを表現するとき、両手をたたくという行動を頻繁に行う。大人になると、人によっては手を擦りあわせる人もいる。さらに強烈な笑いの衝動がある場合には、ひざをたたいたり体を前後に揺らしたりもする。余った神経の流れが放出されていた他のチャンネルでさえ満杯になってしまったときには、いつものチャンネルと遠く離れたチャンネルに断続的に作用する。頭を後ろにのけぞらしたり体を前にかがめたりするのがそうである。これは医療関係者に言わせれば、反弓痙攣が軽度に現れたものである。したがって、笑いという現象について多種のこまごまとした理由を説明しなくても、我々は全体的に見て、これらの現象が以下の一般的な法則と一致していることがわかるのである。それは、感情はまず筋肉組織に作用するということである。さらに、筋肉運動が特定の目的なしに行われる時、最初に影響される筋肉は、それらの感情に習慣的によくつかわれている筋肉である。そして、感情が強くなればなるほど、その影響を受ける筋肉の数も増えてゆくのである。感情からの刺激による反応の頻度の差によって作用する場所が決定するのである。そして、現象が大きくなったり複雑化してくると影響する筋肉組織の範囲も絶対に大きくなってしまう。といことは、他の条件が等しければ、小さい筋肉ほど容易に敏感に反応しやすくなるのである。

 しかし、我々には解明すべき問題がまだ残っている。これまでの説明は激しい喜びや痛みによる笑いにのみ該当するものである。そして、それは不一致を知覚したときの笑いには該当しないのである。この場合の笑いの説明として、笑いは重々しく厳粛な雰囲気から解放されたときに起こるものであるという説明では不十分である。この説明は一部分的に真実である。ベイン博士のいうように、笑いはよく、「くだらなくて低俗なものに接することによって、笑いがこみ上げてくるような気持ちになり、無意識的な緊張から解放される抑制された真面目さや厳粛さの形。」とされる。ということは、喜びが不快な緊張状態の停止によるプラス方向の感情が噴き上がることによるものであるとすると、それは先に言った一般法則の説明をしているということになる。しかし、その説明ではベートーベンの交響曲の中で、アンダンテからアレグロへと移行するその間の短い沈黙が大きなくしゃみの音で破られたときの面白さに対する説明にはならない。この種類の心理状態は何かに強要されたわけではなく、無意識的に反応したものなのである。そしてこれは不愉快なのではなく愉快なことなのである。そして、注目した事柄に対する印象は好印象であり、滅多に、またほとんどのひとがあえてそれを避けようとはしないのである。したがって、劇場で不運にも誰かがくしゃみをしてしまったときにおきる観衆の笑いは退屈だという心理状態からの解放という単純な理由からとはいえるはずがない。なにか別の理由を探すべきである。

 そのために、その問題に対してのこれまでの我々の研究をさらに進めてみよう。その結論へと到達するために、我々が注目すべきなのはこのような状況下において存在する感情の量だけなのである。さらに、どのような状態が刺激の方向を決定するのかという疑問が必要なのである。例をあげてみよう。今あなたは劇場にいるとしよう。興味深い物語が進行するにつれて、あなたは夢中になっていく。そしてあなたがクライマックスにて共感させられる。そのシーンは長く辛かった誤解のすえ、主人公とヒロインがついに和解をするというシーンである。このシーンによって興奮させられる感情は、あなたが辛いシーンを見て感じた暗い気持ちから解放されたいと思う気持ちとは違ったものである。それどころか、以前の不仲なシーンを見ていたあなたの苦しい気持ちからやっと解放されたという大きな安堵の気持ちとつながっているのである。さらに、劇中の架空の登場人物がある期間あなたに感じさせた心情は、彼らに対する冷遇があなたを喜ばせるというものではなく、むしろ、その冷遇に対する憤慨なのである。そして、いまあなたは二入が和解できたことを思い、心地よい共感の気持ちに浸っている。するとその時に、舞台裏から舞台なれした子役が現れ、群集をじっと見まわして、この恋人たちのほうへと近づいていき、その匂いをかぐ仕草をするのとしよう。あなたはこの思いがけない子供の行動に笑い出さずにいられない。このような思いがけない笑いも、精神的抑制からの解放時に起きる歓喜の仮説でも、また、他者の恥かしめられる様を目撃したときに、相対的に自己の優位性を感じたときに起きる笑いの仮説でも説明することができない。つまり、このようなケースにおいてはむしろ、不協和の感覚が発生するときに存在する感情がなんによるものなのかということがわかれば、十分に説明できるのである。大量の感情が創出される、生理学的用語で言えば、大部分の神経構造が緊張状態になる、ということである。そのとき、舞台のシーンが先に展開していくことに大きな期待がよせられている。そして、次のシーンに対して大量であいまいな思考や感情がよせられ、それに向かって現在の展開にあわせた新しい思考や感情が流れ込んでいく。その思考や感情が中断されないならば、次なる興奮を生み出す大量の新しいアイデアや感情が生まれ、解放された神経エネルギーを吸収していく。しかし、それ自身の流れを広げていくために、新しいアイデアや感情に生起していこうとする大量の神経エネルギーは、突然にそれ自身の流れを中断させられる。エネルギーの解放点につながったチャンネルが閉じられてしまうのである。それに代わる新しいチャンネルとして、子供の出現やその後の進行によって生まれたチャンネルが開かれるが、それはとても小さいものである。つまり、その新しく生まれたアイデアと感情は神経エネルギーを伝えるために十分な量も大きさもないということである。したがって過剰なエネルギーは別の道に解放されていく。そして、既に説明したように、これらの神経エネルギーが運動神経から様々な筋肉組織へと流れていくのである。そして、それによって反痙攣的に供給される運動こそが我々が「笑い」と称しているものなのである。

