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(2001年度 この年は9.11事件がありました)12月12日
事実上最後の時間にしては、暗雲漂う内容で申し訳なかったなと反省しています。相手が自然だと「冬来たりなば春と遠からじ」という考え方ができるのに、人間の世界はどうしてこのようにシンプルに行かないのだろうかと悔やまれます。といっても、ぼくはmisanthropeではないからすぐに元気になりますので、どうぞ皆さんも、精神の活気を失わないように念願します。 若干気を落ち着けるために、冒頭別のことのお知らせをします。ぼくの「現社」の定期試験時間割りが、事実上決定しました。1月16日(水曜日)2限です。まだ正式な発表の段階ではないが、特別の事情が(他の方に)生じないかぎり、ほぼこの日時とお考え下さい。
また教室で話したように、試験の論述問題に何と書いてあっても、「講義とこのオンライン講義に出ているトピックに関連して自由に論述してください」と書いてあると考えて下さい。自国語による論述は大学のすべてのようなものですから、冬休み中に思いをめぐらし、可能なら実際にB4一枚程度書いてみることをお勧めします。これを参照することはできませんが、一度文章にしたものは再現(または改良しつつ再現)することが容易にできますので。 「開発途上国に開発を与えることは北側の驕りだと感じるが、ぼろを着たみすぼらしい人々を見て、すくなくとも物質的に豊かな社会にしてあげたいと思う心は、意味がないものではないと思う...この良心は北側住民の大切な財産なはず...この良心をどうしたら有効に使えるだろうか。救いの矛先が間違っていることに、どうしたら皆気付くのだろうか」(Ms A)
のっけから難しい疑問です。考えるのが難しいというより、状況が複雑なのでそれを見分ける方が難しいのだと考えます。大きく分けると、「ぼろを着たみすぼらしい人々」は、われわれが直接間接に手を下してそのようにしてしまっている場合と、われわれが突然遭遇した場合とあると思います。まず、後者の例を上げます。
『悲しい熱帯』という本の中で、レヴィ=ストロースがボロロ族の例を上げています。(英訳でよかったらぼくのこのページの書き出しをお読み下さい。邦訳なら探して下さい)。ボロロ族は、昔ながらの文化に従って川岸に住居を円形に並べて暮らしていました。このような住居形式はアマゾンだけでなく他でも見られるもので、神話に起源があるし、円になっているから部族全体の問題をがやがやと話し合って結論を出すこともできます。長い年月が作った文化には、それなりの存在理由があるのです。無駄なものはないのです。
ところがここに、サレジア会の宣教師が布教にやってきました。この宣教師たちは、この部族の住居形態を「非衛生的だ」とみなし、強引に彼らを川沿いに並べた住居に住まわせるようにしました。この結果、ボロロ族は昔ながらの生活形態が破壊され、何をやってもうまくいかず、万事宣教師に頼るしかなくなってしまいました。布教の方はうまくいったそうですけど。
われわれは、20世紀にこれと同じことをアフリカやアジアや南米でしてきました。利潤に走る自分の本当の動機を隠して、「ぼろを着て不潔で非衛生的で...」そんな野蛮な人間は文明の光に目覚めさせるのがわれわれの使命だ、と自己を正当化するのです。「野蛮」「低開発」「未開」「無教養」などの、一見俗耳に良さそうに聞こえる自分たちの尺度で、これらの人々を自分の利害の道具にするのです。今も、これは全くなくなっていると思えません。「絶滅危惧種」という言葉がありますが、「絶滅危惧文化」というのもあると思います。前者と同じことを人間の文化にたいして行っていることです。
これは、A君のいう「北側の良心」とは到底いえないでしょう。そこで残るのは、タイ、マレーシア、インドネシア、アフガニスタン、中近東、南米などで、すでに市場経済をわれわれ(「先進」国)がすでに押しつけ、その結果生業を負われて「ぼろを着てみすぼらしくなった人々」です。事実、現代にはこのケースが圧倒的に多くなっています。一時このような人々から、日本のODAがかえって貧富の格差を大きくする結果になっているという批判もありました。このような場合に、だから工業化をますます進めてみすぼらしくないようにすればいいとは、A君も考えないのではないでしょうか。ぼく自身は、「先進」国の人々が彼らの状態まで生活水準を引き下げるべきだと考えます。自分の着ているものを脱ぎ、着ていただく。食べものを粗末にして、食べていただく。これなら「良心」といえると思います。口でいうのは易しいですが、「気付いてもらい分かってもらう」のは、これが一番難しいです。しかし、ぼくは早晩これをやらないと人類は生き延びられなくなると思います。 基地に関連して「...憲法はあるけど、日本にアイデンティティはないのではないか...日本を助けてくれるのは、自国も守れない自衛隊ではなく、アメリカの軍隊ではないのだろうか...」(Mr B)
これも、大変な問題です。過去に話したが、ぼくの親戚になぜか海兵隊士官もいます。彼にいわせると、米軍は日米条約に従って犠牲的に日本を守ってくれるといいます。「ぼく、基地のために税金払ってるのだけど無料でやってくれないかなー」と、ある時冗談で言いましたが、伯父さん(ぼくのこと)だけのためならやるけどなー...と、首を傾げていました。これ以上は深刻になるから話していないけど。
B君は、アメリカの軍隊が無料の勤労奉仕で日本を守ってくれると思いますか。また、自衛隊をアメリカ軍並みに強大な軍にするためにすべてを犠牲にし、率先して兵役に就こうという同年齢の人々ばかりだと思いますか。きっとそうは思わないでしょう。ぼくたちは政治家じゃないから、紛らわしい表現は止して単刀直入に語りましょう。アメリカにとって、日本・沖縄・韓国など、極東基地の存在はきわめて大きいと思います。現に今回も原子力空母がインド洋に直行したばかりだし。
だから、もし防衛が重要だと考えるのなら、米軍は既に大きな大きな見返りを受けているのだから遠慮することはないです。大きな顔をしてもっとしっかりやれ、と言っていればいいと考えます。
しかし、問題の正体はそこにあるのではないと思います。軍事条約ではなく、友好同盟条約を韓国と、中国と、また東南アジア諸国と締結し、その基盤の上に立ってアジアは軍事は「もう結構です」という方向に日本外交を向ける努力をすべきだと、ぼくは考えます。この方針なら、ぼくは日本国憲法は重要な指針になると考えます。このような思い切った方針転換を、日本外交は打ち出せないのです。この意味でなら「日本にアイデンティティがない」という意見には賛成します。
繰り返しになりますが、専守防衛も軍事です。「国際間の紛争を武力によって解決しない」という条文に誇りを持って、日本外交を根本的に変換する見通しが立てられないから、おっしゃるような「すっきりしない」状況が続くのだと、ぼくは考えます。「もし攻められたらどうしよう」という架空の話しは、政治家でないかぎりしない方がよろしいのではないですか。 残り5名の方々が、何らかの形で「科学技術」という20世紀の怪物に触れた感想でした。どれも個性があり、どれも読みごたえがありました。遺伝子操作、クローン、ナノテクノロジー、マスメディアなどなどの事例も新鮮でした。皆さんが気付いておいでかどうか分かりませんが、民生用ロボットというのも加えた方がよろしいかも知れません。コメントでなく感想で申し訳ないけど、ぼくはあれを見ると気持ちが悪くなる人なのです。
産業用ロボットというのがあることは、多分ご存知でしょう。半導体の加工、自動車の組み立て工程などで、目にする機会も多いと思います。つぎに企業が目標としているのは、医療用のロボットです。看護婦さんが嫌がったり、人間であるが故に無情に患者に接することができない。加えて、医療費の削減のあおりはとかく看護婦に行きがちになる。もしここに、人間そっくりの医療用ロボットが開発できれば、大幅に医療現場に販路が確保できるだろうとは、誰もが思いつくことです。諸君があと2、30年して病院に行ったら、看護婦さんロボットが「介護」してくれるかも知れません。
気のせいかも知れないけど、市販されているペットロボットを見ると、こんな情景がぼくを悩ませます。ぼくのようなアレルギーを取ってくれるために、ペットロボットが先発しているのではないかと、疑い深いぼくは感じてしまうのです。そうでなければよいが。しかし、最有力視されているひとつが医療現場のロボットであることは、全くの事実です。
この方々にお勧めしたい本があります。エーリッヒ・フロム『自由からの逃走 Escape from Freedom』という社会学の古典です。創元社や河出書房から翻訳があると思います。多摩図書館をオンラインで検索してみて下さい。ドイツ人がひとりひとり、幸せになりたいと慎ましやかに努力していたら、この人々を結果的にナチスの大波が攫っていった、という内容です。こうなったら、人間は「甲羅のない蟹」のようなものだ、とも書かれています。最新鋭爆弾を外国に大量投下し、国内では科学技術が「幸せ探し」の人間をがんじがらめにしようとしている米国を見ると、かなり正直にぼくは不気味になりますので。 この中の一人から、「福祉国家と軍事国家の抱き合わせについてもう一度説明して欲しい。または推薦できる文献があれば教えて欲しい」(Mr C)という具体的な要求がありました。
正確には、市場経済を介して両者は結びつくということです。11月28日の部分にこのように書いてありますのでご覧下さい。なおこのようなことをストレートに書いた文献は、ぼくに思い当たりがありません。
もっとも、市場を介してではなく両者が端的に結合した歴史事例が、皆無ではありません。プロシャの官僚からドイツ帝国の初代宰相になったビスマルクは、俗に言う「飴と鞭」という国家統一政策で「勇名」を馳せました。彼は過酷な労働運動弾圧政策を取ると共に、反面飴にあたる工場法(今の言葉なら労働基準法)、生活保障、社会保険などを国家が率先して実行し、これによって強大なドイツ帝国を築こうとしました。
社会保障(福祉)は、ご存知のように巨額の資金を積み立てる結果にもなります。これが大きな魅力でした。この資金を、かたやドイツに市場経済が活動するためのいわばインフラ整備に、また同時に強大な軍事力を整備する用途に使用したのです。「ドイツ史」に関する文献をご覧下さい。また、日本の明治政府が近代国家化するにあたって手本としたのは、ビスマルクのドイツ帝国だとする定説があります。
20世紀初頭に「先進」諸国に次第に普及した社会福祉は、ある時は微温的な左翼政権がこれを推進し、またある時は一部「民営」に委ねたために、福祉政策の先鞭はビスマルクにあるといういい方を、多くの学者は取りたがらないようです。(またいくつかの北欧諸国のように、市場経済の強化を積極的に断念する傾向があることも事実です。日本や米国は、今のところこの仲間には入りません)。
日本でも米国でも、社会保障費は多額の資金になりますから、金融市場に投資されます。バブルのすくなくとも一端を、社会保障費が担っていたことはまぎれもない事実です。しかし、金融市場が逼迫するとこのような運用は逆に社会保障制度を揺るがすことにもなります。GDPの成長が止まると急に福祉制度の「見直し」が始まるのには、ここにもその(すべてではないが)ひとつの理由があります。租税の分配にわたしたちが関心を持たざるをえない理由です。 明るい話しが出せなくて悪いと思うので、最後に5年ほど前の多摩キャンパスの紅葉をお目にかけます。これを見ていると、ぼくなどはやはり自然は嘘をつかなくていいなと、素朴に思います。では。
12月5日
誤字ではないかという正しい指摘があり、マイナー修正しました。あしからず。(12/06) 議会の代表質問に答えるみたいですが、「参照不可ということは、自分のノート、自分で書いた文章もだめということですか」という質問がありましたので、お答えします。
申し訳ないが、どちらもだめということなのです。学生の全員が「ノートは自分が責任を持って取ったもの」また「自分の書いた文章」は正真正銘自分の書いたもの、というように全員に関して(ぼくが)自信を持つことができれば、いいかえれば社学の学生はどの一人を取っても貴君とおなじ「誇り高い」学生だと確信することができれば、この結論は逆になります。従来の経験から、何人かは「誇りより単位」というサラリーマン学生が、残念ながら含まれているのです。この人々を前提に考えると、「参照不可」ということになるのです。
お分かりですね。法律を作るときには、このように最低水準の人間に合わせて作ることになるのです。ジンメルが、「貨幣、法律、知性」が人格性を損なうものだ、というのはこのことなのです。人間は、どこまでも気高くなれるが、同時にどこまでも醜悪にもなれるのです。後者の方は見たくないのです。ご理解下さい。
自分で一度書いてみた文章は、一字一句同じでなくとも、ほとんど空で再現することができます。これを繰り返しているうちに、ペンを持った途端に書き始めてまとまったものが書けるようになります。どうぞこの意味で、ご準備下さい。 「『レオン』で、レオンがジョン・ウエインの真似をしていた。フィリップ・マーローのタイプはよく分からなかった」(Ms A)
『レオン』は、リュック・ベッソンだったか、ヨーロッパの監督の作品です。そのためだと思うが、この中のレオンは、ジョン・ウエインとはまったく似ていません。レオンは「請負人」だから、いわば「傭兵」なのです。この点では『ジャッカルの日』や『戦争の犬たち』(監督不明)に似ています。原作のフォーサイスも、ヨーロッパ人(イギリス人)です。だから貴君は、ぜひともジョン・ウエイン主演の正当派西部劇をご覧になる価値があります。『リオ・ブラボー』、『エル・ドラド』などです。また『11人のカウボーイ』、『最後のガンマン』などです。
フィリップ・マーローのタイプというのは、うーん、ここは定義しても面白くないので、ぜひとも『チャイナタウン』などをご覧になって下さい。または小説でお読み下さい。 「赤ちゃんご誕生で...宮内庁とかで...日本国旗を振って『日本最高!』といっても、盛り上がりこそすれ悪くは取られないですむというところがあるのではないだろうか...国民統合の機会というか...たまに『日本好きな人』がいるのではないだろうか。どう考えます?」(Mr B)
そうですね。日頃は、なにか大きなこと(リストラとか不良債権とか)でこの国にしっくりこないと感じている人々が、藁にすがる気分で日の丸を振るというところはあるかも知れないですね。しかし、それにしては盛り上がる問題ではないですね。ニューヨークで星条旗を振るのは、ある意味で「命がけ」なのですよ。振らないと(とくに中東・アジア系マイノリティーは)、CIA、FBIに睨まれて、また古くからの白人系に狙われて、身に危険がおよぶかも知れないのですよ。
総じて、なにか違和感を感じながら、その感情を忘れたいために夢中に盛り上がるというのは、あまり健康な精神とはいえないですね。このような心理がひろい人々のなかに存在するから、マスコミによる世論操作もできるのですから。 これに、深いところで非常に関連しているものとして「1)ベラーさんが米国人はコミュニティーに戻ろうといっていることは、いまのアメリカには(トックビルのいう)タウンで生きる感覚がなくなったということか。さらに、2)米国の(18世紀前半の)民主主義がタウンを基盤としており、一方フランスで成立した民主主義はフランス革命によって生まれたもの(政体)を指しているとすると同じ言葉で呼ぶのに無理があるのではないか。別の言葉はないのか」(Ms C)
面白い質問と思います。両者の違いは、強いていうと「自治」と「制度」ということでしょう。前者は中身です。後者は箱です。中身には箱は必要ない。しかし、箱には多くの場合中身が入っていない。
いまでも、田舎に行くとアメリカ人はタウンという言葉につよい愛着を持っていることは事実です。日本人も、「おらが町・村」に関しては、ある意味では同じではないだろうか。ただし、上の喩えでいうと、箱の方が中身を食い荒らしていくのです。社会システムとは、どれもそのような性質を持っているのです。だから、ベラーさんがいうのは中身を取り戻そうということなのです。
この本が出たころ、米国で「NIMBY」(発音ニンビ)という流行語が使われはじめました。Not in my backyard.の省略です。うちの庭に起きることでさえなければ、どうでもいい、という意味です。その後これに続いて非常に目立ちはじめたのが、それまで以上に、なにかにつけて「権利」を振り回す風潮です。ことが my backyard に関する場合に限って、他人に攻撃的になることです。考えればすぐ分かるが、巨大システムがはびこっている現代に、backyard に関係ない事柄は起こりえないはずです。それらを自分の backyard に関わることでしか見られないのは、一種の現代の病です。NIMBYも攻撃的権利主義も、実は社会的無関心の別の姿に過ぎないのだと考えます。この尻馬に乗って、日本でフェミニズムとか嫌煙権とかが流行するということです。 「米国を見ていると、ウエイン・タイプが沢山いることはよく分かるが、フィリップ・マーロウ・タイプはいるのだろうか。弱者を踏み台にして自由の十字軍をやている現代に、マーロウ・タイプへの活躍が期待される」(Mr D)
もちろん、沢山いると考えます。友人たちのなかにも何人かいます。A君が上げた『レオン』などは、むしろ迫害された少女を見捨てられなくなったしがない傭兵なのだから、どちらかというとマーロウに近いと思います(監督は米国人でないが)。
さらに、2週間前に全文を訳して掲載したウエンデル・ベリーも、普段はおだやかな詩を書いて田園生活を送っているネーチャーライターですから、同じような人々と思います。実は米国のこのグループに関しては、1920年代からの長い隠された歴史があります。1920年に大学を終わって、第一次大戦で米国に流れ込んだ金を使って渡欧した、青年たちがいました。(このような流行があったことは、ガーシュウィン作曲『パリのアメリカ人』という交響詩があるから分かるでしょう)。ところが、この青年たちはヨーロッパ文明が退廃してそこに何も希望が残っていないことを発見し、絶望的になりました。
この人々のなかから現れた作家たちのなかで一番有名なのは、おそらくアーネスト・ヘミングウエーでしょう。彼らを「ロスト・ジェネレーション」と称することがあります。余談ですが、第3世代を一時リードした社会学者タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)も、ほとんど同じ世代に属する留学組です。えらい違いですね、思想的に。それはさておき、チャンドラーはある意味でこの同じ世代に属するのです。この後、60年代を経験したベリーにいたるまでの系譜は省略します。
なお、この他に「ぼくもマーロウにはまった」(Mr E)の発言などもあって、大いにうれしかったです(やはり社学には優秀な学生がいるのだ)。 なお、ひとことD君の「...期待される」に関連してですが、この人々はいることも発言も、マスコミが取り上げないだけです。マスコミだけ見ていると、決して事実など分からない証拠の一つです。 「私たちの中には、戦争は文字でしかないものです。本当の過去を知る必要があると感じた」(Mr F)
ぼく自身の世代が、自分自身戦争のなかをくぐった(戦地に行った)というには、すでに遅すぎるのです。だから正確には「敗戦直後の廃墟を経験した」というべきかも知れません。一般論としては、皆さんが戦争も経験せず、廃墟も経験しないで済んでいることは(すくなくとも今のところ)、喜ばしいことです。
しかし、皆さんが10歳前後のころには「湾岸戦争」があったわけですし、それから10年後には「アフガニスタン戦争」が起きているのですから、20世紀の人間は実物の銃弾か抽象の銃弾かは別にすると、おそらくすべての世代が「戦争経験者」なのではないかと、ぼくは考えます。実物の銃弾が飛んでこなければよいという状態は、おそらく完全に過去のものなのではないだろうか。そう考えて、20世紀の戦争を考えてみて下さい。 「コミュニティーの本当の意味は意志疎通にあるはずだが...(理解しがたい言葉遣いが横行する時代だ)」(Mr.G)
まったくですね。字義の説明をすると、コミュニティーの方が先にあったもので、意志疎通すなわちコミュニケーションはどちらかというとそこから派生した言葉です。今日では、指摘されるとおり意志疎通をすればコミュニティーが魔法のように現れる、という使い方をするね。つまり、心理の次元に矮小化されているということです。内容は、星条旗のばか売れではないが、世論操作です。 「アフガン救助金というのがあってテレビが協力を要請するが...(自分はどちらなのだと)考えてしまう」(Ms H)
告白すると、ぼくは米国赤十字にもこの救助金にも、些少ながら両方寄付しているのです。死亡や怪我をした米国人も気の毒だが、国連にオーソライズされた多国籍軍の爆弾を浴びせられているアフガン難民にも非はないからです。しかしやはり、これら両方からの個人が対面して、本当に非はないのかという対話になれば、米国人も全くないとも主張しにくいでしょうね。現にベリーのように、他を攻撃するより自分を反省すべきだと考える人がいるのだから。たしかにこのようなとき、政府と国民とが切り離れていることを感じるのは、憂鬱な事実ですね。 諸君の書いたものを読んでいると、ほとんど講義の内容を先回りされているような感じさえしますが、めげずに来週もやりますので、どうぞあとすこしだけおつき合い下さい。では「市場、戦争、科学技術」を教室で。
11月28日
いろいろ雑用を終わって更新を始めたところです。この「いろいろ」のため、今回も当日中に更新の予定を守れません。そのようなわけだから、分類を廃止して読んだ順にランダムに、コメントやお答えをします。ご了解下さい。12月になれば、もとの状態に戻れると思うので暫時お許し下さい。 「市場は国家より大きい。法律を直接には作れない程度に大きい。この理解でよいか」(Mr/Ms A)
