ハーバート・スペンサー著 三浦聡美訳
「笑いの生理学」 (初出 "Macmillan's Magazine" March, 1860)
なぜ私たちは、子供が大人のハットをかぶると笑うのだろう。また、太ったギボンが、優美な宣言をした後立ち上がることができなかったという話の何が、私達の笑いを引き起こすか。これらの疑問に対する通常の答えは、笑いは私たちが不釣合いを感じたときに起こる、というものであろう。この答えに対し、笑いはしばしば極度の喜びや単なる陽気から発生するといった明確な批評が下されることはないと思われるが、この答えにはまだ本当の問題が残る。なぜ矛盾した感覚がそうした笑いという特有の肉体行為に伴ってくるのか、である。笑いは喜びに当然着いて来るべき相対的な自己の高尚であり、それは他人の屈辱を見るときに感じるのと同じだと、ある人々は断言する。しかしこの説にいかなる真実の一部が含まれていようと、他人が屈辱を受けているとき私たちは笑い以外に様々な反応を示すのではないか、という根本的な反論から免れることができない。と同時に、駄洒落による笑いのように誰の尊厳に関係がない笑いの実例があることを否定できない。さらに反対に、それは笑いを単に一般化しただけであり、それらの状態の下で起こる奇妙な肉体動作の説明にはなっていない。なぜ大変喜ばしいことや、予期せぬ不釣り合いに出会ったとき、顔面の筋肉や、特に胸部や腹部の筋肉の収縮が起こるのだろう。このような問題にもし答えることができるとするならば、それはただ生理学だけである。
どの子供も足をくすぐられるとき、その足を動かさないように保っておこうと試みるが失敗する。また、突然眼の前で手を振られて瞬きを我慢できる人は少ない。人間の意志とは無関係に、または意志とは反して起きるこれらの筋肉運動の例はくしゃみや咳と同じように生理学上で反射運動と呼ぶものを例証する。知覚と無意識な動きが同時に起きるこの部類の事例には、心臓の鼓動や消化作用中の胃の収縮などを例とするように、知覚とは無関係に無意識な動きが起きるもう一つの事例が加えられる。さらにまた、昆虫やぜん虫、軟体動物など、生物の表面上の自発的な動きの大半は、光の量が変動することで起きる虹彩の拡大収縮と同じように、純粋かつ自動的であると生理学では考えられている。同様に法則を例証すると、求心性の神経に加えられた刺激が神経節に運ばれ、そのときから通常は遠心性の神経を経由し一つまたは複数の筋肉に反射されこれらの筋肉を収縮させる。
この法則は自発的な行動にもあてはまる。神経の刺激は常に筋肉の運動を生じさせる傾向にあり、それがある強度以上に達するとき常にそれを生じさせる。反射運動だけに限らず、また知覚があるなしにかかわらず、ある特定の神経は緊張が高まった状態のとき間接的につながった特定の筋肉に刺激を与える。しかし推定できるいかなる緊張のもとにおいてそれらの対外的な活動は、私達が人の感情を読み取るのを通し、意思の誘導で、または誘導なしで神経が筋肉の系統にそれ自体を放出することを示す。はじめは部分的に無意識に起こる寒さによる不規則な筋肉収縮を示す震えは、指にひどく火傷を負ったとき顔がひきつったり手足をじたばたし平静を保つのが困難であるように、寒さが極限に達したときほぼ完全に無意識に起こるようになる。もし誰かが良い知らせを無表情もしくは体の動作なしで受け取るならば、それはその人にとってさほど喜ばしくないこと、もしくは喜びがほぼ普遍的に筋肉の収縮を導き表情か態度または両者を変えるその人の異常な自制心を推案する。絶望的な精力の寝たきりで生命の危機にある病人が、わずかな間手足を動かせるくらい回復するという体のなす技が、もう少し明瞭に神経と筋肉の刺激の関係を表してくれる。強い感情と五官による感覚の両者は体の動きを引き起こす傾向にあり、その動きは感情や感覚が強烈になる につれて激しくなるということが明白になる。*
