ハーバート・スペンサー著 奥谷雄一訳
「笑いの生理学」 (初出 "Macmillan's Magazine" March, 1860)
子どもが大人の帽子を被ると、私たちは何故笑うのだろう。また、肥満したギボンが微妙な問題に関する表明を行なった後、立ち上がることができなかったというのを読んだとき、私たちに笑いを引き起こさせるものは何なのだろうか。このような質問に対する一般的な返答は、笑いは不調和を認識することによって生まれる、というものである。この返答は、笑いは極度の喜びや単なる陽気さによって生じるのだ、と批判を受けることはないが、それらの独特な肉体的行動に伴う不調和の感覚はどのように生じるのかという真の問題は残されたままである。ある人は、笑いは他人が恥をかくのを見たときに感じる相対的な自己上気のために生じると主張してきた。しかし、第一に、この論理は、たとえそれが真実の一部を含んでいるとしても致命的な反論を招く。それは、笑い以外のものを私たちに引き起こさせる、他人についてのさまざまな恥が存在するということだ。第二に、この論理は体面というものが全く関わらないような多くの場合には当てはまらない。たとえば、おもしろいだじゃれを笑うようなときである。さらに、それは笑いのある状況の単なる一般論であって、笑いの状況下で生じる奇妙な動きの説明にはなっていない。大いに喜んだときや予期しない理想との対照に印象づけられたとき、顔の特定の筋肉や、胸や腹の筋肉は何故収縮するのか。この質問への返答は生理学によってのみ可能であり、与えられる。
子どもは皆、足をくすぐられると足を動かさないようにしようとして失敗する。また、手が突然目の前を通り過ぎるとき、まばたきをしようとしない者はほとんどいない。意志から独立して生じるこれらの筋肉の動きの例は、くしゃみやせきと同様、生理学者が反射作用と呼んでいることを例証する。無意識の行動が感覚に伴って生じるというケースには、無意識の行動が感覚に伴わずに生じるというもう一つのケースが加えられなければならない。例えば心臓の鼓動や消化時の胃の収縮といった場合である。さらに、全く自動的であると生理学者にみなされている、昆虫や寄生虫や軟体動物のような生物の一見意識的な行動の大部分は光の量のバリエーションの中で生じる虹彩の拡大や縮小であり、それはまた、求心性の神経の末端における感覚は中枢神経へ伝えられ、そこから遠心性の神経に沿って、収縮を生じさせる諸処の筋肉へ伝えられる、という考えを例証する。
形を変えて、この原理は意識的な行動に合致する。神経性の刺激は常に筋肉の動きを生じさせる傾向があり、それ(神経性の刺激)がある激しさを引き起こすときはいつも筋肉の動きを生じさせる。反射的な行動において、感覚の有無に関わらず特別な神経が緊張状態を引き起こすとき、それ(特別な神経)はそれ自身を間接的に関連している特別な神経へ解放する、ということを私たちは知っている。それだけでなく、私たちは、他者の感情を読み取るというあの外部的な行動から、極度の緊張下において、一般的な神経系統はそれ自身を一般的な筋肉系統へ解放するということも知っている。それは意志の誘導の有無に関わらずである。風邪によって生じる震えは、初めはごく一部無意識であるが、その風邪が深刻になるとほとんどが無意識なものになるという不規則な筋肉の収縮を示している。あなたが指にひどい火傷を負ってしまったとき、威厳ある落ち着きを保つのはかなり難しいだろう。すなわち、顔の歪みや手足の動きが伴うのはまず間違いない。もしある人が顔の変化も身体の動きもなく良いニュースを受け取ったとしたら、実は彼はそれほど喜んでいないか、異常な自己規制の持ち主であるということが推測される。喜びはほとんど普遍的に筋肉の収縮を引き起こし、表現や態度、あるいはその両方に変化を与えると考えられるからである。私たちは、生命が危機にさらされたときに発揮される火事場の馬鹿力というものを知っている。また、絶望のエネルギーによって、麻痺した患者でさえ、しばらくの間、手足の動きを取り戻すということも知っている。つまり、私たちは神経性の刺激と筋肉の刺激との関係をよく知っているのである。感情と感覚は身体の動きを生じさせる傾向があり、その動きは感情や感覚が強くなるにつれて強くなるということは明らかなのだ。*