最初にA君にお願いします。次回からファーストネームもお書き下さい。
さて上記の件は、おっしゃる通りです。重要な点を指摘して下さって大いに助かります。市場は19世紀前半からすでに、国境を越えて溢れています。国境を越えさせろと言う要求が、この時代から「自由貿易」という美名のもとに現在まで続いています。競争力が強ければ越えさせろという要求が強くなります。19世紀にさえ、この要求はすでに工業国同士の競争のことではなく、列強の植民地競争を誘発する要因になりました。この列強の競争は、20世紀前半まで1世紀以上を彩り、20世紀を世界戦争の世紀としました。
20世紀後半になると、旧植民地の抵抗が激しくなると同時に、核兵器の出現によっていわゆる冷戦時代が出現しました。植民地の抵抗が核軍事力のバランスを破壊しそうな一歩手前まで進行した事例が、例のキューバ危機です。そのような要因の結果として、「先進」国対植民地という構図を人目から隠す必要が生じました。この結果現れた実に欺瞞的なことばが、「先進」国と「低開発国」や、現在の「開発途上国」という術語(?)です。 それだけでなく、市場が国家の規模を越えるという同じ要因から生じるものが、いわゆる多国籍企業です。これの説明はここではやる時間がないので省略します。その代わりに、市場が国家より大きい結果起きる重要な問題点を、2つだけ上げておきます。
1)経済雑誌『フォーチュン』は、1990年代終わりのM&Aの特徴は、競争を排除するための合併だったと指摘しています。2つ以上の国家に競争力のある産業があるとします。このままでは世界市場で競争が起きるので、これを回避するために企業合併をするということです。誰でも知っている事例は、自動車産業です。しかし、石油・合成化学・金融などでもこのメリットを追求する合同や合併が起きています。
2)市場経済は、その中で生じる必要基盤をインフラ整備などという名で国家に押しつけます。また、さまざまな広義の「廃棄物」を国家に押しつけます。前者(インフラ)は、景気刺激策として国家が喜々としてそれを引き受けていたことは周知のことです。失業や福祉もこの一部として、ある時期歓迎されました。いまではこれが「受益者負担」などの名の下に切り捨ての対象となっています。
一方廃棄物の方は、誰でも知っている事例に「京都議定書批准問題」がありまあす。法律は出来ないから条約を作るべきだという圧力が、このような議定書を作らせましたが、「主権」は国家にあるからという前提から、批准され名ければ有名無実なのです。
以上のような2点に限ってみても、企業経済に有利な場合には軍事力でも何でも動員させるが、不利な場合には知らん顔をする口実に、国境が使われるにすぎないということです。 「福祉国家とはいいひびきだったのになあ。軍事国家と抱き合わせとはなあ」(Ms B)
ホント、げんなりするね。抱き合わせになる理由は上に書いた通りです。市場経済は、「自由」でも何でもないということです。企業にとって、近代国家は自社内で「鬼は外、福は内」をやるためのシステムなのだ、というのが歴史の物語る事実です。
にもかかわらず、税金を取られている側の人間はここまで見ようとしない。大学生はもっと歴史を読むべきだと、ぼくは考えます。国家の歴史でなく人間の歴史を。ところでB君、上のようなことを止めさせるにはどんな方策があるだろうか。何か根本的なことが必要だね。
ぼく自身ですか。企業は「社会的責任」を果たすために事業をしていると、最近言い始めています。それなら、企業のあらゆる会議、文書の公開を義務づける。それがいやなら廃業しろという。この程度の勇気がないと、事態は悪くなる一方だと思います。これと同時に、官庁・政府機関、内閣の閣議をはじめとするあらゆる細大漏らさず公開させる。この程度の手段がないと、銀行だけでも気が付いたら不良債権が溜まってました。総額は6兆円です、などと日銀も大蔵(いま財務)も言い出す事態は避けられないだろうね。
仮にこの公開が実現したら、大学生は真剣に忙しくすべきだね。良識に照らしてこの情報を分析できるのは、社学をはじめとする大学学生・卒業生だからね。この時にはじめて、大学生・学卒者の本当の良識が問われるでしょう。 同じことにかんする質問が、Mr.Cからありました。A君への回答を見て下さい。それ以上に、歴史に学んで下さい。 「某PS2が、発売当時4万円、その後間もなく3.5万円、明日からは3万円。独走状態なのに何でこのように下がるのか。(関連して、需要供給の均衡に中古業界出現は影響あるか)」(Mr.D)
まず後者から。需要供給の均衡によって価格が決まるというリカード流の話しは、今日おとぎ話だと考える方がよいです。市場などという人工的システムの変動は、ほとんどプライスリーダー企業が思う通りに決められるというのが常識です。おとぎ話の上では、中古市場は別個の需要供給関係に依存するということになります。
本題です。ゲーム機とソフトに経験がないから適切に答えられないかもしれないが、直接「某社」に尋ねてみてはどうでしょうか。おそらく非常に高い確率で、「予想以上の好評につき、社会還元として下げた」と答えるのではないだろうか。
とりわけ、ゲームのような「商品」はなければ生きていけないものではありません。化粧品のようなものです。某々化粧品は、原価の10倍で売っているという話しがあるほどです。ブランド信仰があるせいです。ゲームも似たようなものではないだろうか。一番高い時に買ったと立腹しておいでのようですが、「某社のために開発費をまかなってやったのだ」とでも思うしか、方法がないように思われます。事実、企業はこのような方法で開発費をまかない、この技術をゲームなどより10倍も100倍も大きな市場に出す商品(例えば携帯電話、ポータブル・ディタルウオークマンなど)に転用して稼ごうとします。このことを承知してやらないと、ばかを見ますのでご用心下さい。
なお、次の方にのべる「知的所有権」のような理由で、パソコン類、ソフト類の価格はメチャメチャです。特に日本は、概してこれらが高いとされています。日本人はみな豊かすぎるからだ、多分。 「夜警国家論はまったく虫のいい話しだ。これを秩序とは、胸が悪くなる」(Ms E)
ぼくもここまでで終わりと思いたいのです。ところが困ったことに、この後があるのです。「知的所有権」という新手の出現です。この無形のものも、近代国家は「所有権の延長として」認めざるを得なくなっているのです。誰でも知っているこれの代表的事例が、ビル・ゲーツを先頭とする新手の成り上がりです。これは豊かな社会に出現した所有権だから、ほとんどやりたい放題です。特許を申請して、使った人間から有無をいわさず金を取るという人種が、現代米国を中心に無闇に増えました。この代金を支払うのは、結局末端のユーザーです。末端ユーザーも「先進国」の豊かな中流階級消費者だから、だまって買うのだね。 このような現実に関連して、大学教育が特に歪曲されつつあります。日本では、数年以前から特許を取れる研究だけしかできなくなるような教育予算配分を目標にしつつあります。IT、人工授精、農産物遺伝子加工などゲノム技術、ES細胞技術のように、人間を取り巻く市場経済のなかに、もう一つ知的所有権の鉄格子をめぐらせることだけを大学で教えようというわけです。この技術で日本はじめ東南アジア諸国から金を巻き上げることを、「技術立国」などと呼んでいるようです。ソースタイン・ベブレンは、1920年頃に、米国の高等教育は企業にしか奉仕できないものに変質していると再三警告しています(Higher Learning in America、The Vested Interest and the Sate of Industrial Arts 共に翻訳なし)。先週掲載したウエンデル・ベリーは、おそらくベブレンを念頭に置いていたでしょう。
もともと所有権が法律的フィクションなのだから、有価証券市場を飛び回る金融商品とか知的所有権とかに発展するのは当然の成り行きかもしれない。しかし、大学が歪曲されて20才前後の諸君が翻弄されるのは、これこそ胸が悪くなるね。 「一のことをやるのには広い知識がないとできないと思う。(そう思いつつ)一つを極める前に止めるので中途半端になる...」(Ms F)
いや、まだそう決めるのは全然早すぎます。一つのことを本当にやるには、一生とまでいわなくても何年もの年月がかかるのです。これを早いとこ片づけさせようとするから、「技術立国には文教予算の重点配分が必要」などと政治家・官僚が騒ぐのですよ。皆さんは根気よくやろうよ。人間の脳は発見的にできているから、入り口はなかなか見つからないが、一旦入り口が見つかればたちまち沃野の広がりが見えますよ。ぜひそれを期待しながら、現在もっとも気になることを、根気よくやって下さい。 「管理価格と聞いて...価格破壊という現象はヤバイのではないかと考えた」(Ms G)
「管理価格」から「価格破壊はヤバイに」いたるロジックがやや分かりにくかったので、以下はややG君の意図から外れるかも知れないが、管理価格に関連して充分教室で述べられなかったことを補足します。いまある商品が管理価格下で200万円とします。A社はこの商品を100万セット売ることができ、B社は10万セットしか売れなかったと仮定します。 この両社の競合商品にかかる開発費用や、工作機器などのいわゆる設備投資は、あまり大きく変わらないはずです。このコストを100万セットで割るのと10万セットで割るのでは、10倍近いコスト差が出ます。200万円の販売価格から、このコストを引いたものが利益ですから、この場合にはA社の方が圧倒的に高利益を上げることができます。
この計算は、お分かりですね。これが、管理価格下では企業が「市場占有率(シェア)」争いに狂奔する理由です。もともと競争各社の商品に、たいして内容の差があるわけではありませんから、別のことで消費者に自社ものを買わせることが有利になります。豊かな国の消費者の方も、あのタレントが好きだからとか、あのコマソンが好きだからとか、どうでもいいような理由で選ぶ傾向があります。
これが、20世紀後半になってテレビCMと企業とが、切っても切れない関係になる理由です。管理価格下の競争は、テレビCMと抱き合わせになっている。20世紀にできあがったこの悪行は、今世紀にもまだ引き続いています。G君のいう価格破壊は、以上のことだけと関係があるのではないようですが、これも大いに関係しています。一旦シェアさえ取ってしまえば勝ちと、どの企業も考えています。 「時代と共に(工程も人間も)万能から単能になると、伝統工芸はどうなるのだろうか」(Ms H)
これが最後の大問題です。実は、日常的に生活の営みのなかで伝えられていた工芸がもはや成り立たなくなったために、「伝統工芸」という言葉ができあがったのです。昔はみなが着ていた着物をいま着ようとすると、何十万円(多分)とするでしょう。どこの家でも使っていた、先祖代々伝わる漆塗りのお椀を買うと、いまではこれも何十万円とします。
言いかえると、一旦単能になってしまったら、元に戻せなくなるのです。H君のような当然の疑義が生じるから、伝統工芸を保護しようなどといいますが、伝統工芸とは、尊敬しているようで遠ざけている、つまり敬遠の言葉なのです。このことを考えれば、伝統工芸だけを尊重・保護しても仕方がないことがお分かりですね。生活そのものが昔ながらの暮らしにもどらないと、意味がないのです。なかでも一番回復困難なのが、人間の単能化でしょう。ぼくたちは、農夫や漁師の技能を失っているからね。
ご参考までに、現在休耕を進めている農地を回復し、ここに農業に帰る人口を収容できれば数百万人分(5・6百万ともそれ以上ともいわれる)の都市失業人口を吸収できる、という試算があります。ぼくなどは、銀行救済に使う規模の予算があればこっちに使った方が、よほど税の有効利用と思えます。ついでに、大学もこれに従って「晴耕雨読」に帰った方が、よほど大学らしいと思います。寺院も修道院も、こうして学問をしていたのだから。(なお同じ考えが東京大学の改革構想として存在したことを、宇沢弘文氏が岩波新書で書いています。) 「資源を完全にリサイクルして大量消費をやめるだけでは、問題は解決しないのだろうか」
大量消費をやめることは、今すぐにでも必要と思います。「先進国」が消費水準を今すぐ10パーセント引き下げられば、これだけで事態は相当好転するでしょう。政府・企業・国際組織は、間違いなくあらゆる困難を並べて猛烈に抵抗するでしょうが。前半の「完全に」リサイクルするというのは、文字通りには不可能です。リサイクル可能な素材を作ることや、リサイクル過程そのものに、巨大な資源とエネルギーが必要だからです。これは熱力学の初歩に反します。
もちろん、ぼくもリサイクル用紙を愛用しています。戒めの心構えにはなるからです。しかし、一度印刷されたパルプを再生するのに、どれほどの水資源と電力エネルギーが必要か、考えてみて下さい。伐採は減る。しかし水源が涸れ、2酸化炭素が増えれば何にもなりません。あまり大きな期待をリサイクル社会とやらに寄せないことが必要です。 まだ全員まで行かないが関連することは入っていますので、どうぞご参考下さい。研究室を出なければならないので、更新はここまでとします。また来週教室で。
11月21日
更新が遅れてご免なさいでした。実はこの時間を使って、下記に掲載するウエンデル・ベリーというネイチャーライターが、9月11日の事件直後に公開したものを訳していたのです。原文は、社学で英語をご担当の大神田先生からいただきました。いまもこのリンクから入手できます。
今回残した10名の方へのコメントは、ほとんどこの中に尽くされているばずです。そう考えて、急遽訳しました。ぼくのお答えに代えます。テロ、テロ報復戦争、国家、市場経済と近代国家、20世紀の戦争、教育と大学のあり方、その他9月11日の出来事を前に、人間がいま真剣に考えるべきことすべてが、ここにあります。米国人の立場からの発言であるが、日本人も自分のことと考えるべきものです。熟読を願います。
このなかにも出てくるガンディーの著作に関して書かれた、卒業生の福田まさきよさんのページも関係が深いので、この場所にリンクします。あわせてお読み下さい。
(訳者お願い:下記は正式に著作権をクリアしたものではなく、学生諸君などが読まれる便宜のため行った試訳です。引用や配布はこのことをご理解の上なさって下さい。) 「恐怖を前にして考えるべきこと」 筆者: ウエンデル・ベリー(2001年9月24日) 1.われわれは9月11日の恐怖を、この日に終りを告げた、技術と経済に関する手放しの楽観論を想起せずに思い出すことが、できなくなるだろう。 2.この楽観論は、自分たちが無限に「成長」をつづけ、「前例のない」豊かさを手に入れることができる「新しい世界秩序」と「新しい経済」のなかに生きているという思いこみの上に成り立っていた。 3.政治指導層、企業役員、投資家たちは、この思いこみが世界でごく僅かな比率の人間たちに限られ、米国ではもっと少数のひとびとにしか当てはまらないこと、この豊かさが世界中の貧困層の抑圧された労働を食い物にして成り立っていること、さらに、この豊かさの生態系へのコストが、豊かだと考えている人間たちさえ含むすべての生命を脅かしていること、などの事実を認めようとしなかった。 4.「先進」諸国家は、「自由市場」に神の地位をあたえ、農民、農地、コミュニティー、入会の森林、湿原、草原、その他の生態系や河川流域をこの神への犠牲に供した。世界中の汚染と世界の温暖化を、ビジネスのための当然のコストとみなした。 5.この結果、世界中で経済を分散化し、経済的正義をもとめ、生態系にたいする責任を取ろうとする努力がはじまっていた。9月11日の出来事は、これらの努力を以前にもまして切実なものにしたことに思いをいたす必要がある。われわれ工業国の市民は、自己を批判する努力、自己を正す努力を、以前にもまして続けねばならない。自分たちの過ちを認識しなければならないのだ。 6.最近数十年の経済的・技術的多幸症の第一のドグマは、何でも技術革新がかなえてくれるというものだ。技術革新がひたすら望ましいもので、必要なもので、技術革新を次々と続けていけば、経済は「成長」を続け、万事がよくなると考えてきた。このことは当然、過去を嫌悪し、たとえどれほど価値があろうが過去の革新を無価値とみなすことを意味する。 7.だがわれわれはあの時起きたことを、予想できなかった。こうして技術革新を続けていれば、いずれはもっと強力な技術革新が起きて、すべてを飲み込んでしまうことを予見できなかった。その強力な技術革新とは、新しい戦争の技術である。また戦争技術が、過去のあらゆる技術を人間自身に敵対するものに変え、これまで無視してきたさまざまな事柄のツケと危険を、人間自身に刃向かうものに変えるという事実を、である。われわれは、コミュニケーションと輸送が自分を自由にするという思いこみに夢中になり、実は自分がこの網の目のとりこになっている事実を、見ようとしなかった。 8.さらに、われわれが市場に送りだし、世界中にまき散らした武器と戦争技術が、巨大な暴力を正当化できる不気味な権力を持っている正当な国家の政府の手にだけでなく、いわゆる「テロ支援国家」、われわれと意見が異なる集団や個人、熱狂的な集団や個人、などの手に渡るという事実を予見しなかった。これらのならずもの国家、集団、個人の暴力を国家自身の暴力と比較して、前者がより悪いという理由はない。ただ諸国家がこれらを、非合法としているだけにすぎない。 9.われわれは、テクノロジーは善だという信仰を無批判に受け入れた。技術は善にだけ奉仕し、悪に奉仕しないという信仰を無批判に受け入れた。敵には奉仕しないという信仰を無批判に受け入れた。技術は、自分たちの国や自分自身の生命などのあらゆる善を破壊することはないという信仰を、無批判に受け入れた。 10.また、金融であれライフラインであれ、グローバル化し、技術的に複雑をきわめ、かつ中央集権化したわれわれの経済システムが、テロやサボタージュや戦争にたいし無敵で、「国防」によって防衛できるという同じような信仰を無批判に受け入れた。 11.いまわれわれが直面する選択は、逃れられぬほど明白だ。第一の選択は、このまま企業間の「自由市場」に支えられたグローバルな経済システムを促進しつづけ、長距離できわめて損傷しやすいコミュニケーションと輸送の手段を維持し続けること。ただし、これからはこのようなシステムは、一国だろうが多国籍だろうが、巨大で高額の資金を必要とする世界規模の警察体制によって防衛しなければならず、同時にこのような警察体制は、世界中のすべての国民の自由とプライバシーとを奪い取る程度に応じてしか効果を上げられないと、承知してかかることだ。 12.第二の選択は、非集中的で多様性を許容し、それぞれの国や地域が生命を維持するに足る物資を自給できるような世界経済を作ることだ。これは国際貿易を排除することにはならず、それぞれの土地がみずからの必要を満たした後の余剰によって、貿易を行うようになるだろう。 13.われわれがいま抱えている、今回のテロ事件に匹敵するほどの危険は、企業社会の国際的「自由市場」計画に追随して進み続け、懐疑も自省も公衆の討論も忘れて、この計画が自由や人権にどれほど大きなコストを強要するかを、考えなくなってしまうことだ。 14.この危険こそ、危機に常である思考のための論理のすり替えを、公職にあるものだろうが市民だろうが、やってはならない理由なのだ。こんな大きな事件の際に、ワシントンで実際に何が起きているかを知ることは、普通の市民にとっては困難なことだ。深刻で難しい問題が考えられていることは、誰にも分かる。だが、政治家たち、役人たち、テレビ解説者たちの口から聞こえてくることは、われわれが当面している複雑な諸問題を、団結、安全、常識、復讐などといったことに矮小化することばかりだ。 15.国家の自己正当化は、個人の自己正当化と同様に誤りだ。それは誤解を生む源だ。弱さの証拠にすぎない。テロリズムにたいする戦争は、これまでわれわれがすべてを捧げてきた数々の戦争の上塗りになるにすぎない。また、民間人に戦争を仕掛けることで、無実でいられるわけはない。このような近代戦争のドグマを作ったのは、ウイリアム・T・シャーマン将軍だった。彼は、戦争では民間人も有罪で、軍事的制裁の対象になって当然だとした。われわれは、いまだにこのようなドグマを拒否してこなかった。 16.9月11日の事件が示すように、政府が世界経済の促進者になったり参加者になり、しかもそれと同時に国際条約を破棄して自己の利害を押し通し、道徳次元の問題での協力に背を向けることは、同じほど誤りだ。 17.さらに、わが国では、わが憲法のもとでは、危機や緊急事態ならどのような政治的抑圧も正当化されると考えるのは、基礎的な誤りである。9月11日以来、数限りなく多くの公的発言が「われわれを代弁する」と称して、アメリカ人は「安全」のためなら喜んで自由の制限を許容すると語ってきた。しかし、アメリカ人のなかには憲法の保証する権利の侵害を許さず、憲法上の権利のためなら、たとえ安全を犠牲にすることもいとわないという人間もいるのだ。 18.われわれを憎むひとびとがいて、これほど深刻で凶暴な痛手をわれわれにあたえた事件の直後では、またこれらのひとびとに依然として脅かされていると考えざるをえない時には、平和的な解決について思考し、同時にキリストが汝の敵を愛せと命じられたことを思い出すのは、たしかに難しい。だがいまこそ、この困難なことが必要とされているのだ。 19.また今こそ、今回の事件がしばしば無意味に比較される真珠湾攻撃以来、われわれ人間が戦争に次ぐ戦争によって絶え間なく苦しんできたこと、どの戦争も平和をもたらさず、人間を平和主義者にすることもなかったことを、勇気を持って思い返すべきである。 20.戦争がもたらすものは、平和ではなく勝利である。そして暴力によって得られた勝利はこの暴力を正当化し、さらなる暴力へと道をひらく。