原文はここです


 ハーバート・スペンサー著 小沼明夫訳
 「笑いの生理学」 (初出 "Macmillan's Magazine" March, 1860)

 

 なぜ、人は子供が大人の帽子をかぶっているのを見て笑うのだろうか。「デブのギボンが真面目に愛の告白をし終わった後で立ち上がれなくなった」という記述を読んで、なぜ私たちは笑ってしまうのだろうか。この疑問へは一般的に「笑いは、何かを不釣り合いだと感じたときに生じる」と説明される。この説明に対して「笑いは極度の喜びや、単なる活発さによって生じるものだ」という単純な反論が出されるということはないだろう。しかし、それでもなお先程の説明には厄介な問題が残っている。それは「どのようにして不釣り合いの感覚が、あの独特な身体反応を引き起こすのだろうか」というものである。また一方で、笑いの原因を「他人が恥をかいている場面を見たときに感じる優越感の喜びのため」と考える人もいる。しかし、その理論がたとえある程度の真実を含んでいるとしても、2つの致命的な反証をあげることができる。第一に、他人が恥をかいている場面を見たときに笑い以外の反応を示すこともあるし、第二に、その説明では、我々が上手な駄洒落で笑うときのように、誰の尊厳にも関係なく起こる笑いについて説明をすることができない。さらに、それは、他の仮説と同様に、単にある限られた状況下で生じる笑いへの理由付けであり、この奇妙な身体反応への普遍的な説明ではない。なぜ歓喜したときや、予期せぬ時に不釣り合いな出来事に遭遇したとき、顔の筋肉、胸と腹部の筋肉は収縮するのか。この疑問に答えを出すことができるのは、生理学だけである。 

 足をくすぐられてもがまんして動かさないでおこうとする子供はたまにいるが、その試みは決して長続きしない。また、目の前に突然手を出されても、瞬きをしないでいられる人はほとんどいない。筋肉の収縮運動が意志に反して、あるいは意志と無関係に起こっているということを示すこれらの事例は、くしゃみや咳と同じ種類のものであり、生理学者によって反射と呼ばれているものを説明してくれる良い例である。感覚によって引き起こされるこれらの無意識的な運動は、心臓の鼓動、消化活動中の胃の収縮といった無意識的な運動と同じものとして考えられるべきである。さらにまた、「虫や軟体動物といった種類の生物たちが自発的に行っているように見える行動の多くは、光の強さによって大きくなったり小さくなったりする瞳孔と同じで、単に機械的に行われている行動である」と生理学者達は考えている。 そして、それは「感覚神経の末梢で受けた刺激は神経節に伝達され、そこから運動神経に流れ、筋肉を収縮させる」という原理の一例でもある。 

 この原理は意識的な行動にもあてはまる。不安な出来事は筋肉の収縮を引き起こす傾向がある。そして、それがさらに神経を強烈に刺激するようになると、必ず筋肉の収縮を引き起こす。緊張状態が生じたときに、ある種の神経が、間接的につながりのある筋肉に命令を与えるのは、反射運動に限ったことではない。それは、感覚を伴うか、伴わないかに関わらず起こる。表面に表れる変化を通して相手の心情に気づくときがあるが、それは、「あなたが、神経系上の興奮が筋肉システムにある命令を下したことを、敏感に見て取った」ということなのである。相手の心情を読みとる上では、その変化が意識的だったのか、それとも無意識的だったのかはそれ程重要ではない。寒いと体の一部分が震え出すことがある。さらに寒くなると今度は全身が震え出す。火傷した指がひどく痛むときに、落ち着いて振る舞っているのは大変なことで、どうしても表情が歪んでしまったり手足が動いたりしてしまう。 良い知らせを聞いても表情を変えない、体を動かして喜びを表現することもしないという人がいたら、周りの人達は、彼がそれほど喜びを感じていないのだろうと思ったり、感情を全く表に出さないタイプなのだろうと推察する。というのも我々の間に「喜びは、筋肉を収縮させる、つまり表情や姿勢もしくはその両方を変える力を持つ」という通念が存在するからである。ある人が生命の危機に陥ったとき、普段よりも遙かにすばらしい能力を発揮したという話、例えば、「体を動かすことができない人がある絶望的な状態において一時的ではあるが手足を動かした」という記述を読んだとき、我々は神経と筋肉の動きとの間の密接な関係をより良く実感することができる。感情と感覚は身体反応を引き起こす傾向があり、その反応は感情や感覚が強烈なときほど暴力的になりやすい、ということはこれで明らかになった。
 *このことについては「The Origin and Function of Musik 」というエッセイの中で説明した。