*多くの例証を『音楽の起源と機能』の中のエッセイに載せた。しかしながら、これは神経性の刺激がそれ自身を使い果たす唯一の傾向ではない。筋肉と同様、内臓もまた解放されるのだ。収縮性のものであり、ある意味において筋肉系統と同類とみなされる心臓や血管が喜びや痛みにすばやく反応するということを私たちは日々私たち自身証明している。激しさという感覚はすべて脈拍を加速させる。心臓が感情に対してどんなに敏感であるかということは変換可能な言葉としてのハートとか感情というよく知られた表現によって証明される。消化器官も同様である。それらが私たちの精神状態に影響されるさまざまな場合を詳述するまでもなく、愉快な気持ちがどのように内臓を刺激し活発にさせるかを示すには、他の病人と同様、消化不良の人が楽しい交際や歓迎すべきニュースや場面の変化を体験することによって引き出される顕著な幸福について言及すれば十分である。
また、そこには神経系統のある興奮した部分がそれ自身を解放するという、もう一つの機能がある。すなわち、刺激が強くないときには、それ自身を解放するという機能である。それは神経系統の他の部分に対する刺激物となる場合があるのだ。これは微少な思考や感情において生じるものである。自覚するという連続した状態は、その結果なのだ。感覚が思考や感情を刺激し、その働きが他の思考や感情を喚起するというような連続性である。特定の神経中枢やその集まりにおける緊張が私たちにある感覚や思考や感情を生じさせるとき、それはそれと関わりがある他の神経組織に同等の緊張を生じさせる。流れ行くエネルギーや、ある思考や感情は次のものを生みだす中で消えていくのだ。
したがって、私たちは、ある神経中枢の刺激がどのように感情を生みだすのかを理解することは全く不可能であるし、肉体組織に働く肉体的動因による意識を生みだす中で、私たちは決して解決されないような神秘を見る。しかし、この神秘がつくりだす連続した形が何であるかを観察することによって知ることは十分可能である。私たちは、緊張状態にある神経中枢がそれ自身を解放する3つの経路が存在することを 知っている。いや、むしろ、3つの経路の段階と言うべきかもしれない。まず、神経中枢が肉体組織と直接は関わりをもっていない他の神経中枢への刺激となって他の感情や思考を生じさせ、次に、1つ、またはそれ以上の運動神経への刺激となり筋肉の収縮を生じさせる。さらに、内臓に働きかける神経への刺激となり、その1つ、またはそれ以上の神経を刺激するのである。
簡潔にするため、私は神経の影響力が及ぼす、あるルートについて記述しなければならない。それによって、そのような流れはそれらのうちの1つに専ら制限されるということが示されるかもしれない。しかし、これは全く事実に反するものである。緊張状態にある神経がそれ自身を1つの機能のみに使い果たすということは、ごく稀である。全く一般的には、それ自身を2つの機能に使うということが見受けられる。また、その解放がその3つのうちのいずれにも行われないということは、ほとんどあり得ない。しかしながら、その解放が異なる状況下で異なる経路に分かれる割合は多様である。ある人の恐怖心が彼を走らせるという場合、その精神的な緊張は唯一、筋肉の刺激物へと変化する。そこには急激な思考の流れを生じさせる余剰が存在する。愉快な感情は次の段階の感情やそれにふさわしい新しい思考を生みだすだけでなく、あ る部分は内臓の神経組織へ溢れ出て、心臓の鼓動を増加させ消化を促進させる。ここで、私たちは特別な問題を解決する道を開く考慮や事実の段階を知るのである。計り知れない道筋で私たちに感情を引き起こす多くの解放された神経力がそれ自身をある方向へ費やすという事実から始めると次のようなことが言える。すなわち、いくつかの経路のうち1つが全体的あるいは部分的に閉ざされると、より強い解放が他の経路へ向かうにちがいない。また、2つの経路が閉ざされると、残り1つを通る解放はさらに強烈になるにちがいない。逆に言えば、1つの方向に普通でない流出が起こると、他の方向への流出は減少するということである。
日々の経験がそれらの結論を例証している。感情の外的動作の抑制がより強い感情を生みだすというのは一般に言えることである。最も深い悲しみは静かな悲しみである。なぜか。なぜなら、筋肉の動きへ解放されない神経の興奮は他の神経の刺激へ解放されるからである。すなわち、それはより多くの、より間接的な悲嘆的思考を連想させ、多くの感情を増加させるのだ。自分の怒りを隠す人は、大声を上げたり激しい行動によって爆発させる人よりも習慣的により執念深くなる。なぜか。なぜなら、前述のように、感情は逆流し、蓄積して、激しさを増すからである。同様に、その表現力によって証明されているように、喜劇について最も鋭敏な鑑賞力を持つ人は、たいてい完璧な威厳をもって最も滑稽なことをしたり言ったりすることができる。
