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(2001年度 この年は9.11事件がありました)12月12日
事実上最後の時間にしては、暗雲漂う内容で申し訳なかったなと反省しています。相手が自然だと「冬来たりなば春と遠からじ」という考え方ができるのに、人間の世界はどうしてこのようにシンプルに行かないのだろうかと悔やまれます。といっても、ぼくはmisanthropeではないからすぐに元気になりますので、どうぞ皆さんも、精神の活気を失わないように念願します。 若干気を落ち着けるために、冒頭別のことのお知らせをします。ぼくの「現社」の定期試験時間割りが、事実上決定しました。1月16日(水曜日)2限です。まだ正式な発表の段階ではないが、特別の事情が(他の方に)生じないかぎり、ほぼこの日時とお考え下さい。
また教室で話したように、試験の論述問題に何と書いてあっても、「講義とこのオンライン講義に出ているトピックに関連して自由に論述してください」と書いてあると考えて下さい。自国語による論述は大学のすべてのようなものですから、冬休み中に思いをめぐらし、可能なら実際にB4一枚程度書いてみることをお勧めします。これを参照することはできませんが、一度文章にしたものは再現(または改良しつつ再現)することが容易にできますので。 「開発途上国に開発を与えることは北側の驕りだと感じるが、ぼろを着たみすぼらしい人々を見て、すくなくとも物質的に豊かな社会にしてあげたいと思う心は、意味がないものではないと思う...この良心は北側住民の大切な財産なはず...この良心をどうしたら有効に使えるだろうか。救いの矛先が間違っていることに、どうしたら皆気付くのだろうか」(Ms A)
のっけから難しい疑問です。考えるのが難しいというより、状況が複雑なのでそれを見分ける方が難しいのだと考えます。大きく分けると、「ぼろを着たみすぼらしい人々」は、われわれが直接間接に手を下してそのようにしてしまっている場合と、われわれが突然遭遇した場合とあると思います。まず、後者の例を上げます。
『悲しい熱帯』という本の中で、レヴィ=ストロースがボロロ族の例を上げています。(英訳でよかったらぼくのこのページの書き出しをお読み下さい。邦訳なら探して下さい)。ボロロ族は、昔ながらの文化に従って川岸に住居を円形に並べて暮らしていました。このような住居形式はアマゾンだけでなく他でも見られるもので、神話に起源があるし、円になっているから部族全体の問題をがやがやと話し合って結論を出すこともできます。長い年月が作った文化には、それなりの存在理由があるのです。無駄なものはないのです。
ところがここに、サレジア会の宣教師が布教にやってきました。この宣教師たちは、この部族の住居形態を「非衛生的だ」とみなし、強引に彼らを川沿いに並べた住居に住まわせるようにしました。この結果、ボロロ族は昔ながらの生活形態が破壊され、何をやってもうまくいかず、万事宣教師に頼るしかなくなってしまいました。布教の方はうまくいったそうですけど。
われわれは、20世紀にこれと同じことをアフリカやアジアや南米でしてきました。利潤に走る自分の本当の動機を隠して、「ぼろを着て不潔で非衛生的で...」そんな野蛮な人間は文明の光に目覚めさせるのがわれわれの使命だ、と自己を正当化するのです。「野蛮」「低開発」「未開」「無教養」などの、一見俗耳に良さそうに聞こえる自分たちの尺度で、これらの人々を自分の利害の道具にするのです。今も、これは全くなくなっていると思えません。「絶滅危惧種」という言葉がありますが、「絶滅危惧文化」というのもあると思います。前者と同じことを人間の文化にたいして行っていることです。
これは、A君のいう「北側の良心」とは到底いえないでしょう。そこで残るのは、タイ、マレーシア、インドネシア、アフガニスタン、中近東、南米などで、すでに市場経済をわれわれ(「先進」国)がすでに押しつけ、その結果生業を負われて「ぼろを着てみすぼらしくなった人々」です。事実、現代にはこのケースが圧倒的に多くなっています。一時このような人々から、日本のODAがかえって貧富の格差を大きくする結果になっているという批判もありました。このような場合に、だから工業化をますます進めてみすぼらしくないようにすればいいとは、A君も考えないのではないでしょうか。ぼく自身は、「先進」国の人々が彼らの状態まで生活水準を引き下げるべきだと考えます。自分の着ているものを脱ぎ、着ていただく。食べものを粗末にして、食べていただく。これなら「良心」といえると思います。口でいうのは易しいですが、「気付いてもらい分かってもらう」のは、これが一番難しいです。しかし、ぼくは早晩これをやらないと人類は生き延びられなくなると思います。 基地に関連して「...憲法はあるけど、日本にアイデンティティはないのではないか...日本を助けてくれるのは、自国も守れない自衛隊ではなく、アメリカの軍隊ではないのだろうか...」(Mr B)
これも、大変な問題です。過去に話したが、ぼくの親戚になぜか海兵隊士官もいます。彼にいわせると、米軍は日米条約に従って犠牲的に日本を守ってくれるといいます。「ぼく、基地のために税金払ってるのだけど無料でやってくれないかなー」と、ある時冗談で言いましたが、伯父さん(ぼくのこと)だけのためならやるけどなー...と、首を傾げていました。これ以上は深刻になるから話していないけど。
B君は、アメリカの軍隊が無料の勤労奉仕で日本を守ってくれると思いますか。また、自衛隊をアメリカ軍並みに強大な軍にするためにすべてを犠牲にし、率先して兵役に就こうという同年齢の人々ばかりだと思いますか。きっとそうは思わないでしょう。ぼくたちは政治家じゃないから、紛らわしい表現は止して単刀直入に語りましょう。アメリカにとって、日本・沖縄・韓国など、極東基地の存在はきわめて大きいと思います。現に今回も原子力空母がインド洋に直行したばかりだし。
だから、もし防衛が重要だと考えるのなら、米軍は既に大きな大きな見返りを受けているのだから遠慮することはないです。大きな顔をしてもっとしっかりやれ、と言っていればいいと考えます。
しかし、問題の正体はそこにあるのではないと思います。軍事条約ではなく、友好同盟条約を韓国と、中国と、また東南アジア諸国と締結し、その基盤の上に立ってアジアは軍事は「もう結構です」という方向に日本外交を向ける努力をすべきだと、ぼくは考えます。この方針なら、ぼくは日本国憲法は重要な指針になると考えます。このような思い切った方針転換を、日本外交は打ち出せないのです。この意味でなら「日本にアイデンティティがない」という意見には賛成します。
繰り返しになりますが、専守防衛も軍事です。「国際間の紛争を武力によって解決しない」という条文に誇りを持って、日本外交を根本的に変換する見通しが立てられないから、おっしゃるような「すっきりしない」状況が続くのだと、ぼくは考えます。「もし攻められたらどうしよう」という架空の話しは、政治家でないかぎりしない方がよろしいのではないですか。 残り5名の方々が、何らかの形で「科学技術」という20世紀の怪物に触れた感想でした。どれも個性があり、どれも読みごたえがありました。遺伝子操作、クローン、ナノテクノロジー、マスメディアなどなどの事例も新鮮でした。皆さんが気付いておいでかどうか分かりませんが、民生用ロボットというのも加えた方がよろしいかも知れません。コメントでなく感想で申し訳ないけど、ぼくはあれを見ると気持ちが悪くなる人なのです。
産業用ロボットというのがあることは、多分ご存知でしょう。半導体の加工、自動車の組み立て工程などで、目にする機会も多いと思います。つぎに企業が目標としているのは、医療用のロボットです。看護婦さんが嫌がったり、人間であるが故に無情に患者に接することができない。加えて、医療費の削減のあおりはとかく看護婦に行きがちになる。もしここに、人間そっくりの医療用ロボットが開発できれば、大幅に医療現場に販路が確保できるだろうとは、誰もが思いつくことです。諸君があと2、30年して病院に行ったら、看護婦さんロボットが「介護」してくれるかも知れません。
気のせいかも知れないけど、市販されているペットロボットを見ると、こんな情景がぼくを悩ませます。ぼくのようなアレルギーを取ってくれるために、ペットロボットが先発しているのではないかと、疑い深いぼくは感じてしまうのです。そうでなければよいが。しかし、最有力視されているひとつが医療現場のロボットであることは、全くの事実です。
この方々にお勧めしたい本があります。エーリッヒ・フロム『自由からの逃走 Escape from Freedom』という社会学の古典です。創元社や河出書房から翻訳があると思います。多摩図書館をオンラインで検索してみて下さい。ドイツ人がひとりひとり、幸せになりたいと慎ましやかに努力していたら、この人々を結果的にナチスの大波が攫っていった、という内容です。こうなったら、人間は「甲羅のない蟹」のようなものだ、とも書かれています。最新鋭爆弾を外国に大量投下し、国内では科学技術が「幸せ探し」の人間をがんじがらめにしようとしている米国を見ると、かなり正直にぼくは不気味になりますので。 この中の一人から、「福祉国家と軍事国家の抱き合わせについてもう一度説明して欲しい。または推薦できる文献があれば教えて欲しい」(Mr C)という具体的な要求がありました。
正確には、市場経済を介して両者は結びつくということです。11月28日の部分にこのように書いてありますのでご覧下さい。なおこのようなことをストレートに書いた文献は、ぼくに思い当たりがありません。
もっとも、市場を介してではなく両者が端的に結合した歴史事例が、皆無ではありません。プロシャの官僚からドイツ帝国の初代宰相になったビスマルクは、俗に言う「飴と鞭」という国家統一政策で「勇名」を馳せました。彼は過酷な労働運動弾圧政策を取ると共に、反面飴にあたる工場法(今の言葉なら労働基準法)、生活保障、社会保険などを国家が率先して実行し、これによって強大なドイツ帝国を築こうとしました。
社会保障(福祉)は、ご存知のように巨額の資金を積み立てる結果にもなります。これが大きな魅力でした。この資金を、かたやドイツに市場経済が活動するためのいわばインフラ整備に、また同時に強大な軍事力を整備する用途に使用したのです。「ドイツ史」に関する文献をご覧下さい。また、日本の明治政府が近代国家化するにあたって手本としたのは、ビスマルクのドイツ帝国だとする定説があります。
20世紀初頭に「先進」諸国に次第に普及した社会福祉は、ある時は微温的な左翼政権がこれを推進し、またある時は一部「民営」に委ねたために、福祉政策の先鞭はビスマルクにあるといういい方を、多くの学者は取りたがらないようです。(またいくつかの北欧諸国のように、市場経済の強化を積極的に断念する傾向があることも事実です。日本や米国は、今のところこの仲間には入りません)。
日本でも米国でも、社会保障費は多額の資金になりますから、金融市場に投資されます。バブルのすくなくとも一端を、社会保障費が担っていたことはまぎれもない事実です。しかし、金融市場が逼迫するとこのような運用は逆に社会保障制度を揺るがすことにもなります。GDPの成長が止まると急に福祉制度の「見直し」が始まるのには、ここにもその(すべてではないが)ひとつの理由があります。租税の分配にわたしたちが関心を持たざるをえない理由です。 明るい話しが出せなくて悪いと思うので、最後に5年ほど前の多摩キャンパスの紅葉をお目にかけます。これを見ていると、ぼくなどはやはり自然は嘘をつかなくていいなと、素朴に思います。では。
12月5日
誤字ではないかという正しい指摘があり、マイナー修正しました。あしからず。(12/06) 議会の代表質問に答えるみたいですが、「参照不可ということは、自分のノート、自分で書いた文章もだめということですか」という質問がありましたので、お答えします。
申し訳ないが、どちらもだめということなのです。学生の全員が「ノートは自分が責任を持って取ったもの」また「自分の書いた文章」は正真正銘自分の書いたもの、というように全員に関して(ぼくが)自信を持つことができれば、いいかえれば社学の学生はどの一人を取っても貴君とおなじ「誇り高い」学生だと確信することができれば、この結論は逆になります。従来の経験から、何人かは「誇りより単位」というサラリーマン学生が、残念ながら含まれているのです。この人々を前提に考えると、「参照不可」ということになるのです。
お分かりですね。法律を作るときには、このように最低水準の人間に合わせて作ることになるのです。ジンメルが、「貨幣、法律、知性」が人格性を損なうものだ、というのはこのことなのです。人間は、どこまでも気高くなれるが、同時にどこまでも醜悪にもなれるのです。後者の方は見たくないのです。ご理解下さい。
自分で一度書いてみた文章は、一字一句同じでなくとも、ほとんど空で再現することができます。これを繰り返しているうちに、ペンを持った途端に書き始めてまとまったものが書けるようになります。どうぞこの意味で、ご準備下さい。 「『レオン』で、レオンがジョン・ウエインの真似をしていた。フィリップ・マーローのタイプはよく分からなかった」(Ms A)
『レオン』は、リュック・ベッソンだったか、ヨーロッパの監督の作品です。そのためだと思うが、この中のレオンは、ジョン・ウエインとはまったく似ていません。レオンは「請負人」だから、いわば「傭兵」なのです。この点では『ジャッカルの日』や『戦争の犬たち』(監督不明)に似ています。原作のフォーサイスも、ヨーロッパ人(イギリス人)です。だから貴君は、ぜひともジョン・ウエイン主演の正当派西部劇をご覧になる価値があります。『リオ・ブラボー』、『エル・ドラド』などです。また『11人のカウボーイ』、『最後のガンマン』などです。
フィリップ・マーローのタイプというのは、うーん、ここは定義しても面白くないので、ぜひとも『チャイナタウン』などをご覧になって下さい。または小説でお読み下さい。 「赤ちゃんご誕生で...宮内庁とかで...日本国旗を振って『日本最高!』といっても、盛り上がりこそすれ悪くは取られないですむというところがあるのではないだろうか...国民統合の機会というか...たまに『日本好きな人』がいるのではないだろうか。どう考えます?」(Mr B)
そうですね。日頃は、なにか大きなこと(リストラとか不良債権とか)でこの国にしっくりこないと感じている人々が、藁にすがる気分で日の丸を振るというところはあるかも知れないですね。しかし、それにしては盛り上がる問題ではないですね。ニューヨークで星条旗を振るのは、ある意味で「命がけ」なのですよ。振らないと(とくに中東・アジア系マイノリティーは)、CIA、FBIに睨まれて、また古くからの白人系に狙われて、身に危険がおよぶかも知れないのですよ。
総じて、なにか違和感を感じながら、その感情を忘れたいために夢中に盛り上がるというのは、あまり健康な精神とはいえないですね。このような心理がひろい人々のなかに存在するから、マスコミによる世論操作もできるのですから。 これに、深いところで非常に関連しているものとして「1)ベラーさんが米国人はコミュニティーに戻ろうといっていることは、いまのアメリカには(トックビルのいう)タウンで生きる感覚がなくなったということか。さらに、2)米国の(18世紀前半の)民主主義がタウンを基盤としており、一方フランスで成立した民主主義はフランス革命によって生まれたもの(政体)を指しているとすると同じ言葉で呼ぶのに無理があるのではないか。別の言葉はないのか」(Ms C)
面白い質問と思います。両者の違いは、強いていうと「自治」と「制度」ということでしょう。前者は中身です。後者は箱です。中身には箱は必要ない。しかし、箱には多くの場合中身が入っていない。
いまでも、田舎に行くとアメリカ人はタウンという言葉につよい愛着を持っていることは事実です。日本人も、「おらが町・村」に関しては、ある意味では同じではないだろうか。ただし、上の喩えでいうと、箱の方が中身を食い荒らしていくのです。社会システムとは、どれもそのような性質を持っているのです。だから、ベラーさんがいうのは中身を取り戻そうということなのです。
この本が出たころ、米国で「NIMBY」(発音ニンビ)という流行語が使われはじめました。Not in my backyard.の省略です。うちの庭に起きることでさえなければ、どうでもいい、という意味です。その後これに続いて非常に目立ちはじめたのが、それまで以上に、なにかにつけて「権利」を振り回す風潮です。ことが my backyard に関する場合に限って、他人に攻撃的になることです。考えればすぐ分かるが、巨大システムがはびこっている現代に、backyard に関係ない事柄は起こりえないはずです。それらを自分の backyard に関わることでしか見られないのは、一種の現代の病です。NIMBYも攻撃的権利主義も、実は社会的無関心の別の姿に過ぎないのだと考えます。この尻馬に乗って、日本でフェミニズムとか嫌煙権とかが流行するということです。 「米国を見ていると、ウエイン・タイプが沢山いることはよく分かるが、フィリップ・マーロウ・タイプはいるのだろうか。弱者を踏み台にして自由の十字軍をやている現代に、マーロウ・タイプへの活躍が期待される」(Mr D)
もちろん、沢山いると考えます。友人たちのなかにも何人かいます。A君が上げた『レオン』などは、むしろ迫害された少女を見捨てられなくなったしがない傭兵なのだから、どちらかというとマーロウに近いと思います(監督は米国人でないが)。
さらに、2週間前に全文を訳して掲載したウエンデル・ベリーも、普段はおだやかな詩を書いて田園生活を送っているネーチャーライターですから、同じような人々と思います。実は米国のこのグループに関しては、1920年代からの長い隠された歴史があります。1920年に大学を終わって、第一次大戦で米国に流れ込んだ金を使って渡欧した、青年たちがいました。(このような流行があったことは、ガーシュウィン作曲『パリのアメリカ人』という交響詩があるから分かるでしょう)。ところが、この青年たちはヨーロッパ文明が退廃してそこに何も希望が残っていないことを発見し、絶望的になりました。
