ハーバート・スペンサー著 藤武雄一訳
「笑いの生理学」 (初出 "Macmillan's Magazine" March, 1860)
なぜ、私たちは子供が紳士用の帽子をかぶっているのを見ると微笑んでしまうのか。 また、太ったギボンは厳かな求婚をした後、膝をついたまま立ち上がれなかったという文 を読んで私たちを笑いに誘うのは何なのだろうか。このような疑問に対する普通の回答 は、笑いは知覚の不調和から生ずる、というものである。このような答えに対しては、笑 いは極端な喜びや単なる陽気さから生まれるという明白な反論さえ生まれなかった。それ にしても、なぜ不調和な感覚にはこのような笑いという特有の体の動きを伴うのかという 現実的な問題がまだ残っている。笑いは私たちが他人の恥じをかくのを見たときに感じる ような自己進化に関係するよろこびのためである、と断言する人もいる。しかしながら、 この説がたとえ一部に真実を含んでいようとまず第一に、わたしたちにとって決して笑い ごとではない他人の羞恥が様々にあるという致命的な反論がある。そして第二に、私たち が駄洒落で笑う場合のように、この説は誰かの尊厳が関わらない場合には当てはめること ができない。その上、この説は他の理論同様、単にある笑いの状況の一般化であり、それ らの状況で起こっている奇妙な身体運動の説明にはならない。なぜ、すごく喜び、考えと 対照的なある予想外のことに印象づけられる時、特定の顔の筋肉や特定の胸や腹の筋肉が 収縮するのか。そのような疑問に答えのでる可能性があるのなら、生理学のみがだせるも のだ。
子供は足をくすぐられても動かさないように我慢しようとするが、失敗してしまう。 また、突然手を目の前で振られたとき、まばたきをしないでいられるひとはほとんどいな い。意思とは無関係な、または意思に反するこれらの筋肉の動きの例は、くしゃみや咳と 同じもので、生理学者が反射と呼ぶものを例証している。知覚に伴う不随意運動これらの 例には、もう一つ知覚に伴わない不随意運動の事例、心臓の鼓動や消化中の胃の収縮と いったような例を付け加えなければならない。さらに、昆虫や芋虫、軟体動物といったよ うな生物たちの外見上は自発的に見える行為のほとんども、生理学者たちには、虹彩が光 の量の状況によって拡張、収縮することと同じように純粋に自動的なものであるとされて いる。求心性の神経の末端からの刺激が中枢神経へ伝達され、それから遠心性の神経に そって一つまたは複数の収縮する筋肉反射として伝わり収縮させる、という法則を証明し ている。 形を変えた意味で、この法則は意思的行動にも当てはまる。神経の興奮は常に筋肉運 動を生む傾向がある。また興奮がある強度に達すると、かならず筋肉運動を引き起こす。 反射運動に限らず、また知覚を伴うか否かに関係なく、ある特定の神経は興奮状態に達す ると間接的に接続している特定の筋肉に刺激を与える。このとき私たちが他者の感情を推 察する外的な行動は、ある強度に興奮した神経システムが筋肉システムに対して影響して いることを示すものである。この行動が意思によって引き起こされているかどうかには関 係がない。寒さによる体の震えは不規則な筋肉の収縮を示す。それは最初は部分的な不随 意運動であるが、極端な寒さのときは、ほぼ完全に不随意運動になる。指にひどい火傷を 負ったとき、威厳と平静を保つことは非常に困難だ。ほぼ確実に顔の歪みや手足の動きが あとに続くからである。もしも、よい知らせを受け取った時に表情を変えず、また体の動 きもない人がいたら、そこでは、彼がそれほど喜んでいないか、もしくは並外れた自制心 の持ち主であるということを推測できる。どちらの推測も喜びが普遍的に筋肉の収縮を生 み出し、表情や態度、もしくはその両方の変化させることを示している。私たちは人が生 命の危機に瀕したときに果たした凄まじい偉業を耳にしたとき、例えば、絶望的な状況の なかでの活力、麻痺した患者でさえ一時自分の手足が使えるほど回復したというのを聞い てたとき、私たちにはより明確に神経と筋肉の興奮の関係を知ることができる。このよう に感情と感覚がどちらも体の動きを生み出す傾向があるということ、その動きは感覚や感 情の強さに比例して激しくなるということは明白である。*