*“音楽の発端と機能”という随筆の中に多数の実例を示した。しかしながらこれは、神経の興奮が開放されるという単独の傾向はない。筋肉と同じように内臓は神経から刺激を受ける。日常生活で私達が証明しているように、心臓と血管(実際全てに収縮性があり、筋肉の組織により制限された感覚機能に分類される)は喜びや痛みに素早く反応する。どの感覚も刺激が加わると鼓動が加速し、どの程度心臓が強い感情に敏感か、心臓と感覚が交互に使われるのと同じような表現で証明される。消化器官と類似している。精神の状態が影響を及ぼすというような詳細はなしで、消化不良により引き出される注目されるべき利益にふれるに足り、健全な人々から見た病人も同じく、情況を変える良い情報は喜びが内臓機能をどう活性化させるかを示す。
まだ他に、いかなる刺激された一部の神経系も、興奮が強くなければ通常はそれ自体を排出できるという傾向がある。それは刺激を他のいくつかの神経系に伝えることが できる場合があるということだ。私達が静かに考えたり感じたりするときこのようなことが起きている。意識と呼ばれる連続した状態の構成要素となるものはこのようにして成る。感覚はアイディアや感情を起こさせ、今度はそのアイディアや感情が別のアイディアや感情を喚起する、というように継続され、連続する。ある特定の神経中枢もしくは複数の神経中枢の集まりに存在する緊張が私達に緊張、アイディアまたは強い感情を与え、同時にこの神経組織につながった他の神経組織に緊張を発生させる。このようにエネルギーの流れが通り過ぎ、一つのアイディアや感覚が滅びながら次の別の思考や感情を造りだして行くのである。
しかし、どの神経中枢の興奮が感覚を引き起こすか、すなわち身体への作用原因がどのように身体構造に働き、意識の産出過程がどう行われているのか全く知ることが出来ないがゆえ、決して解く事のできないナゾに突きあたる。ナゾが引き起こす形態の継続が何かを観察することによりもちろん知りうる可能性がある。興奮状態にある神経中枢が緊張を排出するとき三つのチャンネルが存在すると考えられる。むしろ、三つの段階のチャンネルと表現するべきであろう。それら神経系がその興奮を一つか複数の、身体の一部器官に直接的なつながりを持たない神経中枢に伝えられるがゆえ、他の感覚やアイディアを生み出す原因となったり、もしくはそれらが興奮を一つか複数の神経エンジンに伝えられるがゆえ、筋肉の収縮を引き起こす原因となったり、もしくはそれらが興奮を内蔵につながる神経に伝えられるがゆえ、一つか複数のその内臓を興奮させる原因となる。簡素にするために、それら三つをそれぞれ別の神経通路とし、この中のどれかを神経作用の流れが通過するとし、伝達がこのうちの一つに限られているかのように言うべきであろう。しかしこれは全く事実に反し、神経の緊張が起こることでその意識が感覚として表れ、一つの方向にだけでそれ自体を消費するようなことはほぼ起こらない。神経の伝達はほぼ例外なく二つの方向に向かい、おそらく三つのルートのうちどれか一つに全く伝達が起きないということはほとんどあり得ないのである。しかしながら、異なる状況におけるそれらの異なったチャンネルの中で、分別される排出は多様な割合がある。人類の恐怖は走るという行為を促し、引き起こされた精神の緊張はほんの一部分だけ筋肉への刺激に変わり、余りは瞬時の思いつきを引き起こす原因となる。感覚製造の共感できる状態は賛美されるように、感覚とそれに適したアイディアの継続的な相を引き起こすことに対しては完全に使い果たされない。しかしある一部分が内臓の神経組織に溢れることで、心臓の動きを増加させ消化力を促進させる。ここで私達は、特別な問題の解決の道を開いてくれよう考慮するべき事柄と事実に達 することとなる。