この人々のなかから現れた作家たちのなかで一番有名なのは、おそらくアーネスト・ヘミングウエーでしょう。彼らを「ロスト・ジェネレーション」と称することがあります。余談ですが、第3世代を一時リードした社会学者タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)も、ほとんど同じ世代に属する留学組です。えらい違いですね、思想的に。それはさておき、チャンドラーはある意味でこの同じ世代に属するのです。この後、60年代を経験したベリーにいたるまでの系譜は省略します。
なお、この他に「ぼくもマーロウにはまった」(Mr E)の発言などもあって、大いにうれしかったです(やはり社学には優秀な学生がいるのだ)。 なお、ひとことD君の「...期待される」に関連してですが、この人々はいることも発言も、マスコミが取り上げないだけです。マスコミだけ見ていると、決して事実など分からない証拠の一つです。 「私たちの中には、戦争は文字でしかないものです。本当の過去を知る必要があると感じた」(Mr F)
ぼく自身の世代が、自分自身戦争のなかをくぐった(戦地に行った)というには、すでに遅すぎるのです。だから正確には「敗戦直後の廃墟を経験した」というべきかも知れません。一般論としては、皆さんが戦争も経験せず、廃墟も経験しないで済んでいることは(すくなくとも今のところ)、喜ばしいことです。
しかし、皆さんが10歳前後のころには「湾岸戦争」があったわけですし、それから10年後には「アフガニスタン戦争」が起きているのですから、20世紀の人間は実物の銃弾か抽象の銃弾かは別にすると、おそらくすべての世代が「戦争経験者」なのではないかと、ぼくは考えます。実物の銃弾が飛んでこなければよいという状態は、おそらく完全に過去のものなのではないだろうか。そう考えて、20世紀の戦争を考えてみて下さい。 「コミュニティーの本当の意味は意志疎通にあるはずだが...(理解しがたい言葉遣いが横行する時代だ)」(Mr.G)
まったくですね。字義の説明をすると、コミュニティーの方が先にあったもので、意志疎通すなわちコミュニケーションはどちらかというとそこから派生した言葉です。今日では、指摘されるとおり意志疎通をすればコミュニティーが魔法のように現れる、という使い方をするね。つまり、心理の次元に矮小化されているということです。内容は、星条旗のばか売れではないが、世論操作です。 「アフガン救助金というのがあってテレビが協力を要請するが...(自分はどちらなのだと)考えてしまう」(Ms H)
告白すると、ぼくは米国赤十字にもこの救助金にも、些少ながら両方寄付しているのです。死亡や怪我をした米国人も気の毒だが、国連にオーソライズされた多国籍軍の爆弾を浴びせられているアフガン難民にも非はないからです。しかしやはり、これら両方からの個人が対面して、本当に非はないのかという対話になれば、米国人も全くないとも主張しにくいでしょうね。現にベリーのように、他を攻撃するより自分を反省すべきだと考える人がいるのだから。たしかにこのようなとき、政府と国民とが切り離れていることを感じるのは、憂鬱な事実ですね。 諸君の書いたものを読んでいると、ほとんど講義の内容を先回りされているような感じさえしますが、めげずに来週もやりますので、どうぞあとすこしだけおつき合い下さい。では「市場、戦争、科学技術」を教室で。
11月28日
いろいろ雑用を終わって更新を始めたところです。この「いろいろ」のため、今回も当日中に更新の予定を守れません。そのようなわけだから、分類を廃止して読んだ順にランダムに、コメントやお答えをします。ご了解下さい。12月になれば、もとの状態に戻れると思うので暫時お許し下さい。 「市場は国家より大きい。法律を直接には作れない程度に大きい。この理解でよいか」(Mr/Ms A)
最初にA君にお願いします。次回からファーストネームもお書き下さい。
さて上記の件は、おっしゃる通りです。重要な点を指摘して下さって大いに助かります。市場は19世紀前半からすでに、国境を越えて溢れています。国境を越えさせろと言う要求が、この時代から「自由貿易」という美名のもとに現在まで続いています。競争力が強ければ越えさせろという要求が強くなります。19世紀にさえ、この要求はすでに工業国同士の競争のことではなく、列強の植民地競争を誘発する要因になりました。この列強の競争は、20世紀前半まで1世紀以上を彩り、20世紀を世界戦争の世紀としました。
20世紀後半になると、旧植民地の抵抗が激しくなると同時に、核兵器の出現によっていわゆる冷戦時代が出現しました。植民地の抵抗が核軍事力のバランスを破壊しそうな一歩手前まで進行した事例が、例のキューバ危機です。そのような要因の結果として、「先進」国対植民地という構図を人目から隠す必要が生じました。この結果現れた実に欺瞞的なことばが、「先進」国と「低開発国」や、現在の「開発途上国」という術語(?)です。 それだけでなく、市場が国家の規模を越えるという同じ要因から生じるものが、いわゆる多国籍企業です。これの説明はここではやる時間がないので省略します。その代わりに、市場が国家より大きい結果起きる重要な問題点を、2つだけ上げておきます。
1)経済雑誌『フォーチュン』は、1990年代終わりのM&Aの特徴は、競争を排除するための合併だったと指摘しています。2つ以上の国家に競争力のある産業があるとします。このままでは世界市場で競争が起きるので、これを回避するために企業合併をするということです。誰でも知っている事例は、自動車産業です。しかし、石油・合成化学・金融などでもこのメリットを追求する合同や合併が起きています。
2)市場経済は、その中で生じる必要基盤をインフラ整備などという名で国家に押しつけます。また、さまざまな広義の「廃棄物」を国家に押しつけます。前者(インフラ)は、景気刺激策として国家が喜々としてそれを引き受けていたことは周知のことです。失業や福祉もこの一部として、ある時期歓迎されました。いまではこれが「受益者負担」などの名の下に切り捨ての対象となっています。
一方廃棄物の方は、誰でも知っている事例に「京都議定書批准問題」がありまあす。法律は出来ないから条約を作るべきだという圧力が、このような議定書を作らせましたが、「主権」は国家にあるからという前提から、批准され名ければ有名無実なのです。
以上のような2点に限ってみても、企業経済に有利な場合には軍事力でも何でも動員させるが、不利な場合には知らん顔をする口実に、国境が使われるにすぎないということです。 「福祉国家とはいいひびきだったのになあ。軍事国家と抱き合わせとはなあ」(Ms B)
ホント、げんなりするね。抱き合わせになる理由は上に書いた通りです。市場経済は、「自由」でも何でもないということです。企業にとって、近代国家は自社内で「鬼は外、福は内」をやるためのシステムなのだ、というのが歴史の物語る事実です。
にもかかわらず、税金を取られている側の人間はここまで見ようとしない。大学生はもっと歴史を読むべきだと、ぼくは考えます。国家の歴史でなく人間の歴史を。ところでB君、上のようなことを止めさせるにはどんな方策があるだろうか。何か根本的なことが必要だね。
ぼく自身ですか。企業は「社会的責任」を果たすために事業をしていると、最近言い始めています。それなら、企業のあらゆる会議、文書の公開を義務づける。それがいやなら廃業しろという。この程度の勇気がないと、事態は悪くなる一方だと思います。これと同時に、官庁・政府機関、内閣の閣議をはじめとするあらゆる細大漏らさず公開させる。この程度の手段がないと、銀行だけでも気が付いたら不良債権が溜まってました。総額は6兆円です、などと日銀も大蔵(いま財務)も言い出す事態は避けられないだろうね。
仮にこの公開が実現したら、大学生は真剣に忙しくすべきだね。良識に照らしてこの情報を分析できるのは、社学をはじめとする大学学生・卒業生だからね。この時にはじめて、大学生・学卒者の本当の良識が問われるでしょう。 同じことにかんする質問が、Mr.Cからありました。A君への回答を見て下さい。それ以上に、歴史に学んで下さい。 「某PS2が、発売当時4万円、その後間もなく3.5万円、明日からは3万円。独走状態なのに何でこのように下がるのか。(関連して、需要供給の均衡に中古業界出現は影響あるか)」(Mr.D)
まず後者から。需要供給の均衡によって価格が決まるというリカード流の話しは、今日おとぎ話だと考える方がよいです。市場などという人工的システムの変動は、ほとんどプライスリーダー企業が思う通りに決められるというのが常識です。おとぎ話の上では、中古市場は別個の需要供給関係に依存するということになります。
本題です。ゲーム機とソフトに経験がないから適切に答えられないかもしれないが、直接「某社」に尋ねてみてはどうでしょうか。おそらく非常に高い確率で、「予想以上の好評につき、社会還元として下げた」と答えるのではないだろうか。
とりわけ、ゲームのような「商品」はなければ生きていけないものではありません。化粧品のようなものです。某々化粧品は、原価の10倍で売っているという話しがあるほどです。ブランド信仰があるせいです。ゲームも似たようなものではないだろうか。一番高い時に買ったと立腹しておいでのようですが、「某社のために開発費をまかなってやったのだ」とでも思うしか、方法がないように思われます。事実、企業はこのような方法で開発費をまかない、この技術をゲームなどより10倍も100倍も大きな市場に出す商品(例えば携帯電話、ポータブル・ディタルウオークマンなど)に転用して稼ごうとします。このことを承知してやらないと、ばかを見ますのでご用心下さい。
なお、次の方にのべる「知的所有権」のような理由で、パソコン類、ソフト類の価格はメチャメチャです。特に日本は、概してこれらが高いとされています。日本人はみな豊かすぎるからだ、多分。 「夜警国家論はまったく虫のいい話しだ。これを秩序とは、胸が悪くなる」(Ms E)
ぼくもここまでで終わりと思いたいのです。ところが困ったことに、この後があるのです。「知的所有権」という新手の出現です。この無形のものも、近代国家は「所有権の延長として」認めざるを得なくなっているのです。誰でも知っているこれの代表的事例が、ビル・ゲーツを先頭とする新手の成り上がりです。これは豊かな社会に出現した所有権だから、ほとんどやりたい放題です。特許を申請して、使った人間から有無をいわさず金を取るという人種が、現代米国を中心に無闇に増えました。この代金を支払うのは、結局末端のユーザーです。末端ユーザーも「先進国」の豊かな中流階級消費者だから、だまって買うのだね。 このような現実に関連して、大学教育が特に歪曲されつつあります。日本では、数年以前から特許を取れる研究だけしかできなくなるような教育予算配分を目標にしつつあります。IT、人工授精、農産物遺伝子加工などゲノム技術、ES細胞技術のように、人間を取り巻く市場経済のなかに、もう一つ知的所有権の鉄格子をめぐらせることだけを大学で教えようというわけです。この技術で日本はじめ東南アジア諸国から金を巻き上げることを、「技術立国」などと呼んでいるようです。ソースタイン・ベブレンは、1920年頃に、米国の高等教育は企業にしか奉仕できないものに変質していると再三警告しています(Higher Learning in America、The Vested Interest and the Sate of Industrial Arts 共に翻訳なし)。先週掲載したウエンデル・ベリーは、おそらくベブレンを念頭に置いていたでしょう。
もともと所有権が法律的フィクションなのだから、有価証券市場を飛び回る金融商品とか知的所有権とかに発展するのは当然の成り行きかもしれない。しかし、大学が歪曲されて20才前後の諸君が翻弄されるのは、これこそ胸が悪くなるね。 「一のことをやるのには広い知識がないとできないと思う。(そう思いつつ)一つを極める前に止めるので中途半端になる...」(Ms F)
いや、まだそう決めるのは全然早すぎます。一つのことを本当にやるには、一生とまでいわなくても何年もの年月がかかるのです。これを早いとこ片づけさせようとするから、「技術立国には文教予算の重点配分が必要」などと政治家・官僚が騒ぐのですよ。皆さんは根気よくやろうよ。人間の脳は発見的にできているから、入り口はなかなか見つからないが、一旦入り口が見つかればたちまち沃野の広がりが見えますよ。ぜひそれを期待しながら、現在もっとも気になることを、根気よくやって下さい。 「管理価格と聞いて...価格破壊という現象はヤバイのではないかと考えた」(Ms G)
「管理価格」から「価格破壊はヤバイに」いたるロジックがやや分かりにくかったので、以下はややG君の意図から外れるかも知れないが、管理価格に関連して充分教室で述べられなかったことを補足します。いまある商品が管理価格下で200万円とします。A社はこの商品を100万セット売ることができ、B社は10万セットしか売れなかったと仮定します。 この両社の競合商品にかかる開発費用や、工作機器などのいわゆる設備投資は、あまり大きく変わらないはずです。このコストを100万セットで割るのと10万セットで割るのでは、10倍近いコスト差が出ます。200万円の販売価格から、このコストを引いたものが利益ですから、この場合にはA社の方が圧倒的に高利益を上げることができます。
この計算は、お分かりですね。これが、管理価格下では企業が「市場占有率(シェア)」争いに狂奔する理由です。もともと競争各社の商品に、たいして内容の差があるわけではありませんから、別のことで消費者に自社ものを買わせることが有利になります。豊かな国の消費者の方も、あのタレントが好きだからとか、あのコマソンが好きだからとか、どうでもいいような理由で選ぶ傾向があります。
これが、20世紀後半になってテレビCMと企業とが、切っても切れない関係になる理由です。管理価格下の競争は、テレビCMと抱き合わせになっている。20世紀にできあがったこの悪行は、今世紀にもまだ引き続いています。G君のいう価格破壊は、以上のことだけと関係があるのではないようですが、これも大いに関係しています。一旦シェアさえ取ってしまえば勝ちと、どの企業も考えています。 「時代と共に(工程も人間も)万能から単能になると、伝統工芸はどうなるのだろうか」(Ms H)
これが最後の大問題です。実は、日常的に生活の営みのなかで伝えられていた工芸がもはや成り立たなくなったために、「伝統工芸」という言葉ができあがったのです。昔はみなが着ていた着物をいま着ようとすると、何十万円(多分)とするでしょう。どこの家でも使っていた、先祖代々伝わる漆塗りのお椀を買うと、いまではこれも何十万円とします。
言いかえると、一旦単能になってしまったら、元に戻せなくなるのです。H君のような当然の疑義が生じるから、伝統工芸を保護しようなどといいますが、伝統工芸とは、尊敬しているようで遠ざけている、つまり敬遠の言葉なのです。このことを考えれば、伝統工芸だけを尊重・保護しても仕方がないことがお分かりですね。生活そのものが昔ながらの暮らしにもどらないと、意味がないのです。なかでも一番回復困難なのが、人間の単能化でしょう。ぼくたちは、農夫や漁師の技能を失っているからね。
ご参考までに、現在休耕を進めている農地を回復し、ここに農業に帰る人口を収容できれば数百万人分(5・6百万ともそれ以上ともいわれる)の都市失業人口を吸収できる、という試算があります。ぼくなどは、銀行救済に使う規模の予算があればこっちに使った方が、よほど税の有効利用と思えます。ついでに、大学もこれに従って「晴耕雨読」に帰った方が、よほど大学らしいと思います。寺院も修道院も、こうして学問をしていたのだから。(なお同じ考えが東京大学の改革構想として存在したことを、宇沢弘文氏が岩波新書で書いています。) 「資源を完全にリサイクルして大量消費をやめるだけでは、問題は解決しないのだろうか」
大量消費をやめることは、今すぐにでも必要と思います。「先進国」が消費水準を今すぐ10パーセント引き下げられば、これだけで事態は相当好転するでしょう。政府・企業・国際組織は、間違いなくあらゆる困難を並べて猛烈に抵抗するでしょうが。前半の「完全に」リサイクルするというのは、文字通りには不可能です。リサイクル可能な素材を作ることや、リサイクル過程そのものに、巨大な資源とエネルギーが必要だからです。これは熱力学の初歩に反します。
もちろん、ぼくもリサイクル用紙を愛用しています。戒めの心構えにはなるからです。しかし、一度印刷されたパルプを再生するのに、どれほどの水資源と電力エネルギーが必要か、考えてみて下さい。伐採は減る。しかし水源が涸れ、2酸化炭素が増えれば何にもなりません。あまり大きな期待をリサイクル社会とやらに寄せないことが必要です。 まだ全員まで行かないが関連することは入っていますので、どうぞご参考下さい。研究室を出なければならないので、更新はここまでとします。また来週教室で。
11月21日
更新が遅れてご免なさいでした。実はこの時間を使って、下記に掲載するウエンデル・ベリーというネイチャーライターが、9月11日の事件直後に公開したものを訳していたのです。原文は、社学で英語をご担当の大神田先生からいただきました。いまもこのリンクから入手できます。
今回残した10名の方へのコメントは、ほとんどこの中に尽くされているばずです。そう考えて、急遽訳しました。ぼくのお答えに代えます。テロ、テロ報復戦争、国家、市場経済と近代国家、20世紀の戦争、教育と大学のあり方、その他9月11日の出来事を前に、人間がいま真剣に考えるべきことすべてが、ここにあります。米国人の立場からの発言であるが、日本人も自分のことと考えるべきものです。熟読を願います。
このなかにも出てくるガンディーの著作に関して書かれた、卒業生の福田まさきよさんのページも関係が深いので、この場所にリンクします。あわせてお読み下さい。