*多くの実例を"The Origin and Function of Music"というエッセイに上げた。 しかしながら、これは神経の興奮がそれ自身に広がるという唯一の方向ではない。筋 肉と同様に内臓も電気を受け取る。心臓や血管(本来、全て収縮性であり、意味を制限し て筋肉組織に分類することができる)が喜びや痛みによる影響を受けやすいことは、私た ちが日々証明している。鋭い感覚は全て脈拍を加速させる。そしてどんなに心臓が感情に 敏感であるかということは、心臓と感情が同義であるという馴染みの表現が裏付けてい る。消化器官も同様である。これらが私たちの心理状態に影響される様々な例を詳しく調 べるまでもなく、それは他の病気同様に、消化不良に対する楽しい会合、よい知らせ、気 分転換などなどが示す著しい恩恵をみれば、喜びの感情が内臓をより活発化するように刺 激させることに言及するのに十分である。 まだ他に興奮した神経系が作用する部分がある。それは通常興奮がそれほど強くないと きに作用する。刺激が他の神経系の部位に伝わるということだ。これは静かに思考したり 感じたりしているときに起こる。意識とはこれが継続している状態で構成される。これら は順番に他の考えや感情を呼び起こし、連続していく。すなわち、ある特定の神経中枢ま たは神経中枢群の興奮による緊張が私たちにある感覚、思考、もしくは感情をもたらした 時、ある関連のもとに他のいくつかの神経組織に同様の緊張を生むのである。こうしてエ ネルギーがながれていくなかで、一つ思考や感覚は次の思考や感覚を生むために消えてい く。 しかし、ある中枢神経の興奮がどのようにして感情を生むのかということを私たちは全 く知ることができない。つまり、身体組織の作用による意識の産出について解けない謎に 突き当たってしまう。とはいえ、この謎がもつ形態の連続が何であるかを観察して知るこ とはもちろん可能である。緊張状態にある神経中枢が緊張を解放するのに三つの経路が存 在する。正確にいえば、三つの段階の経路である。それらは身体の部位に直接関連のない 他の神経中枢に興奮を流し、別の感情や思考を引き起こす。もしくは、興奮を一つか複数 の運動神経に流し、筋肉の収縮を起こす。あるいは、興奮を内臓に通じる神経に流した り、それらの神経中枢を刺激するのである。 これらを単純に説明するためには、私はこれらを別の神経通路とみなし、神経作用の伝 達が一つだけで起こるように説明しなければならないかもしれない。しかし、これは事実 ではない。神経の緊張状態が一つの方向にのみ伝わって感情として表れることはほとんど ない。神経の伝達は普通二つの方向にむかい、そして、三つのうち一つの作用が欠けるこ とはほとんどあり得ない。しかしながら作用の割合は部分や刺激の強さによって様々であ る。人が恐怖に駆られて走り出す場合には、生じた緊張が一部だけが筋肉への刺激に変換 されている。そこには思考の急速な流れを引き起こす過剰な緊張が存在する。称賛などに よる心地よい感情の生まれた状態は感情の連続する段階やそれにふさわしい新しい思考の ために緊張を完全に使い切っているのではなく、一部は内臓の神経系へと流れ、心臓の鼓 動を増加させたり、消化を促進させたりするのである。ここに、私たちはこの特別な問題 の解決への道が開かれるほどの考察と事実の段階へとたどりついた。 <P> よって、私 たちが感情と呼ぶ状態を謎めいた方法で生み出す進歩的な神経群の興奮量がいくつかの方 向へ自身を拡張する瞬間に言及すると、複数の経路が使われるときで、ある一つが完全か または部分的に閉じられている場合に、他の経路がより利用されることがわかる。もしく は、二つの方向が閉ざされているとき、残されたもう一つへの作用がより強められるのは 明白である。逆に、一つの方向へと流出が異常に限定されたとき、他の方向への流出は減 少するだろう。 