原文はここです


 ハーバート・スペンサー著 田家菜穂子訳
 「笑いの生理学」 (初出 "Macmillan's Magazine" March, 1860)

 

 どうして我々は子供が大人の帽子をかぶっているのを見て笑うのだろう。またギボンがひざまずいて愛の告白をしたあとで太っているために立ち上がれないで居た、という話を読んだ時に笑いがこみ上げるのだろう。このような問いの答えとして、笑いというのは何か周りの環境に調和していない不自然なものを見たり聞いたりする事によって引き起こされる、とよく言われる。これに対して笑いというものは、極端な喜びや単なる快活さから起きる、という批判は生じる事がなさそうである。しかし、なぜ調和のとれていない事象によって、これらの奇妙な身体行動、すなわち笑いが引き起こされるのか、という本当の問題が残っている。笑いというのは他人を辱める事によって優越感を持ち、その感情に比例して喜びを感じるために起こる、という人もいる。だがこの説では、たとえそこに真実が一部分でも含まれていたとしても、我々は他人が辱められているときに、笑い以外にもいろいろな感情を持つ事がある、という致命的な反論がおきる。そしてまた、我々が上手なダジャレを面白がっているときは誰が辱められているわけではないのに笑っているという事実を説明できるだろうか。それ以上に、ある状況下での笑いに対する考え方の単なる一般化であり、そうした状況下でおきる奇妙な身体運動の説明ではない。なぜ我々が非常に楽しかった時、または予想もしなかった観念の不自然さを発見した時、特に顔と胸の、そして腹部の筋肉の収縮が起きるのか。この問題に対する答えは生理学によってだけ表現されることが可能である。

 子供は足をくすぐられると動かないようにしようとするが、出来ない。また目の前に突然手をだされて、まばたきをせずにいられる人はめったにいない。これらの自分の意志とは関係なく、または意志に反して起こる筋肉運動の例は、くしゃみやせきと同じものとして分類されるが、生理学者が反射運動と呼ぶものが何であるかを説明してくれる。この知覚する事で引き起こされる無意識の運動には、たとえば心臓の鼓動や胃の消化運動といった、知覚しない無意識の運動の例も加えるべきである。さらに昆虫、みみず、軟体動物のような生き物の、一見意識的な行動の大多数を、生理学者は、眼球の虹彩が明るさの変化によって収縮するのと同じように無意識なものだと考えている。そして同様に、求心性神経に与えられた刺激が中枢神経に及び、それから遠心性神経が収縮を起こす1つまたはそれ以上の筋肉に働きかける、という法則が成り立つことを証明している。

 よりくわしく言うとこの原則には自発的な行動も含まれる。神経の興奮は常に筋肉運動を引き起こしやすい。また興奮がある一定の強度まで達すると筋肉運動を引き起こすのである。その状態になると、反射運動においてだけではなく、また知覚するとしないとにかかわらず、ある特定の神経は、間接的につながっている筋肉を刺激する。その時に我々が他人の感情を読み取ることで起こす行動は、考えうるどんな状況下でも神経組織は筋肉組織に対して働きかけているということを表している。そこに意志の力が働いているといるといないにかかわらず、である。風邪をひくとふるえがくるが、そのふるえは不規則な筋肉の収縮を引き起こす。最初は気づかないうちにふるえる事は少ないのだが、風邪がひどくなるとほぼ無意識のうちに起こるようになる。また、指にひどいやけどでもしようものなら、意識を平静に保っていることなどできなくなる。というのは痛みによって顔のゆがみや体の動きが起きるからだ。もし、表情の変化や体を動かす事なしに、良い知らせを聞く事が出来る人がいたとしたら、その人は、実際にはたいして喜んでいないか、もしくはものすごく自制心があるのだろう。どちらの説も喜びは筋肉の収縮を起こし、表情や態度、もしくはその両方を変化させるということである。人が自分の命が危険にさらされたときに、何か偉業、例えば麻痺患者の四肢が、短い期間ではあるが動いた、といった話を聞くことで、我々はより深く神経と筋肉の興奮の密接なつながりを知る事が出来る。感情と知覚によって身体運動が起こり、またそのどちらかが強ければ強いほど、動きの度合いは激しくなるという事実は明らかである。*
  *これらの事例に関しては「音楽の起源と機能」というエッセーを参照されたい。