しかし、これらの筋肉の事例だけが神経の興奮時に起こることの全てではない。筋肉と同様に、内臓もまたその影響を受けている。「心臓と血管(実は収縮運動をするものは全て筋肉システムの中に分類されることもある )がプレッシャーや痛みに影響を受けやすい」ということは誰しもが日々実感していることだろう。神経を興奮させるような出来事は全て脈拍を早める働きがある。どれほど感情が心臓の状態と密接に関わっているかは、heartという言葉が、心臓という意味と感情という意味を持っているという事からも証明できる。このことは消化器官においても同様である。消化器官が、いかに心理状態の影響を受けているかについては詳しく説明する必要はないだろう。「消化不良を抱えた病人(他の病気でも構わない)が、良い知らせを聞いたり、場所を変えたりすることによって症状が改善した」という例を挙げるだけで、「いかに快い出来事が内臓に刺激を与え、その活動を活性化させるか」ということを理解してもらうには十分であろう。

神経システムの興奮した部分から影響を受ける器官は、まだ他にもある。その器官は、興奮の度合いがさほど高くないときに影響を受ける。神経システム内の一部分の興奮が、神経システムの他の部分に、その興奮を伝えることがあるのだ。この現象は思考や感情を引き金に、ひっそりと起こっている。精神状態の変化というのは、この事が要因なのである。感覚によって思考や感情が導き出され、その導き出された思考や感情は別の思考や感情を導きだし・・・というように続いていく。ようするに緊張というのは、一つの、もしくは複数の神経システムの働きによって生じる。神経システム上の一部分の緊張は、感覚、または思考や感情を引き起こし、別の神経システムに緊張をもたらす。そうして、エネルギーの流れが伝わっていき、古い思考や感情は消え、新しい思考や感情がそれに変わって湧いてくる。

我々は「神経システム上の緊張が感情を引き起こす」という現象の全容についてつかみきれていない。すなわち、どのようにして肉体的な作用物が、肉体的な構造に作用し意識を形成させるのか。このことは、理解できそうもない謎のようにみえる。しかしこの謎を生み出しているその過程については、我々でも観察によって知り得ることができる。神経システムの興奮状態時に伝達される作用物質は、3つの経路に流れていく。3つの経路と言うよりも、3段階の経路と呼んだ方がふさわしいかもしれない。身体器官とは直接関わりを持たない神経システムに興奮を伝え、感情や思考を引き起こす経路。運動神経に興奮を伝え筋収縮を引き起こす経路。内臓関係の神経に興奮を伝え内臓を刺激する経路。

 分かり易くするには、「3つの経路は択一の道筋で、作用物の影響を受けるものはその中の一つだけ」として説明した方が良いかもしれない。つまり、「神経の作用は3つの経路のうちの一つだけを通るもの」とした方が良いかもしれない。しかし、それでは事実を歪曲することになる。「神経の緊張状態が一つの経路にのみ影響を及ぼして、感情だけを生み出して終わる」ということは滅多にない。調べてみると、たいてい2つの経路に流れてゆく。けれど、そのときにも、作用物が残りの1つの経路に少しも流れなかったわけではない。状況次第で、作用物質は3つの経路に様々な割合で分配されているのだ。怖さのあまりに走り出してしまった人がいる。精神的な緊張状態に生み出されたものの一部が、形を変えて彼の筋肉を刺激したのである。それは思考のめまぐるしい変化を引き起こしたものの余りである。誉められて良い気分になり生み出された作用物質は、快い精神状態と、それに付随する思考を形成することだけに使い果たされた訳ではない。それは内臓の神経システムの中にも流れ出し、脈拍を上げ、消化活動を活発化させたりする。考察もここまで到達すれば、冒頭に挙げた疑問への解答を得るまで、あと少しである。