日常の経験がこれらの結論を例証する。一般に、感情の表出の抑圧が感情をより激しく するということが述べられている。最も深い悲しみとうものは静かなものである。なぜだ ろうか、それは神経の興奮が筋肉の運動に作用せず、他の神経を刺激するから、つまり、 より多くのより離れた憂鬱な連想を引き起こし、感情の量を増加させるからである。いつ も怒りを隠している人は騒がしく話したり熱心な行動をして感情を発散させている人より 執念深いという傾向がある。なぜか、それは前の例と同じく、感情が跳ね返り、蓄積し、 強まるからである。同様に、面白いことに敏感な人は、その表現力が証明するように、い つも完璧な真面目さをもって面白いことをしたり、話したりできる。 一方、身体行為が感情を弱めるという真実は極めて有名だ。すごくいらいらするときは 早足で歩いて落ち着きを得るものだ。望ましい結果にしようとするための極端な努力は、 欲望の強さを大幅に減少させる。不幸の後に動かざるを得ない人々は静止した人ほどは苦 しむことがない。もし、知的な興奮を確かめたいのなら、疲れ果てるまで走ること以上に 効率的な方法はない。さらに、身体運動へと向かう神経エネルギーの決定によって妨げら れるこのような場合の思考や感情の生産とは反対に、身体運動が突然の思考や感情による 神経エネルギーの臨時の併合によって妨げられるの場合がある。もし、あなたが歩いてい てある考えが閃き、すばらしい驚きや希望や警告を生み出したのなら、あなたは立ち止ま る。もしくは、足を組みながら座っていたのなら、宙ぶらりんの足は直ちに動きを止める だろう。激しい精神活動は、内臓からも同様にエネルギーを抽出する。喜び、失望、不 安、その他の精神的な動揺は、凄まじい高さまで上昇し、食欲を破壊する。あるいは、食 事をとったとしても消化を妨げる。そして、純粋な知的活動でさえも、極端な場合、同様 である。 事実、先の推理を裏付けするように、感情として意識を表出する瞬間に神経の興奮はい かなる時も自身を幾つかの方向へ拡張しなければならない。三段階の経路がそのために開 かれており、その一つか二つ、あるいはそれ以上を状況によって選択する。一つに閉鎖や 障害があるときは他方への作用が増加されなければならない。そして逆に、ある要求に応 えるために、神経エネルギーの流出が一方向へと異常に増したとき、他方向への流出の減 少によって対応がなされなければならない。これらの根拠の提示により、どのような説明 が笑いという現象をかたち作っているのか見えてくるだろう。 笑いは筋肉の興奮の形態であり、また、感情はある程度の習慣的に体の動きによって発 散されるという一般的な法則の例証も指摘するまでもない。しかしながら、恐らく指摘す る必要があるのはあらゆる種類の強い感情が生む、このような結果である。それは滑稽な 感覚だけではない。また、唯一付け加えられるような様々な喜ばしい感情でもない。私た ちには別に、精神的な苦痛の結果である冷笑的な笑いやヒステリックな笑いが存在する。 くすぐりのときや、ベイン氏によれば冷徹さ、ある種の鋭い痛みなどの感覚も付け加えな ければならない。 身体的であれ精神的なものであれ、一般的な笑いの発生について、筋肉の運動の構成 が、他の筋肉運動と違う目的のないものであることに私たちは気が付かなければならな い。一般に、感情に駆り立てられる身体運動は特別な目的と直結している。私たちが危険 から逃れようとしたり、満足感を得ようと努力するのがそうだ。しかし、私たちが笑うと きの胸や四肢の運動には目的がない。そして、目的のない半発作的な筋肉の収縮は、エネ ルギーの放出の制御不能の結果であり、そこにおいて、笑いの特殊な性質がわかる。それ がどのようにある階層の筋肉に最初に影響を与え、次に他の階層へと影響が起こるのだろ うか。何も動機のない神経群のエネルギーの氾濫は、明らかにまず習慣的な道筋をたど る。そして、それが十分でないときに、氾濫は次いで習慣的な経路へ続く。ところで、感 情が生んだ運動は頻繁に、発声器官に通ずる。