もしわれわれが革新に真剣に取り組んでいるのなら、われわれは「戦争を終わらせるための戦争」という悪循環から抜け出す、新しい道を必要としていると考えるべきではないだろうか。 21.平和に導くものは、暴力ではなく平和主義である。これは、消極的な道ではない。注意深く、知識豊かで、実行力のある行動的な生き方なのだ。われわれは、戦争の手段に贅沢きわまる予算をつぎ込みながら、平和主義への道を完全に忘れ去っていることを認めねばならない。例えば軍事大学はいくつも持っているが、平和のための大学はひとつも持っていない。われわれはキリスト、ガンディー、マーチン・ルーサー・キングなどの平和主義の指導者たちの、教訓と前例を無視してきた。これを思うとき、われわれはつぎの自明なことを思い起こす義務がある。すなわち、戦争は利益を生むが、平和主義に費用はかからず、同時に金儲けにならないということだ。 22.平和主義のためには、不断の実行が必要だ。貧しい国から搾取して、もっと貧しくさせたりしながら、そのひとびとに武装させたり最新の戦争技術を教育したりすることは、誤りである。 23.世論操作屋やメディアが、われわれの敵をカリカチュアにすることを、許してはならない。もしわれわれの敵がイスラム教の国々なら、われわれは敵を知る努力をすべきである。われわれの学校は、イスラム教国の歴史、文化、芸術、言語の教育をはじめるべきである。われわれの指導者たちは、この中のひとびとがわれわれを憎む理由がなぜかを、謙虚かつ賢明に学ぶべきである。 24.食料と農業問題を手はじめに、われわれは国内で率先して土地の自給経済を開始し、海外にもそれを促すべきである。われわれは、これこそがもっとも確実で、もっとも安全で、かつもっとも安価に世界が生きる道だと知るべきだ。商品を作るためにそれぞれの住む土地の潜在力を殺ぐことを、決してしてはならない。 25.大地、水、空気など人間経済の根本を破壊せぬことにあらためて注意を向け直し、この保護のため必要な努力を尽くすべきである。まだ残されている生態系と水源のすべてを守り、すでに破壊されているものの回復に着手すべきである。 26.今回の出来事の複雑な背景から、現在の教育に関するわれわれの考え方を変えることの必要性が、かつてなかったほど大きくなっている。教育は、もともと産業ではない。その目的は、職業訓練をしたり、産業から補助金をもらう研究をして、産業に奉仕することではない。教育の目的は、市民が人間として、経済的にも政治的にも社会・文化的にも責任ある生き方ができるようにすることにある。このことは、現在「情報」などと呼ばれているものを「アクセス」したり「収集」したりすることによっては、達成できない。いま「情報」と呼ばれているものには、文脈がなく、したがって重要度の認識も存在しない。本来の教育とは、若いひとびとに順序正しい生き方をしてもらうこと、いいかえれば何が重要で何がそうでないかを知ってもらうためにあるものだ。最初のことを最初だと言うことが教育だ。 27.子供たちに(またわれわれ自身に)最初にしらせるべきことは、われわれは無限に贅沢をし消費し続けることは、できないということだ。無駄を止め、保護することを学ぶべきだ。過剰と浪費の上に立つ「新しい経済」など、必要ではない。必要なのは、慎ましさと思いやり、節約と保護を基礎とした経済だ。浪費を基盤とした経済は、絶望的なまでに暴力的だ。戦争は、この経済に不可避の副産物である。われわれは、平和主義的は経済を必要としているのだ。(終り)
以上が全文の試訳です。つぎには「市場と国家」について講義します。では教室で。
11月14日
11月16日の加筆があります。
今週は15名の方のものが良かったです。その多くの方が、ぼくに楽しみをあたえて下さっているようで、11月は好きなシーズンです。あと1ヶ月すると、試験はどうするのですかとか、レポートはあるのですかとか、教室で思わず落ち込むようなことばかり聞かれたり、言われたりします。そういうことだけ気になる人は、「履修要項・講義要項」をみて下さい。 そんなことは放っておいて、本題に入ります。順不同です。
連辞符(連字符)社会学について「...興味のありそうな名前を社会学の前につければいいんだもん...思えば、今は連辞符経済学...連辞符情報学など、すべてのベンキョウが連辞符XX学になっているような気がするナ」(Ms. A)
ホントだね。大衆食堂に行ってるような気分がするね。「あんた何にする?」「そーだなー、カレー」「わたしテンプラ」...みたいだね。
20世紀になって、人間も理想的には全部が連辞符人間になって欲しいのだね、きっと。カレー人間みたいなのばかりつくって、リストラする時には「もうカレーは要りません」つーことだろうね。
大学がこうなったのには、2つ原因があるでしょうね。
1)は受験生蔑視かな。18才の人間はご飯の味など分かりっこないから、カレーとテンプラと親子...それとほかに何かよそにある名前だけ付ければOKだ、という見くびり方。
2)は、すでに大学教師が「メシとは何か」に経験がなくなっているのだね。よく言うでしょう。蕎麦の本当に美味しいのは「ざる」、うどんの本当に美味しいのは「かけ」で食べよ、と。信州に行っても讃岐に行っても、そう言っているよ。あと10年かかるかな。蕎麦もうどんも、本物が打てるようになるのにそのくらいかかるもんな。 「現在の連辞符社会学は、本当に悪いのだろうか」(Mr.B)
はい。最悪だと思います。理由は上の通りです。暗に、人間なんて(特に学生なんて)カレーかテンプラかしか知らないよ。どうせ、卒業したら連辞符人間にさせられるのだし。「食いつき」だけ良くして、たくさん学生集めた方が勝ちだ、という魂胆が見え透いているからです。 「援助交際についてチラッと触れていましたが、先生はこれを認めますか?」(Ms.C)
チラッと触れてはいませんよ、ほんとは。連辞符やってると、援交社会学などもできるのだなー、と不快感を表明しただけです。不愉快ということです。
折角のご質問だからお答えしたいのだけど、早い話が売春でしょう。ぼくが認めるかどうかに関係なく、やる人はやるし、不快または嫌だという人はやらないだけではないだろうか。ただ、連辞符人間が多いから、援交人間もいれば援禁立法人間もいて、後者にもぼくは好感を持てません。この種のことは禁止法令を作ればよいという発想に、そもそも強い違和感を覚えます。仮にC君が世論調査屋だと考えると、「ぼくは援交不快派だ。ということは禁止法賛成だ」というように、断定しないで下さい。
一昔前(70年代末)に、ぼくのゼミにある優秀な学生がいました。ある時期から、ゼミで顔が見えなくなりました。どうしたのだろうかと気にしていたところ、『粉』という卒論が提出されました。バイトの延長でずるずると麻薬(らしい)売人に引き込まれて、生きるか死ぬかの日々をさまよった「ある人物」のことが書かれていました。もの凄く生存感のある、すぐれた卒論でした。ためらわずに、ぼくは最優秀点を付けました。援交などという、ふやけた行動とは別次元をなす作品でした。 「ガンディーの本読みました。本当、人は手の届く範囲だけで生活できたら幸いですね。...もう一度人にやり直す機会を与えても、もどれないのだろうか。女が主体だったら、どうなの(もどれる)だろうか」(Ms.D)
『真の独立への道』を読まれたとのこと、大いに敬意を表します。「もどれるか」という件ですが、難しくてももどるしかない、というのがぼくの考え方(願い)です。さもなければ、あと50年は保たないというデータばかりです。『地球白書』などを参照して下さい。
女性が主体ならもどれるとすれば、こんなにうれしいことはありません。しかし、日本人は「GDPが0.9%減少した」ことに大騒ぎをし、中国がWTOに加盟したことに感激している状態です。女性なら、現在のマイナス低成長率をより促進できますか。その時のアジア外交と先進国国際協調路線は、どのように変更しますか。農家の反対も押し切って、減反政策を廃止していく方策はありますか。都市の失業者を説得して、農村に帰ってもらう方策はありますか。なかでも、多国籍化している企業制度を圧縮して行く方策はどうですか。などなど。
以上はどれを取っても他に連動する問題で、到底連辞符的発想では解けません。昨年まで、女性社会学者は少子化対策と言っていました(新たな連辞符社会学の誕生)。女性のために手当てを出せ、ということらしいです。
というわけで、女性なら大丈夫と思えれば男の選挙権を一時停止してもいいと思うくらいですが、残念ながら現状では「女が主体ならもどれる」と、こころの底から思うことができません。もちろん男ならいいとも思いません。遺憾ながら、男女問題に置きかえられるような単純な問題ではないと思われます。 「貨幣、法律、知性は持つ者によって良くも悪くもなる。(どう変わるかは)人次第だ。(また)この3つ以外にも使う人によると考えた」(Ms.E)
これは、その通りです。一般的に言いかえると「制度ではなく人」が重要なのです。大学で、カリキュラムより人が重要なのと同じことです。また、現代においてジンメルの時代になかった同じ性質のものは、「情報」でしょう。ビル・ゲーツも情報、このページも情報なのです(ちょっと大きなことを言いすぎたか、と反省)。
ただ、一つだけ強調しておきたい点があります。制度か人か、という時に、「援交」程度でも法令を作り罰則を強化して...という「制度化」が起こります。貨幣、法律、知性は、なかでも制度化させる(つまりシステムを作らせる)作用がもっとも「頑強な」ものなのです。また、それ自体が強力な制度によって囲まれているのです。E君の発言は説得的ですが、同時にもろいところも持っていることを忘れないで下さい。
この3つがそれほど頑強に抵抗しなければ、D君の「もどれるか」という疑問に、ぼくは大丈夫だ、と断言できるでしょう。 「...力を持った第2世代は、経済に迎合した人たち...経済は人にしかできない行為だから社会学で扱えると考えた者たちだと考えられるか...」(Mr F)
事実関係としても、結果論としても、その通りだといえます(ジンメル以外は)。ちょうど昨今、コミュニケーションは動物にない人間固有の行為だといっている人々同様に、浅はかとしかいえません。時流に乗ることは、乗ったつもりの人間の愚かさをさらけ出すことにしかならないようです。
ただし、「経済」という言葉には若干の限定が必要です。経済を「土地からものをもらい、それによって生きてゆく営み」のように最広義に解釈すると、上の表現は正確さを欠くことになります。上の意味なら、「資本主義的市場経済」と限定すべきでしょう。
もともと、ヨーロッパ語で経済のもとになっている「オイコス oikos」は、ギリシャ語で生息地、すみか、およびそれにともなう「生業」などを表す言葉です。だからこの意味で、人類学者たちは「スマッブリは狩猟採集経済に従事している」というように使用します。オイコスが転じてこれに関する学問がオイコノミックス(エコノミックス)と呼ばれるにいたりました。このような事情は、経済学者も知らぬ振りをしているが、諸君はそうでなく、この機会に正確な「経済」の概念を知るようにして下さい。 大事なことを書き忘れた。ギリシャ語のoikosを語源とする重要な学術用語に、「ecology エコロジー」というのがあります。経済や経済学などよりこっちの方がはるかに重要なことは、説明の必要がないでしょうが、この事実は、先輩顔してふんぞり返っている経済学者が、呆れるほど知らないことです。あわせて記憶して下さい。 「ウエーバーやデュルケムがバイブルのようになっているが、同時代の消された人々はどうしてそうなったのか。時代に圧力をかけられた、ということか」(Mr. G)
暗に A. Espinas などを指しておいでのようです。なかにはシェーラー(Max Scheler)のように、ハイデッガーのパターン(あいつは「ナチだ」のような)の濡れ衣を着せられて葬られた人もいますが、多くは単に無視するという最悪の扱いを受けたのです。学者も、変に「流行に敏感な」人間どもだね。 Espinas は北欧経由で日本の霊長類学によって再発見されたのは幸いでした。日本の霊長類研究者の見識というものでしょう。 「...ということは、行為論や構造化論は否定できるのか。人のみが行為できるのでは?他の動物は本能的行動なのでは?」(Mr or Ms H)
敢えて問う、という感じですね。上にいう構造化は、制度化、システム化などと同じことです。正しくは、否定できるといっているのではなく、無条件に正しいといえないから、むしろ否定するべきだといっているのです。E君にお答えしたように、正しくなくても制度化は起きます。正しくないから、綻びがでます。そこで、また制度化の上塗りをします。そこでまた...。こんな悪循環に付き合っている時間はないのです。D君は「もどれるだろうか」と、深刻な問いかけをしています。
後半に関連しては、H君自身が今日一日でいいから、自分のいわゆる行為をどの程度の割合でしたかを考えてみて下さい。歩く時に右足から出るか左足から出るかを、「理性的」に判断し、バス代を払う時に他のあらゆる代替選択肢と「理性的」に比較考量し、家に帰って電灯をつける時にその資源コストを反省し...などなどのように。100%だったら、まれに見る珍しい人です。古代中国の思想家のなかで恵まれた方の孔子でも、「七〇になってようやく、心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」という状態になれた、と述懐しています(『論語』為政第二)けど。
さらに、「本能的」行動という言葉がかなり曖昧です。良く訓練されて、店先で待っている犬は行為しているの? 餌がすくなくなって自然に群を離れる一群は「理性的」なの? H君はこの際敢えて問おうという気持ちだと考えるが、かなりやはり無理があるようですね。無理があることを承知で、他人を従わせようとすると、ジンメルの「知性」のように、異論を無視したり、社会的に圧力をかけたりすることになるのです。 「...シカゴ学派に関する自分の判断が動揺した...」(Ms I)
ベブレンがシカゴ学派誕生の前史をなしていることは、リースマン(D. Riesman)がベブレンの評伝のなかで述べています。また、シカゴ学派の中核を形成したリンド夫妻に関しては、ロバート・ベラさんが『心の習慣』『善い社会』などのなかで、アメリカ経済によるコミュニティーの破壊という問題に関連して述べておいでです。
なおベブレンの影響の他に、シカゴ学派を考えるにあたって忘れてならないのはニューディールという米国の大きな政策変化です。こっち(ニューディール)に関しては、ぼくが目下鋭意翻訳中なのでしばらくお待ち下さい。 「『孤独な群衆』を昨年の今頃読んだ...(それはそうと)三位一体は今でも意味不明です」(Ms.J)
おー、なるほど。高校で読まされるわけか。英語の時間の原書じゃないよね?それにしちゃ翻訳が悪かったなー。乗りかかった船だから、次にはどうぞ原書を傍らにおいて読んでみて下さい。三位一体ですけど、「神の子が生まれるのに(H君のいう)動物のものに過ぎない本能的行動が必要か」というように言いかえると、よく分かりますよ。これはH君の論点に深く関連するので、敢えて上げておきます。人間にはこのような「不潔な」行動が必要ないので、人間だけが「理性的」なのだという「学説」を前提にしなければ上等の学者も「消される」のです。根の深い問題だね(深いといっても、アウグスティヌス「De Trinitate」から数えてたかだか一五〇〇年ですけど)。 「のどの調子は如何?炭疽菌はこわいですよ(どうもお気遣いいただいて恐縮です。罹ったら死ぬだけです)...今回のテロ事件に関して、ほとんどの人がテロを非難していたが...どちらか一方の側に立って見ることがどうしても出来ない。(それをやると)何か違うといった感覚を押さえることができない...(ぼくは)どうか」(Ms. K)
何度も出てきて、ぼく自身が考えることは何度も過去の週に回答したことです。だから直接の回答を省略しますが、Kさんのような違和感を感じつつ考えている人がいて当然だと思います。ぼく自身もそうです。ぼく自身がすぐにいえることは、日本は憲法九条の精神を守ることに徹して何が悪いかということに尽きます。その結果孤立したり、やられたり(多分米国国家に)したら毅然と甘受するべきだということです。この問題は、D君のいう「もどれるか」という深刻な問いにも大いに共通します。「もどりたい。しかしもどったら生活が大きく変わる人が出てくる」という前提が、「だからやはり成り行きに任せるしかない」という循環に陥ったら、テロどころか、もうすぐ一〇〇億人に達する世界人口は飢餓と殺し合いで『ターミネーター』状態になるしかないでしょう。
とにかく、K君が違和感を大事にして、安直な結論を出さないように願います。実は、ぼく自身これとよく似た(といってもこれほど派手ではなかったが)世界史的出来事に40頃に直面したことがあります。米国の60年代カウンターカルチャーです。今では商業ロックの消耗品扱いになっているが、この時代のアメリカのピープル(現在丁度50最前後)が自国を見捨てるといったことの衝撃が、やはり直感通り重大だったということをあらためて痛感しています。とにかく軽率に結論を出さないようにしましょう。 今回はこれまでとします。教室で予告した通り、次回から別の主題に移ります。ではまた。
11月7日
やっと二日がかりで終わりました。その分、途中で加筆した部分など、随所にあることをご理解下さい。 今日も、寒いなかを聴講していただき感謝します。その上に質問や意見を寄せていただき、さらに有り難く感じました。出席者も(いつも通り)すくなくなって、ぼく的には炬燵か暖炉に当たりながら話ができたらうれしいのになと、口には出さずに思っていました。 そのせいというわけではないのですが、今日ははじめに余談をすこし冒頭に書きます。昼食を兼ねて地下の生協書籍部を見に行ったところ、そこで『市場経済の終焉』という岩波新書を見つけました。著者は佐和隆光という、たしか京大かどこかの近経の人です。おー、思い切ったタイトルで書いたなと感じて手に取ったところ、中身は大したことのない本でした(関心のある人はお買い求め下さい。下らなくても週刊誌よりましではありますから)。
その中に、優勝劣敗によって勝者(企業のこと)が益々大きくなっていくという思想を「...社会ダーウイニズムという。これはへーバート・スペンサーによって最初に説かれた思想で...」云々という文章が目に止まりました。「あ、またか」と思いました。この佐和隆光とかいう人も、スペンサーを読まずに「社会学者たち」の孫引きで書いているのです(多分)。金を取って読ませる本でこれをやるのは、考えてみるといやな世界だね。ロックバンド名に進化論などと付ける「客商売風」いやらしさと、いい勝負だね。
もっとも「社会学者」の孫引きだというカンが正しければ、ちゃんと読んで正しく伝えない社会学者の方がもっと悪いか。 まず第一に、進化論は通常ダーウインの名とともに知られているが、スペンサーが今日紹介した『生物学原理』以下の著作を書いたのは、ダーウインと同時代に、同じ進化現象の存在を発見したのです。社会ダーウイン主義という名称は、この事実に関する無知から来ています。
第二に、米国でロックフェラーなどがダーウインやスペンサーの議論に目を付けて「生物は優勝劣敗の淘汰のなかで生きているのだ。自分がこのように大金持ちになったのは、自然淘汰に勝った生物が繁栄するのと同じことなのだ」と、しきりに吹聴しました。石油のロックフェラーは、鉄のカーネギーなどと並んで米国で悪どい商売をして財閥になり、世間の風当たりが強かった人のひとりです。今日ではロックフェラー財団は国際交流などへの貢献などで知られているが、19世紀後半には世間の風当たりを逃げるのに汲々としていました。そのための自己正当化にダーウインやスペンサーを盛んに利用しました。
このようなキャンペーンの結果、米国では19世紀末から20世紀始めにかけて、人種改良をして優秀な白人を育てようという、ヒットラーも真っ青な計画が科学者のなかでまじめに考えられたことは、BBC『市民の世紀(原題 People's Century)』などの20世紀のドキュメンタリーに記録されています。「白人至上主義」の源流です。さらにロックフェラーだけにかぎると、彼の牙城であったニュージャージー・スタンダード石油はCMを使って世論操作をしようと考えたパイオニア企業のひとつでした。(このことは、いまぼくたちが翻訳しているスチュアート・ユーエン著『広告の社会史』という著作のなかで克明に記述されています。刊行は法大出版、時期はおそらく来年の後半になると思います。) ところで、スペンサーやダーウインまで巻き添えにした「社会ダーウイン主義」という言葉はどこがおかしいだろうか。乳牛・肉牛などと違って、進化とは自然環境との関係ではじめて考えうる概念です。逆にいうと、社会ダーウイン主義というのは、人間は動物園動物だということを自明の事実と見なしていることと同様です。「市場経済」は人間にとって動物園の檻に過ぎないのだから。これが分からなくて、よく学者なんかやっていられるといいたいほどです。こうやって、先週話題にしたTh. Veblen だけでなく、多くの重要な業績と学者が闇に「消される」のです。ハイデッガーを「ナチス」呼ばわりして消そうとしたのと、同じことです。 結局、口直しに『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳 岩波文庫)を買ってきました。
「人が不正を非難するのは、不正を憎むからではなく、そのために自分が不利益を被るからである」とか、
「人はたいていのことを、それを誉めるのが、または貶すのが、流行だから、誉めたり貶したりするのである」