(訳者お願い:下記は正式に著作権をクリアしたものではなく、学生諸君などが読まれる便宜のため行った試訳です。引用や配布はこのことをご理解の上なさって下さい。) 「恐怖を前にして考えるべきこと」 筆者: ウエンデル・ベリー(2001年9月24日) 1.われわれは9月11日の恐怖を、この日に終りを告げた、技術と経済に関する手放しの楽観論を想起せずに思い出すことが、できなくなるだろう。 2.この楽観論は、自分たちが無限に「成長」をつづけ、「前例のない」豊かさを手に入れることができる「新しい世界秩序」と「新しい経済」のなかに生きているという思いこみの上に成り立っていた。 3.政治指導層、企業役員、投資家たちは、この思いこみが世界でごく僅かな比率の人間たちに限られ、米国ではもっと少数のひとびとにしか当てはまらないこと、この豊かさが世界中の貧困層の抑圧された労働を食い物にして成り立っていること、さらに、この豊かさの生態系へのコストが、豊かだと考えている人間たちさえ含むすべての生命を脅かしていること、などの事実を認めようとしなかった。 4.「先進」諸国家は、「自由市場」に神の地位をあたえ、農民、農地、コミュニティー、入会の森林、湿原、草原、その他の生態系や河川流域をこの神への犠牲に供した。世界中の汚染と世界の温暖化を、ビジネスのための当然のコストとみなした。 5.この結果、世界中で経済を分散化し、経済的正義をもとめ、生態系にたいする責任を取ろうとする努力がはじまっていた。9月11日の出来事は、これらの努力を以前にもまして切実なものにしたことに思いをいたす必要がある。われわれ工業国の市民は、自己を批判する努力、自己を正す努力を、以前にもまして続けねばならない。自分たちの過ちを認識しなければならないのだ。 6.最近数十年の経済的・技術的多幸症の第一のドグマは、何でも技術革新がかなえてくれるというものだ。技術革新がひたすら望ましいもので、必要なもので、技術革新を次々と続けていけば、経済は「成長」を続け、万事がよくなると考えてきた。このことは当然、過去を嫌悪し、たとえどれほど価値があろうが過去の革新を無価値とみなすことを意味する。 7.だがわれわれはあの時起きたことを、予想できなかった。こうして技術革新を続けていれば、いずれはもっと強力な技術革新が起きて、すべてを飲み込んでしまうことを予見できなかった。その強力な技術革新とは、新しい戦争の技術である。また戦争技術が、過去のあらゆる技術を人間自身に敵対するものに変え、これまで無視してきたさまざまな事柄のツケと危険を、人間自身に刃向かうものに変えるという事実を、である。われわれは、コミュニケーションと輸送が自分を自由にするという思いこみに夢中になり、実は自分がこの網の目のとりこになっている事実を、見ようとしなかった。 8.さらに、われわれが市場に送りだし、世界中にまき散らした武器と戦争技術が、巨大な暴力を正当化できる不気味な権力を持っている正当な国家の政府の手にだけでなく、いわゆる「テロ支援国家」、われわれと意見が異なる集団や個人、熱狂的な集団や個人、などの手に渡るという事実を予見しなかった。これらのならずもの国家、集団、個人の暴力を国家自身の暴力と比較して、前者がより悪いという理由はない。ただ諸国家がこれらを、非合法としているだけにすぎない。 9.われわれは、テクノロジーは善だという信仰を無批判に受け入れた。技術は善にだけ奉仕し、悪に奉仕しないという信仰を無批判に受け入れた。敵には奉仕しないという信仰を無批判に受け入れた。技術は、自分たちの国や自分自身の生命などのあらゆる善を破壊することはないという信仰を、無批判に受け入れた。 10.また、金融であれライフラインであれ、グローバル化し、技術的に複雑をきわめ、かつ中央集権化したわれわれの経済システムが、テロやサボタージュや戦争にたいし無敵で、「国防」によって防衛できるという同じような信仰を無批判に受け入れた。 11.いまわれわれが直面する選択は、逃れられぬほど明白だ。第一の選択は、このまま企業間の「自由市場」に支えられたグローバルな経済システムを促進しつづけ、長距離できわめて損傷しやすいコミュニケーションと輸送の手段を維持し続けること。ただし、これからはこのようなシステムは、一国だろうが多国籍だろうが、巨大で高額の資金を必要とする世界規模の警察体制によって防衛しなければならず、同時にこのような警察体制は、世界中のすべての国民の自由とプライバシーとを奪い取る程度に応じてしか効果を上げられないと、承知してかかることだ。 12.第二の選択は、非集中的で多様性を許容し、それぞれの国や地域が生命を維持するに足る物資を自給できるような世界経済を作ることだ。これは国際貿易を排除することにはならず、それぞれの土地がみずからの必要を満たした後の余剰によって、貿易を行うようになるだろう。 13.われわれがいま抱えている、今回のテロ事件に匹敵するほどの危険は、企業社会の国際的「自由市場」計画に追随して進み続け、懐疑も自省も公衆の討論も忘れて、この計画が自由や人権にどれほど大きなコストを強要するかを、考えなくなってしまうことだ。 14.この危険こそ、危機に常である思考のための論理のすり替えを、公職にあるものだろうが市民だろうが、やってはならない理由なのだ。こんな大きな事件の際に、ワシントンで実際に何が起きているかを知ることは、普通の市民にとっては困難なことだ。深刻で難しい問題が考えられていることは、誰にも分かる。だが、政治家たち、役人たち、テレビ解説者たちの口から聞こえてくることは、われわれが当面している複雑な諸問題を、団結、安全、常識、復讐などといったことに矮小化することばかりだ。 15.国家の自己正当化は、個人の自己正当化と同様に誤りだ。それは誤解を生む源だ。弱さの証拠にすぎない。テロリズムにたいする戦争は、これまでわれわれがすべてを捧げてきた数々の戦争の上塗りになるにすぎない。また、民間人に戦争を仕掛けることで、無実でいられるわけはない。このような近代戦争のドグマを作ったのは、ウイリアム・T・シャーマン将軍だった。彼は、戦争では民間人も有罪で、軍事的制裁の対象になって当然だとした。われわれは、いまだにこのようなドグマを拒否してこなかった。 16.9月11日の事件が示すように、政府が世界経済の促進者になったり参加者になり、しかもそれと同時に国際条約を破棄して自己の利害を押し通し、道徳次元の問題での協力に背を向けることは、同じほど誤りだ。 17.さらに、わが国では、わが憲法のもとでは、危機や緊急事態ならどのような政治的抑圧も正当化されると考えるのは、基礎的な誤りである。9月11日以来、数限りなく多くの公的発言が「われわれを代弁する」と称して、アメリカ人は「安全」のためなら喜んで自由の制限を許容すると語ってきた。しかし、アメリカ人のなかには憲法の保証する権利の侵害を許さず、憲法上の権利のためなら、たとえ安全を犠牲にすることもいとわないという人間もいるのだ。 18.われわれを憎むひとびとがいて、これほど深刻で凶暴な痛手をわれわれにあたえた事件の直後では、またこれらのひとびとに依然として脅かされていると考えざるをえない時には、平和的な解決について思考し、同時にキリストが汝の敵を愛せと命じられたことを思い出すのは、たしかに難しい。だがいまこそ、この困難なことが必要とされているのだ。 19.また今こそ、今回の事件がしばしば無意味に比較される真珠湾攻撃以来、われわれ人間が戦争に次ぐ戦争によって絶え間なく苦しんできたこと、どの戦争も平和をもたらさず、人間を平和主義者にすることもなかったことを、勇気を持って思い返すべきである。 20.戦争がもたらすものは、平和ではなく勝利である。そして暴力によって得られた勝利はこの暴力を正当化し、さらなる暴力へと道をひらく。もしわれわれが革新に真剣に取り組んでいるのなら、われわれは「戦争を終わらせるための戦争」という悪循環から抜け出す、新しい道を必要としていると考えるべきではないだろうか。 21.平和に導くものは、暴力ではなく平和主義である。これは、消極的な道ではない。注意深く、知識豊かで、実行力のある行動的な生き方なのだ。われわれは、戦争の手段に贅沢きわまる予算をつぎ込みながら、平和主義への道を完全に忘れ去っていることを認めねばならない。例えば軍事大学はいくつも持っているが、平和のための大学はひとつも持っていない。われわれはキリスト、ガンディー、マーチン・ルーサー・キングなどの平和主義の指導者たちの、教訓と前例を無視してきた。これを思うとき、われわれはつぎの自明なことを思い起こす義務がある。すなわち、戦争は利益を生むが、平和主義に費用はかからず、同時に金儲けにならないということだ。 22.平和主義のためには、不断の実行が必要だ。貧しい国から搾取して、もっと貧しくさせたりしながら、そのひとびとに武装させたり最新の戦争技術を教育したりすることは、誤りである。 23.世論操作屋やメディアが、われわれの敵をカリカチュアにすることを、許してはならない。もしわれわれの敵がイスラム教の国々なら、われわれは敵を知る努力をすべきである。われわれの学校は、イスラム教国の歴史、文化、芸術、言語の教育をはじめるべきである。われわれの指導者たちは、この中のひとびとがわれわれを憎む理由がなぜかを、謙虚かつ賢明に学ぶべきである。 24.食料と農業問題を手はじめに、われわれは国内で率先して土地の自給経済を開始し、海外にもそれを促すべきである。われわれは、これこそがもっとも確実で、もっとも安全で、かつもっとも安価に世界が生きる道だと知るべきだ。商品を作るためにそれぞれの住む土地の潜在力を殺ぐことを、決してしてはならない。 25.大地、水、空気など人間経済の根本を破壊せぬことにあらためて注意を向け直し、この保護のため必要な努力を尽くすべきである。まだ残されている生態系と水源のすべてを守り、すでに破壊されているものの回復に着手すべきである。 26.今回の出来事の複雑な背景から、現在の教育に関するわれわれの考え方を変えることの必要性が、かつてなかったほど大きくなっている。教育は、もともと産業ではない。その目的は、職業訓練をしたり、産業から補助金をもらう研究をして、産業に奉仕することではない。教育の目的は、市民が人間として、経済的にも政治的にも社会・文化的にも責任ある生き方ができるようにすることにある。このことは、現在「情報」などと呼ばれているものを「アクセス」したり「収集」したりすることによっては、達成できない。いま「情報」と呼ばれているものには、文脈がなく、したがって重要度の認識も存在しない。本来の教育とは、若いひとびとに順序正しい生き方をしてもらうこと、いいかえれば何が重要で何がそうでないかを知ってもらうためにあるものだ。最初のことを最初だと言うことが教育だ。 27.子供たちに(またわれわれ自身に)最初にしらせるべきことは、われわれは無限に贅沢をし消費し続けることは、できないということだ。無駄を止め、保護することを学ぶべきだ。過剰と浪費の上に立つ「新しい経済」など、必要ではない。必要なのは、慎ましさと思いやり、節約と保護を基礎とした経済だ。浪費を基盤とした経済は、絶望的なまでに暴力的だ。戦争は、この経済に不可避の副産物である。われわれは、平和主義的は経済を必要としているのだ。(終り)
以上が全文の試訳です。つぎには「市場と国家」について講義します。では教室で。
11月14日
11月16日の加筆があります。
今週は15名の方のものが良かったです。その多くの方が、ぼくに楽しみをあたえて下さっているようで、11月は好きなシーズンです。あと1ヶ月すると、試験はどうするのですかとか、レポートはあるのですかとか、教室で思わず落ち込むようなことばかり聞かれたり、言われたりします。そういうことだけ気になる人は、「履修要項・講義要項」をみて下さい。 そんなことは放っておいて、本題に入ります。順不同です。
連辞符(連字符)社会学について「...興味のありそうな名前を社会学の前につければいいんだもん...思えば、今は連辞符経済学...連辞符情報学など、すべてのベンキョウが連辞符XX学になっているような気がするナ」(Ms. A)
ホントだね。大衆食堂に行ってるような気分がするね。「あんた何にする?」「そーだなー、カレー」「わたしテンプラ」...みたいだね。
20世紀になって、人間も理想的には全部が連辞符人間になって欲しいのだね、きっと。カレー人間みたいなのばかりつくって、リストラする時には「もうカレーは要りません」つーことだろうね。
大学がこうなったのには、2つ原因があるでしょうね。
1)は受験生蔑視かな。18才の人間はご飯の味など分かりっこないから、カレーとテンプラと親子...それとほかに何かよそにある名前だけ付ければOKだ、という見くびり方。
2)は、すでに大学教師が「メシとは何か」に経験がなくなっているのだね。よく言うでしょう。蕎麦の本当に美味しいのは「ざる」、うどんの本当に美味しいのは「かけ」で食べよ、と。信州に行っても讃岐に行っても、そう言っているよ。あと10年かかるかな。蕎麦もうどんも、本物が打てるようになるのにそのくらいかかるもんな。 「現在の連辞符社会学は、本当に悪いのだろうか」(Mr.B)
はい。最悪だと思います。理由は上の通りです。暗に、人間なんて(特に学生なんて)カレーかテンプラかしか知らないよ。どうせ、卒業したら連辞符人間にさせられるのだし。「食いつき」だけ良くして、たくさん学生集めた方が勝ちだ、という魂胆が見え透いているからです。 「援助交際についてチラッと触れていましたが、先生はこれを認めますか?」(Ms.C)
チラッと触れてはいませんよ、ほんとは。連辞符やってると、援交社会学などもできるのだなー、と不快感を表明しただけです。不愉快ということです。
折角のご質問だからお答えしたいのだけど、早い話が売春でしょう。ぼくが認めるかどうかに関係なく、やる人はやるし、不快または嫌だという人はやらないだけではないだろうか。ただ、連辞符人間が多いから、援交人間もいれば援禁立法人間もいて、後者にもぼくは好感を持てません。この種のことは禁止法令を作ればよいという発想に、そもそも強い違和感を覚えます。仮にC君が世論調査屋だと考えると、「ぼくは援交不快派だ。ということは禁止法賛成だ」というように、断定しないで下さい。
一昔前(70年代末)に、ぼくのゼミにある優秀な学生がいました。ある時期から、ゼミで顔が見えなくなりました。どうしたのだろうかと気にしていたところ、『粉』という卒論が提出されました。バイトの延長でずるずると麻薬(らしい)売人に引き込まれて、生きるか死ぬかの日々をさまよった「ある人物」のことが書かれていました。もの凄く生存感のある、すぐれた卒論でした。ためらわずに、ぼくは最優秀点を付けました。援交などという、ふやけた行動とは別次元をなす作品でした。 「ガンディーの本読みました。本当、人は手の届く範囲だけで生活できたら幸いですね。...もう一度人にやり直す機会を与えても、もどれないのだろうか。女が主体だったら、どうなの(もどれる)だろうか」(Ms.D)
『真の独立への道』を読まれたとのこと、大いに敬意を表します。「もどれるか」という件ですが、難しくてももどるしかない、というのがぼくの考え方(願い)です。さもなければ、あと50年は保たないというデータばかりです。『地球白書』などを参照して下さい。
女性が主体ならもどれるとすれば、こんなにうれしいことはありません。しかし、日本人は「GDPが0.9%減少した」ことに大騒ぎをし、中国がWTOに加盟したことに感激している状態です。女性なら、現在のマイナス低成長率をより促進できますか。その時のアジア外交と先進国国際協調路線は、どのように変更しますか。農家の反対も押し切って、減反政策を廃止していく方策はありますか。都市の失業者を説得して、農村に帰ってもらう方策はありますか。なかでも、多国籍化している企業制度を圧縮して行く方策はどうですか。などなど。
以上はどれを取っても他に連動する問題で、到底連辞符的発想では解けません。昨年まで、女性社会学者は少子化対策と言っていました(新たな連辞符社会学の誕生)。女性のために手当てを出せ、ということらしいです。
というわけで、女性なら大丈夫と思えれば男の選挙権を一時停止してもいいと思うくらいですが、残念ながら現状では「女が主体ならもどれる」と、こころの底から思うことができません。もちろん男ならいいとも思いません。遺憾ながら、男女問題に置きかえられるような単純な問題ではないと思われます。 「貨幣、法律、知性は持つ者によって良くも悪くもなる。(どう変わるかは)人次第だ。(また)この3つ以外にも使う人によると考えた」(Ms.E)
これは、その通りです。一般的に言いかえると「制度ではなく人」が重要なのです。大学で、カリキュラムより人が重要なのと同じことです。また、現代においてジンメルの時代になかった同じ性質のものは、「情報」でしょう。ビル・ゲーツも情報、このページも情報なのです(ちょっと大きなことを言いすぎたか、と反省)。
ただ、一つだけ強調しておきたい点があります。制度か人か、という時に、「援交」程度でも法令を作り罰則を強化して...という「制度化」が起こります。貨幣、法律、知性は、なかでも制度化させる(つまりシステムを作らせる)作用がもっとも「頑強な」ものなのです。また、それ自体が強力な制度によって囲まれているのです。E君の発言は説得的ですが、同時にもろいところも持っていることを忘れないで下さい。
この3つがそれほど頑強に抵抗しなければ、D君の「もどれるか」という疑問に、ぼくは大丈夫だ、と断言できるでしょう。 「...力を持った第2世代は、経済に迎合した人たち...経済は人にしかできない行為だから社会学で扱えると考えた者たちだと考えられるか...」(Mr F)
事実関係としても、結果論としても、その通りだといえます(ジンメル以外は)。ちょうど昨今、コミュニケーションは動物にない人間固有の行為だといっている人々同様に、浅はかとしかいえません。時流に乗ることは、乗ったつもりの人間の愚かさをさらけ出すことにしかならないようです。
ただし、「経済」という言葉には若干の限定が必要です。経済を「土地からものをもらい、それによって生きてゆく営み」のように最広義に解釈すると、上の表現は正確さを欠くことになります。上の意味なら、「資本主義的市場経済」と限定すべきでしょう。
もともと、ヨーロッパ語で経済のもとになっている「オイコス oikos」は、ギリシャ語で生息地、すみか、およびそれにともなう「生業」などを表す言葉です。だからこの意味で、人類学者たちは「スマッブリは狩猟採集経済に従事している」というように使用します。オイコスが転じてこれに関する学問がオイコノミックス(エコノミックス)と呼ばれるにいたりました。このような事情は、経済学者も知らぬ振りをしているが、諸君はそうでなく、この機会に正確な「経済」の概念を知るようにして下さい。 大事なことを書き忘れた。ギリシャ語のoikosを語源とする重要な学術用語に、「ecology エコロジー」というのがあります。経済や経済学などよりこっちの方がはるかに重要なことは、説明の必要がないでしょうが、この事実は、先輩顔してふんぞり返っている経済学者が、呆れるほど知らないことです。あわせて記憶して下さい。 「ウエーバーやデュルケムがバイブルのようになっているが、同時代の消された人々はどうしてそうなったのか。時代に圧力をかけられた、ということか」(Mr. G)