  しかしながらこれが神経の興奮を伴うただ1つの方法ではない。筋肉と内臓は同じようにその影響を受ける。心臓や血管は(実際、収縮性のある器官はある意味で、筋肉組織といえる)は喜びや苦痛にすぐ影響される、という事を我々は毎日身をもって証明している。どんなものであれ、あせりを感じると心臓は早くなる。心臓と感情が密接な関係を持っていることは、ハートという言葉と感情という言葉を言い換えられることが証明している。消化器官も同様である。この2つの関係についていちいち説明しなくても、消化不良の患者に対して起きる注目すべき利益を述べることが出来る。陽気な集まりに出たり、喜ばしい知らせを聞いたり、環境を変えることで、具合が良くなるということが、楽しい感情が内臓のより活発な働きを促すことを表している。

 また、神経システムの一部の興奮を司る働きを、減少させることもある。そしてそれは興奮の度合いが小さい場合によく起きる。刺激を神経システムのどこか別の部分に伝えているからであろう。我々が落ち着いて考えたり、感じたりしている状態の時に起こるのである。この、意識を形作るための連続した状態は以下のようにして引き起こされる。すなわち感覚が思考や感情を刺激し、これらが、順番にまた別の思考や感情を刺激し・・・、というようにつながっていく。つまり特に神経中枢、もしくはそれに類するものに、緊張が存在すると、それによって我々が何らかの感覚、思考、感情を持ち、他の何か関係のある神経構造の中に同等の緊張がつくりだされる。このようにしてエネルギーの流れが伝達され、ある思考や感情を消し去りながら、また別の思考や感情を生み出していくのである。

 従って、我々が神経中枢の興奮がどのように感情を引き起こすか、つまり身体構造のどこに身体運動力が働きかけて意識を生み出すかを理解できないために、決して解決されることのない謎にぶつかる。しかし、この謎の原因となる形態の連続を、観察によって理解することは可能なのである。神経中枢が緊張した状態で、その緊張を緩和する状態では、中枢にそって3つの経路があること、もしくは3つの段階に分かれている、といえるだろう。それらは身体器官と直接にはつながっていない別の神経中枢に興奮を伝え、新たな感情や思考を作り出す。また、興奮を、1つかそれ以上の運動神経に伝え、筋肉の収縮を引き起こし、さらに内臓器官につながる神経に興奮を伝え、内臓器官を刺激する。

 もっと話を単純化するには、これらの神経の流れをそれぞれ別のものとみなし、神経の流れがそのうちのどれか1つを通ると表現すべきなのである。しかし、これはほぼ意味をなさない。もし、そういうことがあったとしても、神経の緊張状態がただ1つの方向に伝わり、意識や感情を消してしまう。一般にその伝達行動には2種類あると考えられており、3つのうちどれか1つは完全に伝達が全く起こらないというのはありえないと思われる。しかしながら違った環境下での、3種類の経路への、その伝達の比率には、大きな違いがある。人間が恐怖を感じて走り出す時、引き起こされた精神の緊張が筋肉への刺激へと変化する。急速な思考の変化を引き起こす余剰物質が存在する。よくほめ言葉によって心地よい感情が生み出された時に、その連続した感情、思考を引き起こすが、そのために興奮が消費されるのではない。一部は内臓への神経器官をあふれさせ、心臓の鼓動が速くなったり、消化が促進されたりする。そして我々の考えや事実がその特殊な問題の解決への道を開いているのである。

 我々が、感情とよぶ状態を不可解な方法でつくりだすある量の神経力の解放が、ある特定の方向で消費されねばならないことをふまえて考えると、それがそのうちのどれかの経路を取る場合、1つが完全に、もしくは部分的に閉鎖されている時には、その他は空いている別の経路をとらねばならない。また、2つとも閉鎖されている場合には、残っている1つへの解放の割合が増加するだろう。逆に何かの原因により一方向への流出物の量が異常に増加すると、別方向の流出物の割合が減少する。