まず初めに事実として、もし私達が感覚と呼ぶ未知の方法で生産される一定量を持つ進歩的な神経中枢が自身をある方向に費やさなくてはならないのならば、それは次のように行われる。すなわちそれが複数のチャンネルを通るとすると、一つは完全にまたは部分的に閉ざされ、さらに多くのチャンネルを他が通ることになる。また二つが閉ざされると、その残った一つに沿った排出はより激しくなるであろう。そして逆に通常でない一方向の流出を決定づけると、減少された流出が他方向に存在してくる。
日常の経験がそれらの結論を例証してくれる。共通して言われていることだが、感情を表に出すことの抑制は感情をより強いものにさせる。深い深い悲しみは静寂な悲しみである。なぜだろう。それは神経の興奮が筋肉の動きに排出されず、他の神経にそれを排出しその興奮を促す。そして憂鬱な感じの、より多数でより離れた連想を起こさせ、それにより感情の量を増やすのだ。自分の怒りを隠す人は、普段からその感情を大きな声で発散したり、猛烈な行動をとっている人に比べてより執念深いとされている。なぜだろう。それは前で述べたように感情は反射されて戻り蓄積され強められる。同様に、漫画本に鋭い鑑賞力を持つ表現力がある人は、完璧にツボをおさえた、ばかげた事をしたり言ったりすることができる。
一方よく知られた真実だが、身体の活動は感情を弱める。早歩きをすることで、激しい怒りから救われる。我武者羅に努力して望みをかなえようという試みは、その望みに対する熱烈さを大いに減らすことになる。災難の後に自身を余儀なく働かせるこれらの人々は、活動していない部分を残すのとほほ同じくらいの損害をこうむる。もし一つの願いが知的な興奮を止めるなら、その人はへとへとになるまで走りつづけること以外のより効率的な方法を選ぶことができない。その上、感情と思考の製造は神経エネルギーが身体活動に向かって流れるのを決定づけられることにより邪魔をされるこれらのケースは、急な思考と感覚での神経エネルギーの余分な吸収により身体活動は阻止される、というケースに良く似ている。もし歩いているとき大きな驚きや希望、不安を生み出す考えがひらめいたらその足を止める。また、足を組み垂れ下がった足をぶらぶらとさせながら座っている時ならば、 一度その動きを止める。また内蔵器官からも、強度の神経活動はエネルギーを奪ってしまう。喜び、失望、不安などのあらゆる倫理的な精神的動揺が大きく増すと食欲がなくなる。または食事をしても消化が妨げられる。純粋に知的な活動においてもそれが極度に達したとき同じようなことが起こる。
このような過去の推論が正しいとすれば、いかなる場合でも神経興奮は感覚として意識に伝達するという事実は、実際には様々な形で表れる。神経興奮に対し三つのチャンネルが開かれるとすれば、興奮は情況によって一つか二つ、あるいは三つを通らなければならない。一つが閉ざされたり支障をきたすとき他を通る排出は増し、逆に、何らかの事情により、一方向の神経エネルギーの流出が異常に大きいと、他方向の流出が減少するはずである。それらの根拠により述べると、笑いの現象の説明がどうされているか今解る。
笑いは筋肉興奮の形状であり、そしてあるピッチで通過する感覚が習慣的に自身を身体動作へと発散するという一般法則の例示になりうるということは、指摘する必要はない。しかしながらどんな種類の強い感覚も同じ結果を出すということは、ここで特に指摘する必要が恐らくあるかもしれない。笑いを引き起こすのは滑稽さの感覚だけではないのである。また、あらゆる喜ばしい感情の形状が単独で付加的に起こることでもない。さらに、私達には精神の異常から来る皮肉な笑いとヒステリーな笑いがあり、それにはくすぐられるようなある感覚(ベイン氏によると、冷酷と鋭い痛み)を追加されなければならない。
