ハーバート・スペンサー著 川上恵理子訳
「笑いの生理学」 (初出 "Macmillan's Magazine" March, 1860)
子供が大人の帽子をかぶるのを見ると、どうして私たちは笑ってしまうのだろうか。昔、英国に体型のふくよかな歴史家エドワード・ギボンがいた。彼は魅力的な女性に恋をして優美な恋の告白をしたが、そのふくよかな体型ゆえに立ち上がれなかったという挿話がある。これを読んだとき、どうして私たちはまた笑ってしまうのだろうか。一般的に、不釣合いの認知の結果による笑いであると考えられている。この答えにおいて、たとえ笑いがしばしば至高の喜びや単なる陽気による笑いであるという批判がなくとも、笑いへの疑問は本質的問題として依然残る。つまり、先に挙げた2例のように身体的行為に不釣合いの感覚がついてまわるのはなぜかということだ。笑いとは、他人の屈辱を見ることで自分達が感じる相関的自己尊厳を満足するためのものであると仮定した者がいた。しかし、どんなにこの理論が真実の部分を含んでいるとしても、2つの致命的欠点は免れない。それはまず、私たちが作り出す他人へのさなざまな屈辱は笑い以外にもあること。次に、ダジャレで私たちが笑うときのように、人々の尊厳が関連づけられない多くの笑いの例を説明することはできないということである。さらに、笑うことはある一定の状況における単なる一般的概念であり、そのような状況下で起こる奇妙な出来事の原因ではない。ではなぜ私たちが大いに喜び、又予想できないさまざまな対照に対し感銘を受けるとき、笑いが顔や特定の胸やおなかの筋肉を収縮させるのだろうか。この問題を説明しうる解答は、生物学によってのみ示せるだろう。
子供はみんな、くすぐられている間はずっと足を縮めようとするが、失敗してしまう。また、突然手が目の前を通りすぎれば、ほとんどの人はまばたきをしてしまうのである。このように人の意志に関係なく起こった筋肉運動を、生理学者は反射運動とよぶ。くしゃみやせきも同じものである。知覚を伴って自分の思いのままにならない不随意運動のこれらの事例は、他にもう一つ、知覚を伴わないで無意識に起こる不随意運動の事例も付け加える必要がある。例えば心臓の鼓動、消化中のおなかの収縮などである。さらには昆虫、ぜん虫、軟体動物なども、各々の意志とはかかわりなく自然に動く。その多くは、さまざまな光の量のもとで縮小したり拡張する目の瞳孔と同じくらい、全く自動的であると生体学者はみなしている。これらはすべて、求心性神経、つまり意志に関係なく刺激によって起こった興奮が中枢神経に伝えられ、普通そこからの命令によって、1つないし複数の筋肉へ遠心性神経を介して影響するという原則の例である。
要するに、この原理は随意行動にも当てはまる。神経刺激作用は常に筋肉に動きを生じさせようとする。まして、それを激化させた時にはなおさらである。生理的反射作用だけでなく、また感覚の有無にかかわらず、何か特別な緊張状態を引き起こした時、直接的には関係のない特定の筋肉に刺激する。多くのさまざまな興奮状態において、私たちが他人の感情を読み取る外部からの刺激は、神経システムが筋肉システムに影響しているに過ぎないのである。 寒さでゾクゾクするのは、規則的でない筋肉の影響による収縮であることを意味する。最初は一部分においてのみ筋肉が収縮するが、寒さが極限に達すると、ほとんどすべての筋肉が意志とは関係なく収縮する。手に激しいヤケドを負った時、威厳ある落ち着きを保つことは困難である。つまり、顔が引きつり、手が動いてしまうからだ。もし顔色を変えず、又、身じろぎもせずに良いニュースを受け止める人間がいるならば、それは、彼がそれほどそのニュースに対して喜んでいないのか、あるいは彼には驚くべき自己コントロール能力があると推定される。要するに、喜びはほとんど例外なく筋肉の収縮を作りだし、そして表情か態度、はたまたその両方を変えると推定されている。そして、命が危機に瀕している人が、それから脱したという偉業を聞いた時や、例えば、望の淵で患者の麻痺した手が、一時的に使えるようになったという話しを読んだとき、神経と筋肉への刺激の関係を私たちは顕著に知ることができる。この2つの関係は、感情と感覚が身体的行動を引き起こすことも、又感情や感覚に合わせて行動が激化することも明白である。*