暗に A. Espinas などを指しておいでのようです。なかにはシェーラー(Max Scheler)のように、ハイデッガーのパターン(あいつは「ナチだ」のような)の濡れ衣を着せられて葬られた人もいますが、多くは単に無視するという最悪の扱いを受けたのです。学者も、変に「流行に敏感な」人間どもだね。 Espinas は北欧経由で日本の霊長類学によって再発見されたのは幸いでした。日本の霊長類研究者の見識というものでしょう。 「...ということは、行為論や構造化論は否定できるのか。人のみが行為できるのでは?他の動物は本能的行動なのでは?」(Mr or Ms H)
敢えて問う、という感じですね。上にいう構造化は、制度化、システム化などと同じことです。正しくは、否定できるといっているのではなく、無条件に正しいといえないから、むしろ否定するべきだといっているのです。E君にお答えしたように、正しくなくても制度化は起きます。正しくないから、綻びがでます。そこで、また制度化の上塗りをします。そこでまた...。こんな悪循環に付き合っている時間はないのです。D君は「もどれるだろうか」と、深刻な問いかけをしています。
後半に関連しては、H君自身が今日一日でいいから、自分のいわゆる行為をどの程度の割合でしたかを考えてみて下さい。歩く時に右足から出るか左足から出るかを、「理性的」に判断し、バス代を払う時に他のあらゆる代替選択肢と「理性的」に比較考量し、家に帰って電灯をつける時にその資源コストを反省し...などなどのように。100%だったら、まれに見る珍しい人です。古代中国の思想家のなかで恵まれた方の孔子でも、「七〇になってようやく、心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」という状態になれた、と述懐しています(『論語』為政第二)けど。
さらに、「本能的」行動という言葉がかなり曖昧です。良く訓練されて、店先で待っている犬は行為しているの? 餌がすくなくなって自然に群を離れる一群は「理性的」なの? H君はこの際敢えて問おうという気持ちだと考えるが、かなりやはり無理があるようですね。無理があることを承知で、他人を従わせようとすると、ジンメルの「知性」のように、異論を無視したり、社会的に圧力をかけたりすることになるのです。 「...シカゴ学派に関する自分の判断が動揺した...」(Ms I)
ベブレンがシカゴ学派誕生の前史をなしていることは、リースマン(D. Riesman)がベブレンの評伝のなかで述べています。また、シカゴ学派の中核を形成したリンド夫妻に関しては、ロバート・ベラさんが『心の習慣』『善い社会』などのなかで、アメリカ経済によるコミュニティーの破壊という問題に関連して述べておいでです。
なおベブレンの影響の他に、シカゴ学派を考えるにあたって忘れてならないのはニューディールという米国の大きな政策変化です。こっち(ニューディール)に関しては、ぼくが目下鋭意翻訳中なのでしばらくお待ち下さい。 「『孤独な群衆』を昨年の今頃読んだ...(それはそうと)三位一体は今でも意味不明です」(Ms.J)
おー、なるほど。高校で読まされるわけか。英語の時間の原書じゃないよね?それにしちゃ翻訳が悪かったなー。乗りかかった船だから、次にはどうぞ原書を傍らにおいて読んでみて下さい。三位一体ですけど、「神の子が生まれるのに(H君のいう)動物のものに過ぎない本能的行動が必要か」というように言いかえると、よく分かりますよ。これはH君の論点に深く関連するので、敢えて上げておきます。人間にはこのような「不潔な」行動が必要ないので、人間だけが「理性的」なのだという「学説」を前提にしなければ上等の学者も「消される」のです。根の深い問題だね(深いといっても、アウグスティヌス「De Trinitate」から数えてたかだか一五〇〇年ですけど)。 「のどの調子は如何?炭疽菌はこわいですよ(どうもお気遣いいただいて恐縮です。罹ったら死ぬだけです)...今回のテロ事件に関して、ほとんどの人がテロを非難していたが...どちらか一方の側に立って見ることがどうしても出来ない。(それをやると)何か違うといった感覚を押さえることができない...(ぼくは)どうか」(Ms. K)
何度も出てきて、ぼく自身が考えることは何度も過去の週に回答したことです。だから直接の回答を省略しますが、Kさんのような違和感を感じつつ考えている人がいて当然だと思います。ぼく自身もそうです。ぼく自身がすぐにいえることは、日本は憲法九条の精神を守ることに徹して何が悪いかということに尽きます。その結果孤立したり、やられたり(多分米国国家に)したら毅然と甘受するべきだということです。この問題は、D君のいう「もどれるか」という深刻な問いにも大いに共通します。「もどりたい。しかしもどったら生活が大きく変わる人が出てくる」という前提が、「だからやはり成り行きに任せるしかない」という循環に陥ったら、テロどころか、もうすぐ一〇〇億人に達する世界人口は飢餓と殺し合いで『ターミネーター』状態になるしかないでしょう。
とにかく、K君が違和感を大事にして、安直な結論を出さないように願います。実は、ぼく自身これとよく似た(といってもこれほど派手ではなかったが)世界史的出来事に40頃に直面したことがあります。米国の60年代カウンターカルチャーです。今では商業ロックの消耗品扱いになっているが、この時代のアメリカのピープル(現在丁度50最前後)が自国を見捨てるといったことの衝撃が、やはり直感通り重大だったということをあらためて痛感しています。とにかく軽率に結論を出さないようにしましょう。 今回はこれまでとします。教室で予告した通り、次回から別の主題に移ります。ではまた。
11月7日
やっと二日がかりで終わりました。その分、途中で加筆した部分など、随所にあることをご理解下さい。 今日も、寒いなかを聴講していただき感謝します。その上に質問や意見を寄せていただき、さらに有り難く感じました。出席者も(いつも通り)すくなくなって、ぼく的には炬燵か暖炉に当たりながら話ができたらうれしいのになと、口には出さずに思っていました。 そのせいというわけではないのですが、今日ははじめに余談をすこし冒頭に書きます。昼食を兼ねて地下の生協書籍部を見に行ったところ、そこで『市場経済の終焉』という岩波新書を見つけました。著者は佐和隆光という、たしか京大かどこかの近経の人です。おー、思い切ったタイトルで書いたなと感じて手に取ったところ、中身は大したことのない本でした(関心のある人はお買い求め下さい。下らなくても週刊誌よりましではありますから)。
その中に、優勝劣敗によって勝者(企業のこと)が益々大きくなっていくという思想を「...社会ダーウイニズムという。これはへーバート・スペンサーによって最初に説かれた思想で...」云々という文章が目に止まりました。「あ、またか」と思いました。この佐和隆光とかいう人も、スペンサーを読まずに「社会学者たち」の孫引きで書いているのです(多分)。金を取って読ませる本でこれをやるのは、考えてみるといやな世界だね。ロックバンド名に進化論などと付ける「客商売風」いやらしさと、いい勝負だね。
もっとも「社会学者」の孫引きだというカンが正しければ、ちゃんと読んで正しく伝えない社会学者の方がもっと悪いか。 まず第一に、進化論は通常ダーウインの名とともに知られているが、スペンサーが今日紹介した『生物学原理』以下の著作を書いたのは、ダーウインと同時代に、同じ進化現象の存在を発見したのです。社会ダーウイン主義という名称は、この事実に関する無知から来ています。
第二に、米国でロックフェラーなどがダーウインやスペンサーの議論に目を付けて「生物は優勝劣敗の淘汰のなかで生きているのだ。自分がこのように大金持ちになったのは、自然淘汰に勝った生物が繁栄するのと同じことなのだ」と、しきりに吹聴しました。石油のロックフェラーは、鉄のカーネギーなどと並んで米国で悪どい商売をして財閥になり、世間の風当たりが強かった人のひとりです。今日ではロックフェラー財団は国際交流などへの貢献などで知られているが、19世紀後半には世間の風当たりを逃げるのに汲々としていました。そのための自己正当化にダーウインやスペンサーを盛んに利用しました。
このようなキャンペーンの結果、米国では19世紀末から20世紀始めにかけて、人種改良をして優秀な白人を育てようという、ヒットラーも真っ青な計画が科学者のなかでまじめに考えられたことは、BBC『市民の世紀(原題 People's Century)』などの20世紀のドキュメンタリーに記録されています。「白人至上主義」の源流です。さらにロックフェラーだけにかぎると、彼の牙城であったニュージャージー・スタンダード石油はCMを使って世論操作をしようと考えたパイオニア企業のひとつでした。(このことは、いまぼくたちが翻訳しているスチュアート・ユーエン著『広告の社会史』という著作のなかで克明に記述されています。刊行は法大出版、時期はおそらく来年の後半になると思います。) ところで、スペンサーやダーウインまで巻き添えにした「社会ダーウイン主義」という言葉はどこがおかしいだろうか。乳牛・肉牛などと違って、進化とは自然環境との関係ではじめて考えうる概念です。逆にいうと、社会ダーウイン主義というのは、人間は動物園動物だということを自明の事実と見なしていることと同様です。「市場経済」は人間にとって動物園の檻に過ぎないのだから。これが分からなくて、よく学者なんかやっていられるといいたいほどです。こうやって、先週話題にしたTh. Veblen だけでなく、多くの重要な業績と学者が闇に「消される」のです。ハイデッガーを「ナチス」呼ばわりして消そうとしたのと、同じことです。 結局、口直しに『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳 岩波文庫)を買ってきました。
「人が不正を非難するのは、不正を憎むからではなく、そのために自分が不利益を被るからである」とか、
「人はたいていのことを、それを誉めるのが、または貶すのが、流行だから、誉めたり貶したりするのである」
などの名句を読み直していました。17世紀に出版されたこの本を読んでいると、ラ・ロシュフコーに同情するとともに、300年たっても何もよくなっていないなとも感じます。いや、もっとひどいか。彼の時代には、フランス宮廷が気持ち悪かっただけなのに、今は「大衆規模で」全面的におかしくなっているということだから! ここから、いつもの本論です。今日は14人の方を残しました。今回は、昨今の国際事情からか、皆さんが色々なことに懐疑的になっていることを感じました。ともかく、いつも通りコメントします。 「講義と関係ないですが...ビン・ラディンがビデオ会見で広島の原爆について触れているらしいのだが、どのチャンネルでも言及されていない...また、同時テロ時の特番が全部同じ内容だった...ちょっとTVのあり方がヤバイと感じるがどう思うか」(Mr.A)
広島の件は、ぼくも申し訳ないが同じ「ヤバイ」TVしか見られないので、確言できません。しかし、もしも広島の原爆について触れていたら、米国に致命傷になることは大いに理解できます。原爆は、最後の手段としてではなく(最後の手段ならよいということもないが)、むしろソ連との対日利権争いのために使用されたことが、史実としてはっきりしているからです。
また、今回の「戦争」は、はじめからヤバイと考え、そのように書いてきました。ご記憶のように、「軍隊のみならず、外交、情報などあらゆる手段を用いて戦う」というのが、今回の米国大統領の公式宣言でした。つまり、はじめから「情報戦争だ」と断定しているのです。どのような手段で情報操作が行われているか、これまた断言できませんが、情報操作はあって当然という前提で、戦争が行われているということです。
今度の「戦争」が始まってから、ぼくはあらためて『プラトーン Platoon』というヴェトナム「戦争」の映画を、米国からDVDで買って見ました。ご存知と思いますが、国家意志の発動である「戦争」なら何をやってもいいか、というのが主題です。ただし、情報操作の恐ろしい点は、1986年にならないとこの映画は作れなかったということです。
A君の疑問に、こんな一般論で答えるのは申し訳ないですが、あとは今日配った福田さんの<世界の研究(1)>でお読み下さい。彼はヴェトナム戦争末期の学生ですが、ぼくは今回の彼の「自己分析」に同意見です。TVがヤバイのは今に始まったことではなく、「誕生とともに」ヤバかったのです。今後もヤバイだろうと考えます。そのことを前提に、何が見えるかはぼくらの問題ということになります。 その「何が見えるか」に関連しますが、インドネシアは米国にたいする支持を、明確に「条件付き」に変更しました。もし人口の多さがその国家の重要性を測る一尺度になりうるとすれば、インドネシアの重要性はもちろん日本を上回ります。
また、現在米国大統領は、ヨーロッパの支持を取り付けることに躍起になっています。フランス大統領に接近していることは、その証拠と思われます。この件に関して、イギリスは信頼できません。そもそも、一九世紀にインドに対する利権を争い、アフガニスタンをロシアに対する衝立にするためにこの土地に最初に介入したのはイギリスでした。これだけでも有罪です。その上ブレア政権は、国外に敵を作らないと経済的にも政治的にも危ないことは、米国と同様です。現在時点で、EUで指導権を発揮できるのはフランスということです(もちろん、フランス国家だけ善玉という意味ではありませんが)。表向きは、タリバン政権倒壊後の政府作りの打ち合わせということになっています。ただでさえ秘密の多い軍事情勢だから断言はできないが、タリバン政権が明日にも倒壊するような状況にあるとは、にわかに信用できません。「倒壊したことにして傀儡政権を作る」というオプションが、早期に泥沼から抜け出す方策としてありうることは、ひとつの想像として充分以上に可能です。 何か、このようにいうとぼくは米国を憎んでいるように聞こえるでしょうか。しかし、ぼくは米国に多くの友人を(実は姻族を通じて遠い親戚も、また複数の在米卒業生も)持っているのです。また、過日コンプロの教室である学生が、9月11日に叔父さんを亡くしたと涙ぐんでいました。「実に気の毒です」としか言えませんでした。
講義で述べたように、ホッブズボームが nation = state = people という図式が強引に作られた結果が国民国家(民族国家)だと言っていることに、同感せざるをえないのはこのような理由からです。米国に住んでいる友人には、どうかその人も家族も、無事でいてほしいとしか言えません。これは正直な気持ちです。しかし米国という超大国家のやっていることがヤバイと思うことも、事実です。ぼくの米国の友人たちも、この等式に従ってヤバイことの下手人といえるのだろうか。そうでないことは明白です。この等式がおかしいのだと、ぼくは考えます。そしてこの等式も、実はマスコミを利用した世論操作によって、いまや辛うじて維持されているのです。 「自主ゼミでデュルケムの『自殺論』を読んでいるのですが...どうしても社会的事実にたいして主観的になってしまう...どうすればよいのだろうか」(Ms.B) 主観的でよいのだと、ぼくは思います。理由を述べましょう。「社会的事実」は「もの」(つまり物理的事実)と同じと見なし、「客観的」でなければならないと、デュルケムは述べています。これと同じように無闇に「客観性」とわめき立てた社会学者に、ご存じのマックス・ウエーバーがいます。何が第二世代の社会学者に、このような余計なことを言わせたかは、分析に値します。結論を端的に言うと、自然科学コンプレックスなのです。第二世代の社会学者で「客観性」を「貨幣」同様に有害なものと考えたのは、ジンメルだけです(『貨幣の哲学』、『断想』など)。
なぜこのようなコンプレックスが生じるかは、比較的単純な理由からです。やっていることに自信が持てないことの、単なる裏返しなのです。分からないことは分からないと言えない弱さを、第二世代の社会学者も、またその後の社会学者はなおさらに、多量に抱えています。第二世代の社会学者は、スペンサーなどと違って、国民国家(と市場経済)を自明の前提としました。このツケが、客観性コンプレックスとして彼らを責めさいなんだのです。自分たちは、自然科学者と対等だと、ことさらに言わねばならなかったのです。自然科学者は「客観性」など、わざわざ強調しないでしょう。ぼく自身が社会学に転向してから、彼らはこのようにして「科学としての社会学」の確立に貢献したと教わりました。ぼく自身は自然科学の出身だから、それにしては杜撰だなと思いましたけど。
当然ですが、これはでたらめでも何でも破廉恥に言ってよいと言うことを意味しません。金と時間を使って研究をしていて、でたらめで良いわけはありません。物体は放置すれば自然に消滅するとか、鷺を烏といいくるめたりとかは、して良いわけはありません。嘘はばれる。ただそれだけです。だから、自然科学者は「客観性」などと当然なことをわざわざ言いません。言う価値がないからです。社会学者の自信のなさが、「客観性」というせりふを振り回させる真相です。最大限善意にとっても、自然は騙せない。しかし人間は騙せる、ということを無意識のうちに言っているだけです。こんなものを気にする必要は、全くないと思います。
逆に、A君の問いかけにコメントしたように、TVはヤバイのじゃないかとか、「戦争」と言う国家意志の発動ならなんでのやっていいのかというのは、重要な「主観的」な問いです。ここから問題は始まるのです。ヤバクないとか、やってもいいとかを、どうやって「客観的」に論じられるでしょうか。ひとびとの九〇パーセントがTVを見ているからとか、テロは困るという人が八〇パーセントいるから正当と言えるでしょうか。これをやり出してから、現代の社会学は夕日が沈むように変に混迷しはじめました。さらに、世論で正当化するのは、第三世代になってからの社会学をとみに下らなくした大きな原因です。くり返しますが、「主観性」は(自然科学も含めて)逃げることができない重要な要素です。なぜなら、観察し記述するのは生身の人間だからです。
多くの患者が希望しているから「遺伝子操作」は社会的に承認しよう、などという「客観性」は、そろそろかなぐり捨てないと人間が危なくなっていると、ぼくは考えます。(なお、『自殺論』はそれなりによくできた本だから、読むのはとてもいいことと思います。ただ、デュルケムは「自殺」に関心があったのか、それとも「客観性」のデモンストレーションをここでしたかったのかという問題次元になると、どうも相当程度まで後者に比重があったように、ぼく自身は感じます。) 「社会学において第一、第二世代は力を持ちすぎている気がする。現代社会学は負けている気がする」(Mr.C)