精神的、肉体的に強く打たれたとき、筋肉活動は無意味にほぼそれ以外のものから識別されるということに着目したい。危機からの脱出を試みたり、安全を確保しようとすることで、通常はこのような感情により促進される身体活動が特有の目的を達成する。しかし笑うときに起こる胸部や四肢の動きには、目的は無い。笑いは、その特有の性質からわかるように、目的が無く、エネルギーの排出も抑制できないために、発作に似た筋肉の収縮が起きる結果に注目する必要がある。どのようにそれが起こるのかというと、まずはじめに、ある筋肉の部類が影響を受け次に他の部類が受ける。明らかに、いかなる動機の場合でも指示を受けていない神経中枢の流出は最も習慣的なルートを初めに取り、もしそれらのルートが不十分なとき、次の流出がそれらよりは習慣的ではないルートを取る。器官のことを通し、感情は動作の中を最も頻繁に通過するという話をする。顎、舌、そして唇は苛立ちや喜びを表現することだけに使われるのではなく、普通の会話と同時に起こるごく適度な神経エネルギーの流動でこのチャンネルを通して主要な抜け口を見つける。このゆえに小さく容易に動かせられる口の周りのある筋肉は強い喜びの感情のもとで初めに収縮する。それらの明確な表現の次に、その筋肉の部類はあらゆる種類の感情により呼吸という最も頻繁な行動(もしくは特別な行動と言おう。)を起こす。喜びや痛みの感覚により呼吸は速くなる。ことによると血中酸素の増加の必要性という結果であろう。尽力と同時に起こる感覚は激しい呼吸をももたらす。ここでより明確にするために、生理学的な応答が必要となる。賛成するか否かどちらでも、もっとも最後には落ち着くが、まず強い感情も呼吸を激しくさせる。身体筋肉の呼吸は他のいかなる筋肉よりも感情が私達を駆り立てる様々な動作と絶えず関係する。そしてこのゆえに指示を受けていない神経エネルギーの筋肉組織への排出が起こるとき、もしその量が考えられるならばある間接と発生に必要な筋肉だけを痙攣させるのではなく、肺から空気を吐き出すための筋肉をも痙攣させる。もし感覚が消費されそれでもなお量的に大きいと、それらの部類の筋肉に抜け口を見つけるには大きすぎるため他の部類の筋肉が働き始める。例えば上肢が動作するように組まれる。子供は嬉しいときしばしば手をたたいて鳴らす。大人は手を擦り合う人もいる。さらにもっと嬉しいとき膝を打つ人がいたり、身体を前後に揺らす人も見られる。それでもさらなる神経エネルギーの余りの抜け口が溢れる場合、最終的に直接的な影響からさらに遠くに位置する部類の筋肉群が断続して動き出す。つまり頭をのけぞらしたり体を前屈するなどであり、医者達が反弓痙攣と呼ぶ軽度の症状が見られることになる。このように笑いの現象を細部にまで説明しなくても、笑いというものは全般的に、感情は筋肉運動を引き起こし、特別な目的をもたない筋肉運動が起きるとき感情の影響を普段からもっとも大きく受けている筋肉群が初めに動かされる。感情の消費量が大きくなれば、影響される筋肉の数も多くなる。影響度には順序があり、感情の指令により動く筋肉が大きいほど先に動く、というような一般原則だ。だが、これには事を複雑にする決定的要因として、筋肉の大きさが関わっているという事ことを加える必要がある。それは、もし他も条件が等しいならば小さな筋肉ほど動きやすいはずだからである。
しかしながらまだ、この論説の設問に全て答え終えたわけではない。これまでの説明は、鋭い快感や苦痛に伴い起こる笑いには適合するが、ある不調和なものに関する知覚に従って起きた笑いには適合しない。こうした笑いの場合、笑いとは重々しい感覚の抑制から開放されるときに発生する快感の結果である、という説明ではなお不十分である。これが一因であることは事実である。ベイン氏が述べているように、笑いとはしばしば、「つまらないことや俗悪に接触して笑いが起こり愉快になることで、堅苦しい緊張から救出されるという、真面目さや厳粛さの強制されたかたち」なのである。さらに、不快な精神緊張が解消されることにより起こる快感のほとばしりが陽気の原因である限り、それがこれまで述べてきた一般原則を例証することになるのだ。