などの名句を読み直していました。17世紀に出版されたこの本を読んでいると、ラ・ロシュフコーに同情するとともに、300年たっても何もよくなっていないなとも感じます。いや、もっとひどいか。彼の時代には、フランス宮廷が気持ち悪かっただけなのに、今は「大衆規模で」全面的におかしくなっているということだから! ここから、いつもの本論です。今日は14人の方を残しました。今回は、昨今の国際事情からか、皆さんが色々なことに懐疑的になっていることを感じました。ともかく、いつも通りコメントします。 「講義と関係ないですが...ビン・ラディンがビデオ会見で広島の原爆について触れているらしいのだが、どのチャンネルでも言及されていない...また、同時テロ時の特番が全部同じ内容だった...ちょっとTVのあり方がヤバイと感じるがどう思うか」(Mr.A)
広島の件は、ぼくも申し訳ないが同じ「ヤバイ」TVしか見られないので、確言できません。しかし、もしも広島の原爆について触れていたら、米国に致命傷になることは大いに理解できます。原爆は、最後の手段としてではなく(最後の手段ならよいということもないが)、むしろソ連との対日利権争いのために使用されたことが、史実としてはっきりしているからです。
また、今回の「戦争」は、はじめからヤバイと考え、そのように書いてきました。ご記憶のように、「軍隊のみならず、外交、情報などあらゆる手段を用いて戦う」というのが、今回の米国大統領の公式宣言でした。つまり、はじめから「情報戦争だ」と断定しているのです。どのような手段で情報操作が行われているか、これまた断言できませんが、情報操作はあって当然という前提で、戦争が行われているということです。
今度の「戦争」が始まってから、ぼくはあらためて『プラトーン Platoon』というヴェトナム「戦争」の映画を、米国からDVDで買って見ました。ご存知と思いますが、国家意志の発動である「戦争」なら何をやってもいいか、というのが主題です。ただし、情報操作の恐ろしい点は、1986年にならないとこの映画は作れなかったということです。
A君の疑問に、こんな一般論で答えるのは申し訳ないですが、あとは今日配った福田さんの<世界の研究(1)>でお読み下さい。彼はヴェトナム戦争末期の学生ですが、ぼくは今回の彼の「自己分析」に同意見です。TVがヤバイのは今に始まったことではなく、「誕生とともに」ヤバかったのです。今後もヤバイだろうと考えます。そのことを前提に、何が見えるかはぼくらの問題ということになります。 その「何が見えるか」に関連しますが、インドネシアは米国にたいする支持を、明確に「条件付き」に変更しました。もし人口の多さがその国家の重要性を測る一尺度になりうるとすれば、インドネシアの重要性はもちろん日本を上回ります。
また、現在米国大統領は、ヨーロッパの支持を取り付けることに躍起になっています。フランス大統領に接近していることは、その証拠と思われます。この件に関して、イギリスは信頼できません。そもそも、一九世紀にインドに対する利権を争い、アフガニスタンをロシアに対する衝立にするためにこの土地に最初に介入したのはイギリスでした。これだけでも有罪です。その上ブレア政権は、国外に敵を作らないと経済的にも政治的にも危ないことは、米国と同様です。現在時点で、EUで指導権を発揮できるのはフランスということです(もちろん、フランス国家だけ善玉という意味ではありませんが)。表向きは、タリバン政権倒壊後の政府作りの打ち合わせということになっています。ただでさえ秘密の多い軍事情勢だから断言はできないが、タリバン政権が明日にも倒壊するような状況にあるとは、にわかに信用できません。「倒壊したことにして傀儡政権を作る」というオプションが、早期に泥沼から抜け出す方策としてありうることは、ひとつの想像として充分以上に可能です。 何か、このようにいうとぼくは米国を憎んでいるように聞こえるでしょうか。しかし、ぼくは米国に多くの友人を(実は姻族を通じて遠い親戚も、また複数の在米卒業生も)持っているのです。また、過日コンプロの教室である学生が、9月11日に叔父さんを亡くしたと涙ぐんでいました。「実に気の毒です」としか言えませんでした。
講義で述べたように、ホッブズボームが nation = state = people という図式が強引に作られた結果が国民国家(民族国家)だと言っていることに、同感せざるをえないのはこのような理由からです。米国に住んでいる友人には、どうかその人も家族も、無事でいてほしいとしか言えません。これは正直な気持ちです。しかし米国という超大国家のやっていることがヤバイと思うことも、事実です。ぼくの米国の友人たちも、この等式に従ってヤバイことの下手人といえるのだろうか。そうでないことは明白です。この等式がおかしいのだと、ぼくは考えます。そしてこの等式も、実はマスコミを利用した世論操作によって、いまや辛うじて維持されているのです。 「自主ゼミでデュルケムの『自殺論』を読んでいるのですが...どうしても社会的事実にたいして主観的になってしまう...どうすればよいのだろうか」(Ms.B) 主観的でよいのだと、ぼくは思います。理由を述べましょう。「社会的事実」は「もの」(つまり物理的事実)と同じと見なし、「客観的」でなければならないと、デュルケムは述べています。これと同じように無闇に「客観性」とわめき立てた社会学者に、ご存じのマックス・ウエーバーがいます。何が第二世代の社会学者に、このような余計なことを言わせたかは、分析に値します。結論を端的に言うと、自然科学コンプレックスなのです。第二世代の社会学者で「客観性」を「貨幣」同様に有害なものと考えたのは、ジンメルだけです(『貨幣の哲学』、『断想』など)。
なぜこのようなコンプレックスが生じるかは、比較的単純な理由からです。やっていることに自信が持てないことの、単なる裏返しなのです。分からないことは分からないと言えない弱さを、第二世代の社会学者も、またその後の社会学者はなおさらに、多量に抱えています。第二世代の社会学者は、スペンサーなどと違って、国民国家(と市場経済)を自明の前提としました。このツケが、客観性コンプレックスとして彼らを責めさいなんだのです。自分たちは、自然科学者と対等だと、ことさらに言わねばならなかったのです。自然科学者は「客観性」など、わざわざ強調しないでしょう。ぼく自身が社会学に転向してから、彼らはこのようにして「科学としての社会学」の確立に貢献したと教わりました。ぼく自身は自然科学の出身だから、それにしては杜撰だなと思いましたけど。
当然ですが、これはでたらめでも何でも破廉恥に言ってよいと言うことを意味しません。金と時間を使って研究をしていて、でたらめで良いわけはありません。物体は放置すれば自然に消滅するとか、鷺を烏といいくるめたりとかは、して良いわけはありません。嘘はばれる。ただそれだけです。だから、自然科学者は「客観性」などと当然なことをわざわざ言いません。言う価値がないからです。社会学者の自信のなさが、「客観性」というせりふを振り回させる真相です。最大限善意にとっても、自然は騙せない。しかし人間は騙せる、ということを無意識のうちに言っているだけです。こんなものを気にする必要は、全くないと思います。
逆に、A君の問いかけにコメントしたように、TVはヤバイのじゃないかとか、「戦争」と言う国家意志の発動ならなんでのやっていいのかというのは、重要な「主観的」な問いです。ここから問題は始まるのです。ヤバクないとか、やってもいいとかを、どうやって「客観的」に論じられるでしょうか。ひとびとの九〇パーセントがTVを見ているからとか、テロは困るという人が八〇パーセントいるから正当と言えるでしょうか。これをやり出してから、現代の社会学は夕日が沈むように変に混迷しはじめました。さらに、世論で正当化するのは、第三世代になってからの社会学をとみに下らなくした大きな原因です。くり返しますが、「主観性」は(自然科学も含めて)逃げることができない重要な要素です。なぜなら、観察し記述するのは生身の人間だからです。
多くの患者が希望しているから「遺伝子操作」は社会的に承認しよう、などという「客観性」は、そろそろかなぐり捨てないと人間が危なくなっていると、ぼくは考えます。(なお、『自殺論』はそれなりによくできた本だから、読むのはとてもいいことと思います。ただ、デュルケムは「自殺」に関心があったのか、それとも「客観性」のデモンストレーションをここでしたかったのかという問題次元になると、どうも相当程度まで後者に比重があったように、ぼく自身は感じます。) 「社会学において第一、第二世代は力を持ちすぎている気がする。現代社会学は負けている気がする」(Mr.C)
上を参考して下さい。事実は第一世代を「消して」、第二世代にのめり込んだから第三世代(つまり現代の社会学)は下らなくなったのです。B君へのコメントが、この事情を相当に物語ってくれると思います。付け加えるとしたら、「この論文はいい加減でない」ということを保証するには、まっとうな「アカデミック・コミュニティ」が必要だ、という事実でしょうか。学会とか、大学の学部とかです。 「男女が恋人同士になるとき...や結婚するときに...互いの同意(=契約)は要るのではないか...付き合う時に言葉(=契約)は欲しいと思うが(ぼくが)どう考えるか」(Ms.D)
面白い発想ですね。すこし、大胆に見方を変えてみましょう。1)動物が交尾するにあたって、求愛行動と呼ばれる行動が行われます。多くの動物ではオスが行動し、メスが決定する種が多いです。声もあれば、身振り行動もある。D君にお聞きしたいけど、これは「契約」だろうか? 違うのではないだろうか。男女どっちでもかまわないが、このような求愛行動が人間にもあってよいと考えるかという意味なら、あって自然だろうと考えます。
これと異なって、2)契約は違反を想定しなければ必要ないものです。もっと限定しても、違反した時に自力で決められずに、裁判所を含む他者に決めてもらうしかなくなることを想定しないと、必要ないものです。「制度としての結婚」を法律で決めるのは、「どの結婚も契約違反を想定する必要がある」と決めていることと同じことです。他人のことだから結婚するなと言うつもりは毛頭ないけど、最近結婚が不人気なのはこのような背景に不快感を持つ人がいると言うことではないだろうか。とにかく、1)と 2)とを混同しないで下さい。
ここで、急にマックス・ウエーバー学者の口真似をして見たくなりました。1)は「行動」です。2)は「行為」です。(このような不自然な用語法は、社会学の業界用語だから、むやみに人前で口にしないようにして下さい。) 「...『社会契約論』の影響は...なぜ(コントを金縛りにするほど)浸透していたのだろう。ルソー恐るべし...」(Ms.E)
難問だね。コントどころか、上の求愛行動と結婚の例を取るれば、間接的にウエーバーも金縛りにしていることは明白です。ついでに言うと、動物の求愛行動と結婚とは絶対に違うから、 2)でなければならないと考える人がいたら(呆れたことに現在でも結構多いです)、この人も金縛りにしていることになるわけです。
多分、つぎのような複数の理由を考えるべきではないだろうか。a)ルソーの契約論が影響したのではなく、事実としての社会契約が人を縛るのではないだろうか。b)人間は理性的動物だから、絶対に他の生物と区別すべきだとする無理が、人間には結局「契約しかない」と思わせてしまうのではないか。3)ルソーの死後10年ほどでフランス革命が起きます。フランス革命は中央集権国家をルイ王朝から相続し、磨きを掛けて近代国家に仕立てました。このような国家のなかで生きていると、最後は法律しかないと思わされるのではないだろうか。どれも、ぼくたちに無縁でない問題です。
なお、講義で述べたように、ルソーにはもう一つの顔があることが、『告白』(岩波文庫その他)などを読むと分かります。ひとことでいうと「純真な人間」の顔です。いい加減な人間も怖いけど、変に純真な人間も結構怖い存在なのだ...。結局、人間はバランス、総合力だということです。 「人間は、人間とほかの動物の違いを強調したがる生き物だと思うが...あえて人間という生き物と他の生き物との一番大きな違いを上げるとすれば、何だろうか」(Mr.F、Mr.G)
現代の(例えば20世紀の)人間と他との違いという意味なら、答えは簡単です。上記のような契約とか制度とかは生物の生存にはまるで無用なものだから、こんな悲しいものは人間しか持っていません。同様に、どこで取れたか作られたか分からないものを、市場経済によって買わされて食べている愚かな動物は、人間しかありません etc.,etc.。
F、G両君の疑問は、多分このような意味ではないでしょう。そうなら、実はこれこそが、ヒトゲノム研究者などよりはるかに能力のある人々が、現在答えを見つけようとしのぎを削って研究している究極の謎です。甚だ残念なことに、この仲間には社会学者は入っていません。スペンサーから数えて150年以上も、社会学は人間に関するこの究極問題をさぼってきたからです。
人間固有と考えられてきたものをまともに研究すると、どれも嘘だったことが分かってきました。言語を持つや、コミュニケーションをするなどは、真っ先にどの動物もやっていることが分かってしまった事柄です。理性理性と騒ぐようなものは、違うと決めつけて考え出したアト知恵にすぎないから、全然回答になっていません。
ジャレド・ダイアモンドという人が書いた『セックスはなぜ楽しいか』(1999 草思社)という翻訳書が出ました。この中に、どうも現時点で人間にしか見られないのではないかという、生物としての特徴がほぼ網羅されています。有力な手がかりとして、6つの問題点が上げられています。今回は時間がないので、この最重要問題の回答は、この本を読んでいただくことで代えさせていただきます。
さらに、拙訳ですがフォックス『生殖と世代継承』(2000 法大出版)も、人類学の分野からの貢献です。あわせて紹介しておきます。 「(ぼくは)社会学をどのように説明していますか」(Mr.H、Mr.I)
つまり、社会学ですと答えて「それはどのような...」と尋ねられた時にどうしているかという意味でしょう。お答えの前に、野暮なことを一つだけ述べておきます。このような尋ねられ方でなくても、あと3年もたつと、諸君も就職試験などで尋ねられる場合がありえます。その恐れがあると思われる人は、何でもいいから一つだけ、もっともらしく厳かに答えられる「お話し」を作っておいて下さい。自分に関心があろうがなかろうが、どっちでもいいと思います。その代わり、だれが考えてもこの先は「まだ分かりません」だろうと想像がつく以外のことは、どこまでも答えられる方がいいです。
余談はそのくらいにして、ぼくは尋ねた人の人相を見て、適当な(適切な?)答えをしています。本気の質問なら、(諸君に講義する時と同じくらい)どこまでも付き合います。自分で納得したいだけだ、と思われる人には「人とは何か」という学問です、などと答えます。社交的なものである場合には、「30年以上研究しましたがまだ分からなくて...」と笑って、または真顔で、お答えします。こんなところでよろしいでしょうか。 「なぜ人を救う医者にならずに社会学者をえらんだのですか」(Ms.J、Mr.K)
何か、進路指導の教授にしっかり怒られたことを思い出します。大した理由ではないです。医者は親が選んだもの。自分で気が付いたら、こっちの方が面白そうだった、というだけです。それはともかく、医者は人を救うかどうかは、同窓会で同級生に会うたびに無条件でそういえなくなっている事情を聞かされます。延命治療をするかどうか決めねばならない時にはつらいよ、とか、医療器械が無闇に高額になって、金のことを考えてやってしまうのだよなー、などと聞かされます。人間が神様の領分に踏み込むのは間違ってるよなー、などと聞かされることもあります。ケ・セラ・セラ(What will be will be.)だから、めぐり会ったところで精一杯やればそれでいいのじゃないだろうか、と思います。今回はこの程度で許してください。 今回は、昨日から二日続きで、完成が遅くなりました。しかし、諸君の書いてくれるものに次第に核心を突くものが多くなっているという歓迎すべき傾向もあります。今後ともご健闘下さい。
来週もう一時間を社会学者たちに費やし、その後に「権力と人間の距離」、「生殖と親族」などを扱うつもりです。ではまた。10月31日
今日は15名の方を残しました。皆さんのご協力に感謝します。早速、具体的な回答が必要なものから、お答えします。 「...民事不介入とはどのようなことか」(Mr.a)
法律用語を使った解説は、どうぞ適切な法律関係の辞典(なるべく大きい方がよい)に直接当たってお調べ下さい。その方が記憶に残って、役に立ちますので。ここでは日常語ですませます。契約関係でないことは、原則として勝手にやってよろしい、という意味です。a君がぼくに、好意で高額の財産を呉れたとします。これを、正当な代価をぼくから取りなさいと国家(法律)が口を出すことはない、ということです。当たり前ですね。同様に、重婚は犯罪になるが不倫は犯罪ではありません。前者は契約だが後者はそうでないからです。この辺りになると、変な理屈のような気はするね。あとは調べてみて下さい。 「群で生きることが望ましいが...その中にも矛盾が多く存在するだろう」(Mr.B)
それはその通りです。群で生きる動物は、どれもが天国に住んでいるとは、だれも思わないでしょう。自然という圧倒的な存在の脅威にさらされて、絶滅することもまれではありません。また、この脅威を逃れるために大移動を行うことは、数万年ないし数千年前の人類の群にも、よくありました。
さらに、群である部族同士が争うことも当然あります。しかし、一方が他方を殲滅することは、起きていません(殲滅させることが、吹矢や石斧のような原始的な武器で、可能だと仮定しての話ですが)。自然の脅威は逃げることが不可能な場合がありますが、部族の争いに嫌気がさせば、遠くに行ってしまえばいいのですから。
ところが、こっちの「西洋群れ」の方が正しいから、「それ以外の群れ」は爆弾で殺戮してもかまわない、というような考えを持つ動物は、どう見ても人間だけです。17、18世紀の宗教戦争や、19世紀の植民地征服や、20世紀のイデオロギー戦争は、すべてこのような「人間特有の」情けない戦争です。これらはどの戦争の場合にも、人間に特有の「利権」が絡んでいるのです。このような問題は、今後取り上げていく予定です。 「社会学部なんてトコに通っときながら、社会学のはじまりについて始めて知りました。お恥ずかしい」(Ms.C)
いや、まだこれからなのですよ。これからだんだん(20世紀の)社会学が暗くなるのですよ。ぼくの方が「お恥ずかしくなる」話しをしなければならなくて憂鬱なのです。第一世代の出だしはよかったのに、20世紀になってからの第2世代は最悪なのですよ。とにかく暗い方の話しも、諦めずにつきあって下さい。 「対人地雷を譲渡すれば、責任は買って使った方にあるというのは、やはり不可解だ」(Mr.D)「...肉骨粉で狂牛病にかかった場合には、責任はどこにあるのだろうか」(Mr.E)
この両君の疑問は一対のもので、突き詰めるときわめて深刻なものです。冒頭の「民事不介入」とは違った意味で、若干法律の理屈の解説を必要とします。(なお、対人地雷は戦争に使われ、国家が行う戦争は一般に法的責任を問われません。これを念頭に下記をお読み下さい。)
法律の理屈は「人間の行為には、背景に理性的な理由があるはずだ」と見なします。このような「理性的理由」を「動機」と呼びます。動機がある行為が、その結果として、たとえば人に傷害を負わせれば、重大な刑事事件となります。しかし動機がなくて(たとえば交通事故で)傷害を負わせても(業務上過失傷害という、軽微な罪にはなりますが)、深刻な責任の追及はなされません。
以上を予備知識として考えると、なにも「肉骨粉」までいかなくても、いまだに責任があるのかないのかさっぱり判然としない、にもかかわらず結果がきわめて深刻な「日本の」問題として、水俣病(メチル水銀中毒)という事件があることを、ご存知だと思います(詳しい情報は「水俣病」のキーワードでヤフーなどを検索して下さい。一例として、熊本日々新聞のページを上げておきます)。この事件が裁判で争われる場合の争点は、「企業」、および監督する「国」または「県」などが、有機水銀によって中毒が起きるかどうかを知っていたかどうかに還元されてしまいます。いまだに、知らなかったという理由から、どこも厳密な意味では責任を取ろうとしていません。 レーチェル・カーソンが『沈黙の春』を出版したのは1962年です。この時点で、人工有機化合物には人間や他の生物の生命に危険をあたえるものが、多く存在することは分かっていました。蓋然性として「知り得た」のではないか、という疑念を払拭することは、難しいのです。もっとも、カーソンのこの本は20世紀の科学技術発達に有害だという理由で、最近にいたるまで無視されてきましたが。
このページは裁判ではありませんから、どこに責任があるかを決定するつもりはありません。しかし、上記とある意味できわめて類似した事件に、いわゆる「薬害エイズ」事件があったことは、諸君もご存知の通りです。
この事件では、企業、および監督官庁の責任が追及されることになりました。この事件はまだすべて決着したとはいえないが、先月(9月)には多くの新聞に「画期的な判決」として報道されたことは、知る人も多いと考えます。「画期的」とは、いうまでもなく他の事件の判決にあたえる影響が、きわめて大きいからです。その割りに刑が軽かったという意見も、あるようですが。
人工有機重金属、血液製剤、ヤコブ病、人工遺伝子操作などは、高性能爆薬、ミサイル、生物兵器などと並んで、まさしく20世紀の神話である「科学技術」の産物です。水俣病や薬害エイズ事件を見るに付けて、ぼく自身は近代国家とその法律が人間の生活を守るためにあると説明されても、仮にそれを正直に肯定するとしても、もはや事態はこのような策の及びうる限界を超えているのではないかと、疑わざるをえません。
もちろん、薬害エイズ裁判の過程で疑われたような、国家・政府と企業との癒着がないと仮定しても、ということです。このような癒着が存在するのであれば、事態はもっとはるかに、はるかに深刻です。