*さまざまな実例は、"起源と音楽の機能"に掲載した。しかしながら、これが神経刺激の唯一の例ではない。筋肉と同様に内臓も、刺激を受けるのである。心臓と血管(実は、すべて収縮性があり、ある意味で筋肉システムとみなせる)が、喜びや痛みによってすぐさま影響されるということを私たちは、常に証明している。どんな歓声でもすべての感覚は脈拍の速さを早める。そして、心臓がどれほど感情に敏感かということは、同意語として私たちが使う、ハートと感覚というごくごくありふれた表現により証明される。感情に影響されやすいのは、消化器官においても同様である。自己の精神状態が、身体的行動に影響する仕組みに著しい利点があることを詳しく説明する必要はない。つまり、これは、さまざまな病に侵されている患者さんについて言えることなのだが、例えば胃弱体質の人なら、明るい会合、望ましいニュース、四季の移り変わりなどの喜ばしい感情が、内臓を刺激していっそう活発的にさせるということだ。
刺激がそれほど強くない場合にもまた、神経システムの興奮した部分がそれ自体を解放しようとしたり、あるいは常に解放しようとする場合がある。そしてその刺激は他の神経システムに送られる。このようなとき知覚、感覚を瞬時に起こるのである。自覚意識を次々と引き起こすのはこれが原因だ。感覚がアイディアや感情を刺激し、これらが回りまわって連続的に他のそれを誘発する。言い換えると、特に中枢神経や中枢神経系への刺激による緊張がある一定の感覚、アイディア、又は感情を生じさせる時、それに関連して他の神経構造においても同等の緊張が生じる。例えば、力の流れが与えられると、あるアイディアや感覚は次のそれをつくり出すために消えてしまう。
このように、私達はどのようにして中枢神経の刺激が感情を引き起こすかを全く理解できない。と同時に、身体的要因による意識の生成が身体構造を作り出すということも理解不可能である。けれども、この連続した反応がなぜ起こるのかを観察によって知ることもちろん全く可能である。緊張状態を引き起こしている中枢神経が緊張を解放するには、3種類の手段がある。1つは、身体器官と直接的つながりを持たない他の中枢神経に刺激を送り、そして感覚やアイディアを引き起こす。2つ目の手段は、刺激を1つないし それ以上の運動神経へ送り、そして筋肉の収縮を生じさせる。3つ目は、内臓に供給する神経に刺激を送り、神経を興奮させる。
いく通りかの手段としてこれらを簡単に表現する為に、神経に影響力をもつ流動物の何かひとつが関係しなければならない。と考えると、そのような流動物はもっぱら中枢神経への伝達経路を制限する。しかし、これは真実とは相反する。神経過敏状態になったり、感覚的に正気に目覚めたり、又何かひとつにことだけに神経を使うことはめったにない。ごくごく一般的に、2方向への伝達が観察されている。そして多分、刺激の解放は、緊張状態を解放する3つの手段が全く関係しないということは決してない。しかしながら、これらはさまざまな状況、さまざまな伝達経路をつり合わせて解放を分配するという多様性を持っている。恐怖に駆られて走り出す人の一般的精神状態は、筋肉への刺激として分散し伝えられるのである。つまりそれは、思考の早い流動物による余剰物である。さらに、気分が快い状態においては、感覚の変化や新しい考えの為にそれを完全に費やしているわけではない。しかし、一部は周りの神経システムへも流れ、心臓の鼓動を早くし、消化を促しているのである。そしてついに、私達人間の笑いに関係する体のメカニズムを解き明かす考察と事実の段階まできたのである。というのは、私達が感覚と呼ぶ状態のものは、計り知れない方法で神経中枢を常に作り出し、解放されたそれが存在するという事実から考えれば、それはさまざまな所で使い果たさなければならない。つまり、もし使い果たすための色々な経路があって、その経路が全体的、又は部分的に閉ざされていたならば他の経路に流出するのである。さらに逆の順序もありうるべきであり、もし完全に閉ざされているならば解放による残存物は増すはずで、逆に言うと、万が一例外的に流出物がある一定の方向に限定されれば、他方向への流出物は少なくなるである。
日常の経験はこの結論をあらわにする。それはただ単に感情を表現することを抑圧すると、感情をさらに高ぶらせる。最も深い悲しみは静かな悲しみである。なぜだろうか。神経の刺激が筋肉運動を引き起こさせず、他の神経へ刺激を解放しない。そしてそれが非常に広く浅い憂鬱というものを引き起こさせ、その感情を莫大に増量させる。これが"最も深い悲しみは静かな悲しみ"たる所以である。前述のとおり、感情は反映し積み重なっていっそう増大になる。感受性の豊かな人は、重大性を見つめながらも笑いを誘うことができるのである。怒りを隠す人の方が、口調や猛烈な行動を起こし怒りをあらわにする人よりも復讐する傾向があるのも、このためである。