しかしながら、ベートーベンの交響曲を聴いていて、アンダンテからアレグロに曲調が変わる沈黙の一瞬に、大きなくしゃみが聞こえたときの笑いをこれで説明するわけにはいかない。多数の同じような事例にも、精神的緊張は強要されているのではなく自発的な要素を持ち、不愉快なものではなく愉快なものであり、注意が向けられる印象の対象が、誰も、或は僅かな人数しかわざわざ逃げ出そうとしないような満足感を期待できるものなのである。これゆえに、不運なくしゃみの発生で周りの聴衆が笑い出すということが、単に彼らの退屈感が解放されたと解釈することは不可能であり、何か他の原因を捜す必要があることになる。
このような問題に関し、今まで分析してきたことをさらに踏み込んでいきたい。しかし我々が考慮するべきことは、このような状況下に存在する感情の量であり、その感情が流出する方向を決める条件が何かを解明しなければならない。事例を見てみよう。あなたは劇場に座っておりドラマの進行に夢中になっているとする。そして共感を喚起するクライマックスがおとずれるとする。例えばヒーローとヒロインとが長期間に及ぶ辛い誤解の後、再び和解した、というような。このシーンにより喚起された感情は、あなたが捜し求めた安堵から起こるのではなく、むしろ正反対に、前の誤解のシーンを見て感じた辛い感情から解放されたという感の謝意である。さらにドラマの架空の登場人物が瞬間にあなたにもたらした感情は、その人物達が屈辱を受けあなたが喜ぶというような性質のものではなく、言うならば、彼らが屈辱を受ければあなたが憤慨されるような性質のものであろう。さて、あなたが恋人達の和解を喜ばしい共感と共に玩味しているとき、突如舞台裏からぶしつけな子供が現れ、彼らに近づいてフンフン嗅ぐ仕草をしたとする。あなたはこの意外な出来事により起こった大笑いに巻き込まれるだろう。このような不可解なことも、精神緊張から解放される快感という仮説や、他人が屈辱を受けているのを横目にして自尊心が高まる快さを感じるという仮説では解明不可能であり、むしろこのような場合には、こうした不調和が発生した瞬間に我々の感情に何が起こるのかを考慮するほうが、より容易に説明できる。大量の強い感情が生じたり、生理学的に、神経組織の大きな部分が緊張状態にあったりする。また、ドラマの次の進行に対し、大きな期待を抱いていたりすると、次に起こることに対して、大量のぼやけた思考と感情が起き、そこへ今の思考や感情が流れ込もうとする。もし中断がなかったとすれば、次に向かって呼び起こされた多量の思考や感情が、解放された神経的エネルギー全体に十分吸収されていく。しかしこの大量の神経的エネルギーは自ら同量の新しい思考や強い感情を引き起こすために費やすのではなく、突如流れを妨げられてしまう。ほとんど解放されかけていたチャンネルが閉ざされてしまうのだ。子供の出現とその成り行きによって,新しく開かれたチャンネルは狭く、示唆される思考や感情は、消費される神経的エネルギーを運び出す為には数も大きさも十分ではない。従って、余分になった神経的エネルギーは他の方向に向かって排出されなければならなく、既に説明したように、その余分な神経的エネルギーが運動神経を通って様々な筋肉に流出し、我々が笑いと呼ぶ半ば痙攣的な運動を引き起こすのである。