顎、舌、そして唇は強いいらだちや喜びを 表現するためだけに使われるのではなく、日常の会話にともなう非常に落ち着いた精神エ ネルギーの流れが入る、最も適した場所である。したがって、小さくて動かしやすい口の 周りの筋肉は喜びの感情を最初に現出させることになる。発声の次となる、さまざまな種 類の感情によって、もっとも頻繁に動作(もしくは私たちが余分なものと呼んでいる動 作)となる筋肉の階層は、呼吸器官である。喜びや痛みの感覚のもとでは私たちは急速な 呼吸をする。血液酸中の素の需要が増大した結果であろう。集中している時も速い呼吸を 感じる。それは明らかに生理学的な要求に答えるものである。そして過度の快不快の感情 は、両者ともまず、興奮した呼吸である。そして、後者は最終的には落ち込む。いわば、 呼吸作用における身体的な筋肉は、感情が我々を駆り立てる他のあらゆる行動に比べて、 密接な関係なのである。したがって、筋肉組織に直結していない神経エネルギーの放出が 起きたとき、程度の差はあれ、調音や声の筋肉だけでなく肺からの空気の排出までも収縮 させる。筋肉にまで広がった感情は膨大なものとなると---それらの筋肉の階層にある穴に 入るには大きすぎる場合---別の階層が活動し始める。上肢が動くようにできている。子供 は大喜びするとよく手を叩く。両手を擦り合わせる大人もいる。さらに喜びがある大きさ まで強まったときに、膝を打ったり体を前後に揺さぶる人もいる。余剰な神経エネルギー が逃れる他の経路が満たされ、溢れたときには、遠くにあるあまり影響をうけない筋肉が 発作的な影響を受ける。頭が後ろに投げ出され、背を内側に曲がる---医学者のいう反弓痙 攣に近いものが見られる。従って、笑いの現象の内容を詳細に説明しなくても、全体的に それらが一般の原理に従っていることがわかるだろう。まず。感情が筋肉活動を刺激す る。筋肉運動が意識に導かれていないとき、筋肉は最初に習慣的に刺激を感じているもの が影響を受ける。そして、大量に増加した感情は、より多くの筋肉を刺激、統制された感 情に筋肉は大きく動く。それは増加している大量の筋肉を刺激する。これらを複雑化させ る要に、筋肉の大きさを加えられなければならない。条件が同じなら、小さな筋肉は大き なものよりもより速く動くからだ。 この問題に対し、私たちは次の段階へと分析を進める。我々はそのような状況下にある感 情の量だけを考慮すべきであり、そして放出の方向を決定する条件とは何かを問うことに よって解決に至る。例をだす。あなたが劇場に座っていて、おもしろいドラマの進行に熱 中しているとしよう。こころを振るわせるような最高潮に----例えばヒーローとヒロイン が長く、つらい誤解を経たあとに再度わかりあうような----に達する。このシーンによっ て刺激された感情はあなたが解放されたいようなものではない、反対にあなたが以前に経 験した仲たがいの時のつらい感情からの喜ばしい解放である。したがって、これらの架空 の人物があなたに呼び起こす感情は、彼らへの侮辱に対して喜ぶようなものではなく、む しろ侮辱に憤るようなものなのだ。そして今、あなたがその和解を喜ばしい共感とともに かみしめているときに、舞台の影から仕込まれた子供が現れ、まわりの観客を見渡しなが ら恋人たちに歩み寄り、彼らの匂いをかぐ。あなたはこの意外な出来事による笑いのどよ めきに参加せずにはいられない。このような抑えることができない笑いを精神的緊張から 回避する喜びとする仮説や、他人の屈辱を目撃したときの自己尊大の増幅に関する喜びと する仮説では説明できない。このような場合は、瞬間的に不調和が発生した瞬間に私たち の感情に何が生まれるのかを考えると容易に説明がつく。膨大な量の感情が生まれる。あ るいは、心理学用語でいえば、神経組織の大きな部分が緊張状態である。また、その先の 進行に関して大きな期待もある。大量のあいまいな思考や感情が発生し、今の思考や感情 がそこに流れ込もうとしている。そこに中断がなければ、次に刺激された思考や感情が大 量の解放された神経エネルギーに吸収される。