原典の解題(ベルグソン「笑い」との対比で):演習1諸君が日本文の練習素材にしている社会学者スペンサーの「笑いの生理学」は大作『生物学原理』と、内容的には軌を一にするエッセーです。人間の行動には、生物としての基盤が厳然と存在していること、現代の言葉で言い換えれば、何百万年の進化を経たはずの遺伝子に組み込まれている振る舞いであること、を論じた好個のエッセーです。
フランスの哲学者ベルグソンが1900年に、このエッセーに着想を得て「笑い」というエッセー(邦訳は岩波文庫)を書きましたが、こっちの方は生理学の意義など全く理解せず、デカルトの心身二元論を「修正したい」という哲学的邪念の方が多く働いて、結果的に何が本当に問題点なのかさっぱり分からない駄作となっています。いっそ「フランス古典喜劇の笑い」のようなこじんまりとしたタイトルだったら、まだよかったのですが。
一番大きいのは、ベルグソンには昆虫や軟体動物と人間に共通性があるという当たり前のことを書く度胸も知識も足りなかったことです。19世紀後半から西欧社会も生命についていささか反省する必要が起きたのですが、その必要性を受け止めていながら彼は「エラン・ビタール(生の跳躍)」などという、ただのつまらない抽象概念を作ってしまいました。そのせいか、ベルグソンはよく後世の現象学の先駆者と誤解されます。
ベルグソンは才能のある哲学者だけに、ちょうど現代のフランス新哲学のポストモダン論のような中途半端な位置にいた人です。このあたりの関係は、米国60年代のカウンター・カルチャーが伏流水になったあたりからポストモダン論が出現することと、驚くほどよく似ています。
もし生の跳躍などではなく、本当に「生」について考えたければ、ぼくはむしろ社会学者ジンメルの『生の哲学』を読むことをおすすめします。こちらの方は『貨幣の哲学』と対にして読めば、近代の何が私たちを具体的な手触りを持った生命から切断しているのかが、明確に分かります。
というわけで、ベルグソンには悪いけど、大事なのは「生」などという下らない抽象概念ではないのです。共同体の中に生きる動物としてのぼくたちの、具体的な「生命」なのです。飯を食ったり、談笑したり、恋をしたり、環境を破壊したり、他人のために命を捨てたり、学問したりする、ぼくたちの具体的な活動なのです。
それでも気後れしたのか、ベルグソンはスペンサーの「笑いの生理学」に言及しながら、スペンサーの主張は「笑いは努力が突然空に逢着した兆候だ」(林達夫訳)というところにあった、などと書いています。ベルグソンは外国語が読みこなせなかったらしいです。
スペンサーの意図がそんなところになかったことは、演習生諸君が前期の2ヶ月で訳し終わったところまでを読めば、すでに十分わかります。笑いは人間の高級な表現でもありうるけれども、同時に進化の歴史の中で蓄積された、生物の集団的な身体活動という生理学基盤を確実に持っているものなのです。
過去の日本の知識人の名誉のために一言しておくと、このベルグソンを訳した林達夫氏は、近頃めっきり少なくなった、日本が生んだ百科全書的に優れた知識人の一人です。岩波文庫のこの「笑い」は、林氏の書いた「あとがき」や「訳注」が一番よくできています。
というわけで、ベルグソンの「笑い」は知っていたがスペンサーの「笑いの生理学」は知らなかったという方は、どうぞこの機会に演習1の諸君のページにご注目下さると幸いです。