以上の説明は、同じ滑稽な出来事を目撃しても笑わない人が中にはいる、という事実と調和する。なぜならば、それら笑わない人達の内面に残る直前のった感情とは関係なく、強い感情が生じ、それが発生する全ての興奮を吸収するにあたり十分多量であるからだ。無様に転ぶ人を目撃した観衆の中で厳粛な顔をして笑わない人には、転んだ人に対する大きな同情心が生じており、直前に起きた事と今起きた事との不連続によって引き起こされた感情を取入れてしまう出口となったのである。時に怒りは感情の流れを止め、笑いを隠そうとする。フランコニーの芸当(サーカス)を観た私の友人に、この事例となる事が起きた。何頭かの馬の上を飛び越えるという素晴らしい演技がアクロバット芸人により披露された。この成功を羨ましげにしていたピエロがこれ見よがしに同じ事をする準備をし、すごい勢いで助走をしたのだが最初の馬の少し手前で止まってしまい、照れ隠しに尻のほこりを払ってみせる演技をした。ほとんどの観客はこれを見て大喜びをした。ところが、成功する、と期待して緊張しながら見ていた友人には怒りの感情が引き起こった。このような経験から、上の仮説が正しいことがわかる。つまり、高まった感情が筋肉組織に向かい解放されるのは、他に適切なチャンネルが存在しない場合であり、感情の高まりと同量の別の感情が生じれば、そうした笑いは起こらないということである。
さらに決定的な証拠も手近にある。笑いを発生させる不調和さと発生させない不調和さとを比べてみると笑いを誘われない不調和の場合には予期せぬ感情は起こるものの、この感情は性質的には笑いとは全く異なり、それだけではなく量的にも鋭さ的にも笑いと全く等しい強さであるということである。笑い以外の感情を引き起こすくい違いは、ベイン氏の実証によると、「年老いた人が重い荷物を背負っている場合や、その他の様々な不調和や粗野な不均衡の場合。調子の外れた楽器、蝿の入った軟膏、5月に降る雪、ややこしい幾何学を学ぶアルキメデス、などの調和しない事柄。羊の皮をかぶった狼、約束違反や一般的に言われる虚偽。大勢の人が自分勝手に制裁を加えること、その他全ての無秩序な事柄。祝日の死体、親から子への虐待、恩知らずの子供、などあらゆる不自然な事。ソロモンから与えられた全ての空虚の一覧。以上全ての事柄は、不釣合いであるが、しかしそれらは陽気さではなく、心痛や怒り、悲しみや嫌悪感を引き起こすのだ。」
これらの場合には明らかに違和感があり、その感情の量的にも先に述べた笑いの場合に劣らないものではある。しかし笑いの条件を満たすものではない。既に述べたように、笑いは意識が気付かれることなく、大きな事柄から小さな事柄に向かったときに生じ、「アンチクライマックス」と私達が通常呼ぶものが起きたときに生じるのである。
さらにまた、予期し得ること且つ経験から分かる事ではあるが、「クライマックス」になる不調和もまた笑いにはならず、むしろ筋肉組織に対しては逆の働きをするという事実も考えなければならない。くだらない何かに引き続き、予期せぬ極めて重要な何かが起きたときには、驚嘆と呼ばれる感情が発生する。この感情は、筋肉組織の収縮とは異なり、むしろ緩みを引き起こす。子供達や田舎の人々によく見られる、予期せぬ意外な出来事が起こったときに起きる、開いた口が閉じない、という現象は、この事の実例である。思いがけなかった原因から驚くような結果が生まれたことに驚いている人のことを、「思わず手からものを落とす」とも表現する。つまり、正にこの通りの事が予期できるのだ。普通の精神状態での神経エネルギーは僅かの量ではあるが、時に、何かに集中していきなりそれが興奮させられた場合には、畏怖、恐怖、驚異、感嘆などの感情が起きる。この時には、適切な原因が見当たらないことに伴う驚きの念が伴っているのである。このように起こった精神状態は、それに先立つ状態よりもはるかに大きな神経エネルギーを要求し、それまでの状態を置き換えようとするのだ。この心の変化が要求する神経エネルギーの高まりは、どのような出口へのエネルギーの流出をも一時的になくしてしまうのである。その結果、思わず口が開いてしまったり、溜息が漏れてしまったりするのである。