 この説明は、以下の場合においての事実に一致する。同じこっけいな出来事を見たときに、笑う人もいれば笑わない人もいる。笑わなかった人は、その人の中で笑おうという感情がそのほかの感情によって抑えられたからである。そして、その感情は最初の感情のすべてを吸収するのに十分なほどの大きな力を持っている。人が無様に転ぶところを見て、冷静沈着を保とうする人は失敗してしまった人に大きな同情を感じているのである。その同情心がそのときの感情を異なる方向に変えさせるのに十分な影響力を持っている。時に、怒りは生起した感情を無くならせ、笑いを回避させる場合がある。この例のひとつを最近フランコーニのサーカスである芸当を目撃したわたしの知人によって知ることができた。大きな馬群のアクロバット演技で知人はたいそう喜んでいた。この芸の成功を表面上うらやんでいるように見せた道化師は、わざと人目を引くように同じような芸をする準備運動をして、つぎにすごいスピードで助走をはじめる。しかし、一番近くの馬の手前で止まってしまい、照れ隠しにお尻のあたりの埃かなにかを取るような動作をする。これを見て大抵の観客は興奮して楽しんでいる。しかし、その知人は神経を興奮させて道化師が飛び上がるだろうことに期待して緊張していたのである。その笑いへの障害の結果は憤慨につながったのである。この経験的な例は前述の結論を示している。つまり、そのとき高揚した感情が筋肉構造に向かって解放されるのは、そのほかのチャンネルが十分な条件でない場合に限定される。また、その最初の感情と同等の量の感情がある場合は笑いが起きることはないということである。

 さらに決定的な証拠が存在する。笑いを引き起こす不調和と起こさないものとを比較した場合、我々は面白くないものの中に予期しない感情が生起するのを見る。それは、全く性質は違うのだが、感情の量や強烈さにおいては面白いものに劣ってはいない。笑い以外のものを引き起こす不調和についてベイン氏は以下のように例を上げている。「老人が重い荷物を背負っている様子や、群集の中でパン五つ魚2匹を持っている様子、そしてすべての不調和や粗野な不釣合いをあらわす様子。調律されていない楽器、蝿が入っている軟膏、五月の雪、アルキメデスの幾何学へ苦心、などすべての調和しないものをあらわすもの。羊の皮をかぶった狼、契約違反、うそ、自分勝手に法を執行する群集、いろいろな無秩序さ、お祝いの死体、親に子供いじめ、子供の親への恩知らず、などの不自然なものどれでもすべて。ソロモンの虚栄のすべて、これらのものすべてが不調和なものである。しかし、それらは歓喜ではなく痛み、怒り、悲しみ、嫌悪の感情を引き起こすのである。」これらのケースは意識の状態が笑いのものと全く違うわけではない。その感情の量においても笑いのものに劣ってはいない。しかし、笑いの条件としては十分ではないのである。既に述べたように、笑いというものは意識が知覚されずに大きなものから小さなものに向かった場合に生じるものである。そしてそれは我々が「アンチクライマックス」とする状態になった場合に生じる。

 そして最後に、先見的に推察でき、経験的に表現できることであるが、笑いが生み出さないだけでなく、筋肉構造に笑いと反対の効果をもたらす「クライマックス」になる不調和を見てみよう。何かとてもつまらないことがあった後に、予想していなかったとてもすごいことが起こったときに沸き起こった感情は、我々が驚愕と呼ぶものである。そして、この感情に付随して起きるのは筋肉収縮ではなく筋肉の緩和なのである。子供たちや田舎の人々においては、壮大なものや思いがけないものを見たときに顎が外れるとことがある。これはその理論のに対する好例である。思いがけない原因から驚くべき結果が生まれたことに驚いている人はよく「思わず手から物を落とす」と表現される。まさにこのようなことは予想されうる出来事である。普通の意識の状態で、小量の神経エネルギーだけがなにかに集中しているときに、それが無意識的に興奮させられると、畏敬、恐怖、感嘆などの強い感情が起きる。これは思いがけない原因による驚愕の気持ちにつながっているのである。この新しい意識の状態はそれ以前の意識の状態より多くの神経エネルギーを必要とする。そして、心理的変化による、神経エネルギーの増加が、一時的に他方向への放出を減少させる。その結果、顎が開いたり、ため息が出たりするのである。

