ソースターン・ベブレン著 AJS. vol. 4 (1898-9)収録
飯田 哲訳
現在一般に考えられている経済理論においては、所有の根拠とは通常、所有者の生産活動にあるとされている。この考えは、何の疑問を抱かれることもなく、財産の原理として正当であるとされている。有用な物品を生産する者は、それを所有し、そこから得られる利益を享受してしかるべきだというのである。このことに関しては 社会主義者と古典的経済学者―経済思想における二大対極―は、本質的に同一の思想を持つ。現在に至るまでこの考え方が論じられたことはなく、まさに自明の理とされてきた。社会主義者にとってこの考えは、労働者の生産物ははすべてその生産者が得るべきであるというその主張の根幹を成しており、また、古典的経済学者にとってはおそらくこの考えは価値を持つものであるとともに厄介な問題でもあったであろう。「資本家が”生産者”として物品を所有する原理」、および「労働者がその生産物を獲得する正当性」といったことを説明するために、彼らは常に頭を悩ませつづけてきたのである。産業とは関係がない数少ない例は、通常とは異なった状態であると認識され、不確定要素のために発生するとされている。しかし、特殊な場合を除いて、生産物への寄与の度合い及びその他何らかの理由によって人物が受け取る富の量が決定されるという本質的な点が問われたことはほとんどないのである。
今日では、所有者の生産活動は所有の確固たる根拠となっているばかりではなく、財産の由来も同じように、未開の狩猟民族(鹿二頭、カワウソ一匹、あるいは魚十二匹を受け取る)の生産活動にまでさかのぼって考えられている。しかし、財の発生の歴史は、経済学者の記すものとはまったく異なり、必然的な「自然の摂理」という思い込みや「生来の権利」といったものとはかけ離れて構成されていると推測される。所有の概念という問題の解決法についてそれほど関心を抱かない者(例えば、産業革命以前の古典派経済学者にとってそれが当然であるように)や生来の権利という先入観に凝り固まった者にとっては、これは全く当然の事として扱われている。論理的な面から見ても、歴史的発展の面から見ても、このことは十分に蓄財の発生の説明足り得るのである。”生来の”所有者とは、物品を”生産”するか、あるいは生産力と構造上同等の労働力の消費という手段を用いて対象を発見し、自分のものとした人物のことである。産業という概念のもとにおいても、当面のところ機能している所有の概念を含んだこの論理によって、そのような人物は物品の所有者とされているのである。
財産におけるこの生来の権利という理論においては、社会から孤立し、自給自足で生活する個人の生産活動が、人に帰属する所有権の基礎となっている。しかしこうすることで「この世には社会から完全に孤立し、自給自足のみで生活する個人」など存在しないということが見逃されている。実際のところ、すべての生産物は共同体の中で、あるいは共同体の援助をもってして生産されるのであり、富はどのような種類のものであれ、社会の中でのみその機能を果たすのである。人類が種として誕生して以来、産業的に孤立した個人など存在しないと言っても過言ではない。ただ一人の力でのみ生産される製品など存在しないのである。また、たとえ作業の工程において道具を使用しなかったとしても、常に人は他人の経験にしたがって作業を行っている。ただ、迷子になったり、捨・トられたりした為に野生動物に育てられた子供が存在するという半ば確実な噂があり、もしそれが真実ならば、それがこの定義の唯一の例外と呼べるのであろうが、そのように例外的 で半ば仮説でしかない生活が所有概念の発生という問題に大きな影響を与えている可能性は無きに等しい。
生産活動は、社会において、産業共同体の協同のもとでのみ行われる。この社会の大きさは千差万別であり、その境界は明確でないことも多いが、その中では伝統や技術、知識、また、それなしではどんな産業的関係も、構成員同士の関係や構成員と環境との関係を保つことも不可能となるような慣習などを伝達するのに十分な大きさの集団が存在する。孤立した個人は生産者ではなく、せいぜい群を離れた動物がするように、季節ごとを生き延びるのが精一杯である。技能知識を必要としない生産物はないのであり、よって、私有であるかないかにかかわらず、いかなる財の蓄積も富も所有されるべきではない。また、技能知識が産業社会と離れて存在することもないのであるから、個人による生産活動や生産物といったものは存在しない。こうして、個人の生産物にその所有権が残存するとする生来の権利という先入観はばかげたものとなり果て、その自身の理論のもとにおいても否定されることとなる。