 感情を生み出す働きを持っている神経の作用物は、常にある程度の量存在していて、それは絶えずどこかに流れ続けている。この事実を発展させると、次のことが言える。それは、「神経の作用物が流れてゆく経路の1つが全体的もしくは部分的にその流れを閉ざした場合、必然的に他の2つの経路により多く作用物が流れていくことになる」ということである。さらに、2つの経路がそれを閉ざした場合、残りの1つに流れ込む量は大変大きくなる。逆に、ある1つの経路に集中的に流れるという場合には、残りの2つの経路への流出は減る。

   

 これらの論理は、我々が日々体験しているような事柄からも説明することができる。一般的に、「感情を表に出すことを意図的に抑え込むと、逆に感情はより激しく高ぶる」と言われている。深い悲しみに陥った人は、なぜ静かなのか。それは、「悲しみによる神経の興奮が筋肉の運動を導かずに、他の神経の興奮を誘発する。そうして引き起こされたより多くの憂鬱に関連する思考が、人を物思いに耽るように仕向ける」からである。また、怒りを自分の心の中に隠しておく人は、すごい勢いで怒鳴ったり乱暴な行為ををして怒りを外に表す人よりも根に持つタイプである、とされている。なぜか。それは、押さえつけられて行き場のなくなった感情が、蓄積されて、強められるからである。同様に、漫画や喜劇が好きな人は、その感受性が証明するように、たいてい滑稽な事柄についてまじめに述べたり、実行したりすることができる。

また、「体を動かすと気分が落ち着く」ということはよく知られている。イライラしているときに早足で歩いていると、いくらか不快な気分は和らいでくる。絵空事のような理想の実現に向けて一生懸命努力にしていると、次第に理想への欲求は薄らいでくる。何らかの不幸があった後に、仕事を与えられた人と、仕事を与えられなかった人とを比べてみると、明らかに仕事を与えられた人の方が苦しみが少なかった。知的な興奮を抑えるのに一番能率的な方法は、くたびれるまで走り続けるというものである。以上、「感情や思考の形成は、神経力の筋肉システムへの流出によって妨げられる」というケースを挙げてきた。しかし、これには対照的なケースが存在する。すなわち、「身体的な行為が、突如湧いてきた思考や感情による余分な神経エネルギーの吸収によって妨げられる」というケースである。歩いているとき、もし大きな驚きや希望、または恐怖といったものに関わる思考を閃いたら、人は足を止めてしまう。足を組んで座り、一方の足をぶらつかせているときに何かを閃くと、その瞬間足の動きは止まってしまうだろう。内臓においても同じように、感情や思考の働きが活発になると、それにエネルギーを持っていかれてしまう。喜び、落胆、不安といった感情、もしくは道徳的な動揺などが激しく高まると、食欲は失われる。もしそのときに食物を摂ったとしても、消化活動は活発にはならない。純粋に知的な探求に熱中しているときも同様である。 

「神経上の緊張は絶えずどこかに流れ続けていて、感情や意識にも常に流れ込んでいる」という推論は、事実によってその正しさを裏付けできる。3段階の経路が全て開いていると、必然的に神経エネルギーは、1つか2つもしくはそれ以上(これはその状況による)の経路に流れていくことになる。その中の1つの経路が少しでも閉ざされると、他の経路への流出は増大する。逆に、神経エネルギーが1つの経路にだけ大量に流れていくと、当然その一方で、他の経路への流出は減少する。これらの前提の上で、笑いという現象について説明していこう。