一方、すべての人は身体的活動が感情を和らげるという事実をよく知っている。激しい怒りの下で、私たちは、すばやく歩くことによってそれを緩和させる。望み通りの終焉を迎えようとする極端な努力は願望の激しさを大幅に減少させる。不運の後に努力する人は、しない人ほど多く悩まない。もし、ある人が知的興奮を測りたいと望むなら、彼は疲れ果てるまで走るということ以上に効果的な方法を選ぶことはできないだろう。さらに、感情や思考の発生が、身体の動きへ向かう神経エネルギーを左右することによって妨げられるというこれらの場合は、身体の動きが、突然の思考や感情における神経エネルギーの余分な吸収によって妨げられるという対応する場合を持っている。歩いているとき、あなたに大いなる驚きや希望や警告を想起させるような考えがひらめいたら、あなたは立ち止まるだろう。また、足を組んで座ったり、ぶらぶらさせたりしていたら、その動きをすぐに止めるだろう。激しい精神の動きは内臓からエネルギーを抽出する。喜び、失望、心配、その他極度に生じる心的動揺は食欲を破壊するのだ。食糧を充分に取ると消化は止まる。純粋な知的活動でさえ、極端な場合はそのようになる。
また、これらの推論が正しいとすると、神経の興奮が感情のような意識を与えるという事実は、それ自身をある方法へ導く。3つの経路の分類のうち1つが開くと、それは状況に応じて1つ2つ、あるいはそれ以上のものを受け取るにちがいない。1つの経路の閉鎖や支障は他の経路への解放を増加させるにちがいない。逆に言えば、もし1つの方向への神経エネルギーの流出が異常に多くなると、それに対応して他の方向への流出は減少するにちがいないのである。これらの前提から考えると、どのような解釈が笑いという現象を説明し得るのか分かる。
笑いは筋肉の興奮の1つの形であり、感情は習慣的にそれ自身を身体の動きへ発散させるという一般的法則を例証する。このことは取り立てて指摘する必要はないように思われる。しかしながら、ある種の強い感情がこの結果を生じさせるということは指摘する必要があるだろう。滑稽なことをするということだけが滑稽さを意味するのではない。楽しいという感情のさまざまな形が唯一の付加的要因ではないのだ。私たちは嘲りの笑いや精神的苦痛から生じるヒステリックな笑いというものも持っている。それには、くすぐったいという感覚も加えられなければならず、ベイン氏によれば、風邪やある種の激しい痛みも同様に加えられなければならない。
強い感情あるいは精神的、肉体的なものが笑いの一般的要因であると言うとき、私たちは、笑いを成す筋肉の動きは他のことを成す筋肉の動きとは区別され、それ(笑いを成す筋肉の動き)は目的を持っていないということに留意する必要がある。一般に、感情によって刺激される身体的動作は特別な目的に向けられる。すなわち、危険を回避しようとしたり満足感を守ろうとするような場合である。しかし、笑うときに生じる胸や手足の動きは目的を持っていない。それらの準発作的な筋肉の収縮は目的を持っているのではなく、抑制されていないエネルギーの解放の結果であることは明らかであり、私たちはその特別な性質がどこから生じるのか知ることができるかもしれない。すなわち、筋肉のある組織がまずどのように影響され、そして他の組織が影響されるのか、である。ある動機によって向けられるのではない神経力の流出は最も習慣的な経路をまず通るだろう。もしそれが充分でなければ、次に習慣的な経路へ流出するだろう。それは感情が最も頻繁に表れる発声器官を通る。顎や舌や唇は強い苛立ちや満足感を表現するためだけに使われるのではく、普通の会話における精神的エネルギーの中程度の流出が、この組織を通ってその主な捌け口となる。したがって、口の周りの筋肉がまず愉快な感情のもとで収縮する。発声器官の次に、すべての種類の感情によって絶え間なく動きを起こさせられる筋肉の組織は呼吸器官である。愉快さや痛みのもとでは、私たちはより速く呼吸をする。それは血液に酸素を供給するために増加した要求なのだろう。また、激しい活動に伴う感覚は激しい呼吸を引き起こす。