上を参考して下さい。事実は第一世代を「消して」、第二世代にのめり込んだから第三世代(つまり現代の社会学)は下らなくなったのです。B君へのコメントが、この事情を相当に物語ってくれると思います。付け加えるとしたら、「この論文はいい加減でない」ということを保証するには、まっとうな「アカデミック・コミュニティ」が必要だ、という事実でしょうか。学会とか、大学の学部とかです。 「男女が恋人同士になるとき...や結婚するときに...互いの同意(=契約)は要るのではないか...付き合う時に言葉(=契約)は欲しいと思うが(ぼくが)どう考えるか」(Ms.D)
面白い発想ですね。すこし、大胆に見方を変えてみましょう。1)動物が交尾するにあたって、求愛行動と呼ばれる行動が行われます。多くの動物ではオスが行動し、メスが決定する種が多いです。声もあれば、身振り行動もある。D君にお聞きしたいけど、これは「契約」だろうか? 違うのではないだろうか。男女どっちでもかまわないが、このような求愛行動が人間にもあってよいと考えるかという意味なら、あって自然だろうと考えます。
これと異なって、2)契約は違反を想定しなければ必要ないものです。もっと限定しても、違反した時に自力で決められずに、裁判所を含む他者に決めてもらうしかなくなることを想定しないと、必要ないものです。「制度としての結婚」を法律で決めるのは、「どの結婚も契約違反を想定する必要がある」と決めていることと同じことです。他人のことだから結婚するなと言うつもりは毛頭ないけど、最近結婚が不人気なのはこのような背景に不快感を持つ人がいると言うことではないだろうか。とにかく、1)と 2)とを混同しないで下さい。
ここで、急にマックス・ウエーバー学者の口真似をして見たくなりました。1)は「行動」です。2)は「行為」です。(このような不自然な用語法は、社会学の業界用語だから、むやみに人前で口にしないようにして下さい。) 「...『社会契約論』の影響は...なぜ(コントを金縛りにするほど)浸透していたのだろう。ルソー恐るべし...」(Ms.E)
難問だね。コントどころか、上の求愛行動と結婚の例を取るれば、間接的にウエーバーも金縛りにしていることは明白です。ついでに言うと、動物の求愛行動と結婚とは絶対に違うから、 2)でなければならないと考える人がいたら(呆れたことに現在でも結構多いです)、この人も金縛りにしていることになるわけです。
多分、つぎのような複数の理由を考えるべきではないだろうか。a)ルソーの契約論が影響したのではなく、事実としての社会契約が人を縛るのではないだろうか。b)人間は理性的動物だから、絶対に他の生物と区別すべきだとする無理が、人間には結局「契約しかない」と思わせてしまうのではないか。3)ルソーの死後10年ほどでフランス革命が起きます。フランス革命は中央集権国家をルイ王朝から相続し、磨きを掛けて近代国家に仕立てました。このような国家のなかで生きていると、最後は法律しかないと思わされるのではないだろうか。どれも、ぼくたちに無縁でない問題です。
なお、講義で述べたように、ルソーにはもう一つの顔があることが、『告白』(岩波文庫その他)などを読むと分かります。ひとことでいうと「純真な人間」の顔です。いい加減な人間も怖いけど、変に純真な人間も結構怖い存在なのだ...。結局、人間はバランス、総合力だということです。 「人間は、人間とほかの動物の違いを強調したがる生き物だと思うが...あえて人間という生き物と他の生き物との一番大きな違いを上げるとすれば、何だろうか」(Mr.F、Mr.G)
現代の(例えば20世紀の)人間と他との違いという意味なら、答えは簡単です。上記のような契約とか制度とかは生物の生存にはまるで無用なものだから、こんな悲しいものは人間しか持っていません。同様に、どこで取れたか作られたか分からないものを、市場経済によって買わされて食べている愚かな動物は、人間しかありません etc.,etc.。
F、G両君の疑問は、多分このような意味ではないでしょう。そうなら、実はこれこそが、ヒトゲノム研究者などよりはるかに能力のある人々が、現在答えを見つけようとしのぎを削って研究している究極の謎です。甚だ残念なことに、この仲間には社会学者は入っていません。スペンサーから数えて150年以上も、社会学は人間に関するこの究極問題をさぼってきたからです。
人間固有と考えられてきたものをまともに研究すると、どれも嘘だったことが分かってきました。言語を持つや、コミュニケーションをするなどは、真っ先にどの動物もやっていることが分かってしまった事柄です。理性理性と騒ぐようなものは、違うと決めつけて考え出したアト知恵にすぎないから、全然回答になっていません。
ジャレド・ダイアモンドという人が書いた『セックスはなぜ楽しいか』(1999 草思社)という翻訳書が出ました。この中に、どうも現時点で人間にしか見られないのではないかという、生物としての特徴がほぼ網羅されています。有力な手がかりとして、6つの問題点が上げられています。今回は時間がないので、この最重要問題の回答は、この本を読んでいただくことで代えさせていただきます。
さらに、拙訳ですがフォックス『生殖と世代継承』(2000 法大出版)も、人類学の分野からの貢献です。あわせて紹介しておきます。 「(ぼくは)社会学をどのように説明していますか」(Mr.H、Mr.I)
つまり、社会学ですと答えて「それはどのような...」と尋ねられた時にどうしているかという意味でしょう。お答えの前に、野暮なことを一つだけ述べておきます。このような尋ねられ方でなくても、あと3年もたつと、諸君も就職試験などで尋ねられる場合がありえます。その恐れがあると思われる人は、何でもいいから一つだけ、もっともらしく厳かに答えられる「お話し」を作っておいて下さい。自分に関心があろうがなかろうが、どっちでもいいと思います。その代わり、だれが考えてもこの先は「まだ分かりません」だろうと想像がつく以外のことは、どこまでも答えられる方がいいです。
余談はそのくらいにして、ぼくは尋ねた人の人相を見て、適当な(適切な?)答えをしています。本気の質問なら、(諸君に講義する時と同じくらい)どこまでも付き合います。自分で納得したいだけだ、と思われる人には「人とは何か」という学問です、などと答えます。社交的なものである場合には、「30年以上研究しましたがまだ分からなくて...」と笑って、または真顔で、お答えします。こんなところでよろしいでしょうか。 「なぜ人を救う医者にならずに社会学者をえらんだのですか」(Ms.J、Mr.K)
何か、進路指導の教授にしっかり怒られたことを思い出します。大した理由ではないです。医者は親が選んだもの。自分で気が付いたら、こっちの方が面白そうだった、というだけです。それはともかく、医者は人を救うかどうかは、同窓会で同級生に会うたびに無条件でそういえなくなっている事情を聞かされます。延命治療をするかどうか決めねばならない時にはつらいよ、とか、医療器械が無闇に高額になって、金のことを考えてやってしまうのだよなー、などと聞かされます。人間が神様の領分に踏み込むのは間違ってるよなー、などと聞かされることもあります。ケ・セラ・セラ(What will be will be.)だから、めぐり会ったところで精一杯やればそれでいいのじゃないだろうか、と思います。今回はこの程度で許してください。 今回は、昨日から二日続きで、完成が遅くなりました。しかし、諸君の書いてくれるものに次第に核心を突くものが多くなっているという歓迎すべき傾向もあります。今後ともご健闘下さい。
来週もう一時間を社会学者たちに費やし、その後に「権力と人間の距離」、「生殖と親族」などを扱うつもりです。ではまた。10月31日
今日は15名の方を残しました。皆さんのご協力に感謝します。早速、具体的な回答が必要なものから、お答えします。 「...民事不介入とはどのようなことか」(Mr.a)
法律用語を使った解説は、どうぞ適切な法律関係の辞典(なるべく大きい方がよい)に直接当たってお調べ下さい。その方が記憶に残って、役に立ちますので。ここでは日常語ですませます。契約関係でないことは、原則として勝手にやってよろしい、という意味です。a君がぼくに、好意で高額の財産を呉れたとします。これを、正当な代価をぼくから取りなさいと国家(法律)が口を出すことはない、ということです。当たり前ですね。同様に、重婚は犯罪になるが不倫は犯罪ではありません。前者は契約だが後者はそうでないからです。この辺りになると、変な理屈のような気はするね。あとは調べてみて下さい。 「群で生きることが望ましいが...その中にも矛盾が多く存在するだろう」(Mr.B)
それはその通りです。群で生きる動物は、どれもが天国に住んでいるとは、だれも思わないでしょう。自然という圧倒的な存在の脅威にさらされて、絶滅することもまれではありません。また、この脅威を逃れるために大移動を行うことは、数万年ないし数千年前の人類の群にも、よくありました。
さらに、群である部族同士が争うことも当然あります。しかし、一方が他方を殲滅することは、起きていません(殲滅させることが、吹矢や石斧のような原始的な武器で、可能だと仮定しての話ですが)。自然の脅威は逃げることが不可能な場合がありますが、部族の争いに嫌気がさせば、遠くに行ってしまえばいいのですから。
ところが、こっちの「西洋群れ」の方が正しいから、「それ以外の群れ」は爆弾で殺戮してもかまわない、というような考えを持つ動物は、どう見ても人間だけです。17、18世紀の宗教戦争や、19世紀の植民地征服や、20世紀のイデオロギー戦争は、すべてこのような「人間特有の」情けない戦争です。これらはどの戦争の場合にも、人間に特有の「利権」が絡んでいるのです。このような問題は、今後取り上げていく予定です。 「社会学部なんてトコに通っときながら、社会学のはじまりについて始めて知りました。お恥ずかしい」(Ms.C)
いや、まだこれからなのですよ。これからだんだん(20世紀の)社会学が暗くなるのですよ。ぼくの方が「お恥ずかしくなる」話しをしなければならなくて憂鬱なのです。第一世代の出だしはよかったのに、20世紀になってからの第2世代は最悪なのですよ。とにかく暗い方の話しも、諦めずにつきあって下さい。 「対人地雷を譲渡すれば、責任は買って使った方にあるというのは、やはり不可解だ」(Mr.D)「...肉骨粉で狂牛病にかかった場合には、責任はどこにあるのだろうか」(Mr.E)
この両君の疑問は一対のもので、突き詰めるときわめて深刻なものです。冒頭の「民事不介入」とは違った意味で、若干法律の理屈の解説を必要とします。(なお、対人地雷は戦争に使われ、国家が行う戦争は一般に法的責任を問われません。これを念頭に下記をお読み下さい。)
法律の理屈は「人間の行為には、背景に理性的な理由があるはずだ」と見なします。このような「理性的理由」を「動機」と呼びます。動機がある行為が、その結果として、たとえば人に傷害を負わせれば、重大な刑事事件となります。しかし動機がなくて(たとえば交通事故で)傷害を負わせても(業務上過失傷害という、軽微な罪にはなりますが)、深刻な責任の追及はなされません。
以上を予備知識として考えると、なにも「肉骨粉」までいかなくても、いまだに責任があるのかないのかさっぱり判然としない、にもかかわらず結果がきわめて深刻な「日本の」問題として、水俣病(メチル水銀中毒)という事件があることを、ご存知だと思います(詳しい情報は「水俣病」のキーワードでヤフーなどを検索して下さい。一例として、熊本日々新聞のページを上げておきます)。この事件が裁判で争われる場合の争点は、「企業」、および監督する「国」または「県」などが、有機水銀によって中毒が起きるかどうかを知っていたかどうかに還元されてしまいます。いまだに、知らなかったという理由から、どこも厳密な意味では責任を取ろうとしていません。 レーチェル・カーソンが『沈黙の春』を出版したのは1962年です。この時点で、人工有機化合物には人間や他の生物の生命に危険をあたえるものが、多く存在することは分かっていました。蓋然性として「知り得た」のではないか、という疑念を払拭することは、難しいのです。もっとも、カーソンのこの本は20世紀の科学技術発達に有害だという理由で、最近にいたるまで無視されてきましたが。
このページは裁判ではありませんから、どこに責任があるかを決定するつもりはありません。しかし、上記とある意味できわめて類似した事件に、いわゆる「薬害エイズ」事件があったことは、諸君もご存知の通りです。
この事件では、企業、および監督官庁の責任が追及されることになりました。この事件はまだすべて決着したとはいえないが、先月(9月)には多くの新聞に「画期的な判決」として報道されたことは、知る人も多いと考えます。「画期的」とは、いうまでもなく他の事件の判決にあたえる影響が、きわめて大きいからです。その割りに刑が軽かったという意見も、あるようですが。
人工有機重金属、血液製剤、ヤコブ病、人工遺伝子操作などは、高性能爆薬、ミサイル、生物兵器などと並んで、まさしく20世紀の神話である「科学技術」の産物です。水俣病や薬害エイズ事件を見るに付けて、ぼく自身は近代国家とその法律が人間の生活を守るためにあると説明されても、仮にそれを正直に肯定するとしても、もはや事態はこのような策の及びうる限界を超えているのではないかと、疑わざるをえません。
もちろん、薬害エイズ裁判の過程で疑われたような、国家・政府と企業との癒着がないと仮定しても、ということです。このような癒着が存在するのであれば、事態はもっとはるかに、はるかに深刻です。
ともあれ、ぼく自身はこんなところまで市場経済と企業組織とは、進出してよいのかという根本的な問題に、ことは発展せざるをえないような性質の問題だと、考えています。 「ベブレンはなぜ社会学史から消されたのだろうか」(Ms.F)
端的に、今世紀初頭に上の疑問を提出したからだと判断されます。彼の作品は、最初から最後まで、私的所有権を前提に発展しつつある近代の工場制工業が、人道に反し、人間の生活を破壊すると警告しました。このような学者を変人扱いするほど、社会学も経済学も、20世紀の「経済繁栄」に酔いしれていたのです。核心を突いたことをいうと学者も歴史から消される点では、今日講義したH. Spencerも同様でした。
なお、ベブレンの本のなかで一冊だけ消されなかったものがあります。『有閑階級の理論』(岩波文庫、中公世界の名著、など)です。この本も同じことをのべているのだが、これだけは余暇の理論だということにしてお目こぼしにあずかったらしいです。安価に買える面白い本なので、お勧めします。 「ベンサムの主張が正しければ(国家のない集団は)殺し合うしかないことになる...そんなことはない..しかし、なぜ国家は増えつづけるのだろうか」(Mr.G)
脇道になるけど、これを読んでいたら急に「Enemy of the State」の主演者を思い出しました。Will SmithとGene Hackmanでした。ビデオ屋ででも借りてご覧下さい。
本題です。なぜ増えつづけるかには、2つの理由があると思います。1)癖になるからです。別の表現を使うと、(国家であれ経済であれ)権力には利益(利権)がともなうからです。2)最近の事例では、世界中に共犯者を作らないと国家が民衆に見捨てられるから、という実に困った理由も、加わり始めています。これらの問題は、「権力について」というところでもっとゆっくり考えるので、今日はこの程度にして下さい。 小説家・文芸評論家の吉田健一という方が、『ヨーロッパの人間』(岩波文庫)という文学エッセー集のなかで、ヨーロッパは人間に血が通っていることを忘れてしまった。このために「18世紀を頂点に、その光芒を失った」と書いています。実に困ったことに、こんにちの社会科学のほとんどが、「光芒を失ったヨーロッパ」が生みだしたものを受け売りしている現状です。一方、ヨーロッパのまともなひとびとは、ぼくがたまたま関わっているフォントネル(Bernard de Fontnelle 1657-1757)のように、『アジャオ人物語』(法大出版 1996刊 『啓蒙のユートピア 1』所収)のような、どう見てもジャワ島としか考えられない場所を、ユートピアとして描いています(この作、偽作説もあるらしい。このような「消し方」もあるのだね)。冒頭をすこし引きます。 「私は祖国を引き裂く混乱に嫌気がさしていた。混乱は、党派的な連中がひきおこしていたが、この連中はどの党派に属そうとも、要するに利害や憎悪や野心という破廉恥な動機によって突き動かされていることにかわりなかった.。..」(同書)
こういうことですね、国家が増えつづけるのは。増えつづけるから、産学協同などといって寄生するやつも出てくるのだね。ぼくらは前週にのべたように、このような事実を事実として、露骨に直視する以外に21世紀を人間の世紀に変える近道はなさそうですね。それなら、たじろがずにやりましょう。 「人々が各自の人格を切り売りして社会や国家が作られているのではないかと考える」(Mr.H)
ぼくも同感です。同じことを、これから講義する第二世代社会学のなかでは例外的にすぐれていたジンメル(Georg Simmel)という社会学者が、『貨幣の哲学』(白水社 『ジンメル著作集』所収)の中などで書いています。ジンメルもよく「消される」社会学者なので、実際にその作品を読まないとならない人のひとりです。 ではまた教室で。
10月24日
今日はぼくと同じに「炭疽?」様症状の人が多かったせいか、いつもの枚数より、かなり少ない数しか残せませんでした(13枚)。しかし、念頭をかすめたどんな疑念の中にも、重要な前進の手がかりがあるという見地からすると、残ったものの中には、間違っていても興味深いものが多かったです。大きく分類すると、「国家 state」に関するものと、「家 family」に関するもの、および「その他」に別れます。
後のものから順にコメントします。 「兵役の義務がないことはいいことだが、その結果男が弱く、女が強いといわれる世の中になったのではないか」(Mr. A)
どうかなー? もともと女性の方が強いのではないかなー。ハチではないが、男は女性に精子を渡してしまえば、あとは無用の存在なんだけどなー。女性をもっと強くするために、米国などは軍隊にも女子を使っているのかなー。「強い」とは、どのような意味かなー。生物的に?それとも社会的に?