ともあれ、ぼく自身はこんなところまで市場経済と企業組織とは、進出してよいのかという根本的な問題に、ことは発展せざるをえないような性質の問題だと、考えています。 「ベブレンはなぜ社会学史から消されたのだろうか」(Ms.F)
端的に、今世紀初頭に上の疑問を提出したからだと判断されます。彼の作品は、最初から最後まで、私的所有権を前提に発展しつつある近代の工場制工業が、人道に反し、人間の生活を破壊すると警告しました。このような学者を変人扱いするほど、社会学も経済学も、20世紀の「経済繁栄」に酔いしれていたのです。核心を突いたことをいうと学者も歴史から消される点では、今日講義したH. Spencerも同様でした。
なお、ベブレンの本のなかで一冊だけ消されなかったものがあります。『有閑階級の理論』(岩波文庫、中公世界の名著、など)です。この本も同じことをのべているのだが、これだけは余暇の理論だということにしてお目こぼしにあずかったらしいです。安価に買える面白い本なので、お勧めします。 「ベンサムの主張が正しければ(国家のない集団は)殺し合うしかないことになる...そんなことはない..しかし、なぜ国家は増えつづけるのだろうか」(Mr.G)
脇道になるけど、これを読んでいたら急に「Enemy of the State」の主演者を思い出しました。Will SmithとGene Hackmanでした。ビデオ屋ででも借りてご覧下さい。
本題です。なぜ増えつづけるかには、2つの理由があると思います。1)癖になるからです。別の表現を使うと、(国家であれ経済であれ)権力には利益(利権)がともなうからです。2)最近の事例では、世界中に共犯者を作らないと国家が民衆に見捨てられるから、という実に困った理由も、加わり始めています。これらの問題は、「権力について」というところでもっとゆっくり考えるので、今日はこの程度にして下さい。 小説家・文芸評論家の吉田健一という方が、『ヨーロッパの人間』(岩波文庫)という文学エッセー集のなかで、ヨーロッパは人間に血が通っていることを忘れてしまった。このために「18世紀を頂点に、その光芒を失った」と書いています。実に困ったことに、こんにちの社会科学のほとんどが、「光芒を失ったヨーロッパ」が生みだしたものを受け売りしている現状です。一方、ヨーロッパのまともなひとびとは、ぼくがたまたま関わっているフォントネル(Bernard de Fontnelle 1657-1757)のように、『アジャオ人物語』(法大出版 1996刊 『啓蒙のユートピア 1』所収)のような、どう見てもジャワ島としか考えられない場所を、ユートピアとして描いています(この作、偽作説もあるらしい。このような「消し方」もあるのだね)。冒頭をすこし引きます。 「私は祖国を引き裂く混乱に嫌気がさしていた。混乱は、党派的な連中がひきおこしていたが、この連中はどの党派に属そうとも、要するに利害や憎悪や野心という破廉恥な動機によって突き動かされていることにかわりなかった.。..」(同書)
こういうことですね、国家が増えつづけるのは。増えつづけるから、産学協同などといって寄生するやつも出てくるのだね。ぼくらは前週にのべたように、このような事実を事実として、露骨に直視する以外に21世紀を人間の世紀に変える近道はなさそうですね。それなら、たじろがずにやりましょう。 「人々が各自の人格を切り売りして社会や国家が作られているのではないかと考える」(Mr.H)
ぼくも同感です。同じことを、これから講義する第二世代社会学のなかでは例外的にすぐれていたジンメル(Georg Simmel)という社会学者が、『貨幣の哲学』(白水社 『ジンメル著作集』所収)の中などで書いています。ジンメルもよく「消される」社会学者なので、実際にその作品を読まないとならない人のひとりです。 ではまた教室で。
10月24日
今日はぼくと同じに「炭疽?」様症状の人が多かったせいか、いつもの枚数より、かなり少ない数しか残せませんでした(13枚)。しかし、念頭をかすめたどんな疑念の中にも、重要な前進の手がかりがあるという見地からすると、残ったものの中には、間違っていても興味深いものが多かったです。大きく分類すると、「国家 state」に関するものと、「家 family」に関するもの、および「その他」に別れます。
後のものから順にコメントします。 「兵役の義務がないことはいいことだが、その結果男が弱く、女が強いといわれる世の中になったのではないか」(Mr. A)
どうかなー? もともと女性の方が強いのではないかなー。ハチではないが、男は女性に精子を渡してしまえば、あとは無用の存在なんだけどなー。女性をもっと強くするために、米国などは軍隊にも女子を使っているのかなー。「強い」とは、どのような意味かなー。生物的に?それとも社会的に?
それはともかく、真面目な話しとしては、『生殖と世代継承』(2000 法大出版)をお読み下さい。世界史的に、近代国家(すなわち民族国家、国民国家などといわれるもの)は、「家族」が大嫌いなのです。国家こそ、社会の頂点に位置する最高の存在だと主張するにあたって、家族は最大のライバルになりかねないのです。
それなら、母と子がいれば子は育つから、A君の疑問を活かして、男は全部国民国家の軍人にして、あとは母子家族だけにすればいいようなものですね。しかし、近代国家は「扶養の義務」は負いたくないのです。そこで、扶養の義務は両親、中でも男子にあるのだ、という建前が必要なのです。このご都合主義のために男が利用されるのだから、男が弱くなるのは当然だ、ということはいえるかもしれない。 「恋と結婚の区別がわからない」(Mr.B)「親子関係も契約なんですか?だとしたら親からの一方的なものになる。子どもは親を選べないか...」(Ms.C)。その他同様なもの数通。
折角イキな話しなのに、ヤボな話しですみませんが、『憲法』24条および『民法』「親族編(中でも第2章婚姻)」を、この機会にじっくり一度お読み下さることを、皆さんに薦めます。両性関係と親子関係を、法律がどのように理解させたがっているかを知るために。
B君に答えるのは簡単といえば簡単です。結婚(婚姻)は、法律がさだめる(承認する?)男女関係ですが、恋はそれ以外だ、ということです。それ以外だから、子供が産まれると嫡出・非嫡出などの、昨今問題になっている不快な事柄が生じます。生物的なことに法律的な枠をはめると、何であれこのような矛盾が生じます。
C君に答えるには、法律は男女関係を結婚という契約関係に置きかえるために厳重な枠を張りめぐらしていることを考えることが、前提になります(この枠は、男女関係を国家の支配下に組み込むためです)。「親子関係は契約」と言い切っているわけではありませんが、よく読めば子どもを、結婚という契約関係からの派生物と考えていることが明瞭になります。例えていうと、貸借関係から生じる利子みたいなものだろうか。きっとそのせいで、沢山生んだらいけないとか、少子化はいけないとかいうのだろうか、とも思いたくなるね。 ところで結婚が契約関係だとすると、何と何とを交換するのだろうかと、考えてみたことがありますか。Xは何も提供せず、Yはすべてを提供する関係を隷属といいます。近代契約は理性的で優れているので、という理由から、契約は、Xはxを提供し、Yはyを提供するといった、双務的なものが基本とされます。では何が交換されるのか。これって、だんだん気持ち悪くなるね。法廷で離婚の有力な決め手となるのは、xやyを呉れないとか、他の人にあげちゃった、ということらしいです。C君の言うとおり、「信頼」があるから成り立つ男女関係や親子関係に法律が口を出すのは余計なお世話、控えめにいっても「気持ち悪い」ですね。 C君はこの他に、台湾は中国はじめ主要国が「国家と認めていない」という問題を指摘しています。そうです。国民国家というのは今世紀最大のフィクションだから、他の国家が「ほれ、あそこにあるのは国家だ」というと国家になるたぐいの、詐欺師まがいのというと語弊があるが、とにかく怪物です。
過日からぼくが危惧している新たな中東紛争も、覇権国家という国家中の国家が「国家でない」というと国家でなくなり、「戦争だ」といえば戦争になる構図があると思われるからです。講義の中で示した「民族nation = 国家state = 人民people」という図式(Hobsbawm, Nation and Nationalism since 1780, 1992 CUP)を考えてみて下さい。この現代の等式からいうと、戦争をやっているのは people すなわちぼくや諸君の一人ひとりということになるのです。あるいは、先週のソンタグのプロテストを考えてみて下さい。同様な見解が、Mr. Eその他数名から寄せられていました。 「昆虫は家族を守るという考えを持っているだろうか」(Mr.F)
重要な問題点です。「考え」を、どのようなものと取るかによるでしょう。ハチは外敵を刺せば死にます。鳥類や哺乳類には、親が囮になって捕食者から子どもを守るものが知られています。このような特徴的「行動」を「考え」と呼べば、持っていると答えていいと思います。そうではなく、哲学者や社会学者が「意識」とよぶものを、いろいろ悩んだり他人に相談したりすることを「考え」と呼ぶのなら、そのような生存に不要なものは持たないというべきだと思います。こんなに優柔不断なのは、人間という変な動物だけです。 「かつてのようにアイヌ人を排除しなくなったのは、ひとつのnationに組み込まれたからだといえるのだろうか」(Mr.G)「多様性があるから素晴らしいのに、なぜ(民族を)理由にいがみ合うのだろうか。これを考えると悲しくなる」(Ms.H)
この2人は、結局同じことに触れているのだと思われます。民族には、国家のように他の国家の承認を必要とするということはありません。ぼくが仮に「ウチナンチュ」だとすれば、それはぼくが沖縄に生まれ、その血を受け継いでいるからです。G君が仮に「イヌイット」だとすれば、その子孫だからです。同様に、H君が「バスク人」だとすれば、これも同様にその血を受け継いでいるからです、などなど。
民族は、生存に脅威でないかぎり他を排斥する理由も、また逆にことさらに「受け入れる」理由もありません。むしろ、マルセル・モースが太平洋岸インディアンについて研究したように、必要なときは協力するし、必要ないときには手も口も出しません(『社会学と人類学』モース[著] ; 有地亨他訳 1973 弘文堂。またエバンス=プリチャード『ヌア族』 1997 平凡社 も、結局同じことをけんきゅうしています)。 ところが、民族の上に国民国家の枠が十重二十重にのしかかると、問題は途端に「悲しくなる」ような様相を帯びます。先週紹介した、ガンディーの『真の独立への道(ヒンド・スラワージ)』(2001 岩波文庫)を、諸君はもう買い求めたでしょうか。ガンディーはこの中で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒がイギリスの植民地化以前のように友好的になるように、と力を込めて訴えています。また、互いの中にある民族的違いも乗り越えようと訴えています。
これを逆に読むと、イギリス国家が支配しはじめると、民族的対立は激化するということです。対立する方が、国家にとっては都合がよいのです。調停者の顔をして支配できますから。また、支配される側のなかでも、どちらが優位に立てるかという利害の競争が始まります。従来存在しなかった国家という優越者が現れると、ひとつの国の中でも同じことが起きるのです。近代化・工業化がはじまると、利害対立が激化するのは、現代のアジアでもいまだに広くみられる事実です。この対立が、あたかも民族が大昔から対立していたようなものとして誇示されるのです。
G君のいうアイヌの人々に関しては、日本人は中央集権国家が成立しはじめた頃にこの人々に、領土や通商の要求という野心を持って接し始めたのです。幕藩体制下になるとさらにこれが露骨になり、明治政府の時期には対ロ戦略という都合のもとでこの人々を翻弄しました。アイヌはもともと、ひろい意味の縄文文化圏に属していた可能性さえ指摘する学者がいるくらいですから、日本人との民族的つながりはすくなくないのです。しかし、国家が追求する領土は、民族がもともと住んでいた居住域などはどうでもいいのです。通商とか市場とか外交戦略とかこそが、問題なのです。もし最近になって「排除しなくなった」という事実があれば、それ自体はよいことですが、意地悪くいうとその居住地に外交戦略上の価値がすくなくなったからだということも可能です。この点は、日米軍事同盟の見地から戦略的価値がかえって高まっている沖縄とは対照的なことで、日本国家が全面的に過去の民族を尊重するようになったということにならないのが、遺憾ながら真実です。 このような事実があるので、「国家の枠から抜けて考えるのはむつかしい」(Ms.I)、という感想が迫真性を帯びます。しかし、難しくても抜けて考えられるようにならないと、大きくいうと人類の未来はないのではないだろうかと、ぼくは考えています。何しろ20世紀は、国民国家の名において他の国民の頭上に砲弾や爆弾の雨を、間断なく降らせつづけた世紀なのですから。今世紀も同じことをしていて、人類が生き延びることなど無理だとしか思えません。ある土地が徐々に寒冷化し、あるいは温暖化した結果、その土地にいた部族が移住を余儀なくされたとか、生活様式を大きく変えざるをえなかったということは、縄文時代7千年だけをとってもあったようです。ところが現代の場合には、技術革新の厭うべき利用の結果、地球の裏側の人々にさえミサイルや爆弾を降らせることができるのです。国民国家とそれが持つ軍事技術は、破滅の最大要因のひとつだと断言できます。 今日講義でのべたジャン=ジャック・ルソーの生きた時代には、近代国家の開祖であるブルボン王朝という怪物を作り出すのに、ヨーロッパで数十万人規模の人口が抹殺されたと知られています。ところが、この程度の数は、現代ではニュースにならない小さな局地紛争でも抹殺されています。(このような忌まわしい現実に関しては、ぼくの頁から「国境なき医師団 MSF」を参照して下さい)。「国家の枠から抜けて考えるのはむつかしい」。しかし、それができる人々が現れないと、今世紀に未来はないと思います。ジョン・レノンもそういいたかったのだと、ぼくは考えます。
次週は、予告に従って「功利主義」というものについてお話しします。では教室で。10月17日
今回は、提出してくださったほとんどの方々の意見が傾聴に値するものでした。悪天候の中を聴講していただいて、かつさまざまな意見を聞かせていただき、感謝します。その中から、結果的に22枚を残しました。今回はバラエティに富んでいるので、分類ができませんでした。ランダムにコメントすることをご了解下さい。 今回の多くの諸君の意見の特徴は、国際的緊張が高まっていることを反映して、、反テロと称する戦争、海外派兵、このような事態の原因、などに関するものが多かったことです。文末に、米国の優秀な女性作家・学者スーザン・ソンタグが、雑誌『ニューヨーカーズ』に寄せた原稿を収録しておきます。事件(Tuesday とは9月11日のこと)直後の米国政府とマスコミの反応に、民主主義にふさわしくないと、重大な疑義を表明したものです。
ぼくは、米国民ではないがこの見解に賛成です。ぼくに重ねて今回の事態にかんする見解をもとめる主旨のものがありましたので(Ms. A、Mr. Bなど)、お答えに代えて掲載しました。翻訳する時間がないので原文のままですが、お許し下さい。いずれ時間を見つけられれば翻訳しますが、要旨は「悲惨な事件は、自動的に今回の報復戦争を正当化しない」ということです。これは、露骨な超大国の国家意志の発動であって、「成熟した民主主義」にとっては到底正当化できない、という主旨です。
あわせて、ぼくは日本が「テロ対策特別措置法」立法を急いでいることに、なお危惧を感じています。米国を中心とする先進国から孤立したくない一心からなのでしょうが、ぼく自身はたとえ孤立しても、憲法9条を堅持する方が重要と考えると、重ねてこれらの諸君にお答えします。とりわけ、このツケが将来諸君の上に重くのしかからないことを、強く願っています。 さらに、ジョン・レノンの「イマジン」禁止問題に言及した方がいました(Ms.C、Ms. D)。この歌は、今日と来週の講義に密接な関係があるので、ぼく流に翻訳したものをお目にかけます。「people」を「国家を持たない原始社会」とあえて訳し分けると、この歌の意味は明瞭になると考えます。これも末尾に収録します。原文はCDなどでお探し下さい。 「われわれが望む平等とは、欲望がかなえられた上での平等だ。狩猟採集民は食べ物がないときはみなが食べられない。このような負の平等を、われわれは望まないようだ」(Ms. E)
おっしゃるとおりです。逆にいうと、われわれは「豊かすぎる」のです。しかも、地球上で数億人が飢餓線上に生きているときに、豊かすぎるのです。
飢餓線上に生きている人々と、いわゆる先進国に生きている人々の数は、ほとんど同数です。中間の人口は、「開発途上国」とか「発展途上国」とかと呼ばれて、土地に根づいた生活から急速に追い出されています(しかもその多くがアジアにあります)。開発経済学という経済学があるのだそうです。先進国がなぜ「開発(つまり工業化)」を輸出するかというと、市場化してこの人々にも商品を買わせ、かつ低賃金で働かせるためです。これを直視せず、開発経済学はこのような人々を豊かにするために開発を輸出するのだ、といっています。いやな学問だね。 開発の輸出に関連して、「国家が輸出できるという話題は意外だった」(Ms. F その他2名)と書かれたものがありました。
『真の独立への道(ヒンド・スラワージ)』(2001 岩波文庫)という、ガンディーの本の新しい訳が出ました。この中から引用します。「...弁護士たちによる最大の損害は、イギリスの軛(くびき)が私たちの首にしっかりと当てられたことです...考えて下さい。イギリスの法廷がなかったら、イギリス人は支配できると思いますか...」。
この前後を読めば、イギリスは武力によって支配を持ち込み(輸出し)、法律によって支配を維持したということが、よく分かります。当時のヨーロッパは、この支配を(羨望をこめて)イギリスによるインドの文明化で、よいことだと言っていました。1世紀後、われわれが「開発」を輸出して、貧困をなくして人権を守ったと、平然と言っているのと何も変わっていません。第二次大戦後の国際関係に翻弄されてできあがった、現在のインド国家を考えると、胸が痛みます。
なお、この本は近代アジアが生んだ名著です。いま書店に積んであるので(500円)ぜひお読み下さい。 「動物に国家はないとのことだが、ミツバチなどはそういえるか。女王バチがいて継承性がありそうにも思えるが...」(Mr. G)。
なるほど。面白い着眼点ですね。ミツバチについて、もうすこし詳しく事実を調べてみて下さい。ぼくの知識の範囲でお答えすると、次のようになります。ハチの群では、女王バチだけが卵を生み、生殖に従事します。つまり、群のすべての個体は女王バチの直系の子(娘)なのです。哺乳動物は、一個体の中に、捕食のための足や顎、消化のための内臓、生殖のための性器などの器官があります。ミツバチは、これらの器官がばらばらの個体に別れ、群としてみると全部そろうようになっています。G君にお聞きしたいのだが、このことを知った上で、なおかつこれが「国家」のように思えますか。 以上の他に2名の方が、「ぼくは電車にも乗ってみるように。怖くないから」と励まして下さいました。感謝します。どうぞぼくのような人間もいるのだから、駅で「この切符、次はどうすればいいのですか」などという不審な(?)ことを尋ねる人がいても、「こいつはホームレスか、さもなければ怪しい外国人ではないか」といった侮蔑の目で見ないで、分かりやすく教えてあげて下さい。
一昨年、必死の思いで新幹線経由新大阪に到着し、そこから大手門まで地下鉄に乗ったらそのまま1時間半地上に出られなかったという、ぼく的には深刻な経験以降、自分のクルマ以外は信用しないことにしましたので、ぼくのことは悪しからず。
なお、諸君がおそらく知りたいであろう、関連した別の問題に触れておきます。輸送手段として、クルマと鉄道について、鉄道の方が省エネルギーかどうかという問題です。結論を言うと、首都圏のようなぎゅうぎゅう詰めの電車は省エネといえます。しかし、あらゆる路線を全部総合すると、電車の消費エネルギーはクルマの70パーセント程度です。いいかえると、2人乗ったクルマなら、こっちの方が1人当たりエネルギー消費はすくないです。他に、鉄道建設と道路建設のエネルギーコストの比較も必要ですが、この資料は持っていません。住宅から離れたところに住むしかない都市が、そもそもエネルギー浪費の典型なのです。 これ以外の13人の方々(このように一括して申し訳ないですが)は、すべて、国家が人間にとって見えない鉄格子のようになったと感じた上で、ではどんなことが考えられ、またわれわれがどのように考えればいいのだろうか、という難問に真剣に取り組んだものです。全員個性的なので全部引用できませんが、すこしだけ上げてコメントします。
その前にお断りしますが、ぼくに一発回答があるわけではありません。当面自分たちの状態を、ひるまずに「露骨に直視する」ことが必要だと考えているだけです。そうしないと、文末のソンタグのように「今回の政府高官とマスコミのコメンテーターの態度は...成熟した民主主義にとって許容できない愚行だ」といった声も上げられないと思うからです。民主主義は、だれもが声を無視されないという意味で、理想主義的な思想です。それだけに、民衆の目にウロコが付いているあいだは、法と権力が圧勝するでしょう。 「ギデンズの言葉を借りれば...化学は、原子の動きがもたらす結果の影響を、考える必要がない。しかし、人間は行動の結果を意識し、つねに念頭におかねばならない...以上のことから、社会学と他の学問は違うと考える」(Mr. H)。