そして、人類学の見地からこの問題について論じる者もいる。彼らは、個人が武器や物品を慣習的に使用することから財産の概念が発生すると考えている。またほかにも、外敵に対して有効であるよう、社会集団によって土地を占有したところから”所有”が始まったのではないかとする者もいる。後者の仮説は、集団、あるいは個人による勇敢な行為の結果として土地の占有が発生することを基礎としており、生産活動による所有権の発生という理論からは大きく異なるものとなっている。
野蛮人や未開人の理解する境界と近代の生物学的に理解される境界とは異なっている。彼の個人の境界とは非常に曖昧で不正確であり、程度の差はあるであろうが、彼に属する大変な量の事物や物品 を含むと考えられる。ものに対する我々の感覚では、これらのものは彼の境界の外に存在するとされ、その多くは有機的な関係というよりも経済的な・烽フであると解釈される。こういった物事や物品と いった準個人的関係物はふつう、その人物の影を形成すると、彼らは考える。これは、水面などの表面に映る像のようなものであり、名前、特別な入れ墨、もしあるならばトーテム、目つき、息づかい (息が見える状況であれば特に)、手足の指紋、声色、その人物のイメージや表現、排泄物や呼気、切った後の爪、髪型、装飾品やお守り、日々の服装(特にこれは人物形成に影響する。その服にトーテムや特別な文様があしらわれていれば・なおさらである)、普段使用していたり、気に入っていたりする武器、などがそうである。準個人関係物に含められるものとしては、そのほかにも数え切れないほど多くのものが存在する。
この事物や物品を全て考慮すると、個人の性格の’影響範囲’はすべてのものに対して一様であるとは考えられていない。彼の人格は外的世界に対し、強烈に影を落とす。準個人関係物に数えられる物品や事物は野蛮人の思考体型の中に重大な意味をもって意味を持って彼の所有物・ニしてあらわれる。それらは経済的関係や、公平で合法的な要求といったものの寄せ集めではない。それらのものは、 彼の手足や心臓の鼓動、消化器官、体温、四肢や頭が彼のものであるのと同じような意味で彼の一部となっているのである。
この視点に疑問を抱く人たちを満足させるには、たいていの人が行っている習慣を例にあらわすのがよいだろう。人格の広がり、あるいは人格の影というこの観念はたとえるならば贈呈物や形見の譲 渡や保存を暗示しているのである。贈呈物というものにおいては魅了という効果の中に、よりはっきりと表れている事は疑う余地がない。全ての魔術、奇跡、その他宗教、幻、シンボルの崇拝において も、チベット山中の祈祷輪筒の実践においても、占星術や髪型、爪、写真による占いにおいても同等に疑う余地はないだろう。そのような準個人形成物という考えにおいて論証可能な証拠は、あるいは共感 魔術から発生しているのかもしれない。そして、そのような物事の実践は、ほぼ世界中で見受けられる魅了という現象に非常に類似しているのである。それらの根本にある概念とは、ある人物の準個人形成物を通して、かの人物に何らかの影響を与え得るというものである。この方法で影響を受けるのは人間だけに限らず、善や悪を仲介する力を持つ精霊であることもある。もし、魔術や魅了の力を行使する者が、ある人物の人格の影や準個人形成物といった者に何らかの影響を与えられるとするのであれば、彼はその人物に対し何らかの影響を及ぼし得るであろう。そしてこういった目的を持つ儀式は、その物事と人物の親和性が高ければ高いほど高い効果を発揮するのである。経済上の関係は単純に、魔術をいう現象を生み出さない。人物とその物事との関係は、共感魔術の目標となった際、いつでも切り捨てることが出来るからかもしれない。その関係とは、単なる合法的な所有物よりももっと根本的なものだと考えられているのである。
近代の命名法において個人所有としてくくられる原始人のこの乏しい財産を、彼は自身のものだと考えていない。それらは彼と有機的な関係を持っているのである。彼の準個人形成物に属するものは、全 てが同一の親密さと永続性をもって彼に属しているわけではない。よりその人物から遠く、彼個人に属していることが疑わしいような物事はそれ故、一部は彼に有機的に属し、一部は単純に彼の所有物となっているのである。この有機的な関係と所有との間には差異は存在しない。時が経ったり、その物事との関係を自発的に切り離したりする事により、それら準個人形成物の境界の端に存在する物事は、境界からはずれ、分離するということが簡単に起こるのである。しかし、こうしたことが起こる際には所有され、外見的に所持されるそれらのものが、有機的な関係から境界の端の方へと消え去るとは考えられない。もし事物が有機的な関係から消え去る場合、それは他人の領域、あるいはそれが公共のものであるのであれば、共同体の共有物になると考えられるのである。