それはともかく、真面目な話しとしては、『生殖と世代継承』(2000 法大出版)をお読み下さい。世界史的に、近代国家(すなわち民族国家、国民国家などといわれるもの)は、「家族」が大嫌いなのです。国家こそ、社会の頂点に位置する最高の存在だと主張するにあたって、家族は最大のライバルになりかねないのです。
それなら、母と子がいれば子は育つから、A君の疑問を活かして、男は全部国民国家の軍人にして、あとは母子家族だけにすればいいようなものですね。しかし、近代国家は「扶養の義務」は負いたくないのです。そこで、扶養の義務は両親、中でも男子にあるのだ、という建前が必要なのです。このご都合主義のために男が利用されるのだから、男が弱くなるのは当然だ、ということはいえるかもしれない。 「恋と結婚の区別がわからない」(Mr.B)「親子関係も契約なんですか?だとしたら親からの一方的なものになる。子どもは親を選べないか...」(Ms.C)。その他同様なもの数通。
折角イキな話しなのに、ヤボな話しですみませんが、『憲法』24条および『民法』「親族編(中でも第2章婚姻)」を、この機会にじっくり一度お読み下さることを、皆さんに薦めます。両性関係と親子関係を、法律がどのように理解させたがっているかを知るために。
B君に答えるのは簡単といえば簡単です。結婚(婚姻)は、法律がさだめる(承認する?)男女関係ですが、恋はそれ以外だ、ということです。それ以外だから、子供が産まれると嫡出・非嫡出などの、昨今問題になっている不快な事柄が生じます。生物的なことに法律的な枠をはめると、何であれこのような矛盾が生じます。
C君に答えるには、法律は男女関係を結婚という契約関係に置きかえるために厳重な枠を張りめぐらしていることを考えることが、前提になります(この枠は、男女関係を国家の支配下に組み込むためです)。「親子関係は契約」と言い切っているわけではありませんが、よく読めば子どもを、結婚という契約関係からの派生物と考えていることが明瞭になります。例えていうと、貸借関係から生じる利子みたいなものだろうか。きっとそのせいで、沢山生んだらいけないとか、少子化はいけないとかいうのだろうか、とも思いたくなるね。 ところで結婚が契約関係だとすると、何と何とを交換するのだろうかと、考えてみたことがありますか。Xは何も提供せず、Yはすべてを提供する関係を隷属といいます。近代契約は理性的で優れているので、という理由から、契約は、Xはxを提供し、Yはyを提供するといった、双務的なものが基本とされます。では何が交換されるのか。これって、だんだん気持ち悪くなるね。法廷で離婚の有力な決め手となるのは、xやyを呉れないとか、他の人にあげちゃった、ということらしいです。C君の言うとおり、「信頼」があるから成り立つ男女関係や親子関係に法律が口を出すのは余計なお世話、控えめにいっても「気持ち悪い」ですね。 C君はこの他に、台湾は中国はじめ主要国が「国家と認めていない」という問題を指摘しています。そうです。国民国家というのは今世紀最大のフィクションだから、他の国家が「ほれ、あそこにあるのは国家だ」というと国家になるたぐいの、詐欺師まがいのというと語弊があるが、とにかく怪物です。
過日からぼくが危惧している新たな中東紛争も、覇権国家という国家中の国家が「国家でない」というと国家でなくなり、「戦争だ」といえば戦争になる構図があると思われるからです。講義の中で示した「民族nation = 国家state = 人民people」という図式(Hobsbawm, Nation and Nationalism since 1780, 1992 CUP)を考えてみて下さい。この現代の等式からいうと、戦争をやっているのは people すなわちぼくや諸君の一人ひとりということになるのです。あるいは、先週のソンタグのプロテストを考えてみて下さい。同様な見解が、Mr. Eその他数名から寄せられていました。 「昆虫は家族を守るという考えを持っているだろうか」(Mr.F)
重要な問題点です。「考え」を、どのようなものと取るかによるでしょう。ハチは外敵を刺せば死にます。鳥類や哺乳類には、親が囮になって捕食者から子どもを守るものが知られています。このような特徴的「行動」を「考え」と呼べば、持っていると答えていいと思います。そうではなく、哲学者や社会学者が「意識」とよぶものを、いろいろ悩んだり他人に相談したりすることを「考え」と呼ぶのなら、そのような生存に不要なものは持たないというべきだと思います。こんなに優柔不断なのは、人間という変な動物だけです。 「かつてのようにアイヌ人を排除しなくなったのは、ひとつのnationに組み込まれたからだといえるのだろうか」(Mr.G)「多様性があるから素晴らしいのに、なぜ(民族を)理由にいがみ合うのだろうか。これを考えると悲しくなる」(Ms.H)
この2人は、結局同じことに触れているのだと思われます。民族には、国家のように他の国家の承認を必要とするということはありません。ぼくが仮に「ウチナンチュ」だとすれば、それはぼくが沖縄に生まれ、その血を受け継いでいるからです。G君が仮に「イヌイット」だとすれば、その子孫だからです。同様に、H君が「バスク人」だとすれば、これも同様にその血を受け継いでいるからです、などなど。
民族は、生存に脅威でないかぎり他を排斥する理由も、また逆にことさらに「受け入れる」理由もありません。むしろ、マルセル・モースが太平洋岸インディアンについて研究したように、必要なときは協力するし、必要ないときには手も口も出しません(『社会学と人類学』モース[著] ; 有地亨他訳 1973 弘文堂。またエバンス=プリチャード『ヌア族』 1997 平凡社 も、結局同じことをけんきゅうしています)。 ところが、民族の上に国民国家の枠が十重二十重にのしかかると、問題は途端に「悲しくなる」ような様相を帯びます。先週紹介した、ガンディーの『真の独立への道(ヒンド・スラワージ)』(2001 岩波文庫)を、諸君はもう買い求めたでしょうか。ガンディーはこの中で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒がイギリスの植民地化以前のように友好的になるように、と力を込めて訴えています。また、互いの中にある民族的違いも乗り越えようと訴えています。
これを逆に読むと、イギリス国家が支配しはじめると、民族的対立は激化するということです。対立する方が、国家にとっては都合がよいのです。調停者の顔をして支配できますから。また、支配される側のなかでも、どちらが優位に立てるかという利害の競争が始まります。従来存在しなかった国家という優越者が現れると、ひとつの国の中でも同じことが起きるのです。近代化・工業化がはじまると、利害対立が激化するのは、現代のアジアでもいまだに広くみられる事実です。この対立が、あたかも民族が大昔から対立していたようなものとして誇示されるのです。
G君のいうアイヌの人々に関しては、日本人は中央集権国家が成立しはじめた頃にこの人々に、領土や通商の要求という野心を持って接し始めたのです。幕藩体制下になるとさらにこれが露骨になり、明治政府の時期には対ロ戦略という都合のもとでこの人々を翻弄しました。アイヌはもともと、ひろい意味の縄文文化圏に属していた可能性さえ指摘する学者がいるくらいですから、日本人との民族的つながりはすくなくないのです。しかし、国家が追求する領土は、民族がもともと住んでいた居住域などはどうでもいいのです。通商とか市場とか外交戦略とかこそが、問題なのです。もし最近になって「排除しなくなった」という事実があれば、それ自体はよいことですが、意地悪くいうとその居住地に外交戦略上の価値がすくなくなったからだということも可能です。この点は、日米軍事同盟の見地から戦略的価値がかえって高まっている沖縄とは対照的なことで、日本国家が全面的に過去の民族を尊重するようになったということにならないのが、遺憾ながら真実です。 このような事実があるので、「国家の枠から抜けて考えるのはむつかしい」(Ms.I)、という感想が迫真性を帯びます。しかし、難しくても抜けて考えられるようにならないと、大きくいうと人類の未来はないのではないだろうかと、ぼくは考えています。何しろ20世紀は、国民国家の名において他の国民の頭上に砲弾や爆弾の雨を、間断なく降らせつづけた世紀なのですから。今世紀も同じことをしていて、人類が生き延びることなど無理だとしか思えません。ある土地が徐々に寒冷化し、あるいは温暖化した結果、その土地にいた部族が移住を余儀なくされたとか、生活様式を大きく変えざるをえなかったということは、縄文時代7千年だけをとってもあったようです。ところが現代の場合には、技術革新の厭うべき利用の結果、地球の裏側の人々にさえミサイルや爆弾を降らせることができるのです。国民国家とそれが持つ軍事技術は、破滅の最大要因のひとつだと断言できます。 今日講義でのべたジャン=ジャック・ルソーの生きた時代には、近代国家の開祖であるブルボン王朝という怪物を作り出すのに、ヨーロッパで数十万人規模の人口が抹殺されたと知られています。ところが、この程度の数は、現代ではニュースにならない小さな局地紛争でも抹殺されています。(このような忌まわしい現実に関しては、ぼくの頁から「国境なき医師団 MSF」を参照して下さい)。「国家の枠から抜けて考えるのはむつかしい」。しかし、それができる人々が現れないと、今世紀に未来はないと思います。ジョン・レノンもそういいたかったのだと、ぼくは考えます。
次週は、予告に従って「功利主義」というものについてお話しします。では教室で。10月17日
今回は、提出してくださったほとんどの方々の意見が傾聴に値するものでした。悪天候の中を聴講していただいて、かつさまざまな意見を聞かせていただき、感謝します。その中から、結果的に22枚を残しました。今回はバラエティに富んでいるので、分類ができませんでした。ランダムにコメントすることをご了解下さい。 今回の多くの諸君の意見の特徴は、国際的緊張が高まっていることを反映して、、反テロと称する戦争、海外派兵、このような事態の原因、などに関するものが多かったことです。文末に、米国の優秀な女性作家・学者スーザン・ソンタグが、雑誌『ニューヨーカーズ』に寄せた原稿を収録しておきます。事件(Tuesday とは9月11日のこと)直後の米国政府とマスコミの反応に、民主主義にふさわしくないと、重大な疑義を表明したものです。
ぼくは、米国民ではないがこの見解に賛成です。ぼくに重ねて今回の事態にかんする見解をもとめる主旨のものがありましたので(Ms. A、Mr. Bなど)、お答えに代えて掲載しました。翻訳する時間がないので原文のままですが、お許し下さい。いずれ時間を見つけられれば翻訳しますが、要旨は「悲惨な事件は、自動的に今回の報復戦争を正当化しない」ということです。これは、露骨な超大国の国家意志の発動であって、「成熟した民主主義」にとっては到底正当化できない、という主旨です。
あわせて、ぼくは日本が「テロ対策特別措置法」立法を急いでいることに、なお危惧を感じています。米国を中心とする先進国から孤立したくない一心からなのでしょうが、ぼく自身はたとえ孤立しても、憲法9条を堅持する方が重要と考えると、重ねてこれらの諸君にお答えします。とりわけ、このツケが将来諸君の上に重くのしかからないことを、強く願っています。 さらに、ジョン・レノンの「イマジン」禁止問題に言及した方がいました(Ms.C、Ms. D)。この歌は、今日と来週の講義に密接な関係があるので、ぼく流に翻訳したものをお目にかけます。「people」を「国家を持たない原始社会」とあえて訳し分けると、この歌の意味は明瞭になると考えます。これも末尾に収録します。原文はCDなどでお探し下さい。 「われわれが望む平等とは、欲望がかなえられた上での平等だ。狩猟採集民は食べ物がないときはみなが食べられない。このような負の平等を、われわれは望まないようだ」(Ms. E)
おっしゃるとおりです。逆にいうと、われわれは「豊かすぎる」のです。しかも、地球上で数億人が飢餓線上に生きているときに、豊かすぎるのです。
飢餓線上に生きている人々と、いわゆる先進国に生きている人々の数は、ほとんど同数です。中間の人口は、「開発途上国」とか「発展途上国」とかと呼ばれて、土地に根づいた生活から急速に追い出されています(しかもその多くがアジアにあります)。開発経済学という経済学があるのだそうです。先進国がなぜ「開発(つまり工業化)」を輸出するかというと、市場化してこの人々にも商品を買わせ、かつ低賃金で働かせるためです。これを直視せず、開発経済学はこのような人々を豊かにするために開発を輸出するのだ、といっています。いやな学問だね。 開発の輸出に関連して、「国家が輸出できるという話題は意外だった」(Ms. F その他2名)と書かれたものがありました。
『真の独立への道(ヒンド・スラワージ)』(2001 岩波文庫)という、ガンディーの本の新しい訳が出ました。この中から引用します。「...弁護士たちによる最大の損害は、イギリスの軛(くびき)が私たちの首にしっかりと当てられたことです...考えて下さい。イギリスの法廷がなかったら、イギリス人は支配できると思いますか...」。
この前後を読めば、イギリスは武力によって支配を持ち込み(輸出し)、法律によって支配を維持したということが、よく分かります。当時のヨーロッパは、この支配を(羨望をこめて)イギリスによるインドの文明化で、よいことだと言っていました。1世紀後、われわれが「開発」を輸出して、貧困をなくして人権を守ったと、平然と言っているのと何も変わっていません。第二次大戦後の国際関係に翻弄されてできあがった、現在のインド国家を考えると、胸が痛みます。
なお、この本は近代アジアが生んだ名著です。いま書店に積んであるので(500円)ぜひお読み下さい。 「動物に国家はないとのことだが、ミツバチなどはそういえるか。女王バチがいて継承性がありそうにも思えるが...」(Mr. G)。
なるほど。面白い着眼点ですね。ミツバチについて、もうすこし詳しく事実を調べてみて下さい。ぼくの知識の範囲でお答えすると、次のようになります。ハチの群では、女王バチだけが卵を生み、生殖に従事します。つまり、群のすべての個体は女王バチの直系の子(娘)なのです。哺乳動物は、一個体の中に、捕食のための足や顎、消化のための内臓、生殖のための性器などの器官があります。ミツバチは、これらの器官がばらばらの個体に別れ、群としてみると全部そろうようになっています。G君にお聞きしたいのだが、このことを知った上で、なおかつこれが「国家」のように思えますか。 以上の他に2名の方が、「ぼくは電車にも乗ってみるように。怖くないから」と励まして下さいました。感謝します。どうぞぼくのような人間もいるのだから、駅で「この切符、次はどうすればいいのですか」などという不審な(?)ことを尋ねる人がいても、「こいつはホームレスか、さもなければ怪しい外国人ではないか」といった侮蔑の目で見ないで、分かりやすく教えてあげて下さい。
一昨年、必死の思いで新幹線経由新大阪に到着し、そこから大手門まで地下鉄に乗ったらそのまま1時間半地上に出られなかったという、ぼく的には深刻な経験以降、自分のクルマ以外は信用しないことにしましたので、ぼくのことは悪しからず。
なお、諸君がおそらく知りたいであろう、関連した別の問題に触れておきます。輸送手段として、クルマと鉄道について、鉄道の方が省エネルギーかどうかという問題です。結論を言うと、首都圏のようなぎゅうぎゅう詰めの電車は省エネといえます。しかし、あらゆる路線を全部総合すると、電車の消費エネルギーはクルマの70パーセント程度です。いいかえると、2人乗ったクルマなら、こっちの方が1人当たりエネルギー消費はすくないです。他に、鉄道建設と道路建設のエネルギーコストの比較も必要ですが、この資料は持っていません。住宅から離れたところに住むしかない都市が、そもそもエネルギー浪費の典型なのです。 これ以外の13人の方々(このように一括して申し訳ないですが)は、すべて、国家が人間にとって見えない鉄格子のようになったと感じた上で、ではどんなことが考えられ、またわれわれがどのように考えればいいのだろうか、という難問に真剣に取り組んだものです。全員個性的なので全部引用できませんが、すこしだけ上げてコメントします。
その前にお断りしますが、ぼくに一発回答があるわけではありません。当面自分たちの状態を、ひるまずに「露骨に直視する」ことが必要だと考えているだけです。そうしないと、文末のソンタグのように「今回の政府高官とマスコミのコメンテーターの態度は...成熟した民主主義にとって許容できない愚行だ」といった声も上げられないと思うからです。民主主義は、だれもが声を無視されないという意味で、理想主義的な思想です。それだけに、民衆の目にウロコが付いているあいだは、法と権力が圧勝するでしょう。 「ギデンズの言葉を借りれば...化学は、原子の動きがもたらす結果の影響を、考える必要がない。しかし、人間は行動の結果を意識し、つねに念頭におかねばならない...以上のことから、社会学と他の学問は違うと考える」(Mr. H)。
ぼく自身は、ギデンズは根本的問題を微修正ですまそうとしている微温的社会学者と判断するので、このような文がどこにあったか思い出せません。人間には「意識や理性」がある、ということだろうか。この予断が、人間と他の生物を区別する西洋の思想につながっているので、この意味ならぼくは賛成できません。あらゆる物質は時間内存在だから、結果がつぎの出来事に影響するのは、分子も人間も変わりはありません。200億年の宇宙進化を考えてみて下さい。
そうではなくて、「生命」があるものとないものが違うと言っているのだろうか。学問の現状では、生命のあるものとないものとは、それなりに独自の様相を呈するので、一応別々に研究されています(だんだんそうでなくなっていることには、注意して下さい。受精卵を用いた幹細胞培養とか、人工授精とか、クローンとか。これらの研究に、たとえば米国では、製薬会社絡みで数兆円の金が使われています)。とにかく、もしこの意味なら、社会学は生命科学と共通の基盤を持たないと、むしろおかしいと言うことにさえなります。
そうでもなく、もし「意識や理性」があるとして、それを用いてよく反省してみると、過去2世紀足らずのあいだに、人間は人間社会を「相当まずい」状態に追い込んでしまっていることを直視しよう、といっているのだろうか。この最後の意味にかぎり、ぼくは同感できます。 「現在の日本のような国を、法律などで平等に分配する国家に変えたら、ソ連みたいになるだろうか」(Ms. I 他に、社会主義の誤りはどこにあったのかという質問がありました)
ソ連など社会主義の誤解は、国家が作ったいわば「累積赤字」を、工業を基盤とした「もっと強力な国家」によって解消しようとしたことだと考えます。Iさんの言う通り、このようにしたら、同じことが起きる可能性があります。 ただしこれは、分配の平等はどうでもよいということを意味しません。企業・金融機関の不良債権の処理に税金を使って当然とは、だれも思わないのではないだろうか。このような金があるなら、全額を大学など高等教育機関の一部無償化に使ってほしいと思うくらいです。つまり、一気に平等にするなどというほとんど起こりえないことではなくて、分配の平等問題は目の前のさまざまな争点のなかで、現に起きているということです。どうぞこのことをお忘れなく。
この場所から「過去70年間の日本の就業構造変化」というグラフにリンクを張っておきます。日本はわずか半世紀に、農業就業人口が数パーセントまで減少し、人口の9割がサラリーマン(それも半分以上がサービス業)になっています。温帯モンスーンの恵まれた地理的条件の中で、このような偏った就業人口でいいのだろうか。もしこのままサービス業と製造業に従事した状態で進むとすれば、アジア諸国が同じようになることになることに手を貸すべきか、それとも、日本の生活水準が多少下がってもアジア地域協力に熱心になるべきなのだろうか(ASEANの最大課題はこれです)などといった、国際的な分配平等も避けて通れず、これには日本人の日本外交にたいする見解が問われます。 昔々、全共闘というのが大学を中心にあったことを思い出しました。全共闘は、結局ただの左翼集団から卒業できなかったため自滅しましたが、この諸君が残した名文句を思い出しました。「連帯を求めて孤立を恐れず」というものです。ぼく自身は全共闘は嫌いだったが、それと関係なくこのモットーは、重要な言葉だと思います。テロ対策法を考える中で、テロをなくしたいと考えているさまざまな地域の人々と連帯するために、たとえ日本が先進国からしばらく孤立することも、選択肢の中にありうるのではないだろうか。同じように、地球破壊を止めるためにも、人口と食糧問題を考えるためにも、またもっと身近な財政赤字問題、不良債権問題、地方自治問題、雇用と賃金保障問題などなどのなかでも、各人が孤立を恐れない見識と信念を要求されるのではないだろうか。 過去に、この講義で述べたことがあるので、「Back Issues」のどこかに入っていると思いますが、これと同じ精神でのべられたものが、1960年代米国の公民権運動のなかで、マーチン・ルーサー・キングが言った「Think globally, act locally!」というモットーです。解説すると、「ローカル」とは黒人であることです。「グローバル」とは米国人であることです。同じことが、国民にされてしまっている、にもかかわらず人間である、ぼくたちにもいえます。
ぼくたちが直接関わることができるのは、日本国民というきわめてローカルな次元でしかないでしょう。しかし、問題の本質は「なににも制約されない人間同士」というグローバルなところにあります(民主主義は多数決などではありません。制約されない人間、というのがその本質です)。一方国家や法律は、外からの力で一致させることがその本性です。このような条件の下では、大事なときに孤立を恐れない、別の言葉でいうとグローバルに考えているから、ローカルには対立者に見えるかもしれない状態を恐れないような、そんな人間が必要なのだと思います。(当然だけど、孤立すれば正しい、ということにはなりません。逆は真でないのです)。 以上は、13人の方々の書いたものを読みながら、ぼくが考えたことです。これに、先ほどあげたガンディーの本を読んで下さることを、再度お願いしておきます。
ガンディーが独立運動の旗印としたのは「チャルカー」と呼ばれる、手巻きの糸紡ぎ車でした。古来の生業に戻ることこそ、インドの独立にとって最重要と考えたからです。原爆を持つことではありませんでした。そういえば、日本人は黒潮の民と稲作の民の混合だと考えられているけど...