 日々の経験がこれらの結論を実証している。一般によくいわれることだが、ある感情を抑圧すると、その感情がより強いものになる。最も深い悲しみは沈黙することなのである。なぜだろうか。それは神経の興奮が筋肉運動に解放されることがなく、別の神経に解放されるからだ。こうして、非常に数が多くまた距離の遠い憂鬱な思考の塊を刺激し、その感情の総量を増加させる。怒りを表にださない人々は、大騒ぎをして怒りを発散する人々よりも執念ぶかいとよく言われる。なぜだろうか。それは、感情が反映され、蓄積されることで強まるからだ。同様に、おかしなものに対して鋭い鑑賞力をもっている人は、ひどく真面目な面持ちで、ばからしいことをやったり言ったりできたりする。

 他方、身体運動と密な関係を持つものはすべて、感情を鈍くさせる。我々が非常にいらだっているときには早足で歩く事で心を静めたりする。望むものを手に入れるための努力をし続けていると、その望みに対する執着が薄くなる。不幸に見舞われた後に、何かに熱中しはじめた人は、何もしていない人よりも悩み、苦しむことが少ない。もし、知的興奮の度合いをはかりたいなら、へとへとになるまで走ることが最良の方法だ。また、こういう場合には神経エネルギーが身体活動に向けられることで感情と思考の生産が減少していることに対して、突然の思考や感情に向けられる神経エネルギーが身体運動に対する感情と思考の生産を妨げることもある。もし歩いているときに、ものすごい驚きや希望、警告を生み出すような考えがひらめいたら、立ち止まるかもしくは足を組んで座っていたり、足をぶらぶらさせたりしていると、その運動がとまってしまう。強い精神の動きは内臓器官からエネルギー奪う。喜び、失望、切望、その他道徳的な心の動揺が起きると、食欲がなくなってしまう。もしくは食事をとっても、消化できない。感情ではなく純粋な知的行動の場合にもそれが頂点に達すれば、このようになってしまう。

 事実、これらアプリオリの推論からすると、神経の興奮はどんなときでも感情や意識として表されているのだが、そこにむかって解放された3つの経路のうちのどこかで消費されねばならない。状況によって、すなわち閉鎖されていたり、障害のあるなしによって1つ、2つまたは3つの経路を通り、他方を通るものの減少の割合が増加している。そして逆に何らかの事情によって、一方向への神経エネルギーの流出の割合が増加し、それと対応して別方向の流出物の割合は減少する。これらを前提にする と、笑いという現象に関してどのような解釈が可能なのだろうか。

 笑いというものは筋肉運動の一種の形であり、ある水準に達するとその感情の流れが、その一部を身体運動を通して習慣的に発散している、という一般的な法則を表現しているが、指摘する必要はない。しかしながらどんな種類の強い感情に関しても同じことが指摘されてもよいかもしれない。すなわち、笑いはばかげているだけの感覚の話ではない。さまざまな愉快な感情が笑いの要因に加わるだけでもない。それどころか皮肉っぽい笑い、そしてヒステリックな笑いもあるし、加えて人をくすぐることや、さらにベイン氏によれば、寒さなど何かしら鋭い痛みを与える感覚が原因となることもありうるのだ。

 一般に、激しい感情は精神的にも物理的にも笑いの原因になりうるが、我々は他の筋肉と違って、笑いを引き起こす筋肉運動そのものには目的がないということに注目しなければならない。通常、身体運動は危険から脱しようとしたり、楽しくしようとするときのようなある特殊な感情によって引き起こされる。しかし、我々が笑っているときに起きる胸や四肢の動きにはそういった関連性はない。これらの擬似痙攣性の筋肉の収縮は、コントロールされない神経エネルギーの放出の結果起きる。まず最初にどの段階の筋肉が影響を受け、次の段階の筋肉が影響を受けるか、という特性がどこからあらわれるのだろう。どんな目的もない神経力が流出する場合には、明らかに一番慣れている経路をとる。もしそれが上手くいかなかった場合には次の流出物は、二番目に慣れている経路をとる。ところで、感情が筋肉運動へと変化するのは言葉を使う器官を通してのことが多い。あご、舌そして唇はいらだちや喜びを表現するだけでなく、通常の会話にともなう精神力のゆるやかな流れがはじめに通り道をみつける主要な場所である。それゆえに、唇の周辺の小さくて動かしやすい筋肉が、楽しい、という感情のもとでは一番最初に収縮するのである。その発音の次にあらゆる種の感情によって、活動(もしくは余分な活動を)するのが、呼吸器官である。喜びや痛みなどの感覚があると、呼吸が速くなる。それは血液が酸素を必要とするからである。また我々の努力を必要とする感覚は過呼吸をももたらす。これは明らかに生理学的な要求に対しての反応である。そして感情もまた、それが心地よいものにしろそうでないにしろ、呼吸に影響してくる。良くない結果に落ち着けば、呼吸は遅くなるが。結局、感情が引き起こすいろいろな行動の他の部分よりも呼吸器官の筋肉は感情による影響力が大きい。そして方向性のない神経エネルギーの放出がおきた場合、程度の違いこそあれ、発音や発声のための筋肉だけでなく、肺からの空気を押し出すための筋肉も収縮させるということが起こる。