それは明らかに生理学的欲求に対する反応である。まず、愉快な感情も不愉快な感情も呼吸を刺激する。しかし、不愉快な感情は後に呼吸を落ち着かせる。呼吸器官の筋肉は感情が駆り立てるどんな動作よりも絶え間なく関係している。したがって、筋肉組織に無関係な神経エネルギーの解放が生じるとき、もしその量が相当なものであれば、関節や声帯の筋肉だけでなく肺から空気を抜き出すための筋肉にも強く作用する。費やされる感情は、あまりにも多すぎてそれらの筋肉組織では賄いきれないほど、残っているはずである。それは身ぶりに表れる。子どもはしばしば喜びによって手をたたく。大人は手を擦り合わせる。また別の大人は大喜びするとひざをぴしゃりと打ち、身体を前後に揺らす。最終的に、余剰した神経力の抜け道のための他の経路が溢れ出るほどいっぱいになると、より遠く、いまだ使われていない筋肉が発作的に影響される。つまり、頭がガクンとなったり、内臓がぎゅるぎゅると動いたりするのである。そこには医学的には痙攣と呼ばれるものがわずかに存在する。したがって、私たちはそのような細部における笑いという現象についての説明を議論することなく、総体において、それらは一般的原理に従っているということを知っている。すなわち、感情は筋肉の動きを刺激するという原理である。筋肉の動きがある目的に導かれるのではない場合、最初に影響される筋肉は感情が習慣的に刺激している部分である。費やされる感情の量が増えると、それは多くの筋肉を刺激する。それは感情の命令に反応する相対的頻度により連続的に決定される。また、その加減や複雑さの要因には筋肉の相対的な大きさが加えられなければならない。なぜなら、他の条件が等しければ小さな筋肉は大きな筋肉より容易に動かされるからである。
しかしながら、そこにはまだ私たちが説明していない問題が残っている。ここで与えられた説明は、大いなる喜びや激しい痛みによって生じる笑いにのみ適用される。すなわち、ある不調和を認識することによって生じる笑いには適用されないのである。このような場合(不調和を認識する場合)において、笑いは、厳粛な感情という抑制から逃れたときに湧き起こる喜びの結果である、というのは不十分な説明である。確かに、それは真実の一部ではある。ベイン氏が言うように、非常にしばしば「平凡さや俗悪さとの接触が私たちを楽にさせるような堅い立場を与えるのは、まじめさや厳粛さといった強要された形である。」そして、楽しい笑いは、不愉快な精神的緊張の停止に続いて起こる心地よい感情が噴出することによって生じ、そのことは前に述べた一般的原理を例証する。しかし、ベートーベンの交響曲中のアンダンテとアレグロの間のわずかな静寂がくしゃみによって破られたときに生じる笑いに対しては何ら説明になっていない。この場合、精神的緊張は強制的ではなく自発的、不愉快ではなく愉快なものである。つまり、その緊張から逃れたいと思う人はほとんどいないであろう。さらに言うと、不運にもくしゃみが起きたときの観衆の笑いは、単に、うんざりした気分からの解放ではない。何か他の原因があるはずである。
私たちは分析を進めることによってその原因に到達できるだろう。まず、そのような状況における感情の量を熟慮しなければならないし、その(感情の)解放の方向を決定する条件は何なのかを問う必要がある。1つの場合を取り上げてみよう。あなたは劇場で座っていて、面白い演劇の進展に夢中になっている。そして、あなたの共感を呼ぶクライマックスのとき−−−長く、つらい誤解の後のヒーローとヒロインの和解である。この場面によって湧き起こる感情は、安堵を求めていたという種類のものではないが、前の仲違いを目撃したときのつらい感情からの大いなる解放なのである。さらに、架空の登場人物があなたに抱かせてきた情感は、あなたが侮辱を喜ぶというようなものではなく、むしろ、侮辱に憤慨するというものなのである。そして今、あなたは喜ばしい共感を持ってその和解を見つめている。すると、舞台の後ろから1人の馴れ馴れしい子どもが現れ、観衆を見渡しながら恋人たちのほうへ近づいていき、彼らのにおいをかいだ。あなたは、この不幸な出来事に居合わして大笑いに参加せざるを得ないだろう。このことは、精神的抑制から逃れたとき、喜びが湧き起こるという仮説を打ち破る。あるいは、他人の恥を目撃したとき、相対的に尊大さが増加し喜びが湧き起こるという仮説を打ち破る。そのような場合、何が不調和が生じたときに存在する感情になったのかということは全く説明可能である。