ともあれ、これで取りあえずこの部分は終わりとします。来週もまたよろしくお願いします。ではこれで。 ----------------------------
イマジン(ジョン・レノン作・平野試訳) 部族の暮らしに、----------------------------
天国とか地獄はないよ。
頭の上には、
青空があるだけだよ。
青空の下で、
今日を生きているだけだよ。 部族の暮らしに、
国家なんかはないよ。
国家のために、
殺したり死んだりなど、
想像もできないよ。
青空の下で、
平和に生きているだけだから。 こんなこと、
ぼくだけの夢なんかじゃないよ。
みなが同じことを感じているよ。
ぼくと一緒に感じてみようよ。
そうすれば世界は、
みんなの世界なのだと分かるよ。 所有するなんて、
ぼくらは想像もつかないよ。
欲張りとか飢餓とかも、
部族の兄弟姉妹には想像もつかないよ。
だって、世界は
みんなで生きるところなんだから。
The disconnect between last Tuesday's monstrous dose of reality and the self-righteous drivel and outright deceptions being peddled by public figures and TV commentators is startling, depressing. The voices licensed to follow the event seem to have joined together in a campaign to infantilize the public. Where is the acknowledgment that this was not a "cowardly"attack on "civilization" or "liberty" or "humanity" or "the free world" but an attack on the world's self-proclaimed superpower, undertaken as a consequence of specific American alliances and actions? How many citizens are aware of the ongoing American bombing of Iraq? And if the word"cowardly" is to be used, it might be more aptly applied to those who kill from beyond the range of retaliation, high in the sky, than to those willing to die themselves in order to kill others. In the matter of courage (amorally neutral virtue): whatever may be said of the perpetrators of Tuesday's slaughter, they were not cowards. Our leaders are bent on convincing us that everything is O.K. America is notafraid. Our spirit is unbroken, although this was a day that will live in infamy and America is now at war. But everything is not O.K. And this was not Pearl Harbor. We have a robotic President who assures us that America still stands tall. A wide spectrum of public figures, in and out of office,who are strongly opposed to the policies being pursued abroad by this Administration apparently feel free to say nothing more than that they stand united behind President Bush. A lot of thinking needs to be done, and perhaps is being done in Washington and elsewhere, about the ineptitude of American intelligence and counter-intelligence, about options available to American foreign policy, particularly in the Middle East, and about what constitutes a smart program of military defense. But the public is not being asked to bear much of the burden of reality. The unanimously applauded, self-congratulatory bromides of a Soviet Party Congress seemed contemptible.The unanimity of the sanctimonious, reality-concealing rhetoric spouted by American officials and media commentators in recent days seems, well, unworthy of a mature democracy. Those in public office have let us know that they consider their task to be a manipulative one: confidence-building and grief management. Politics, the politics of a democracy? which entails disagreement, which promotes candor? has been replaced by psychotherapy. Let's by all means grieve together. But let's not be stupid together. A few shreds of historical awareness might help us understand what has just happened, and what may continue to happen. "Our country is strong," we are told again and again. I for one don't find this entirely consoling. Who doubts that America is strong? But that's not all America has to be. (Susan Sontag)10月10日
今日も、21名の方のものを厳選して残しました。ご協力感謝します。全員の文を引用するのは時間的に困難なので、次のように分類します。便宜上の分類だから当然重複があります。気にしないで下さい。 (1)本能について(6名)
(2)群れ、動物園、「動物園」状態について(8名)
(3)近親相姦について(3名)
(4)その他(4名)
順番にコメントします。 「個体の維持と種の維持が背反関係にあることは理解できる。...この両者が均衡すると、群れになるのか?」(Ms. A)
前半はその通りです。後半は、必ず正しいとはいえません。動物が群れを作る理由は、この2つの均衡の結果とはいえません。ある場合には、群れで居る方が捕食されにくい(草食動物や回遊魚などの場合)、えさを捕らえやすい(食肉動物の場合)など、当の動物の「経済」に依存します。群れを作らない動物(いいかえると単独でテリトリーを持つ)ももちろん確認されています。
ただし、繁殖期にはもちろんどの動物も群れ(男女というか雌雄の)を作ります。これが平常の群れとほぼ同じ動物もいれば、繁殖期だけ特別な群れの動物もいます。小沢正昭『群の科学』(研成社 1991)という図書があることを教わりました。この本は、まだ10年しか経っていないのに絶版のようです。古書店ででも探すしかないようです。 「1)個体維持も種の維持も、動物と人間と共通している本能のはずだが、なぜ人間だけ欲望が増大するのだろうか。2)それとも、動物も欲望は際限ないのだろうか。3)本能や欲望は、文明とどのような関係があるのだろうか。キリスト教に関係があるだろうか」(Mr. B、分類は平野)
1)は基本的に重要なことです。つい最近まで「人間は動物と違う」と、哲学者・科学者は平然と公言して来ました。実際には、現在もこのような人々が多数派を形成しています。この人々によれば「違うから、人間には食糧問題など存在しえない」「人口問題もありえない」なのだそうです。
何故違うのかと聞かれれば、この人々は「何故なら人間は理性的だから」と答えてきました。「理性的だから、食料も人口も資源も、科学的政策が(いいかえれば国家が)解決してくれる」と公言していたのです。逆に表現すると、「共通している」のではないかと認めざるをえなくなったのは、それだけ地球破壊が激しくて、このように公言できなくなったからです。
2)この問いは、人間以外の動物に関しては実は無意味です。野生では起こりえないことだからです。ライオンの群は、大型草食動物を倒すとすべて食べ尽くそうとします。(実際には他の動物に奪われて、全部食べられないことの方が多いと聞きますが。)食べ尽くしてしまえば、数日は寝て暮らします。なぜなら、それ以上捕獲のためにエネルギーを費やすのは無駄だからです。
ゾウアザラシのような大型海獣のなかには、数十頭の雌のハーレムを持つ一頭の雄がいるものがいます。しかし「数十頭」は「無際限」ではありません。またこのような雄は、早晩他の雄との争いに負けて追い出されます。
このようなさまざまな意味で、「欲望に際限がない」という命題は無意味になるのです。実は、人間もごく最近まで(2百年ほど前まで)欲望が際限ない、ということはありませんでした。市場経済の発達とともに、際限がなくなったのです。20世紀になると、大量生産工業の生産力が増大し、同時にこれを経営する企業の利潤への欲望が「際限なく」なり、それを支えるために、「欲望に際限のない消費者」が作り出されたのです。
3)直上のパラグラフが、このお答えになると思います。一般論としては、「文明は人間という動物の自然が持っている安全装置を外す」ものだったのです。人間の持つ自然は、英語でいうと「human nature」ということになります。ところがヒューマン・ネーチャー論というのは、不思議なことに、先に書いた「理性」の理論です。自然でないものを自然とみなすにあたって、ご質問のキリスト教は多いに関係あります。 「見えない鉄格子に囲まれた...私たちも、誰かに見られ、観察され、笑われているのだろうか」(Ms. C)
これは、質問というより自嘲でしょうね、多分。きっと見ているのではないだろうか。すくなくとも自分は見ているでしょう。このような自嘲と取れる文章が、他にも数名いました。
関連して、フーコー『監獄の誕生』および、同『狂気の歴史』(ともに新潮社)という有名な本があります。ぜひ多くの人が読んで、彼はどう感じながら書いているかお考え下さい。 (2)群れ、動物園、「動物園」状態について、の中に分類した意見や質問は、ほぼMr. B、Ms. Cへのコメントに該当しますので、以上を参照して下さい。 次に(3)です。「野生動物には、結果として近親相姦が起きないということだが...偶然起きるということはないだろうか」(Mr. D)。
なるほど。いわれてみると、偶然起きるということはないとはいえませんね。ただ、次のような計算をしてみて下さい。ある雄が20頭の雄の群に入り、姉/妹のある雌が20頭の雌の群に加わったとします。このとき、両者が偶然遭遇する確率はどの程度だろう。もちろん400分の1です。この程度の群でも、あまり高いとはいえないのではないだろうか。
「動物に、親族を識別する能力があるとは思えない。それでも近親相姦が起こらないというなら、そこに彼らの意志を求めなくてはならない」(Mr. E)
「彼らの意志」とはどのような意味だろうか。動物の意志、という意味だろうか。それはすこし言い過ぎかもしれません。人間に適用される「意志」という言葉は、動物にはおよそふさわしくないからです。この獲物は仕留めてやろうというような「行動の持続性」は、野生動物にはもともと備わっているもので、人間はこの辺が怪しいので、とくに「意志」などという哲学用語を使うにすぎないのだから。
そうではなくて、一種の文学的擬人化としてなら、「彼ら」は「自然」ということになるでしょう。「そこに自然の意志が感じられる」。これなら、表現として理解できるものになります。擬人化が明白だからです。文章は正確にお書き下さい。
なお、この機会に近親相姦が原因となって発現する遺伝子的疾患のようなものを例にして、現代の生物学がどのような計算をするかを紹介しておきます。
あるn個の遺伝子の欠陥からこの疾病が起きると仮定します。父親がこの欠陥を持っていると仮定します。男女一人ずつの子供に、この欠陥が伝わる確率は、2分の1のn乗です。n=1の場合がもっとも確率が高くなりますから、nを1と仮定します。
この場合、この男女から産まれる子供がこの欠陥を持つ確率は4分の1です。かなり大きな確率というべきでしょう。
このような親族間の交配を習慣とする群がもしあったと仮定します。この場合には、このような交配を習慣とする群は、他の群に比べて生き残る可能性がかなり低くなります。早晩絶滅するともいえます。このことを擬人化して「自然の意志」と表現するのなら、さらに事柄は明確になるでしょう。 (4)その他。
「数日来の米国・英国によるテロ報復軍事行動について、社会学者として賛成か反対か。また、小泉首相の行動に対してはどうか」(Mr. F)
ずいぶん重いご質問ですが、折角なのでお答えします。テロを肯定するわけではないが、テロへの報復軍事行動なら正当化されるとは思いません。国家意志の発動としての戦争を、許容できません。この点では「憲法9条」を、ぼくは文字通り重視します。
小泉首相の行動に関して。上記からお分かりのように、賛成しかねます。講義を聴いてお分かりのように国家とはグロテスクなもので、小泉個人という存在は、あるようでなくなるのです。詳しくは権力に関する講義で補足します。首相として、彼は「テロ報復戦争を全面的に支持する」、ただし「憲法9条は尊重する」という両面の発現を公式に行っています。この比重が逆であればと、ぼく個人は希望します。
なお、小泉発言は国家を代表した発言だから、1)「近代国家の理屈として」、主権者であるF君の発言でもあると見なされること、2)結果のツケは、国債赤字と同じように国民にまわること、の2点について、とくにF君をはじめ皆さんの留意をうながしておきます。
「社会学は法を歴史的に分解して、その下にある法則を探る学問だろうか。それは生物学のやることではないだろうか」(Mr.G)
ぼくはこれを、逆だと考えます。「法を歴史的に分解しその下にある法則を探る」ことなら、もっともその知識があり、またはなければいけない学問は、社会学だと考えるということです。現状の生物学者は、このような「歴史を分解する」準備は「まだ」できていないと考えます。まだ、という部分を強調したのは、霊長学者の中には、霊長類ホミニード学として、社会の研究も包摂すべきだという動きがすでにあるからです。
仮にこのような方向に学問が進歩するとして(ぼくはそれほど先とは思っていません)、ではその時に社会学は何をやりますか。法を分解せず、法の枠の中で「どうすれば一夫一婦制をよりよく守らせるか」とか、「どうすれば社会保障費赤字のための増税を守らせるか」とか、「どうすれば日本人をイスラム教徒嫌いにするか」、などを研究しますか?