 笑いもまた、神経力が筋肉に伝わることによって引き起こされるものである。それは、「ある程度以上に感情が高まると、身体的運動が引き起こされる」という広く知れ渡った法則の通りであるので、そのことについて詳しく説明する必要はないだろう。いちおう簡単に言っておくと、「激しい感情の高まりは、たいていの場合において、何らかの形で身体的な行為を引き起こすものである」ということである。それは決して滑稽な感覚においてのみ起こることではないし、また楽しいという感情を、唯一の笑いの原因として考えるのは間違いである。なぜざら、人には嘲笑というものや、精神的な苦悩から来るヒステリックな笑いといったものもある。その上、ベイン氏は「くすぐったい、寒い、ある種の激しい痛みといったものも笑い引き起こしうる」と考えている。 

 「強い感覚や感情こそが、笑いを引き起こす一般的な原因」ということになると、「笑ったときに生じる筋肉の運動は、他の強い感情に付随する筋肉の運動と違い、必要性(目的)が無い」ということに注目する必要がある。感情によって引き起こされる身体的運動にはたいていの場合何らかの目的がある。危険な状態から逃れようとするときや、満足感を得ようと苦闘するときなどがその例である。しかし、人が笑ったときに起こる胸や足の動きには目的がない。これらの意味がなく、発作的とも言える筋収縮は、制御できない神経力が作用した結果であり、笑いという現象の特徴的な点である。ところで、ある筋肉が影響を受けた後で、さらに別の筋肉が影響を受ける、という場合ではどういう仕組みになっているのだろうか。用途もなくあふれだした神経力は、まずもっとも頻繁に使われているルートに流れていき、それでもあふれるような時は、その次に頻繁に使われているルートに流れていく、というのがその仕組みである。感情がもっとも頻繁に表れるのは発声器官である。あご、舌、唇は、強い苛立ちや満足感を表すときだけではなく、わずかな精神的な興奮、つまり日常的な会話のときでも主要な経路として使われている。よって、うれしいとき最初に動くのは、小さくて動かすのが容易な口の周りにある筋肉である。発声器官に次いで、感情の影響を受けて(目的もなく)動くことが多いのは呼吸器官である。うれしいときや、悲しいときには、人の呼吸のリズムは早くなる。それは血液中で大量の酸素が必要とされるようになったことを示しているものと考えられる。運動を伴いがちな感情もまた呼吸のリズムを早くする。このことは「呼吸のリズムが早くなるのは体の必要性に応じた結果である」という仮説の正しさを示す有力な根拠となるだろう。快、不快に関わらず、感情が高まるとまず始めに息が荒くなる。(といっても不快な感情の場合は後にゆっくりしたものになる。)つまり呼吸器官は他のどの部位の筋肉よりも(発声器官をのぞく)感情に巻き込まれやすいのである。このように、もし神経力が筋肉の方へあふれ出ていく量があまりにも多いと、それは発声器官だけではなく、呼吸器官にも影響を与え、肺から空気を吐き出させる。しかしそれでもまだ神経力あふれるような場合には、また別の経路に流れていく。次に動き始めるのは手である。子供はうれしいときによく手をたたく。大人の中にも手をこすりあわせる人がいる。とてもうれしくなると、膝をたたき、さらには体まで揺すり始める人もいる。余った神経力の最後のはけ口となるのは、普段あまりそれらの影響を受けていない筋肉で、それらは断続的に影響を受ける。頭を後ろにやったり、背中を丸めたりといった医学的には反弓痙攣と呼ばれるものの軽度の症状が表れる。このような細かいことをいちいち説明していかなくても、笑いを規定しているいくつかの一般原則について理解することができる。感情は筋肉の運動を引き起こす。神経力によって目的を持った運動を導かれなかったとき、変わって影響を初めに受けるのは普段から感情の影響を強く受けている筋肉である。また、感情が激しく高まり、神経力が大量にあふれるようになると影響を受ける筋肉も増えるのだが、そこには優先順位がある。その順位は普段の感情との関わりの度合いによる。複雑になってしまうが、筋肉のサイズも要素の1つ加えなければならない。他の条件が同じならば、小さい方が容易に動くからだ。