もう一つ更なる考察をする価値があろう。過剰な感情が解放されるチャンネルの中には、内臓神経組織と呼ばれるものも含まれる。先に見たような「アンチクライマックス」の不調和によって、突然の精神興奮が引き起こされるときには、筋肉組織が刺激されるだけではなく、周知のように、各内臓器官も刺激し、心臓や消化器官もエネルギーの解放チャンネルに加わるのである.従って、陽気な興奮は消化を促進するという通俗な理解には、生理学的に良い根拠があると思われる。
しかしながら上のような事柄を述べると、当面の話題の境界線を越えてしまうことになるが、ここでの研究方針に従うと、笑いの他様々な現象の洞察の道が開けてくると自信を持って指摘することができる。こうした研究を行う重要性を示すために、笑い以外の種類の身近な事例を示唆しておきたい。
誰もが知っているように、多量の感情は一般に知識のある人の行動を左右し、表現力に影響を与える。机や椅子に向かって述べるのは容易だが、同じ事を大衆の前で行なう事はそれほど容易ではない。いかなる学生も、正しく学んだはずのことを教師の前で話そうとすると緊張してしまうという経験があるだろう。この現象は往々、思考の流れが余計な考えによって邪魔され、注意力が散漫になるからであると説明できる。しかし本題は、必要のない感情が邪魔をされるのはなぜか、という点である。このことに対し、我々には明白で納得のいく解答が既に与えられている。復習を繰り返したり、事前に話すべき事をまとめておいたりするための神経の興奮量はそれほど高くなく、また相対的に範囲の狭いチャンネルがあればよいのだ。やるべきことは、前もって準備しておいた思考を、順を追って想起して行けばよいのだ。だからそれほど大量の精神的エネルギーが消費されるわけではない。ところがこの時、突然強い感情が発生し、そのエネルギーを何らかのチャンネルに向けて解放せねばならなくなる。しかし通常よくあるように、実行するべき予定された知的な行動のながれがこの解放に対し充分ではないとなると、事前に予定されていたチャンネルだけではなく、他のチャンネルへの解放が起きる事になる。このように、事前に用意されていたものとは異なる多様な思考が湧き上がり、またこれらの異質の思考が、本来予定されていた思考を押しのけてしまうのだ。
さらに、このような状態で自分本意ではなく起きる身体運動について着目したい。例えば壊れたペンをねじったり上着の縁を押さえつけたり、学生は課題を述べながらもしきりに指を動かす。この時、手を動かさないように指示されてもすぐさま同じような事を始めてしまうだろう。公衆の前で話をする人々が、同じような癖を持つということについて、たくさんのエピソードがある。テープを巻いたりほどいたりし続ける法廷弁護人や、ひっきりなしに眼鏡をかけたりはずしたりし続ける議員。これらの体の動きが無意識であることが、精神の働きを助けているのだ。少なくとも、このような体の動きを止めさせると混乱が生じてしまう、という事実から正当な主張だと考えてよいであろう。ウォルター・スコット卿の物語の中に、授業中ベストのボタンをいじっていた彼の同級生が、そのボタンが取れて課題に答えられなくなったというケースがある。しかしなぜこうした事が思考を助けるのだろうか。それはなぜならば、明らかにそれが神経興奮の中の過剰なエネルギーが思考のチャンネルの中に流れ込んで混乱を巻き起こし易いとしたら、これに運動神経から筋肉システムへのはけ口を与える事により、圧力が減少し、意識の中に余計な思考が進入するのを邪魔されるからだ。
以上の考察からもわかるように、この類の生理学的研究により、多様な現象を解明できるということに間違いないと考えられる。現象を完全に説明するには、意識状態のあらゆる結着をことごとく追うひつようがある。このためには、身体と精神とのあらゆる状態が、あるものは量的に増し、その代わりに別のものが減少するといった状態を、精密に調査することにより研究しなければならないであろう。あらゆるケースにおいて、「全ての神経エネルギーはどこへ行ったか」と問うことから更に学ぶべきであるといえる。
(完)