現に社会学はこのようになりつつあります。これ以上つきあうのは、百害あって一利ないと思います。社会学は実学ではありません。同時に、今世紀は〜学といった枠の限界が、見誤る余地がないほど浮き彫りになると考えます。 最後に、次のような文章を引用します。「...あまりに国家が当たり前すぎて、法律の範囲内で生きることに疑問を持たないでいるのだなー。...制限されていることに、あまり気付いていないで、それなりに欲望を満たしながら生きていられるのだから...」(Ms.H)
ホント。Hさんの言うとおりだね。これがぼくたちの自画像だね。顔を鏡に映すとこんな顔ばかりだね、きっと。
ではまた来週。なお、次回から「社会学理論関係図」を使用しはじめるのでお忘れなく。10月3日
今日から開講しました。早速今日の諸君の疑問等にお答えします。まったく便宜的ですが、識別の都合上男子と思われる方を「君」、女子と思われる方を「さん」とします。何人かの方から雑談が面白かったという意見をいただきました。これは例年になかったこと――例年、雑談はやめて本題だけ話してくれといわれていました。きっとみな、急いでいたのだね――なので、ひとこと触れます。今年は急いでいる人がすくないとうれしいなと、希望しています。
さらに数名の方から、「やっぱりプリントを配ってほしい」という要望がありました。正直いうと、ぼくはプリント大嫌い人間なのです。
実はぼくは、医学部から転向して文学部の社会学に入りました。そのせいかどうか、講義は雑談ばかりに耳を傾けていました。
あるとき、日高六郎さんという高名な社会学者が講義のなかで「今日は都電のなかで永井荷風さんを見かけました。はじめはみすぼらしい老人とおもって何げなくふと見たら、顔から目が離せなくなりました。やっぱりあのような方は、お顔が違うのだね...」と話されました。
都電でどこにいらっしゃるところだったのか、隅田川の向こうの遊郭にでもいらっしゃる途中だったのか、などと想像しました。この講義1年間で覚えているのはこれだけです。「...」のところで、日高先生がどんな話をなさったか、申し訳ないけど皆目記憶にありません。
考えてみると、大学生に聞いていただける雑談ができるというのは、ある意味で社会学の精髄なのかもしれません。これは迂闊に雑談できないなと、今日は反省しました。今後ますます修行しますのでよろしく。また、皆さんも焦らず急がず、つきあって下さい。
ただし、必要な場合には使用します。それも、ファイルで渡します。で、早速ですが、「社会学史」を概観する際に必要なので、つぎのリンクから「社会学理論関係図」というのを、早めにダウンロードしておいて下さい。このまま印刷もできる「*.pdf」です(横位置に印刷して下さい)。 無名氏から「ゴリラの世界でも争いが生じれば、そこにおのずと『しきたり』や『上下関係』などの『法』が生まれるとはいえないでしょうか」。
ジェーン・グッドール『森の隣人』その他、霊長類研究を参照して下さい。行動様式の変化が生じることはありうると思いますが、これを「法」とはいいません。なぜなら「法」ではないからです。(それより、どうぞ次回から氏名を書いて下さい。)
関連して、「動物園で飼育されているゴリラには『ゴリラの社会』があるだろうか」(a君)。
もちろん、ないと思います。野生のなかで出現する「社会」の可能性を、根こそぎ人間が奪っているからです。ここからの延長として、人間の作る「国家」が人間本来の「社会」の成立基盤を奪うと講義で述べたことは、「近年の人間が最大規模の動物園動物だ」と言っていることと同じです。
動物社会の学問的研究は、動物園を離れることによってはじめて可能になりました。ということは、人間社会の学問的研究も、動物園状態を離れることによってはじめて可能だ、ということにもなります。ぼくたちの深刻なジレンマですね。
b君の上記の問題に関連したものが、aさん、bさん、cさんなど、数人から寄せられていました。 「社会という言葉が中国語から来ているのは意外だった」(b君)。
田仲一成『中国演劇史』(東大出版)、p.37-40、その他(索引を使用すること)を参照して下さい。この書物は、さまざまな観点から重要な学問的業績です。ぜひ通読してみて下さい。
同様のものが、c君、dさん、eさんなど数人から寄せられました。たかが語源と考えずに、重要な手がかりになるとお考え下さい。 「人間の人間たる所以は言葉を使うこと...人間を規定する国家のような抽象物は、言葉を使うことによって生まれた可能性がある...」(d君。やや読みにくかったので、正確に再現できたかどうか自信がないです)。
同じような考えは、有力な説としてあります。ただし、証明されていないと思われます。一例として、福井勝義『東アフリカ・色と模様の世界』(人間講座テキスト NHK出版)をご覧下さい(この本は2000年の優秀作品です)。この色と模様の牛を、あの色と模様の牛と掛け合わせると、どのような色と模様の牛が生まれるかを、ボディ族のひとびとは正確に知っているそうです。これは一種の抽象的思考とは言えないだろうか。
もっと突き詰めてみることもできます。草食動物(たとえばエルク)が、捕食動物(たとえばライオン)の声を聞くと、姿が見えなくとも、まして襲われなくとも、逃げ出します。これは、現に襲われていないのだから、広義の抽象とは言えないだろうか。
一般に、時間的な、いわゆる因果関係を認識できることは、人間のような言葉をもっていなくても、野生のなかで生きのびるものには不可欠の身体的条件です。この意味の「抽象力」なら、野生動物の方が、人間の言葉など遠く及ばないほど優れて身につけています。では、人間の言葉の抽象性とは、何を指して言うのだろうか。
d君の論点は、重要な手がかりを与えますが、これだけではまだ不十分のようです。
逆の例も上げてみます。「法人」という言葉があります。「特殊法人」とか「株式会社は法人」などのように使用する、法律用語です。この言葉は、人と同じように「所有権」「売買権」などを行使してよいと「法がみなした人」の意味です。これには血も通っていないし、子供も産まれないから、明らかに別の抽象です。「国家」というのも、国際法・国際関係がみとめる抽象物です。こっちの方の、いわば役人的な抽象に関しては、参考までにカントーロヴィッチ『王の二つの身体:中世政治神学研究』などの歴史研究があります。あまり一般的書物といえないので、ひろく薦めるつもりはないですが、ヨーロッパの神学が悪さをしていることは、読めばわかります。
それはともかく、最初に上げた抽象と、最後に上げた抽象と、たぶん二つは別のものですね。どうぞ、このように順を追って、具体的に考えてみて下さい。 この他にもまだ取り上げるべき方々が、あと倍以上いましたが、ぼくの「日記?」の方に記載して、ページに記載するのはこれで一応一区切りとさせていただきます(ご免なさい。研究室を出ないといけない時間--11時--になったのです)。ともあれ、多くの方々のご協力に感謝します。ではまた来週教室で。
12/06
今週は書いてくれた方々がわずか11名でしたが、そのどれもが回答やコメントに値する興味深いものでした。感謝します。
この機会に、これらの方々を含む全ての諸君に分かっていただきたいことがあります。ぼくが後期になって、水曜日のあらゆる予定を全部返上してこれを書き続けているのは、カリキュラムと単位と...に拘束されながら成立している「制度」の一部であはあるこの講義を、単位でもなく教授と学生群でもなく、可能なぎりぎりまで一対一の対話に近づけたいからです。人々にはすべて固有の特徴があります(個性といいたいところだが、「個性を育てる教育」のように、この言葉も汚染されて使いたくないのです。)これを考えると、ぼくにはこのような方法がどうしても必要だと思われるからです。どうぞ全ての諸君が、ここに問題点を寄せてくれた諸君の論点およびそれに対するぼくのコメントを、自分の問題として把握していただきたいと願って止みません。 では本題です。「(1)アイデンティティをDNAに求めるのも一概に正しいと言えないというか、"それを言っちゃお終いよ"という感じがする。(2)"私は私のDNAです"という命題は、"私は私"と答えるのと同義で無意味なように思える」(Mr A 番号は後で付加した)。ぼくはこの文章を3回読んで考え込みました。特に前半に関して。今でも考え続けているが、とにかく重要なので答えてみます。 その前に、後半(2)は前半の補足的意味でしか考えておられないと思いますが、おそらくA君が気付いていない別の重要な事柄を書いておきます。「哲学」、」なかでも「論理学」では、「同義反復の命題」にたどり着くことこそ最高の目標とされます。何故なら「a は a であってそれ以外でない」という命題は、これ以上説明を必要としない究極概念なはずで、「ここからなら安心して」 a に関連する現象面の問題を論じることが出来るとされているからです。同義反復までたどり着く根本的存在を「実体 entity」と呼びます。ここから出てくる応用的命題は「属性」と呼びます。 ということは(A君の意図と違うのではないかと思いますが)「私とは私のDNA配列である」という命題は哲学者が探し求める「実体」そのものと等価であり、(ぼくが意図したのは哲学ではないですが)、「生命とは何か」という科学の問いの最終解答ということになります。実際ぼく自身、このような最終解答を意図して教室で提示しました。 それはそれとして、ぼくが今も考えあぐねているのは前半(1)です。「そこまで言っちゃお終いよ」というのはどのように受け取ればよいのだろう? 通常このような口頭表現は 1)他人の体面をつぶすから礼儀として避ける、という場合の表現です。子供に「君は子供ではないか」と言っては体面を傷つける恐れがあるから「君もいずれ大きくなったら分かる」というべきだ、と言うように。ぼくは大学生は成人ばかりと思っているから、まさかこの意味ではないですね、多分。 というわけで、A君の真意がそこにあるとはぼくには到底考えられません(考えたくない、という方が正確か)。それに、礼儀上の配慮から真実の手前で止めておく、などという講義が大学にあっていいはずはないし...。 つぎに考えられるのは、2)「個人とは理性的存在である」とか、「個人は消費者として自由である」とか、「個人は自由意志による契約によって企業と雇用関係を結ぶ」とか、「すべて国民は、個人として尊重される(憲法13条。これに但し書があるのでそこも読むこと)」とか、どれかは問わないとしても、このような次元で命題を立てるべきだとA君が考えている、という場合です。しかし、それなら哲学なり経済学なり...の教科書を読めばすむことだから、ぼくがわざわざ講義する必要がないことになるのだけど...。 このように書きながら、言論に統制があるからそこまで言うべきでないという、いわば「政治的」配慮をしなくていいことにぼくは感謝しています。
しかし逆に言うと、2)のようなところで思考を止めておこうと思うのならら、統制ではないけれども、常識に遠慮して「自己規制」をしていることになります。上の命題は、例えば「就職試験」の作文ならすべてOKで、就職試験の時にはどんどん遠慮なくおやりになることをお奨めします。その他のただの常識の場でも充分許容はされるでしょう。だが、これらはすべて、先週お話ししたパレートの言葉を借りると「派生体」に過ぎません。これらは、私たちが現に住んでいる「人類が生存し続けられるかどうか」が疑問視さえされるようになった現代社会を作り上げた根源となった制度群です。2)もやはり取れそうもない。すくなくともぼくには。 3)その命題は分かっている。そうではなく、色々な「科目」や「学問」があるのだから、その問題は例えば自然科学や生物学に任せればよい...。これだろうか。ご存じのように、ぼくの考え方はこのような科目や学問の壁はない方が正常だというところにあるので、これならA君とぼくとは正反対の学問観だ、という「普通の」やりとりで終わらせることが出来ます。ここから先は「You go your way, I go mine.」ということになる。ただ、この場合には、できれば学問は分割する境界がぜひあるべきだ、という積極的根拠を聞きたいところですが。 というわけで、いまだにぼくはA君の真意を計りかねて悩んでいるのです。(悩んでいるのはぼくのDNA配列がかぶっている、ぼくという人間の外皮に中の、脳味噌が、ということです。DNAは悩んでいません、もちろん。)「私、というのは心理的なものだと考えないと、説明が付かなくなるのかな...」(Mr B)。B君の千里眼は、悩んでいるのはぼくのDNAなのかぼくの心理なのかを見通して、救い船を出してくれているような...。「私とは心理的概念だ」と。もちろんぼくは、「私」に精神があったり心理があったりすることを、別に否定しようと思いません。しかし、A君とのやりとりで悩んでいるのはぼくの精神であり、悲しくなったり嬉しくなったりの心理は、ぼくにはどうでもいいですけど。 B君の主たる疑問はぼくへの助け船であるよりは、つぎのことです。「私=DNAだとすると、クローン人間が生まれると私の定義は一体どうなるのだろう」(Mr B)。当然、「私」が複数になると思います。 『生殖と世代継承』の著者フォックスは、SF作家クライトンに従って「死亡して財産がとっくに相続されてしまった億万長者とその愛人の胎児が、冷凍され、遺産相続から除外された億万長者の姉妹の娘の胎内に、わざと移植される」ようなケースに、人工授精を是認する現在の法はどのように対応するつもりか(p.185)、と深刻な疑問を投じています。 もっと陰鬱な事例も考えることができます。クローンによって生じた「複数の私」は、上記憲法13条の規定する「個人」に相当しないから憲法上の権利が付与されない、という解釈が成立しかねない。もし成立すると、こうして貧乏人のクローンの「私たち」を、無権利の労働者(というより奴隷)として働かせてもかまわないようになる、といった場合です。(「まさか」と思うかも知れないが、今世紀になって人間は世界戦争で一度に何千万人を殺戮したり、産業廃棄物にしかならない不要なモノを「消費」させ続けたりしていますから、いまや人間は「まさか」さえ通用しない最低の動物だと思っておく方が安全です。) ぼく自身は、このような危険性を秘めたクローニングを認めるべきでないと考える人です。「世間で話題になっている人工授精やクローンなどにように人工的に手を加えられた遺伝子というのはどう考えればよいか考えてしまいます」(Ms C)。Cさん、上記がぼくの考え方です。 「(人間というものは)前の代と同じものを作り、同じところに住み、同じような生活を送ることができない存在なのだろうか」(Ms D)。現代に住んでいるとそう考えたくなりますが、このような状態はたかだか200年、もっとせまく取ると最近50年間に出現した、異常な状態と考えます。 エヴァンズ=プリチャードが『ヌアー族』に出会ったのは1940年頃です。レヴィ=ストロースがアマゾン流域のボロロ族をはじめとする裸のインディオ社会に遭遇したのはそれからわずか後です。口蔵氏がマレー半島の狩猟採集民と出会ったのは1980年頃です。ぼくらの方が異常なのだ、というのがぼくの判断です。 なお、レヴィ=ストロースには『ブラジルへの郷愁』(みすず)という大判の素敵な写真集があります(『悲しい熱帯』という本は、すでにご存じと思いますが。)この機会に一覧を奨めます。人間はもともとかつての生活に戻る、いわば自然治癒力を持っていました。現代になって、市場経済と国民国家の同盟はこの作用を破壊し、私たちのような異常な生活を世界中に強制しないと、自分たちの「豊かな社会」が維持できなくなっているらしいです。壊れたクルマの暴走のようです。 「社会学の先生として、何を目指しているのですか?(あくまで個人的な意見です...)」(Mr E)。個人的意見などと断らなくても、ぼくはE君の善意をすこしも疑っていません。ここまでお読みになれば、答えは想像していただけるのではないだろうか。「壊れたクルマ」といいましたが、壊れる前はクルマはどうだったのか。なぜ「壊れた」のか、を分かってもらうことが「目指す」ものです。なぜなら、社会学はもともとこの疑問から成立したからです。 「個体は生きようとするがホモ=サピエンスは(個体が)死ぬことを前提として(自然選択の中で)存在する。...だとすれば〔国家のために死ね〕という論とは、どこが違ってくるのだろうか。これはクローン問題とも関わるが...。」(Ms/Mr noname)。実に面白い論点ですね。この方お名前を書くのを忘れたようです。仮にFさんとします。ぼくの想像では、Fさん自身は解答を持っていて確認をもとめているのだと思いますが、あえて答えてみましょう。 その前に、ある点ではFさんへの解答であるような見解がありました。「細胞が死んで個体が続く。人間が死ぬということが...(社会が続くことになる)と考えると、有機体ということを強く感じさせる」(Mr G)。この通りです。 だがとにかく直接答えてみます。ホモ=サピエンスは自然の中の「種」を指す集合概念ですから、「死ね」と命令するわけではありません。これに反して、国家というのは一見集合概念のように見えながら実は命令し、強制する作用を持つ存在です。国家がただの集合概念でなく人工的な強制装置だということは、裁判を見れば分かります。ただの夫婦喧嘩でも、裁判に進めば国家の存在が露骨に見えます。(Fさんがそのようなことに遭遇する機会が少ないことを願っています。) 「1)国民国家と市場経済がセットとなったということは、市場経済も機械的ということか。2)市場経済は環境(の存在)を前提としていないというのはどういうことか」(Ms H 番号は後で付加)。 1)はその通りです。市場経済は人工の機械です。これに18世紀に強く異議を唱えたのは、マルサス(Robert Malthus)でした。食料をフランスから輸入すれば英国経済がさらに繁栄するとしたリカードに、強硬に反論しました。彼の『人口の原理』は、ある土地(環境)が扶養できる人口には自明の限界があると論じた、重要な作品です。何故か、以後200年無視されています。どうぞ無視しないよう記憶に止めて下さい。 2)マルサスの強い反対にも関わらず(英国市場経済の繁栄のために?)穀物は輸入が自由化されることになりました。この時から、市場経済は今日まで一貫して拡大し続け、今では手におえない怪物に成長しました。「環境に配慮した市場経済」というのは形容矛盾だと、ぼくは断言します。地球環境に配慮するなら、市場経済を、年次計画で数値目標でも立てて、全力で圧縮していくしかない現状だと認識しています。
ついでながら、市場経済が人工機械であることを経験したければ銀行から金を借りて踏み倒してみればどうかと考えます。「国民国家と市場経済のセット」が牙をむいて向かってくるのを体験できるでしょう。
最近、踏み倒して向かってこられるどころか、税金で補てんしてもらえる不思議な現象が起きているようです。このような「おいしい」話がHさんに起きるとは思えませんけど(万一起きたら、受講生一同協力して最善の還元策を考えてあげますから、すぐに知らせて下さい)。冗談はともかく、市場経済が人工物だからこうなるのです。(これに反して、自然選択はあらゆる動植物に平等です。) 「民放のニュースで日本語の字幕が出るのが不愉快で...つい公共放送にチャンネルを回してしまう」(Mr I)。本当に同感です。ぼくも民放から公共放送、公共放送からBSと逃げ回ってニュースとドキュメンタリーばかり見ています。耳の不自由な方のためだと、ある時期までは自分をなだめてきたのですが、最近は全然そんな程度ではないですね。 前回マクドナルドのマニュアルについて教示いただいた方(Mr J)から、より詳細なマニュアルの内容について、重ねて教示がありました。立地や顧客の種類に合わせて「店の個性」が出るように工夫してあるから、もっとよく観察するように、との示唆もいただきました。あまり長くも引用できないので、事実のみご報告します。 「多様性を失い単一化した社会では、環境の変化に耐えられないと考える」(Mr K)。そうなのです。「進化」とは多様化を不可避的にともなうのです。にもかかわらず、国民国家と市場経済は単一化が進むほど繁栄する仕組みになっています。皆が同じものを「消費」するほど繁栄するのです。この「消費」が、生物的意味の「個体の維持」にも「種の維持」にも関係ないものであることは、数週間前の講義で述べました。工場で大量に作ったものを「買わせる」。これを「消費」といいます。「内需の促進」とは、この消費の拡大のことです。 <