共有物というものを考える際、原始社会においては、共有のものであろうと個人のものであろうと、所有権という概念は存在しない。凶烏有という所有概念とは時代とともに育った概念であり、心理学的に見ても個人所有の方が先に発生したであろう事は間違いない。所有権とは権利に関する取り決めをもととした事物に対する自由裁量の能力である。これは所有者がその所有物を好きなように扱う権利を有する個人的行為者であるということをも含意するものである。個人的行為者とは、近代の概念において――すなわち法的な架空の世界において――物事における協同的な使用権を有するとされる人物のことである。所有とは個人的な所有を意味する。準個人的で協同的な自由裁量と統制が個人の集団に付与されることは、よく知られるように、概念のもとでだけである。共同所有とは二次的な所有観念にすぎない。これは後には派生した概念であり、その鋳型となった個人所有よりも先行した概念であるはずはないのである。
こうして、所有という概念が形成され、ある程度の一貫性を有す るにあたって、ある人物が所有する物品における、その人物の人格 の広がりという概念が見えてくる。また、物品がある人物の準個人 形成物でありながら、他人に所有されているという事態ーーたとえ ば、個人的な意味での日用装飾品やその他の品物が、人格的な意味 では奴隷や家長性における下位者に属していたりするにも関わらず 、その主人や家長の所有物であると見なされるようなときも存在す るのである。1)ある人物の人格的な広がりの中にある物、そして 2)所有される物、この二つのカテゴリーは、二つが共に存在する 事がない。この二つの概念は非常にかけ離れており、従って、ある 一つの物品が、一方の概念のもとではある人物のもとに属し、また 他方の概念のもとでは別の人物に所有されるということもあり得る 。また、これに反して、ある一人の人物がある物品と、二つの概念 の両方に反することなく関係を持つこともあり得る。たとえば、写 真やその他形見などの物品が、準個人形成物の境界を移すことなく 他人のものとなることである。身近な例としては、聖者や、聖なる 場所とされている土地や物が、現実には誰かが所有する物であった り土地であったりするということが挙げられよう。
この二つの考え方の違いは本質的なところから発生している。そ のため、一方の考え方からもう一つの考え方が派生したとは到底考 えにくい。このような、概念事態が入れ替わるかのような移り変わ りは、よほど明確な衝動がない限りは、ほとんど見ることは出来な い。このような段階においては、新たなカテゴリーを作り出し、新 たな考えの基に、対象の物事を再分類することになる。様々なもの と、準個人形成物に含まれる物事を、所有権の新たなカテゴリーの 元に再分類するということはそれが関わってくる分野というコンセ プトというよりは近代に発生した強制的な必要性によって発生する ものである。新しいカテゴリーは、古いものをただ単に拡大解釈し たものではない。財産という概念が発生し、普及したあとの時代に おいては、人格の広がりという考えのもとで個人に属するものだと 考えられていたものが、全てが自分の財と見なされるわけではない 。たとえば、人物の足跡、彼のイメージや実像、名前などは非常に 最近になって、物として扱われるようになった。また、そのような ものが彼のものとなったのは偶然の所作であった。しかし、人格に よる所有という概念の元では、それが彼の準個人形成物としてその 位置を占め続けてきたのである。この二つの概念の相違は、家畜動 物の例に見ることが出来る。そういった、人間以外の生物は、所有 を行うことは出来ないが、しかし、こうした者も人格に似たものを 持つとされ、足跡、小屋、毛などにその人格が及ぶとされていた。 それらのものは近代文明社会においてさえ、類感魔術の目標となり 得るのである。所有権と人格の広がりとの相違を表すものとしては 月の満ち欠けが人間の行動に影響を及ぼすという俗信に見ることが できよう。満ち欠けを繰り返す月は、類感現象や準個人形成物を暗 示する精神的な感化現象によって、善や悪の効果を及ぼすと考えら れるにもかかわらず、月が所有権を持つという考えは否定されるの である。
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