一方、身体活動は人の感情を弱めるという真実をみんなよく知っている。かなりの苛立ちがある時には、速く歩くことによって落ち着く。多大の努力は、目的を果たそうとして本来の望みを小さくしてしまう。災難に遭ったとき、それを乗りきるために懸命に努力しようとする人は、何もしなでいる人ほどは被害を被らない。もし、知的興奮について調べたいなら、疲れるまで走るより他に能率的な方法はないだろう。その上、身体行動への感情や思考の生産が神経質な能力判断によって遮られるというこれらの状況は、それに対応した身体行動が、実際の思考や感情を外部からの神経質な能力を吸収することによって遮られているという性質を持つ。歩いている時、もし何かしら重大な驚き、望み、危険を感じとったら立ち止まってしまう。また足を組んで座り、ぶらぶらさせているならば、その動きはすぐに止まってしまうだろう。熱心な精神的行いもまた、内部からの能力判断によって取り除かれる。喜び、落ち込み、不安などのように相当混乱しているときに、食事をしても食欲は失せ、消化活動もなくなるだろう。そして、思考能力さえも低下してしまうのである。
事実が前述の推論を実証する。つまり、いつでも神経の興奮は感情として意識され、さまざまな方法で自覚されなければならない。そして、3つのチャンネルは感情とつながっているとすれば、それに応じて1つないし、2つ3つへと必ず連鎖される。事実によれば、ある1つの障害物がますます流出物を増やす。反対に、1つの所に常には集中しない神経エネルギーの流出物が、要求に応えて集中したならば、他方ではそれに合わせて流出物を減らさなければならない。これらの前提から考えて、笑いの現象の起源が何であるのかを見てみよう。
笑いというのは筋肉運動の1つであり、ある一定の気分の高まりが身体的行為として表現するという一般的法則が成り立ち、それに注目する必要はないのである。しかし、この結果を作り出すさまざまな激しい感情に視点を置いてみるべきではある。笑うということは、ばかげた出来事だけでもなければ、単なる特別な理由だけによる喜びの形でもない。冷笑的、ヒステリックな笑いは、精神的苦痛によるものであり、Bain氏によれば、くすぐったい感じや寒さ、激痛などの感覚機能による笑いもあることを付け加えておかなければならない。
激しい感情、精神、身体は一般的に笑いの原因である。ほとんどすべての筋肉活動は、区別された笑う行為に注目すべきであり、その筋肉運動は何の目的も持っていないのである。普通、感情によって引き起こされた体の動きには必ず目的がある。例えば、危険や満足を保持するためのもがきを回避するときのようにである。しかし、笑うときの胸や手足の動きには当てはまらない。これら一種のけいれんが筋肉を構成するというのは、もう問題にされないが、エネルギーの解放が管理されずにいるのは特有の性質があるということかもしれない。初めに反応したある種の筋肉、またそれに反応した別の種類の筋肉はどのようにして起こるのだろう。特に氾濫するほどではないときに、いつもの道筋を通るのは明白である。もしこれだけでは不充分なら、それ以外へも流出するだろう。かなり頻繁に感情が動作にかわる。そして、話すための器官にも送られる。あご、舌、唇というのは激しい苛立ち、喜びを表現するためだけに使われているのではない。日常会話に伴ってごくごく普通の精神的エネルギーの移動は、このチャンネル、つまり口を通して最高のはけ口を見つける。これもまた、あご、舌、唇が反応する理由である。だからうれしい状況のもとでは、口の筋肉は小さく動きやすいのでまず最初に収縮される。さまざまな感情によってほとんど絶え間なく筋肉活動が起こり、これに相関して呼吸にも作用する。喜びや痛みの感情のもとでは、どんどん呼吸が早くなる。それは、酸素を必要とする結果かもしれない。感覚機能は、激しい活動があらい呼吸を同時に引き起こす。つまり、呼吸は感情が駆り立てて引き起こすさまざまな身体的行為よりも常に密接に関係している。もし相当の量の神経質なエネルギーが筋肉システムへ、間接的に放出されるならば、話すための口の筋肉をけいれんさせるだけでなく、肺から息をだすだろう。万一、感情の高ぶりが強くはけ口が見つからないでいる場合には、他へと影響する。例えば、子供は大喜びすると手をたたくし、大人は手もみをする。喜びがひとしおのときには、足をたたいたり体を前後に揺らす。結局、剰余物を他のチャンネルに流出したときには、突発的に筋肉に影響するのである。その能力は隔世遺伝し、内へ内へと回転する。それは、破傷風に伴う症状程度のものである。このようにして、笑いの現象を事細かに説明することはできないが、全体的にはこれらは一般的原理を説明することができる。感情が筋肉活動を興奮させる。普段反応する筋肉だけでは対応しきれない場合には、使い果たされるべき感情による影響の量が多いので、それに合わせてさまざまな筋肉を興奮させ、相関的に感情に反応し続ける。大きい筋肉より小さいほうが容易に動くので、影響力の大きさに応じて的確に反応する。
(続く)