 これらの筋肉の段階を通ってもまだ発散すべき感情の量が多すぎると(この二種類の筋肉だけでは通り道が十分でない場合)、上半身が動き始める。例えば、子供はよく大喜びで手をたたく。しかし大人の中には手をこする人もいるし、非常に喜んでいると、ひざをたたいたり、前後に体をゆらしたりする人もいる。結局、余剰の神経力の通り道が溢れていると、遠隔の、もしくはそれほど使われていない筋肉が、断続的に影響されはじめる。例えば、頭部を後ろ向きにのけぞらせたり、体をかがめたりということである。それは医者が軽い程度の反弓痙攣と呼ぶものの兆候がみられる。このように笑いという現象のことこまかな点においてまで説明しなくても、全体的にみて、感情は筋肉行動を刺激し、特に目的を持たない筋肉運動が起きる場合は、普段から感情の影響をもっとも多く受けている筋肉が動かされる。そして感情の量が増えれば、多くの筋肉に影響する。それらはきちんと整理されていて、感情の命令によって動くのが大きな筋肉ほど先に動く。これには事実を複雑化する要因として、筋肉のサイズの問題がある。他の条件が同じでも、より小さいほうの筋肉が大きいものより動きやすいはずだからである。

 しかしながら、まだ根本的な問題が残っている。ここで提示されているのは、大きな喜びやひどい痛みによって引き起こされる場合の説明であり、何かおかしなものを見聞きした場合におこる笑いについては解決されていないのである。このような場合、我々が陰鬱な状態から脱する時に笑いが発生するという説明では不十分だが、真実も含まれている。しばしばベイン氏が言っているように、笑いというのは「ちょっとしたことや下品なことに接して笑い、楽しくなることで緊張感から解放される、強制された真面目さや厳粛さのかたち」なのであり、不愉快な感情が断ち切られることで、心地よい気分になるのであることが、これまでの一般原則を表している。しかし、ベートーベンの交響曲がアンダンテからアレグロへ変化する一瞬の静寂が大きなくしゃみによって破られた時のおかしさを説明することはできない。この場合、また多くの同じような場合には、精神的緊張は強制的なものではなく自発的なものであり、その性質は不愉快なものでなく愉快なものである。そして注意が向けられる対象も、あえて避けようとはしない満足をもたらすものなのである。それゆえに不幸にもくしゃみをしてしまった場合に観客が笑い出すのは、単に彼らが退屈から解放されたために起こるとは言えない。なにか他の原因を追求しなければならないのである。

 我々のたどりついた答えをさらに深めてみよう。このような状況下に存在する感情の量について考えてみなければならない。さらにその時に感情が解放される方向を決定する条件についても同様である。例えばあなたは劇場で舞台に熱中している。そしてその舞台がヒーローとヒロインがお互いの誤解をといて分かり合うというような、感動的な最後をむかえる。その場合にあなたが感じるのは解放されたいような感情ではない。むしろその前の誤解のシーンのつらい感情から解放されたという喜ばしい感情である。そしてその登場人物たちが与えた感情はその登場人物がばかにされて嬉しくなるようなものではなく、その逆に悔しくなるような感情である。ところで、あなたが恋人たちの仲直りを一緒になって喜んでいるときに、突然、舞台後方から馴れ馴れしげな子供がでてきて、恋人たちの匂いをかいだ場合、あなたはこの突然の出来事を見て笑ってしまうだろう。このように笑ってしまう事も精神的緊張から解放されたことによる喜びであるという仮説や、他人が恥をかくのをみて自尊心が満たされ快感を感じるという仮説では説明することはできない。それよりもこのような場合、不協和が発生した瞬間に我々にどのような感情が生まれたのかを考える方が簡単に説明できる。膨大な量の感情が発生する。言い換えれば、神経組織の多くの部分が緊張状態にあることになる。また舞台の進行に対して大きな期待を寄せている。次に起こることに対して、たくさんの思考と感情が起こり、それに対して、現在の思考や感情が流れ込もうとしている。もしそれが中断されなければ、次に向かって興奮している思考と感情が、解放された神経エネルギーに吸収されていく。しかし、この大量の神経エネルギーは生まれつつあった新しい思考や感情に流れ込んでいくことを突然止められてしまう。そして解放されようとしていた経路が閉ざされてしまう。子供の出現によって開かれた経路はとても小さく、思考と感情は神経エネルギーが解放されるためには、数も量もとてもたりない。そのために余分な神経エネルギーは別の経路を通して解放されなければならない。そこですでにのべたように、この余分なエネルギーが運動神経をへていろいろな筋肉運動を引き起こし、笑いという痙攣的な筋肉運動を起こすのである。