ぼく自身は、ギデンズは根本的問題を微修正ですまそうとしている微温的社会学者と判断するので、このような文がどこにあったか思い出せません。人間には「意識や理性」がある、ということだろうか。この予断が、人間と他の生物を区別する西洋の思想につながっているので、この意味ならぼくは賛成できません。あらゆる物質は時間内存在だから、結果がつぎの出来事に影響するのは、分子も人間も変わりはありません。200億年の宇宙進化を考えてみて下さい。
そうではなくて、「生命」があるものとないものが違うと言っているのだろうか。学問の現状では、生命のあるものとないものとは、それなりに独自の様相を呈するので、一応別々に研究されています(だんだんそうでなくなっていることには、注意して下さい。受精卵を用いた幹細胞培養とか、人工授精とか、クローンとか。これらの研究に、たとえば米国では、製薬会社絡みで数兆円の金が使われています)。とにかく、もしこの意味なら、社会学は生命科学と共通の基盤を持たないと、むしろおかしいと言うことにさえなります。
そうでもなく、もし「意識や理性」があるとして、それを用いてよく反省してみると、過去2世紀足らずのあいだに、人間は人間社会を「相当まずい」状態に追い込んでしまっていることを直視しよう、といっているのだろうか。この最後の意味にかぎり、ぼくは同感できます。 「現在の日本のような国を、法律などで平等に分配する国家に変えたら、ソ連みたいになるだろうか」(Ms. I 他に、社会主義の誤りはどこにあったのかという質問がありました)
ソ連など社会主義の誤解は、国家が作ったいわば「累積赤字」を、工業を基盤とした「もっと強力な国家」によって解消しようとしたことだと考えます。Iさんの言う通り、このようにしたら、同じことが起きる可能性があります。 ただしこれは、分配の平等はどうでもよいということを意味しません。企業・金融機関の不良債権の処理に税金を使って当然とは、だれも思わないのではないだろうか。このような金があるなら、全額を大学など高等教育機関の一部無償化に使ってほしいと思うくらいです。つまり、一気に平等にするなどというほとんど起こりえないことではなくて、分配の平等問題は目の前のさまざまな争点のなかで、現に起きているということです。どうぞこのことをお忘れなく。
この場所から「過去70年間の日本の就業構造変化」というグラフにリンクを張っておきます。日本はわずか半世紀に、農業就業人口が数パーセントまで減少し、人口の9割がサラリーマン(それも半分以上がサービス業)になっています。温帯モンスーンの恵まれた地理的条件の中で、このような偏った就業人口でいいのだろうか。もしこのままサービス業と製造業に従事した状態で進むとすれば、アジア諸国が同じようになることになることに手を貸すべきか、それとも、日本の生活水準が多少下がってもアジア地域協力に熱心になるべきなのだろうか(ASEANの最大課題はこれです)などといった、国際的な分配平等も避けて通れず、これには日本人の日本外交にたいする見解が問われます。 昔々、全共闘というのが大学を中心にあったことを思い出しました。全共闘は、結局ただの左翼集団から卒業できなかったため自滅しましたが、この諸君が残した名文句を思い出しました。「連帯を求めて孤立を恐れず」というものです。ぼく自身は全共闘は嫌いだったが、それと関係なくこのモットーは、重要な言葉だと思います。テロ対策法を考える中で、テロをなくしたいと考えているさまざまな地域の人々と連帯するために、たとえ日本が先進国からしばらく孤立することも、選択肢の中にありうるのではないだろうか。同じように、地球破壊を止めるためにも、人口と食糧問題を考えるためにも、またもっと身近な財政赤字問題、不良債権問題、地方自治問題、雇用と賃金保障問題などなどのなかでも、各人が孤立を恐れない見識と信念を要求されるのではないだろうか。 過去に、この講義で述べたことがあるので、「Back Issues」のどこかに入っていると思いますが、これと同じ精神でのべられたものが、1960年代米国の公民権運動のなかで、マーチン・ルーサー・キングが言った「Think globally, act locally!」というモットーです。解説すると、「ローカル」とは黒人であることです。「グローバル」とは米国人であることです。同じことが、国民にされてしまっている、にもかかわらず人間である、ぼくたちにもいえます。
ぼくたちが直接関わることができるのは、日本国民というきわめてローカルな次元でしかないでしょう。しかし、問題の本質は「なににも制約されない人間同士」というグローバルなところにあります(民主主義は多数決などではありません。制約されない人間、というのがその本質です)。一方国家や法律は、外からの力で一致させることがその本性です。このような条件の下では、大事なときに孤立を恐れない、別の言葉でいうとグローバルに考えているから、ローカルには対立者に見えるかもしれない状態を恐れないような、そんな人間が必要なのだと思います。(当然だけど、孤立すれば正しい、ということにはなりません。逆は真でないのです)。 以上は、13人の方々の書いたものを読みながら、ぼくが考えたことです。これに、先ほどあげたガンディーの本を読んで下さることを、再度お願いしておきます。
ガンディーが独立運動の旗印としたのは「チャルカー」と呼ばれる、手巻きの糸紡ぎ車でした。古来の生業に戻ることこそ、インドの独立にとって最重要と考えたからです。原爆を持つことではありませんでした。そういえば、日本人は黒潮の民と稲作の民の混合だと考えられているけど...
ともあれ、これで取りあえずこの部分は終わりとします。来週もまたよろしくお願いします。ではこれで。 ----------------------------
イマジン(ジョン・レノン作・平野試訳) 部族の暮らしに、----------------------------
天国とか地獄はないよ。
頭の上には、
青空があるだけだよ。
青空の下で、
今日を生きているだけだよ。 部族の暮らしに、
国家なんかはないよ。
国家のために、
殺したり死んだりなど、
想像もできないよ。
青空の下で、
平和に生きているだけだから。 こんなこと、
ぼくだけの夢なんかじゃないよ。
みなが同じことを感じているよ。
ぼくと一緒に感じてみようよ。
そうすれば世界は、
みんなの世界なのだと分かるよ。 所有するなんて、
ぼくらは想像もつかないよ。
欲張りとか飢餓とかも、
部族の兄弟姉妹には想像もつかないよ。
だって、世界は
みんなで生きるところなんだから。
The disconnect between last Tuesday's monstrous dose of reality and the self-righteous drivel and outright deceptions being peddled by public figures and TV commentators is startling, depressing. The voices licensed to follow the event seem to have joined together in a campaign to infantilize the public. Where is the acknowledgment that this was not a "cowardly"attack on "civilization" or "liberty" or "humanity" or "the free world" but an attack on the world's self-proclaimed superpower, undertaken as a consequence of specific American alliances and actions? How many citizens are aware of the ongoing American bombing of Iraq? And if the word"cowardly" is to be used, it might be more aptly applied to those who kill from beyond the range of retaliation, high in the sky, than to those willing to die themselves in order to kill others. In the matter of courage (amorally neutral virtue): whatever may be said of the perpetrators of Tuesday's slaughter, they were not cowards. Our leaders are bent on convincing us that everything is O.K. America is notafraid. Our spirit is unbroken, although this was a day that will live in infamy and America is now at war. But everything is not O.K. And this was not Pearl Harbor. We have a robotic President who assures us that America still stands tall. A wide spectrum of public figures, in and out of office,who are strongly opposed to the policies being pursued abroad by this Administration apparently feel free to say nothing more than that they stand united behind President Bush. A lot of thinking needs to be done, and perhaps is being done in Washington and elsewhere, about the ineptitude of American intelligence and counter-intelligence, about options available to American foreign policy, particularly in the Middle East, and about what constitutes a smart program of military defense. But the public is not being asked to bear much of the burden of reality. The unanimously applauded, self-congratulatory bromides of a Soviet Party Congress seemed contemptible.The unanimity of the sanctimonious, reality-concealing rhetoric spouted by American officials and media commentators in recent days seems, well, unworthy of a mature democracy. Those in public office have let us know that they consider their task to be a manipulative one: confidence-building and grief management. Politics, the politics of a democracy? which entails disagreement, which promotes candor? has been replaced by psychotherapy. Let's by all means grieve together. But let's not be stupid together. A few shreds of historical awareness might help us understand what has just happened, and what may continue to happen. "Our country is strong," we are told again and again. I for one don't find this entirely consoling. Who doubts that America is strong? But that's not all America has to be. (Susan Sontag)10月10日
今日も、21名の方のものを厳選して残しました。ご協力感謝します。全員の文を引用するのは時間的に困難なので、次のように分類します。便宜上の分類だから当然重複があります。気にしないで下さい。 (1)本能について(6名)
(2)群れ、動物園、「動物園」状態について(8名)
(3)近親相姦について(3名)
(4)その他(4名)
順番にコメントします。 「個体の維持と種の維持が背反関係にあることは理解できる。...この両者が均衡すると、群れになるのか?」(Ms. A)
前半はその通りです。後半は、必ず正しいとはいえません。動物が群れを作る理由は、この2つの均衡の結果とはいえません。ある場合には、群れで居る方が捕食されにくい(草食動物や回遊魚などの場合)、えさを捕らえやすい(食肉動物の場合)など、当の動物の「経済」に依存します。群れを作らない動物(いいかえると単独でテリトリーを持つ)ももちろん確認されています。
ただし、繁殖期にはもちろんどの動物も群れ(男女というか雌雄の)を作ります。これが平常の群れとほぼ同じ動物もいれば、繁殖期だけ特別な群れの動物もいます。小沢正昭『群の科学』(研成社 1991)という図書があることを教わりました。この本は、まだ10年しか経っていないのに絶版のようです。古書店ででも探すしかないようです。 「1)個体維持も種の維持も、動物と人間と共通している本能のはずだが、なぜ人間だけ欲望が増大するのだろうか。2)それとも、動物も欲望は際限ないのだろうか。3)本能や欲望は、文明とどのような関係があるのだろうか。キリスト教に関係があるだろうか」(Mr. B、分類は平野)
1)は基本的に重要なことです。つい最近まで「人間は動物と違う」と、哲学者・科学者は平然と公言して来ました。実際には、現在もこのような人々が多数派を形成しています。この人々によれば「違うから、人間には食糧問題など存在しえない」「人口問題もありえない」なのだそうです。
何故違うのかと聞かれれば、この人々は「何故なら人間は理性的だから」と答えてきました。「理性的だから、食料も人口も資源も、科学的政策が(いいかえれば国家が)解決してくれる」と公言していたのです。逆に表現すると、「共通している」のではないかと認めざるをえなくなったのは、それだけ地球破壊が激しくて、このように公言できなくなったからです。
2)この問いは、人間以外の動物に関しては実は無意味です。野生では起こりえないことだからです。ライオンの群は、大型草食動物を倒すとすべて食べ尽くそうとします。(実際には他の動物に奪われて、全部食べられないことの方が多いと聞きますが。)食べ尽くしてしまえば、数日は寝て暮らします。なぜなら、それ以上捕獲のためにエネルギーを費やすのは無駄だからです。
ゾウアザラシのような大型海獣のなかには、数十頭の雌のハーレムを持つ一頭の雄がいるものがいます。しかし「数十頭」は「無際限」ではありません。またこのような雄は、早晩他の雄との争いに負けて追い出されます。
このようなさまざまな意味で、「欲望に際限がない」という命題は無意味になるのです。実は、人間もごく最近まで(2百年ほど前まで)欲望が際限ない、ということはありませんでした。市場経済の発達とともに、際限がなくなったのです。20世紀になると、大量生産工業の生産力が増大し、同時にこれを経営する企業の利潤への欲望が「際限なく」なり、それを支えるために、「欲望に際限のない消費者」が作り出されたのです。
3)直上のパラグラフが、このお答えになると思います。一般論としては、「文明は人間という動物の自然が持っている安全装置を外す」ものだったのです。人間の持つ自然は、英語でいうと「human nature」ということになります。ところがヒューマン・ネーチャー論というのは、不思議なことに、先に書いた「理性」の理論です。自然でないものを自然とみなすにあたって、ご質問のキリスト教は多いに関係あります。 「見えない鉄格子に囲まれた...私たちも、誰かに見られ、観察され、笑われているのだろうか」(Ms. C)
これは、質問というより自嘲でしょうね、多分。きっと見ているのではないだろうか。すくなくとも自分は見ているでしょう。このような自嘲と取れる文章が、他にも数名いました。
関連して、フーコー『監獄の誕生』および、同『狂気の歴史』(ともに新潮社)という有名な本があります。ぜひ多くの人が読んで、彼はどう感じながら書いているかお考え下さい。 (2)群れ、動物園、「動物園」状態について、の中に分類した意見や質問は、ほぼMr. B、Ms. Cへのコメントに該当しますので、以上を参照して下さい。 次に(3)です。「野生動物には、結果として近親相姦が起きないということだが...偶然起きるということはないだろうか」(Mr. D)。
なるほど。いわれてみると、偶然起きるということはないとはいえませんね。ただ、次のような計算をしてみて下さい。ある雄が20頭の雄の群に入り、姉/妹のある雌が20頭の雌の群に加わったとします。このとき、両者が偶然遭遇する確率はどの程度だろう。もちろん400分の1です。この程度の群でも、あまり高いとはいえないのではないだろうか。
「動物に、親族を識別する能力があるとは思えない。それでも近親相姦が起こらないというなら、そこに彼らの意志を求めなくてはならない」(Mr. E)
「彼らの意志」とはどのような意味だろうか。動物の意志、という意味だろうか。それはすこし言い過ぎかもしれません。人間に適用される「意志」という言葉は、動物にはおよそふさわしくないからです。この獲物は仕留めてやろうというような「行動の持続性」は、野生動物にはもともと備わっているもので、人間はこの辺が怪しいので、とくに「意志」などという哲学用語を使うにすぎないのだから。
そうではなくて、一種の文学的擬人化としてなら、「彼ら」は「自然」ということになるでしょう。「そこに自然の意志が感じられる」。これなら、表現として理解できるものになります。擬人化が明白だからです。文章は正確にお書き下さい。
なお、この機会に近親相姦が原因となって発現する遺伝子的疾患のようなものを例にして、現代の生物学がどのような計算をするかを紹介しておきます。
あるn個の遺伝子の欠陥からこの疾病が起きると仮定します。父親がこの欠陥を持っていると仮定します。男女一人ずつの子供に、この欠陥が伝わる確率は、2分の1のn乗です。n=1の場合がもっとも確率が高くなりますから、nを1と仮定します。
この場合、この男女から産まれる子供がこの欠陥を持つ確率は4分の1です。かなり大きな確率というべきでしょう。
このような親族間の交配を習慣とする群がもしあったと仮定します。この場合には、このような交配を習慣とする群は、他の群に比べて生き残る可能性がかなり低くなります。早晩絶滅するともいえます。このことを擬人化して「自然の意志」と表現するのなら、さらに事柄は明確になるでしょう。 (4)その他。
「数日来の米国・英国によるテロ報復軍事行動について、社会学者として賛成か反対か。また、小泉首相の行動に対してはどうか」(Mr. F)
ずいぶん重いご質問ですが、折角なのでお答えします。テロを肯定するわけではないが、テロへの報復軍事行動なら正当化されるとは思いません。国家意志の発動としての戦争を、許容できません。この点では「憲法9条」を、ぼくは文字通り重視します。
小泉首相の行動に関して。上記からお分かりのように、賛成しかねます。講義を聴いてお分かりのように国家とはグロテスクなもので、小泉個人という存在は、あるようでなくなるのです。詳しくは権力に関する講義で補足します。首相として、彼は「テロ報復戦争を全面的に支持する」、ただし「憲法9条は尊重する」という両面の発現を公式に行っています。この比重が逆であればと、ぼく個人は希望します。
なお、小泉発言は国家を代表した発言だから、1)「近代国家の理屈として」、主権者であるF君の発言でもあると見なされること、2)結果のツケは、国債赤字と同じように国民にまわること、の2点について、とくにF君をはじめ皆さんの留意をうながしておきます。
「社会学は法を歴史的に分解して、その下にある法則を探る学問だろうか。それは生物学のやることではないだろうか」(Mr.G)
ぼくはこれを、逆だと考えます。「法を歴史的に分解しその下にある法則を探る」ことなら、もっともその知識があり、またはなければいけない学問は、社会学だと考えるということです。現状の生物学者は、このような「歴史を分解する」準備は「まだ」できていないと考えます。まだ、という部分を強調したのは、霊長学者の中には、霊長類ホミニード学として、社会の研究も包摂すべきだという動きがすでにあるからです。
仮にこのような方向に学問が進歩するとして(ぼくはそれほど先とは思っていません)、ではその時に社会学は何をやりますか。法を分解せず、法の枠の中で「どうすれば一夫一婦制をよりよく守らせるか」とか、「どうすれば社会保障費赤字のための増税を守らせるか」とか、「どうすれば日本人をイスラム教徒嫌いにするか」、などを研究しますか?