 これでもまだ最初に挙げた疑問への解答としては不十分である。ここまでにした説明は、喜びや痛みによって生じる笑いには当てはまるが、不釣り合いに気づいたときに起こる笑いには当てはまらない。 「笑いは、緊張状態から解き放されたことによる喜びの結果」というのでは、十分な説明にならない。確かにこのことが原因の一部であることは間違いない。というのも、ベイン氏の言う通り「くだらないことや下品なことを見聞きし大笑いすることによって緊張状態から解放されるときがある。つまり、笑いは、緊張から解放されるための、現実感のない真面目で荘厳な手段としてしばしば用いられる。」のであるから。また、「不快な緊張状態の解消に続いて起こる快い感情の激発によって笑いが生じる」という考えは今までの一般原則を説明するからである。ところが、それは「ベートーベンの交響曲中にある、アンダンテからアレグロに移る一瞬の静寂が、大きなくしゃみによって破られたときにわき上がってくるような笑い」というようなものについてはいっさい説明できない。なぜなら、ベートーベンの音楽によって生じる精神的緊張は、強制されたものでも不快なものでもなく、自発的で快いものであり、また笑いを引き起こしたもの(くしゃみ)も、皆が喜ぶような満足感を与えてくれるものだからである。それゆえ、不幸なくしゃみを聞き聴衆が笑い出したのを、単に「彼らが退屈な精神状態から解放されたから」という理由だけで説明しようというのは無理がある。他の理由を考えてみる必要があるだろう。

 

 考察をもう一歩進めてみよう。必要なのは、このような状況下での感覚の強さについて考え、その感覚の表出方法を決定する要因は何かということを明らかにすることである。例を挙げてみよう。あなたは劇場の中に座り、物語の進行に心を奪われている。 クライマックス(ここでは「主人公とヒロインが長く苦しい仲違いの後に和解するシーン」としよう)に突入し、あなたはその場面に強く共感する。このときに湧いてきた感情は不快なものではない。むしろその逆で、その前の仲違いの場面を見たときに生じた不快な感情から解放された、という快い感情である。その上、あなたは彼らが侮辱されても喜びはしない。むしろ腹を立てるだろう。もしこのときに、舞台裏からいきなり子供が現れ、なれなれしく二人に近づきにおいを嗅ぎ出したとしたら、あなたはこの意外な展開に思わず笑い出してしまうだろう。この笑いを「精神的緊張から解放された喜び」、または「他人の屈辱的な光景を見て感じた優越感による喜び」などとして説明することはできない。むしろこの場合を説明するには、「不一致を知覚した瞬間に心の中で何が起こったのか」について考えた方が良いだろう。精神的に激しく興奮する。(生理学の用語で言えば、神経システムの広い範囲が緊張状態になる)物語の進行に大きな期待を抱いている。(漠然とした感情や思考が、はっきりとしたものに移って行こうとする。)話がそのまま進めば(子供が登場しなければ)、次に生じる感情や思考は、生成された神経力を吸収するのに十分なものであろう。しかしここで、膨大な量の神経力は、新しく生まれた感情や思考に吸収されきらなくなり、急に行き場を失ってしまう。これから向かうはずだった経路が閉ざされてしまう。なれなれしい子供の登場によって新しく開かれた経路は狭く、生まれてきた感情や思考は神経力を使い果たすのに十分なものではない。それゆえ、神経力は別のところに流れていく必要が出てくる。余った神経力は、すでに説明した方法で、運動神経に作用し、筋肉の運動を引き起こし、笑いという痙攣のような運動を引き起こす。