すなわち、膨大な感情が生じ続けてきたのである。生理学用語で言うと、神経組織の大部分が緊張状態にあったのである。そこにはまた、話の展開に対する大きな期待があった−−−思いついては消えていく、あいまいな思考や感情である。妨害するものは何もなく、次に湧き起こる新しい考えや感情は、解放された神経エネルギーすべてを吸収するのに十分である。しかし今、この多量の神経エネルギーは、同量の生まれかかった新しい思考や感情を生み出すのに費やされ、突然その流れを阻止される。解放が起ころうとしている経路は閉ざされる。そして、開かれた経路−−−子どもの登場と前進によって開かれた−−−は小さいものである。湧き起こった考えや感情は神経エネルギーを使い果たすほど巨大で膨大ではない。それ故、(神経エネルギーの)過剰分は他の方向へ解放される。その結果、それは運動神経を通ってさまざまな筋肉組織へ流出し、私たちが笑いと呼ぶところの半発作的な行動を生じさせるのである。
この説明は、同じ滑稽な出来事を目撃した何人かの中で、笑わない人がいた場合、それは彼の感情が生まれかかった興奮を解放するのに十分大きいからである、という事実に一致する。厄介な混乱状態にある観客の中で、厳粛さを維持する人は、苦悩している人に対する共感の程度が感情のはけ口の範囲内なのだ。ときどき、怒りは止められた流れを奪い去る。すなわち、怒りが笑いを妨げる場合がある。最近、その1つの例が、フランコニーにおける妙技を目撃した友人によって供給された。ちょうど、驚くほどの跳躍が、多くの馬の上を越えるという曲芸によってつくられるところだった。見かけはこの成功にねたましそうな道化役が、これ見よがしにその準備をしていた。彼は猛然と走り出し、最初の馬のすんでのところで止まった。そして、尻の汚れをはらうしぐさをした。居合わせた観客の多くは笑いさざめいた。しかし、私の友人においては、跳躍が行われることに対する期待から非常な緊張状態にあって、その妨害の効果は憤慨を生み出すところだった。したがって、経験は、論理が何を含意するか証明する。すなわち、筋肉組織において止められた感情の解放は、他の適当な経路がない場合にのみ起こる−−−止められた感情と同量の他の感情が生じた場合は起こらない。
より決定的な証拠がまだ存在する。笑いを生み出す不調和と笑いを生み出さない不調和を比較対照すると、滑稽でない不調和の場合には、湧き起こる予期せぬ感情はより少なく、激しさを伴わないということが分かる−−−子どもにおいては全く異なるけれども。笑い以外のものを呼び起こす不調和として、ベイン氏は以下のことを例に引く−−−「重い荷物を担ぐ老人、大群衆の中の5つのパンと2つの魚、そしてすべての不似合いとひどい不均整。音の外れた楽器、玉に瑕、5月の雪、包囲攻撃の中で幾何学を勉強するアルキメデス、そしてすべての不協和音。羊の皮をかぶった狼、契約違反、そして一般的な嘘。多くの私的制裁、そして無秩序な性質のすべて。祝祭における死体、親の無慈悲、子の恩知らず、そして人道に反することは何でも。ソロモンによって与えられた虚栄完全目録。これらはすべて不調和であるが、笑いよりむしろ痛みや怒り、悲しみや嫌悪といった感情を生じさせる。」これらの場合、全く異なる意識の状態が生じた場所は前述のそれより下位ではなく、笑いへの方向は果たされないのだ。笑いは、意識が多数のことからわずかなことへ不意に移されたときにのみ自然と生じる−−−私たちが不意の不調和と呼ぶ場合にのみである。
最後に、上昇的な不調和は笑いを生じさせないばかりでなく、筋肉組織において、逆の種類の結果をもたらすという事実を観察してみよう。非常にささいな出来事の後、予期せぬ多くの感情が生じることがある。その感情は、筋肉の収縮ではなく、その弛緩に伴うものだ。子どもや田舎の人において、強い印象を与えるような変化を目撃したときに口をぽかんと開けるのは、その結果を例証している。また、不適当と思われる要因によって生じた結果を目撃して、あっけにとられている人は、しばしば無意識に手に握っていたものを落とす。通常の意識状態であっても、わずかな神経エネルギーが解放されると、意図することなく、畏怖や恐怖、感嘆といった強い感情が生じる。つまり、適切な原因を欲するがゆえに、驚きと結びつくのである。この新しい意識状態は、それが突然取って替わったエネルギーよりも、神経エネルギーを強く欲する。そして、精神的変化において、この増加した神経エネルギーの吸収は、他の方向への流出の一時的減少を伴う。そのために、口をぽかんと開けたり、握っていたものを落としたりするのである。