現に社会学はこのようになりつつあります。これ以上つきあうのは、百害あって一利ないと思います。社会学は実学ではありません。同時に、今世紀は〜学といった枠の限界が、見誤る余地がないほど浮き彫りになると考えます。 最後に、次のような文章を引用します。「...あまりに国家が当たり前すぎて、法律の範囲内で生きることに疑問を持たないでいるのだなー。...制限されていることに、あまり気付いていないで、それなりに欲望を満たしながら生きていられるのだから...」(Ms.H)
ホント。Hさんの言うとおりだね。これがぼくたちの自画像だね。顔を鏡に映すとこんな顔ばかりだね、きっと。
ではまた来週。なお、次回から「社会学理論関係図」を使用しはじめるのでお忘れなく。10月3日
今日から開講しました。早速今日の諸君の疑問等にお答えします。まったく便宜的ですが、識別の都合上男子と思われる方を「君」、女子と思われる方を「さん」とします。何人かの方から雑談が面白かったという意見をいただきました。これは例年になかったこと――例年、雑談はやめて本題だけ話してくれといわれていました。きっとみな、急いでいたのだね――なので、ひとこと触れます。今年は急いでいる人がすくないとうれしいなと、希望しています。
さらに数名の方から、「やっぱりプリントを配ってほしい」という要望がありました。正直いうと、ぼくはプリント大嫌い人間なのです。
実はぼくは、医学部から転向して文学部の社会学に入りました。そのせいかどうか、講義は雑談ばかりに耳を傾けていました。
あるとき、日高六郎さんという高名な社会学者が講義のなかで「今日は都電のなかで永井荷風さんを見かけました。はじめはみすぼらしい老人とおもって何げなくふと見たら、顔から目が離せなくなりました。やっぱりあのような方は、お顔が違うのだね...」と話されました。
都電でどこにいらっしゃるところだったのか、隅田川の向こうの遊郭にでもいらっしゃる途中だったのか、などと想像しました。この講義1年間で覚えているのはこれだけです。「...」のところで、日高先生がどんな話をなさったか、申し訳ないけど皆目記憶にありません。
考えてみると、大学生に聞いていただける雑談ができるというのは、ある意味で社会学の精髄なのかもしれません。これは迂闊に雑談できないなと、今日は反省しました。今後ますます修行しますのでよろしく。また、皆さんも焦らず急がず、つきあって下さい。
ただし、必要な場合には使用します。それも、ファイルで渡します。で、早速ですが、「社会学史」を概観する際に必要なので、つぎのリンクから「社会学理論関係図」というのを、早めにダウンロードしておいて下さい。このまま印刷もできる「*.pdf」です(横位置に印刷して下さい)。 無名氏から「ゴリラの世界でも争いが生じれば、そこにおのずと『しきたり』や『上下関係』などの『法』が生まれるとはいえないでしょうか」。
ジェーン・グッドール『森の隣人』その他、霊長類研究を参照して下さい。行動様式の変化が生じることはありうると思いますが、これを「法」とはいいません。なぜなら「法」ではないからです。(それより、どうぞ次回から氏名を書いて下さい。)
関連して、「動物園で飼育されているゴリラには『ゴリラの社会』があるだろうか」(a君)。
もちろん、ないと思います。野生のなかで出現する「社会」の可能性を、根こそぎ人間が奪っているからです。ここからの延長として、人間の作る「国家」が人間本来の「社会」の成立基盤を奪うと講義で述べたことは、「近年の人間が最大規模の動物園動物だ」と言っていることと同じです。
動物社会の学問的研究は、動物園を離れることによってはじめて可能になりました。ということは、人間社会の学問的研究も、動物園状態を離れることによってはじめて可能だ、ということにもなります。ぼくたちの深刻なジレンマですね。
b君の上記の問題に関連したものが、aさん、bさん、cさんなど、数人から寄せられていました。 「社会という言葉が中国語から来ているのは意外だった」(b君)。
田仲一成『中国演劇史』(東大出版)、p.37-40、その他(索引を使用すること)を参照して下さい。この書物は、さまざまな観点から重要な学問的業績です。ぜひ通読してみて下さい。
同様のものが、c君、dさん、eさんなど数人から寄せられました。たかが語源と考えずに、重要な手がかりになるとお考え下さい。 「人間の人間たる所以は言葉を使うこと...人間を規定する国家のような抽象物は、言葉を使うことによって生まれた可能性がある...」(d君。やや読みにくかったので、正確に再現できたかどうか自信がないです)。
同じような考えは、有力な説としてあります。ただし、証明されていないと思われます。一例として、福井勝義『東アフリカ・色と模様の世界』(人間講座テキスト NHK出版)をご覧下さい(この本は2000年の優秀作品です)。この色と模様の牛を、あの色と模様の牛と掛け合わせると、どのような色と模様の牛が生まれるかを、ボディ族のひとびとは正確に知っているそうです。これは一種の抽象的思考とは言えないだろうか。
もっと突き詰めてみることもできます。草食動物(たとえばエルク)が、捕食動物(たとえばライオン)の声を聞くと、姿が見えなくとも、まして襲われなくとも、逃げ出します。これは、現に襲われていないのだから、広義の抽象とは言えないだろうか。
一般に、時間的な、いわゆる因果関係を認識できることは、人間のような言葉をもっていなくても、野生のなかで生きのびるものには不可欠の身体的条件です。この意味の「抽象力」なら、野生動物の方が、人間の言葉など遠く及ばないほど優れて身につけています。では、人間の言葉の抽象性とは、何を指して言うのだろうか。
d君の論点は、重要な手がかりを与えますが、これだけではまだ不十分のようです。
逆の例も上げてみます。「法人」という言葉があります。「特殊法人」とか「株式会社は法人」などのように使用する、法律用語です。この言葉は、人と同じように「所有権」「売買権」などを行使してよいと「法がみなした人」の意味です。これには血も通っていないし、子供も産まれないから、明らかに別の抽象です。「国家」というのも、国際法・国際関係がみとめる抽象物です。こっちの方の、いわば役人的な抽象に関しては、参考までにカントーロヴィッチ『王の二つの身体:中世政治神学研究』などの歴史研究があります。あまり一般的書物といえないので、ひろく薦めるつもりはないですが、ヨーロッパの神学が悪さをしていることは、読めばわかります。
それはともかく、最初に上げた抽象と、最後に上げた抽象と、たぶん二つは別のものですね。どうぞ、このように順を追って、具体的に考えてみて下さい。 この他にもまだ取り上げるべき方々が、あと倍以上いましたが、ぼくの「日記?」の方に記載して、ページに記載するのはこれで一応一区切りとさせていただきます(ご免なさい。研究室を出ないといけない時間--11時--になったのです)。ともあれ、多くの方々のご協力に感謝します。ではまた来週教室で。
12/06
今週は書いてくれた方々がわずか11名でしたが、そのどれもが回答やコメントに値する興味深いものでした。感謝します。
この機会に、これらの方々を含む全ての諸君に分かっていただきたいことがあります。ぼくが後期になって、水曜日のあらゆる予定を全部返上してこれを書き続けているのは、カリキュラムと単位と...に拘束されながら成立している「制度」の一部であはあるこの講義を、単位でもなく教授と学生群でもなく、可能なぎりぎりまで一対一の対話に近づけたいからです。人々にはすべて固有の特徴があります(個性といいたいところだが、「個性を育てる教育」のように、この言葉も汚染されて使いたくないのです。)これを考えると、ぼくにはこのような方法がどうしても必要だと思われるからです。どうぞ全ての諸君が、ここに問題点を寄せてくれた諸君の論点およびそれに対するぼくのコメントを、自分の問題として把握していただきたいと願って止みません。 では本題です。「(1)アイデンティティをDNAに求めるのも一概に正しいと言えないというか、"それを言っちゃお終いよ"という感じがする。(2)"私は私のDNAです"という命題は、"私は私"と答えるのと同義で無意味なように思える」(Mr A 番号は後で付加した)。ぼくはこの文章を3回読んで考え込みました。特に前半に関して。今でも考え続けているが、とにかく重要なので答えてみます。 その前に、後半(2)は前半の補足的意味でしか考えておられないと思いますが、おそらくA君が気付いていない別の重要な事柄を書いておきます。「哲学」、」なかでも「論理学」では、「同義反復の命題」にたどり着くことこそ最高の目標とされます。何故なら「a は a であってそれ以外でない」という命題は、これ以上説明を必要としない究極概念なはずで、「ここからなら安心して」 a に関連する現象面の問題を論じることが出来るとされているからです。同義反復までたどり着く根本的存在を「実体 entity」と呼びます。ここから出てくる応用的命題は「属性」と呼びます。 ということは(A君の意図と違うのではないかと思いますが)「私とは私のDNA配列である」という命題は哲学者が探し求める「実体」そのものと等価であり、(ぼくが意図したのは哲学ではないですが)、「生命とは何か」という科学の問いの最終解答ということになります。実際ぼく自身、このような最終解答を意図して教室で提示しました。 それはそれとして、ぼくが今も考えあぐねているのは前半(1)です。「そこまで言っちゃお終いよ」というのはどのように受け取ればよいのだろう? 通常このような口頭表現は 1)他人の体面をつぶすから礼儀として避ける、という場合の表現です。子供に「君は子供ではないか」と言っては体面を傷つける恐れがあるから「君もいずれ大きくなったら分かる」というべきだ、と言うように。ぼくは大学生は成人ばかりと思っているから、まさかこの意味ではないですね、多分。 というわけで、A君の真意がそこにあるとはぼくには到底考えられません(考えたくない、という方が正確か)。それに、礼儀上の配慮から真実の手前で止めておく、などという講義が大学にあっていいはずはないし...。 つぎに考えられるのは、2)「個人とは理性的存在である」とか、「個人は消費者として自由である」とか、「個人は自由意志による契約によって企業と雇用関係を結ぶ」とか、「すべて国民は、個人として尊重される(憲法13条。これに但し書があるのでそこも読むこと)」とか、どれかは問わないとしても、このような次元で命題を立てるべきだとA君が考えている、という場合です。しかし、それなら哲学なり経済学なり...の教科書を読めばすむことだから、ぼくがわざわざ講義する必要がないことになるのだけど...。 このように書きながら、言論に統制があるからそこまで言うべきでないという、いわば「政治的」配慮をしなくていいことにぼくは感謝しています。
しかし逆に言うと、2)のようなところで思考を止めておこうと思うのならら、統制ではないけれども、常識に遠慮して「自己規制」をしていることになります。上の命題は、例えば「就職試験」の作文ならすべてOKで、就職試験の時にはどんどん遠慮なくおやりになることをお奨めします。その他のただの常識の場でも充分許容はされるでしょう。だが、これらはすべて、先週お話ししたパレートの言葉を借りると「派生体」に過ぎません。これらは、私たちが現に住んでいる「人類が生存し続けられるかどうか」が疑問視さえされるようになった現代社会を作り上げた根源となった制度群です。2)もやはり取れそうもない。すくなくともぼくには。 3)その命題は分かっている。そうではなく、色々な「科目」や「学問」があるのだから、その問題は例えば自然科学や生物学に任せればよい...。これだろうか。ご存じのように、ぼくの考え方はこのような科目や学問の壁はない方が正常だというところにあるので、これならA君とぼくとは正反対の学問観だ、という「普通の」やりとりで終わらせることが出来ます。ここから先は「You go your way, I go mine.」ということになる。ただ、この場合には、できれば学問は分割する境界がぜひあるべきだ、という積極的根拠を聞きたいところですが。 というわけで、いまだにぼくはA君の真意を計りかねて悩んでいるのです。(悩んでいるのはぼくのDNA配列がかぶっている、ぼくという人間の外皮に中の、脳味噌が、ということです。DNAは悩んでいません、もちろん。)「私、というのは心理的なものだと考えないと、説明が付かなくなるのかな...」(Mr B)。B君の千里眼は、悩んでいるのはぼくのDNAなのかぼくの心理なのかを見通して、救い船を出してくれているような...。「私とは心理的概念だ」と。もちろんぼくは、「私」に精神があったり心理があったりすることを、別に否定しようと思いません。しかし、A君とのやりとりで悩んでいるのはぼくの精神であり、悲しくなったり嬉しくなったりの心理は、ぼくにはどうでもいいですけど。 B君の主たる疑問はぼくへの助け船であるよりは、つぎのことです。「私=DNAだとすると、クローン人間が生まれると私の定義は一体どうなるのだろう」(Mr B)。当然、「私」が複数になると思います。 『生殖と世代継承』の著者フォックスは、SF作家クライトンに従って「死亡して財産がとっくに相続されてしまった億万長者とその愛人の胎児が、冷凍され、遺産相続から除外された億万長者の姉妹の娘の胎内に、わざと移植される」ようなケースに、人工授精を是認する現在の法はどのように対応するつもりか(p.185)、と深刻な疑問を投じています。 もっと陰鬱な事例も考えることができます。クローンによって生じた「複数の私」は、上記憲法13条の規定する「個人」に相当しないから憲法上の権利が付与されない、という解釈が成立しかねない。もし成立すると、こうして貧乏人のクローンの「私たち」を、無権利の労働者(というより奴隷)として働かせてもかまわないようになる、といった場合です。(「まさか」と思うかも知れないが、今世紀になって人間は世界戦争で一度に何千万人を殺戮したり、産業廃棄物にしかならない不要なモノを「消費」させ続けたりしていますから、いまや人間は「まさか」さえ通用しない最低の動物だと思っておく方が安全です。) ぼく自身は、このような危険性を秘めたクローニングを認めるべきでないと考える人です。「世間で話題になっている人工授精やクローンなどにように人工的に手を加えられた遺伝子というのはどう考えればよいか考えてしまいます」(Ms C)。Cさん、上記がぼくの考え方です。 「(人間というものは)前の代と同じものを作り、同じところに住み、同じような生活を送ることができない存在なのだろうか」(Ms D)。現代に住んでいるとそう考えたくなりますが、このような状態はたかだか200年、もっとせまく取ると最近50年間に出現した、異常な状態と考えます。 エヴァンズ=プリチャードが『ヌアー族』に出会ったのは1940年頃です。レヴィ=ストロースがアマゾン流域のボロロ族をはじめとする裸のインディオ社会に遭遇したのはそれからわずか後です。口蔵氏がマレー半島の狩猟採集民と出会ったのは1980年頃です。ぼくらの方が異常なのだ、というのがぼくの判断です。 なお、レヴィ=ストロースには『ブラジルへの郷愁』(みすず)という大判の素敵な写真集があります(『悲しい熱帯』という本は、すでにご存じと思いますが。)この機会に一覧を奨めます。人間はもともとかつての生活に戻る、いわば自然治癒力を持っていました。現代になって、市場経済と国民国家の同盟はこの作用を破壊し、私たちのような異常な生活を世界中に強制しないと、自分たちの「豊かな社会」が維持できなくなっているらしいです。壊れたクルマの暴走のようです。 「社会学の先生として、何を目指しているのですか?(あくまで個人的な意見です...)」(Mr E)。個人的意見などと断らなくても、ぼくはE君の善意をすこしも疑っていません。ここまでお読みになれば、答えは想像していただけるのではないだろうか。「壊れたクルマ」といいましたが、壊れる前はクルマはどうだったのか。なぜ「壊れた」のか、を分かってもらうことが「目指す」ものです。なぜなら、社会学はもともとこの疑問から成立したからです。 「個体は生きようとするがホモ=サピエンスは(個体が)死ぬことを前提として(自然選択の中で)存在する。...だとすれば〔国家のために死ね〕という論とは、どこが違ってくるのだろうか。これはクローン問題とも関わるが...。」(Ms/Mr noname)。実に面白い論点ですね。この方お名前を書くのを忘れたようです。仮にFさんとします。ぼくの想像では、Fさん自身は解答を持っていて確認をもとめているのだと思いますが、あえて答えてみましょう。 その前に、ある点ではFさんへの解答であるような見解がありました。「細胞が死んで個体が続く。人間が死ぬということが...(社会が続くことになる)と考えると、有機体ということを強く感じさせる」(Mr G)。この通りです。 だがとにかく直接答えてみます。ホモ=サピエンスは自然の中の「種」を指す集合概念ですから、「死ね」と命令するわけではありません。これに反して、国家というのは一見集合概念のように見えながら実は命令し、強制する作用を持つ存在です。国家がただの集合概念でなく人工的な強制装置だということは、裁判を見れば分かります。ただの夫婦喧嘩でも、裁判に進めば国家の存在が露骨に見えます。(Fさんがそのようなことに遭遇する機会が少ないことを願っています。) 「1)国民国家と市場経済がセットとなったということは、市場経済も機械的ということか。2)市場経済は環境(の存在)を前提としていないというのはどういうことか」(Ms H 番号は後で付加)。 1)はその通りです。市場経済は人工の機械です。これに18世紀に強く異議を唱えたのは、マルサス(Robert Malthus)でした。食料をフランスから輸入すれば英国経済がさらに繁栄するとしたリカードに、強硬に反論しました。彼の『人口の原理』は、ある土地(環境)が扶養できる人口には自明の限界があると論じた、重要な作品です。何故か、以後200年無視されています。どうぞ無視しないよう記憶に止めて下さい。 2)マルサスの強い反対にも関わらず(英国市場経済の繁栄のために?)穀物は輸入が自由化されることになりました。この時から、市場経済は今日まで一貫して拡大し続け、今では手におえない怪物に成長しました。「環境に配慮した市場経済」というのは形容矛盾だと、ぼくは断言します。地球環境に配慮するなら、市場経済を、年次計画で数値目標でも立てて、全力で圧縮していくしかない現状だと認識しています。
ついでながら、市場経済が人工機械であることを経験したければ銀行から金を借りて踏み倒してみればどうかと考えます。「国民国家と市場経済のセット」が牙をむいて向かってくるのを体験できるでしょう。
最近、踏み倒して向かってこられるどころか、税金で補てんしてもらえる不思議な現象が起きているようです。このような「おいしい」話がHさんに起きるとは思えませんけど(万一起きたら、受講生一同協力して最善の還元策を考えてあげますから、すぐに知らせて下さい)。冗談はともかく、市場経済が人工物だからこうなるのです。(これに反して、自然選択はあらゆる動植物に平等です。) 「民放のニュースで日本語の字幕が出るのが不愉快で...つい公共放送にチャンネルを回してしまう」(Mr I)。本当に同感です。ぼくも民放から公共放送、公共放送からBSと逃げ回ってニュースとドキュメンタリーばかり見ています。耳の不自由な方のためだと、ある時期までは自分をなだめてきたのですが、最近は全然そんな程度ではないですね。 前回マクドナルドのマニュアルについて教示いただいた方(Mr J)から、より詳細なマニュアルの内容について、重ねて教示がありました。立地や顧客の種類に合わせて「店の個性」が出るように工夫してあるから、もっとよく観察するように、との示唆もいただきました。あまり長くも引用できないので、事実のみご報告します。 「多様性を失い単一化した社会では、環境の変化に耐えられないと考える」(Mr K)。そうなのです。「進化」とは多様化を不可避的にともなうのです。にもかかわらず、国民国家と市場経済は単一化が進むほど繁栄する仕組みになっています。皆が同じものを「消費」するほど繁栄するのです。この「消費」が、生物的意味の「個体の維持」にも「種の維持」にも関係ないものであることは、数週間前の講義で述べました。工場で大量に作ったものを「買わせる」。これを「消費」といいます。「内需の促進」とは、この消費の拡大のことです。 来週は「個体の維持」と「種の維持」とについ触れ、それをめぐって成立する人々の群の姿についてお話しします。ではまた。11/29
11月30日(木曜日)夜に未完の部分を書き加え、その時何カ所かに、加筆修正をしました。相当変わったので出来れば読み直して下さい。 どうでもいいことと思うが「この授業のテストはどのようなことが問われるのでしょうか」(Mr nobody)。お答えしたいけどぼくも分かりません。答案用紙に印刷する「課題」というものの提出を求められるのは、おそらくこの講義が終わってからのはずです。それまでぼくは考えないことにしていますので、あしからず。毎週自分で考えて紙に書いて下さる諸君の好意を汲み取りたく、オンライン講義の内容も反映させたい、とだけ考えています。