 これらの説明は数人で同じおかしな出来事を目撃しても笑わない人もいるという事実を説明している。というのは誰かが転ぶのを見ても笑わない人は転んだ人に同情しているのであり、その同情心によって、前に起きた事と、目の前で起きた事が連続せず、それによって引き起こされた感情がのみこまれてしまったのである。怒りも起きた感情を押し殺し、笑いを妨げる時がある。私の友人が経験したことだが、フランコーニのサーカスを見ていた際、芸人が何頭もの馬を飛び越す演技を披露した。そしてこの演技が上手くいったのをみていた道化が、大袈裟な準備運動をし、一生懸命馬のところまで走っていったが、馬の手前でとまってしまった。そして、照れてお尻のほこりをはらってみせた。多くの観客はこれをみて拍手喝采だったが、飛んで見せるものと思ってみていた友人は怒った。このようなことから、上記の説明が正しいことがわかる。すなわち、感情が昂ぶって筋肉組織に向かって解放されるのは、他に適当な経路が存在しないためであり、その昂ぶりと同じ量の別の感情が起これば、そのようなことは起こらないということだ。

  決定的な証拠として以下の事が挙げられる。笑いを引き起こす不自然な現象とそうでないものを比較してみよう。後者の不自然さの場合、突発的な感情が発生し、笑いとは性質こそ違うが量や鋭さは同様の関係にある。ベイン氏の言葉で笑いという感情以外を引き起こす不自然さを説明してみよう。「老人が荷物を背負っていたり、雑踏の中でパン5本と魚2匹を持っている場合、他にも種々の不自然さやはなはだしく不釣合いな場合、音程の狂った楽器、ハエの入った軟膏、5月に降る雪、幾何学を学ぶのに苦労しているアルキメデス、等々の不自然さ。羊の皮を着たオオカミ、契約の破棄、その他一般に嘘と言われるもの。大人数で勝手に振りかざす法律、その他たくさんの無秩序。お祝いのときの死体、子供の虐待、恩知らずな子供、などの不自然なこと全て。ソロモン王の数々の虚栄。これらは全て不自然なことであるが、痛み、怒り、悲しみ、嫌悪感の原因となり、喜びを引き起こすわけではない」これらの場合、突如生み出された意識の状態は全く違ったものであり、その量において前述の笑いに劣るものではないが、笑いの条件を満たしてはいない。前例にみるように、笑いは意識される物事が大きな事柄から小さな事柄に変化するときに起こるものであり、我々が「アンチクライマックス」と呼ぶものが起きたときに生じるものなのである。

  また、これは前もって推察できるし、経験上わかることだが、「クライマックス」による不自然さも笑いを引き起こすことは出来ないし、むしろ逆の効果を筋肉組織に与えてしまう。何か取るに足らないことが起きた後に、予想もしない重大事が起きた場合は我々が驚嘆と呼ぶ感情が発生する。そしてこの感情は筋肉組織の収縮を伴うのではなく、弛緩を引き起こす。よく子供や田舎の人が予想すらしていなかった事態を目撃して口を大きく開けてしまう現象はこの効果の実例である。また思いがけないことから生じた結果によって、あっけにとられている人のことを「思わず手からものを落とす」と表現する。まさに予期した通りのことが起きているのである。