しかし、この大量の神経エネルギーはそれ に相当する量の新しい初期の思考や感情を生み出す事ができるにもかかわらず、突然流れ を阻害されてしまう。今にも解放されようとしていた経路が閉じられている。子供の出現 と進行によって与えられ、新しく開いた経路は小さなものにすぎない。ここに示された思 考や感情は拡張した神経エネルギーを運ぶほど巨大で、大量ではない。その超過したエネ ルギーは別の方向へと自身を解放しなければならない。そして、すでに説明したように、 運動神経を通して様々な筋肉に流出し、笑いと呼ばれる半ば発作的な運動を生み出すの だ。 この説明は何人かが滑稽な場面を見たとき、中には笑わないひとがいるという事実にも 適合する。不器用に転んだ人を見た人々の中で、厳粛な顔を保っている人は転んだ人に対 する同情心が起きており、それが事件が以前に起きたことと重なって生まれた感情のはけ 口となったのである。時には、怒りがでるのを抑えて、笑いを妨げる。フランコーニの サーカスを見ていた私の友人が、後にこの実例を与えてくれた。曲芸の芸人が何頭もの馬 の上を驚異的に飛び越した。この成功をうらやましそうにみていた道化がこれ見よがしに 準備運動をして猛烈な助走をするが、最初の馬の少し手前で止まってしまい、尻のほこり を落とす仕草をする。ほとんどの観客はこれに大喜びをしたが、とても緊張しながら飛び 越すのを期待していた私の友人には怒りをもたらした。このような経験が上の説明を証明 する。つまり、阻害された感情の筋肉組織への解放は、他に適当な経路がないときに起こ り、阻害された感情と同量の感情が他に生まれていたら起こらないものなのだ。 さらに決定的な証拠もある。笑いを生み出す不調和とそうでないものを比べると、滑稽 でないときに予期せず起こる感情は、全く違った種類のものであるにもかかわらず、笑い を生むものと強さも量も劣らないことがわかる。笑いではないものを引き起こす不調和、 ベイン氏の言葉を引用すると、「重い荷物を抱えた年寄り、群衆のなかにある五つのロー フと二匹の魚など様々な不適切さやひどい不均衡の場合。調子外れの楽器、軟膏に入った ハエや、五月の雪、幾何学を苦心して学ぶアルキメデスなどの不自然さ。羊の皮を着たオ オカミ、契約の違反、そして一般的な嘘。大勢が自分勝手に法律を使うことや、すべての 無秩序な状態。祝日の死体、親の虐待、親不孝な子ども、そして不自然なものすべて。ソ ロモンにおける虚栄の完全な目録。これらはすべて不調和なものであるが、喜びというよ りは、つらさ、怒り、悲しみ、嫌悪などの感情を引き起こす」。さて、これらの例におい て、突然生まれた意識の全く違った状態は、先に述べたものに劣った量ではないが、笑い の条件を満たすものではない。すでに述べたように、笑いは意識が知らぬ間に大きなもの から小さなものに移行するときにのみ生ずるのだ。いわば、下向きの不調和と呼べるもの があるときだけである。 そうしてまた、最後に、前もって推論でき、経験により証明される事実だが、上向きの 不調和が笑いを起こさないということだけではなく、筋肉組織に逆の作用をすることにも 注目すべきである。何かそれほど意味の無いことの後に予想外に重要な出来事が起こると き、驚嘆と呼ばれる感情が生まれる。この感情は筋肉の収縮ではなく、弛緩を伴う。子ど もたちや田舎の人々が、衝撃的で予期せぬ変化を目撃したときにあごが落ちることはこの 効果を例証している。何のへんてつもない要因から生まれる意外な結果に驚く人が、思わ ず手からものを落とす表現がよくある。つまり、そのような結果を予想できるのだ。平常 な意識の後、小さいながらも神経エネルギーが集中すると、無意識に畏敬、恐怖、賞賛の ような強烈な感情が起こる。適切な原因がわからないことによる驚きが加わっているの だ。 この新しい精神状態は突然に入れ替わった前の意識よりはるかに大きな神経エネルギーを 要求している。そして、精神の変化によって増大した神経エネルギーの吸収は、他の方向 への流出の一時的な減少を引き起こす。