 この説明は、同一の滑稽な出来事を見ても、笑う人と、笑わない人がいるという事実にもぴったり当てはまる。無様に転んだ人を見ても表情を変えずにいる人は、同情する気持ちが生まれていて、その同情心が滑稽な出来事で起きた感情のはけ口になったのである。同様に怒りもまたはけ口になり得る。フラコニーニの芸を見ていたとき、私はその例を友人に見た。軽業師が何頭もの馬を上手に飛び越えた。その成功を妬ましそうに見ていたピエロは、これ見よがしの準備体操を始める。そして猛烈な勢いで馬に向かっていくが、一頭目の少し手前で止まってしまい、照れながら尻の埃を払った。観衆はそれを見て爆笑した。しかしピエロがちゃんと飛び越えるものとして、ドキドキしながら見ていた私の友人は、このフェイントに激怒した。このエピソードは先の説明の正しさを示している。感覚が筋肉の運動を引き起こすのは、他に適切な経路がない場合である。もし生起した感覚と同量の感情があれば笑いは起こらない。

 さらに決定的な証拠がある。笑いを引き起こす不一致と、そうでない不一致とを比べてみる。すると、「後者の不一致は、笑いとは全く無関係で意外な感情が起きはするものの、神経力の量が不足している訳ではない」ということが分かる。笑い以外の反応を引き起こす不一致と、それらの不一致が引き起こす感情の種類について、ベイン氏はこう言っている。「重い荷物を背負っているよぼよぼの老人、人混みの中にある5つのパンと2匹の魚、などの不釣り合いな事柄。調子っぱずれの楽器、ハエの入った軟膏、五月に降る雪、幾何学を一生懸命勉強しているアルキメデス、などの不調和な事柄。羊の皮を着た狼、契約の不履行、などの嘘。民衆の思い通りになる法律、などの無秩序。祝宴の中の死体、親による虐待、恩知らずな子供、などの不自然な事柄。ソロモンによる数々の虚栄。これらの事柄は全て不一致といえるものではあるが、喜びではなく、苦痛、怒り、悲しみ、嫌悪などの感情を引き起こす。」この種の不一致で生じる感覚は、神経力が足りないわけではないが、笑いを引き起こすのに十分な条件ではないのである。笑いを引き起こすには意識の向かう対象が知らぬ間に大きいものから小さいものへ移っていく(通常我々がdescending incongruity「下降型不一致」と呼んでいる現象)必要がある。

 説明する必要はないかもしれないが、笑いを引き起こさず、さらに筋肉システムに対しても逆の働きをする、ascending incongruity「上昇型不一致」についても述べておこう。くだらない出来事の後で、想像もつかないような重大なことが起きたとき、驚きという感情が生まれる。この感情は筋肉の収縮ではなく弛緩を引き起こす。予期せぬ出来事を目にした子供や田舎の人がぽかんと口を開けるという現象は、その例である。想像もつかないような結果に驚いた人を「思わず手からものを落とす」と描写することがよくある。この描写は上記の理論と符合する。精神的に落ち着いた状態、つまりわずかな神経力のみを吸収している状態の時に急に何か起こると、畏敬、恐怖、感嘆といった感情が強く湧き起こる。それらの感情には、原因と結果の間のつながりの不自然さに対する驚きが含まれているのである。この新しい意識の状態は、前の状態よりも遙かに多くの神経力を必要とする。この精神状態の変化による神経力の吸収の増加は一時的に他方面への流出を減少させる。それゆえ顎や腕の筋肉は緩むのである。

 この考えをもう少し進めてみよう。内臓神経組織も余った神経力が流れる経路の一部である。先に挙げた種の不一致によって突然精神的緊張が生じ、筋肉システムだけでなく、当然内臓にも影響を与える。心臓や胃も神経力を吸収する。ということは、一般的によく言われている「喜びは消化機能を助ける」という考えには生理学の立場から説明できそうである。