  意識の状態がいつもどおりで、神経エネルギーがほんの少しの量でも他に流れている時に、意識せずともそれが刺激された場合には畏怖、恐怖、驚嘆などの感情が起きる。それに対して満足のいく原因がないことで驚きを伴うのである。この新たな精神状態はその前段階よりもずっと大量の神経エネルギーを要求し、それまでの状態を変えようとする。そしてこの精神の変化に置ける神経エネルギーの増加は、他の出口への流れを一時的にではあるが減少させてしまう。そのために口が開いてしまったり、ため息をついてしまったりするのである。

  またもう一つの考え方をあげても良いだろう。余分な感情のエネルギーが放出される経路のいくつかには内臓神経組織というものがある。突然の精神の興奮が前述のような「アンチクライマックス」によって起きる場合はおそらく筋肉組織だけでなく、内臓器官も刺激される。心臓や消化器官もエネルギー放出を行うのである。そしてそのために一般によく言われる、愉快な感情は消化を促進するという説にはきちんとした生理学的な裏づけがあるのということができる。

  上のようなことを述べると、この話題をそらす事になるのだが、この研究方法に従っていけば、笑いのほかのたくさんの現象の説明をつける道が開けるだろう。このように問題を突き詰めていくことの重要性を示すために、笑い以外の身近な事実をとりあげよう。

  一般に膨大な量の感情が知識人の行動を妨げ、そしてまた表現力に影響を与えることは良く知られている。机やイスに向かってスピーチするのはごく簡単なことだが、同じように観客に向かってスピーチするのはそう簡単なことではない。どんな学生でも先生の前に立って自分の学んだことを上手く話そうとするとあがってしまう。これは見当違いの考えによって確かな考えの流れが滞ってしまうからである。すなわち、注意力が散漫になるからだといわれる。しかし、問題なのは、いつもとは違う感情がこうした効果を生み出す事にある。そして我々には

納得のいく明白な答えが与えられている。反復学習や、スピーチを前もって準備するために使われる神経の興奮度はそれほど高くはないので、比較的狭い経路を通る。またしなければならないことは、前もって用意してある考えを順々に思い出すだけなので、それほど多くの精神エネルギーを必要とはしない。それゆえに大きな量の感情が流れるとき、その感情をどこかの経路を通じて放出しなければならなくなる。しかし通常よくあるように前もって予定されていた知的行動が満たされないことになると、その結果として予定されていた経路以外のものにも放出される。このようにして用意されていたものとは別のいろいろな考えが起こり、本来予定していた考えをなくしてしまうのである。

  また、このような状況のもとで自然とおこる身体運動に着目してみたい。学生は課題を発表しつつも、同時に指をもぞもぞと動かしているだろう。壊れたペンをねじってみたり、ジャケットのふちをつかんだりしている。そしてもし、手を動かさないようにといわれても、再度

同じような、もしくは似たようなことを始めてしまうだろう。公衆の前で話をしなければならない人が同じような癖をもっているというのはよく知られている。たとえば法廷弁護人がひっきりなしにテープをまいたりほぐしていたり、議員が眼鏡をつけたりはずしたりを繰り返したり、といったことである。これらの動きが無意識で行われている限り、精神の動きを助けているのである。少なくともこれらの動きをやめさせることで混乱が生じるという事実からも正当な主張だといえる。例としてウォルター・スコット卿のクラスメートの話がある。授業中にいつもベストのボタンを弄んでいた彼は、そのボタンがとれてしまったあと、質問に答えられなくなってしまったという。しかし、なぜこのようなことが思考を助けるのだろうか。なぜならば余計な神経の興奮の一部を取り除いてくれるからである。もし、今まで述べたように、生み出された精神エネルギーの量がそのために開かれたせまい思考回路よりも大きければ、また余分なエネルギーが思考の経路に流れ込んだために混乱が引き起こされるとすれば運動神経から筋肉構造へと出口を与えることで圧力が減少し意識の中に余計な考えが進入するのを防ぐ事ができる。以上のことからこの種の生理学的研究を追及することで何かしらの現象を解明する事が出来ると思う。現象を完全に解明するには意識の状態の結果を全て追跡しなければならない。我々はどんな場合においても「全神経エネルギーはどこへ行ったか」と問うことから多くのことを学ぶべきなのである。

(完)

 法政大学社会学部
 田家菜穂子: <nahoko05@bc4.so-net.ne.jp>