また、もう1つの観察も意味あるものである。余剰の感情が解放される、いくつかの一連の経路は内臓の神経組織と名付けられた。これまで見てきたように、下降する不調和から生じる、抑えられていた精神的興奮の突然の流出が、筋肉組織だけでなく、内部器官も刺激するというのは疑いようがない。すなわち、心臓や胃がその(精神的興奮の)解放を受けるのである。したがって、笑いをつくり出す興奮が消化を促進するというのは、一般的理解にとって、よい生理学的根底であるように思われる。
目下の話題の範囲を超えるけれども、ここで後に示す考察は、笑いに関する理解に加えて、さまざまな現象に関する理解を可能にするということを指摘しておきたい。それを追求することの重要性を示すため、私はもう1つの類似した事実に関する説明を明らかにするつもりである。
すべての人が、非常に多量の感情が、どのように理知的行動を妨害し、表現力を妨げるか知っている。席についていれば非常に上手く演説できても、観衆の前では容易ではない。すべての児童は先生の前に立つと、恐怖心によって、十分に習ってきた内容を繰り返し言うことができなくなる。この説明において、一般に、注意はそらされる、つまり、思考の連鎖は不適切な思考の干渉によって破壊されるということが言える。しかし、ここで問題なのは、どのようにして奇妙な感情がこのような結果を生むのか、ということである。私たちはそれに対してかなり明らかな解答を得ることができる。学習内容を反復するとき、比較的狭い経路を通って適当な量の神経の興奮が流出する。それは単に、あらかじめ整理された考えを連続して呼び起こすだけであり、それほど多量の精神エネルギーが使われる過程ではない。それゆえ、多量の感情がある場合は、ある方向あるいは他の方向へ解放されなければならない。そして、しばしば起こるように、制限された一連の理知的行動は、それ(多量の感情)を奪い去るのに十分ではないのである。その結果、規定された経路(理知的行動)に加えて、他の経路への解放が生じるのだ。つまり、そこには追求されるべき連続した思考とは異質なさまざまの考えが存在する。そして、それは、意識下に置かれるべき思考を排除する傾向があるのだ。
次に、さまざまな状況下で自然に発生する身体的行動の意味について検討してみよう。学習内容を暗誦している児童は、たいてい指の動きを伴っている。おそらく、ペンを回したり、上着を握り締めたりする。そして、もし彼の手がまだ動き続けていたら、彼は同じあるいは類似した手品に陥るのだ。多くの逸話が、この不治の無意識的行動を行う演説者によって広められている。すなわち、テープの部分部分を絶え間なく巻き、そしてゆるめる法廷弁護士である。また、議会のメンバーは眼鏡をかけたり外したりする。そのような行動が無意識である限り、それらは精神的行動を促進する。少なくとも、それらの行動が止まったときにしばしば当惑が生じるという事実を見ると、このことは正当な推量であるように思われる。すなわち、授業中、習慣的に指で触るベストのボタンへ指を動かした後、学習内容を暗誦できなくなった同窓生について、ウォルター・スコット卿が語られていた場合である。しかし、なぜそれらは精神的行動を促進するのだろうか。それは明らかに、それらが余剰した神経の興奮の一部分を流し出すからである。生じた精神エネルギーの量が、思考という狭い経路で解放可能な量より多い場合は、それは解放されないままになる。そして、結果として、それが他の思考の経路へ突き進むと、混乱が生じる傾向があるのだ。つまり、精神エネルギーが運動神経を通って筋肉組織へ解放されると、圧迫感は減少し、余計な考えが意識を占領することが少なくなるのである。
この例は、この種の心理学的調査を他の場合においても追求すれば、何か得るものがあるという見解を証明するだろうと思う。私たちは、現象について完璧な説明を行うことによって、意識状態のすべての結果を追求しなければならない。そして、それは、どのような犠牲を払ってでも、さまざまに変化する身体的、精神的効果を研究することなしに行うことは不可能なのである。おそらく、私たちは、すべての場合において次のことをさらに追求する必要がある−−−すべての神経エネルギーはどこへ向かうのだろうか。
(完)