そのときに、あごが開いたり、掴む力が抜けたり するのだ。 さらに、もうひとつの考察にも着目する価値がある。過剰な感情が解放されるであろう いくつかの経路の中に、内臓神経組織と呼ばれるものがある。これまで見てきたように、 下向きの不調和の結果である抑制された精神的興奮の突然の氾濫は、疑いなく筋肉を刺激 するだけでなく、周知のとおり、内臓器官もまた刺激するのだ。心臓や胃はエネルギーの 解放先になる。したがって、笑いを起こすような興奮が消化を促進するという通説には十 分な生理学的基礎があるといえる。 上のようなことを述べると、直接の話題から逸れてしまうのだが、私はここでの照会の 手法が、これらの笑いのそばにあるさまざまな現象の解明への道を開くことをまさに言い たい。そうした追求の重要性を示すために、別の身近な事実を示唆しておこう。 一般に大量の感情が知識人の行動を妨げ、表現を妨げる事は周知の事実である。椅子や テーブルに向かってなら容易なスピーチも、聴衆の前ではそれほど簡単にはならない。学 生は皆、先生の前に立った時、しばしば狼狽して、授業で十分に学んだことの繰り返しが できなくなることを述べる。この説明に、私たちは普通、注意力の散漫をいう。つまり、 適切な思考の流れが不適切な思考の侵入によって壊されることである。しかし、問題はこ のような異常な感情がなぜこのような効果を生むのかである。そして、すでに私たちには かなり明白な答えが用意されている。授業の復習や、前もって考えたスピーチの準備は、 比較的狭い経路を通ったとても穏やかな量の神経エネルギーの流れであると示される。や るべきことは、神経エネルギーが大きく増大していない状態で、単にある前もって並べた 考えを連続して思い出すだけである。ところが、どこかしらに解放されなければならない 大量の感情があるとき、また、よくあることだが、なされるべき知的行動の連続が制限さ れていて解放に十分でないとき、解放はある経路のそばにある別の経路に向かって起こ る。そして、実行すべき考え以外の様々な思考が生まれるのである。また、これらの思考 はもともとある思考を意識から追いやってしまうのだ。 そして、これらの状況下で自動的に起こる身体行動の意味を考察してみよう。少年が課 題を述べながら、だいたい、せわしく指を動かしている。あるいは、ペンを壊れるくらい 曲げたり、ジャケットの裾を握っていたりしているかもしれない。もし、手の動かすなと いわれても、すぐにまた似たような仕草をしてしまうだろう。公衆向けの演説者がこの類 の治らない癖を持っているという逸話はたくさんある。法廷弁護士が延々とテープをほど いたり巻いたりしていたり、国会議員がやたらめがねをつけたり外したりする。そのよう な動きが無意識であることで、彼らは思考を楽にすることができる。少なくとも、それら を止めようとして混乱がしばしば生まれるという事実からも正しい推論であるようだ。 ウォルター・スコット卿の物語に、同級生が授業中いつもいじっていたコートのボタンが とれてしまって課題に答えられなかったという話がある。しかし、なぜ、これらが思考を 助けるのだろうか。明らかに、それが神経興奮の余計な部分を取り払うからである。前に 述べたように、もし、生まれた神経エネルギーの量が、行くはずの狭い思考の経路より大 きかったり、結果として、それが他の思考の経路になだれ込むことによって混乱が生じや すいとすれば、運動神経を通して筋肉にいくことができれば、圧力は減少し、不適当な考 えが意識の邪魔をすることも少なくなる。 以上の考察が証明するように、この種の様々な事例の生理学的研究を進めることによっ て成果があがると私は考える。現象の完全な解明には、あらゆる意識の状態の成りゆきを 全て浮き彫りにする必要がある。そして、もうひとつ別の消費によって量が変化するもの として、身体的、精神的効果を学ぶ事なしにそれはできない。まず、私たちはどの事例に おいても、「全神経エネルギーはどこへ行ったのか」という問いからよく学ぶべきであ る。
(完)