 さらにひとつの考察が有益である。余った感情が解放されるチャンネルのなかには、内臓神経組織と呼ばれるものがある。精神的緊張が急に神経を刺激すると、これまで見てきたように、「アンチクライマックス」の不調和のとおり、筋肉構造だけでなく内臓組織にも間違いなく刺激を与える。心臓や消化器官もエネルギーの解放点となるのである。ゆえに、楽しい気持ちの生み出す興奮が内臓機能を促進させるという一般の見解を証明する生理学的基本原理の好例であるといえそうである。

 このような話をすると、話題が少し飛んでしまうのだが、その話を続けていくと笑い以外の様々な現象を説明する道が開けてくる。その研究の重要性を示すために、笑いのほかの事柄を説明していこう。

 大量の感情が知識人の行動をかき乱したり、表現力に影響を与えるということは一般的である。机や椅子に対して話すのは簡単だが聴衆に対して話すのは決して簡単ではない。すべての生徒は教師に向かって話すときに動揺して学習したはずの講義のことを説明できなくなると証言する。これは我々が往々に注意力が散漫になる、つまり、余計な考えがはいってきて正しい考えができなくなる状態であると説明できる。しかしなぜ必要の無い感情がこのような結果を引き起こすのかということに疑問が残る。そして我々はここに納得のいく答えを見つけることができる。講義を暗証したり、事前にスピーチをまとめておいたりしたりするときには、神経の興奮はとても緩やかなで、またそれより少し狭いチャンネルであればよい。やるべきことは単純で、事前に準備したアイデアを順番に思い出すだけである。つまり、それほど大きな量の精神エネルギーが消費されるわけではないのである。したがって、大量の感情が生起したときには、そのエネルギーは何らかの方向へ作用しなければならなくなり、また、通常良くあるように、そうなるべく限定された知的な行動の流れがその解放に十分でないということになると,その結果は予定され限定されたチャンネルだけでなく他のチャンネルにも伝わるのである。こうして、前もって予定されていた思考とは関係の無いアイデアがいろいろと生起したのである。そして、これらの思考は元々の思考を排除してしまうのである。

 そしていま、このような状況下において不随意に行われる身体運動を考察してみよう。学生はその講義で何かを述べている時に、みな共通に指を動かしているだろう。例えば壊れたペンをねじったり、ジャケットの裾を抑えつけたりする。もしその手を動かすなといわれても、すぐにそれに良く似た動作をするだろう。人前で話をする人が治しようの無い無意識的な動きをしてしまうという逸話がたくさんある。ある弁護士がずっとテープを指に巻いたりほどいたりするところや、ある国会議員が何度もめがねを取ったりつけたりするところである。これらの動きが無意識的に行われることが彼らの精神的安定を促進させるものになっている。少なくとも、その動きをやめると混乱が生じるところからその信憑性は推察できそうである。ウォルター・スコット卿が彼の物語の中で、教室でいつも癖で触っているベストのボタンが取れてしまった彼の同級生が課題に答えられなくなったといっている。しかしなぜこのような動きは精神に影響するのか?その理由ははっきりしている。それらの動きは神経の緊張したエネルギーの余剰をうまく吸い取るためである。既に述べたように、その精神エネルギーがもともとのエネルギーのはけ口よりも強い場合、また、その結果、余剰エネルギーが思考のチャンネルに暴走して混乱を生じやすい場合、そのときには、これに運動神経から筋肉構造へ出口を与えてやることによって、その圧力が減少して、意識の中に無関係のアイデアが浸入しないようになるのである。

 このような生理学的研究が進めば、必ず様々な分野の心理学的調査の発展到達に貢献するものになるとわたしは考える。現象を完璧に説明するためには我々は意識が知覚するすべての成り行きを詳細にわたるまで詳しく調べる必要がある。つまり、我々はどちらかが強くなればまたどちらかが弱くなるといったような身体と精神の効果を研究することなしにそこに達することはできないのである。そしてたぶん、我々は「いったいすべての神経エネルギーはどこにいったのか?」という疑問に、その研究を捧げていくべきであろう。

(完)

 法政大学社会学部
 秋元 理: <tadashi@akimoto.com>(メールアドレスに変更があります。アドレス帳をお使いの方はご修正下さい)