 上記のようなことは本題からいくらかはずれている。しかし、この考え方は、笑いと類似した現象を説明する際に有効な手段となるだろう。この考え方の重要性を示すために、他の感情での分かりやすい例を簡単に述べておこう。

 「感情の高まりは知的活動の妨げとなり、表現力を低下させる」ということはよく知られている。机やいすに向かって意見を述べるのは容易なことだが、人間に向かって意見を述べるのは容易なことではない。ちゃんと学習したはずのことを先生の前で発表するとき、ドキドキして失敗してしまったということを、学生なら誰しも経験したことがあるだろう。この理由として、「それは気が散るから」、つまり「思考が別の余計な考えに邪魔されるから」とよく言われる。それでは、その余計な考えは、どのような仕組みで思考を邪魔するのか。その答えについてはもうすでに述べた。授業を復習したり、スピーチの内容を考えたりすることによって生じる神経の興奮は、とても穏やかで、その経路も比較的狭いものである。そこでは前もって用意されていた考えを次々に思い出しているだけである。そのプロセスには大量の神経力は必要ではない。ところが、精神的に緊張して、それで生じた神経力を元々の思考だけでは消費しきれないとき、神経力は他の経路にも流れていき、いろいろな考えが頭の中に浮かんでくるのである。その結果、元々の思考は意識外へ追放されてしまう。

 このような状況下で発生する自発的な身体運動の意味について考えてみよう。発表中に生徒が手を動かしていることはよくある。彼らは壊れたペンに指を絡ませたり、ジャケットの裾をつかんだりしている。もしこのとき「手をじっとさせておけ」と言っても、すぐにまた同じようなことをやり始める。「頻繁に人前でスピーチをする人の多くが、この種の直しようのない癖を持っている」とは広く言われている。ひっきりなしにひもを巻いたりほぐしたりしている弁護士や、メガネをかけたりはずしたりし続けている下院議員などがその例である。このような運動が無意識に行われているので、彼らの思考は円滑に進むのである。「このような運動を無理に止めてしまうと、混乱が生じることがある」という事実が存在するので、この理論は正しいと思う。ウォルタースコット卿の語ったところによると、ある日、授業中いつもベストのボタンをいじっていた友達のボタンがはずれた。すると彼は、先生の質問に何も答えられなくなったという。しかし、なぜ、それらの無意識な運動が円滑な思考を導くのだろうか。それは、それらの運動が余分な緊張の一部を解消するからである。説明したように、「もし生じた神経力の量に対して開かれた経路があまりにも狭く、その結果思考の経路に流れ込む余分なエネルギーが、混乱を生み出すものであるなら、運動神経へのはけ口を与え筋肉の運動に消費させれば、圧力は減少し余計な考えは意識に上がりにくくなる」からなのであろう。

 この生理学的研究を他の事例にも当てはめてみれば、何かが発見できるだろうということは、以上の考察から確かめられたことと思う。この現象を完全に明らかにするためには、あらゆる意識状態について詳しく把握する必要がある。それには、身体と精神において、一方の変化が他方にどういう変化をもたらすのか、ということについて調べなくてはならない。あらゆる場合について「神経力の全行き先」を詳細に調べることが、きっとより多くのことを知るきっかけとなるだろう。


   訳注:「感覚とは、外界からの刺激に反応して生じる心的現象」、「感情とは、感覚や知覚を通して発生し、ある程度の持続性をもって存在する精神の働き」と考えて翻訳をしました。例えば、刃物で手を切ってしまったときについて考えてみると、痛みというのが感覚で、その痛みという感覚で生じた恐怖(または怒りなど)というのが感情、ということです。

(完)

 法政大学社会学部
 小沼明夫: <t9951212@mt.tama.hosei.ac.jp>