ついでですがぼくのやっているのは「講義」です。大学でやるのは「授業」といいません。お間違えなく。 この方以外のものはみなお答えするに値するとしたものです。全部は無理かも知れませんが、なるべく多くを引用しコメントします。講義の後半は書いて下さる方の数が減少し(これは毎年のことです)、今週も15名でした。 マニュアルに関するものが4名と数がまとまっていたので、まずこれから。「マニュアルはある程度は必要だと思う。むしろまわりに流されないで生きていく自分にとって必要不可欠かも知れない」(Mr A)。「働く側としてはすぐに要領がつかめて便利かも知れないが、客の立場になると画一的な気がする」(Ms B)。「人間とはマニュアル人間のように人格性を破壊されることに喜びを感じる存在なのか?」(Mr C)。「マクドナルドでバイトしているが、個性を重視した行動、というものもマニュアルの中に書いてある」(Mr D)。 うーん、最近バイトしてないので参考になります。マニュアルの中の「個性を重視した行動」ねー。会社も気を使うのだね、きっと。マニュアルに「反対を表明する必要があるマニュアル社会」なのですね、現代は。 A君とBさんの見解は両極なので、このままだと見解の差に過ぎないように見えます。しかし、マニュアル問題だけに即してではないが、つぎのように事柄の核心を突いた見解もありました。
「人格性がなく、単一であることが、管理する側にとっては管理しやすいと思う」(Mr E)。歴史的には、これこそが問題の核心です。マニュアルは、何はともあれ「管理する人」のために存在します。この意味で、マニュアルは一種の「権力の具」です。国民がこれに喜んで従ってくれれば、権力者としては多分こんな嬉しいことはないでしょう。 近代工業社会以前には、人間から「人格性」を奪うことはそれなりにやりにくいことでした。前時代の名残りがあって、人間の側が急について行くことに強く抵抗したからです。工業社会になって、真っ先に人間から「人格性」を剥奪することに成功したのは、意外かも知れないが米国でした。民主主義の母国は、実はマニュアル人間製造の母国でもありました。 T型フォーフォを作った「フォード・システム」というものについて、耳にした人がいるでしょう。チャーリー・チャップリンの映画『モダン・タイムズ』の世界です。この中で働かされた人々は、多くが移民か黒人でした。この人々は、他に生きる道がなかったのです。このような人々が出現した背景を知るには、工場制工業というものの正体を知る必要があります。 工場制工業とは、人間が、人間の作った機械とだけ向き合って働く生産制度です。機械は「大学出」の技術屋さんが作り、管理します。自然界の法則性は作用しなければしないほど、同じ規格のものが大量に作れます。しかも機械は高価なので、コストを下げるには人件費を削るしかありません。低賃金の規格的労働が、現代の大量生産工業を支えることになりました。1911年の「フォード・システム」は、この先駆けだったということです。 工場制工業の中で働くこのような人々を、「不熟練工」あるいは「単能工」と呼びます。パソコンと比較してゲーム機を考えてみて下さい。パソコンは「万能機」です。ゲーム機は、CPUもメモリーもちゃんと備えていますが、ゲームしかできない「単能機」です。他に使い道はないですが、ゲームをやるにはこっちの方がやりやすい。ではこの時「管理する人」は誰でしょうか。もちろん「ゲームをやっている人間」でしょう。 しかし、PCだろうがゲーム機だろうが、機械は機械です。一般に機械は人間を「単能化」し愚かにします。ぼくはPCも教えているから自信を持って断言しますが、PCをやって賢くなる人間などいません。賢い人間が優れた目的のためにPCを使用することは、可能です(社学でやるPC実習はこのような主旨です。)だが逆は決して成立しません。逆が可能なら、人間を作るよりロボットを作った方が効率的なはずです。 最近「極める」という妙な流行語があります。極めたものを「達人」とも言うようです。PCを極めるとか、ラーメンを極めるとか、証券投資を極めるとか...。愚劣な表現です。藍染めの道をきわめるとか、優れた漁師になる道を究めるとかなら、正しい表現でしょう。相手は自然ですから「マニュアル」化できず、一生終わりはないでしょうが。反対に流行語の「極めた」「達人」とは、マニュアルをマスターした人のことです。 フォードシステム以後一世紀たち、人工物を作る同様なシステムは耐久消費財、さらにはありとあらゆる「消費」生活に浸透しました。新しい消費財が出る度に、人間の単能化は進む一方です。大学の教科書というのは、早い話が大学のマニュアルですetc. etc....。大学のマニュアルは『履修要項』だけにしませんか。 以上を承知の上でなおかつマニュアルに従って生きたい、というのはその方の自由です。ぼくは「リストラに気をつけてね!」という程度で、異論はありません。
もっとも、別の点で若干疑問を感じることはあります。大学はこのような人のためにあるのか、それとも正反対の目的のためにあるのか、ということです。 ぼく自身は、もちろん後者の見解を取ります。何故かの理由は簡単です。「マニュアル」は「規格」を決めるものですから、規格は厳しい方がよく、かつ規格に合わない人間は「プロクルステスの寝台」のように容赦なく「切り捨て」ないと、意味がありません。あいにくぼくは、大学=人間切り捨て制度だと思っていないだけです。 「私が高校生の時は援助交際が最盛期で、ただただ理解できず...個人的倫理感を訴えるだけでなく...なぜ援助交際はいけないかを論じられるようになりたいと思っていた...(ぼくは)このことについてどう思っていたか(個人の自由と思っていたか)」(Ms F)。そういえば、援助交際がどうのこうのと言っていた社会学者がいましたね。宮台何とかと言ったっけ。それはともかく、ぼくの答えは上の中から読みとってもらえませんか。大学=人間切り捨て制度と思っていないから、ぼくは「援助交際者(または経験者)は大学に入るべからず」というマニュアルは持っていません。 これだけでは物足りないかも知れないので、付け加えます。「制度」の話をした際に言い忘れましたが、いかなる「制度」も最後には、人間次第で事柄の善し悪しが決まります。逆はありえません。想像にすぎないけど、援助交際と十把一からげに呼び捨てられているものにも、実にさまざまな姿があるのじゃないだろうか。援助交際とは関係ない話だが「誕生日にもらうのは、やはり金より心のこもったプレゼントの方があたたかみを感じる」(Mr G)という方もいました。しかしこれを仮に誕生日の贈与という制度だと考えると、あたたかみを感じる場合と、同じものをもらって困る場合とあるから、ケースバイケースの判断もなければ困るのではないだろうか。ある行動一般を援助交際と呼び、そのような行動一般を反社会的(または逆に自由意志による)行動とするのは、これも一種のマニュアルに過ぎないのではないだろうか。もちろん、Fさんがかつて見聞し理解できず困ったという事例は、深刻だったに違いないと想像しますけど。 Fさんによると、最近は「ダサイ」として廃れつつあるそうです。きっとそうでしょう。やらなくていいことをだらだら続けるほど、人間は馬鹿じゃないから(生活のために止められない売春は深刻でしょうけど)。それより、別のことが気になりませんか。「援助交際」とか「いじめ」とか「家庭内暴力」とか「学級崩壊」とか、この手の「社会問題」が泡のように浮かんでは消えるのを何か変だと思いませんか。これらがどうでもいいとは言いませんが、ハーグの二酸化炭素削減会議とか、六〇〇兆円の国債赤字とか、軍事基地問題とかはなぜもっとつねに問題になり続けないのでしょうか。ぼくは変だと思います。国家の統治能力の喪失はこんなところに見ることが出来ます。「援交非難マニュアル」や「援交マニュアル」は理解させやすいけど、後者にはマニュアルは存在しないのです。国民も「援交けしからん」マニュアルや「援交自由意志」マニュアルなどは分かりやすいから、結構最も深刻に重要な問題点のイチジクの葉として機能するようです。Fさんには、できたらこっちの方の問題を考えていただきたいです。 「貝殻が貨幣ではなく儀礼に使用される事実は意外に感じた」(Mr H)。詳しくはマリノフスキー(B.Malinowski)をお読み下さい。表題は忘れましたが『世界の名著』(中央公論社)の中に邦訳があったと記憶します。しかし、同じような習慣はごく最近まで日本人もやってきました。お正月には「おせち料理」を近所で交換したり、建前の時には餅をついて配ったりしていました。「引っ越しそば」という習慣もありました。引っ越ししてきた人が、町内にお蕎麦を配るの習慣です。これらも儀礼です。我々が儀礼と気付かないうちに高度成長期に入り、今ではすっかりなくなったようです。東京を遠く離れれば、生きているところがあるかも知れない。 もっとも、このような習慣はマクドナルドのマニュアルについて教えてくれたD君が最後に書いているように、隣近所が生活を共にしている実態があってはじめて生きてくるので、習慣だけで続くわけではないから、首都圏からはなくなるが当然といえば当然だが。 「...盗むな、というルールがモラルでは決められないなら、これを定めた法律の第一号はいかにして万人に認められるに至ったのか」(Mr I)。I君の疑問は文章が揺れていて、やや内容が取りにくいが、多分書き直すと上のようになると思います。まず、第一号が「法律」だったかどうか疑問です。もっと広く「掟」や「不文律」だとしたら、回答は簡単といえば簡単、困難といえば困難です。 まず「簡単」の方から。きわめて長い(千年とか万年とか)単位の「自然選択」の歴史を考えて下さい。その上で、もし人間のあるグループが「隣人のもの盗み放題」だったと仮定してください。このグループはおそらく「自然選択」の中で生き延びることができないでしょう。そうでないものだけが生き残った、ということです。 たいへん興味深い寓話を、モンテスキュー(Montesquieu)が『ペルシャ人の手紙』(岩波文庫)という小説の中で書いています。「トログロディット」人という部族がいました。この部族では「盗み放題」でした。その中で端の方に住んでいたたった一家族だけが、「盗まない」ようにしてきました。トログロディット人は自分たちの行動のせいで殺し合い、全滅しました。後にこの一家だけが残りました...。こんな内容です。 つぎに「困難」の方です。お分かりのように、このような長い(しかし重要な)歴史の中で、どの土地のどの部族が絶滅したのか、知ることができません。考古学がよほど進んでも、このグループは「盗み放題」のために絶滅したことは間違いないと断定できる遺跡を発見することは、至難の業でしょう。これが「困難」の方の理由です。もっともマヤ文明の中には(コパン)、最近の研究から、都市に集中した住民が重症の栄養失調に罹っており、これが滅亡の原因の一つだったのではないかという学説が提出されています。権力者(王)は民衆から「盗み放題」、民衆はアンデスの自然から「盗み放題」...のように考えると、上にぼくが書いたことは単なる空想ではなくなります。 パレートに関連して「内閣不信任劇」を思い出したという人から、「生存のエネルギーから制度や国家が生まれる。その制度や国家に動かされる人間もいるはず。その人間たちの存在も後々から見ると人間の歴史になる。(こういう理解になるが、いいか?)」(Ms J)。これはよく考えられた重要な問題点なので、理解しやすいように質問の意味をぼくなりに言い換えてみます。 歴史を動かすのは制度(派生体)でなく残基であるとされる。ところが、制度に動かされる人間というものもいる。そこで、これも歴史の一部だと考えると、派生体も歴史の一部ということにならなり、最初の命題が矛盾にならないか?多分このような意味でしょう。Jさんの「制度」に動かされる人間が、どの範囲を指しているのか(具体的には加藤・山崎派を指すのか、それとも両派を見殺しにした一般国民を指しているのか)が不明ですか、この問題は後回しにします。 1)一番単純なケースは「木の葉が舞うのは秋風のせいであり、実際に秋風を吹かしているのは大陸高気圧である」という命題のような場合です。この場合には、秋風は大陸高気圧が原因だという命題と、秋風が木の葉を舞わせるという命題は矛盾ではありません。文の注目点(point of reference)が異なるだけです。
2)制度に動かされる人間はそもそも歴史に参加していない、いわば「どうでもよい」人間なのか、それとも歴史は支配層が勝手に動いているだけで、もともと歴史の方が人間には関係のない「どうでもよい」ものに過ぎないのか。Jさんの質問が重要なのは、こっちの場合です。制度や国家が住民(people)から相当に遠い存在であった時代には、あれは「徳川とかいう人たちが勝手にやっている」といった暮らしが、ある程度は可能でした。制度とか国家などといっても、首都からすこし離れれば、暮らしには毒にも薬にもならない下らないものでしたから。世界史に名高い(というべきか、世界史の教科書に名高いというべきか)「ローマの道」は、このような暮らしをなるべく許容しないために作られたものです。ローマ帝国は、ブルボン王朝と並んで最悪の遺産ばかり人類に残したものです。ともあれこの場合には、どうでもよいのは「歴史」の方です。
3)ついでですが、パレートはローマ史を基準に考えていたので、「歴史」を作るつもりの人間の中にも「従う」残基とでもいったものもあると考えていたようです。「集合体の維持」を大事にする方向に働くエネルギーです。このようなものがあるらしいことは、上のD君の見解や、Fさんに対して述べた深刻に重要なことよりは、「援交」やら「学級崩壊」程度の方がやたらに話題になることから、ぼくたちも理解できます。早い話が地球の二酸化炭素問題を考えるより、こっちの方で騒ぐ方がはるかに「楽」なのです。 さきほど後回しにした問題に帰ります。ローマ帝国と違って今日の国民国家は、マクドナルドじゃないけど「個性を重視して...」という言い抜けも持っているのです。つまり「国民は主権者」という憲法規定です(この規定は必要ないと言えないことは、数週間前にのべてあります)。そこで、政府がやることの責任はほぼ自動的に、国民がやったと解釈できるようにしてあるのです。具体的にいいましょう。加藤・山崎派の行動は、幸か不幸か、このような因果関係の中で、ぼくたちの行動だったといわれてもしかたない部分があるのです。ただちに総選挙につながる可能性が(わずか10票差で)あったのですから。仮定の話ですが、もし世論が騒然となって10人が態度を変えることが出来なくなれば、いま時分ぼくたちは総選挙について語っていたでしょう。 是が非でも(おそらくはマスコミ対策も含めて)総選挙を回避する必要があった問題とは、一体何だったのでしょうか。補正予算でしょうか。中央省庁統合(集権化)でしょうか。ハーグ会議でしょうか。少年法改正でしょうか。単に総選挙のタイミングなのでしょうか。Jさんは何だと考えますか。他の諸君はどうですか。 「自国に対する愛国心とははたして必要だろうか」(Ms K)。自国政府、またはその政策に「ノー」ということも愛国心なら、ぼくは必要だと考えます。私見に過ぎませんが、ぼくは第9条を評価します。これを愛国心というなら、ぼくにも愛国心があることになります。Kさんの質問には、個々の争点ごとに誰も答えられないでしょう。「愛国心」マニュアルのようなものがあって、この中に「自国政府には従うこと」と書いてあるというような愛国心は、無意味だと思いますけど。 「アメリカがなくなればかえってよくなるとは、どのようによくなるのか。なぜ日本でもフランスでもなくてアメリカなのか」(Ms L)。Lさんも人が悪い!フロリダ州の開票結果で現に大統領が決まらないから、アメリカといっただけです。(かっこわるいから何とか決めてしまうでしょうが、という)仮定法です。後者はそれでよいとして、問題は前者です。米国のプレゼンスが極端に大きいのは、軍事と金融市場だけです。
軍事では、NATO軍の名でユーゴスラヴィアに介入したりするがパレスティナ紛争には無力だし、朝鮮半島が「極東有事」(こんな言葉があったね)の根源だから太平洋に米軍が居なければといっていた問題は韓国と北朝鮮の努力で無意味になったし...と考えると、「米国の軍事力」がなければぼくたちの生活が成り立たないような局面はありません(だいたい軍事力で成り立つ生活などというものがあるわけはないけど)。
金融市場に関しては、暫定政権しか出来なくなればウオール街は暴落するかも知れないが、ぼくたちは大投資家でないからあまり困らないでしょう。東京市場その他も連動して暴落するだろうし、銀行や大企業がいくつかはつぶれるでしょうが、これもぼくたちの野放しの「消費」削減する手荒な方法と考えれば、耐えた方が先に展望が出来るだろうし...のように考えてみて下さい。
もちろん数週間前のこのページに書いてあるが、ぼくは手荒いか話し合いかは別にして、先進国の消費の削減は、将来の地球人口の生存のために、いずれ不可避になると考えています。京都会議を受けた、二酸化炭素をたった数パーセント削減するための会議が、主として日米の反対でまとまらないのだから、まして「消費削減」が国際会議で決まる可能性に疑問が生じている最中ではないでしょうか。ぼくたち消費者が生活を、例えば「10パーセント」削減することは、リストラにやられた家族などでは珍しくないことですから、やってやれないことはないように思われます。問題は企業組織なのです。消費削減の最大の阻止要因になるのはこれらの組織で、これらの組織は大きなものほど国家のほとんど全面的な支援のもとに活動しているといってよい状態です。 「自分は死期には共同体や宗教やの何ものにも関わらず一個の個として静に死にたい」(Mr M)。これはぼくも同感ですが、その前に、本当に死ぬときは「独り」ですよ、きっと。社会学者がいった「自由な個人」などというものがあれば、それは死期の人間にだけあてはまるでしょう。 「ジンメルの生の哲学はどのようなものなのですか」(Ms N)。普段ならこのようなものは「自分でお読みなさい」と突き放すところですが、今回は関連して若干述べておきたいことがあるので止めておきます。ただ、本当に自分で読むことは忘れないように。
一冊の本を数行で要約するのは乱暴だが、あえてやればジンメルが『生の哲学』でのべていることは生の本当の姿は他人を愛する点にある、という説明になります。ややこしいのは「愛」です。
西欧の「愛」には2つの顔があります。1つは日本語で「恋し」「かなし」というという、世界的に共通の性愛(エロス)のこと、もう一つはキリストに対する愛(アガペー)のように、性愛厳禁のもの(かっこ内はそれぞれのギリシャ語)。彼のおそらく最大の弱点は進化論に無知だったことです。無知でなければ、当然前者でなければ無意味です。しかし最終的には、やはり前者を取る方向に傾いていると、ぼくは判断します。詳細は確かめて下さい。
事実、この書物の前提になった「プラトンのエロスと近代人のエロス」という論文は前者を暗に想定し、ギリシャ人のエロスは恋しければ直裁に目的を遂げようとすることを隠さない。しかし近代人のエロスは、まず結婚のような制度の枠の中にその本当の姿を隠さないと、存在が許されないものになっている、と論じられています。 あえて結論を急げば、ジンメルの生とはエロスの中にある根元的な何か、ということになるでしょう。
ついでですが、日本人は(というよりキリスト教の影響を受けていない場所ではほとんど)アガペーの顔を持つ「愛」などいう奇妙なものは考えられていません。強くいうと、愛というのは正しい日本語にはない概念です。 次週はこのあたりから話し始めます。ということは、一番最初に話題が戻ることです。「法則、法則性、法はどのように違うか」「動物園の獣と野生の獣の違いは何か」というところにです。途中に書いておいた「プロメテウス神話」や「パンドラの箱神話」やを、もう一度思いだして下さい。では教室で。
11/22
今回は全部で15通を優れたもの、個性的なものとして最後に残しました。 「他人に語れる意味や目的を持っていないといけないような雰囲気があるのも、大量消費への流れのせいだろうか。...バブル前にはこのような雰囲気はなかったのだろうか」(Ms a)。「意味への飢え」などという言葉もあります。こう書くとカッコいいみたいだけど、これは近代人の「病気」に過ぎないと思います。 「自分とは何だろうか」「人生の意味とは何だろうか」のような問いは、実はこの「病気」の症状です。この病気は、バブルのはるか以前からありました。 キルケゴール(S.A. Kierkegaard)『死に至る病』(岩波文庫)という本があります。この著者は19世紀中葉の実に正直なキリスト教徒で、人間は自分の中に「自力で目的を持つことが出来ない存在」だから、神が死ぬと人間は目的もなく「さまよわなければ」ならないと悲嘆し、この有名な本を書きました。
正直ではある人だからぼくは(個人としては)きっといい人なのだと思います。もし彼の言うとおりならこの病気は「死に至るまで」直るはずがないです。良い恋人がたくさん居ても、冷凍食品がぎっしり詰まった大きな冷蔵庫を買い込んでも、まして友達(同性異性を問わず)と携帯電話で話をしても、この病気は直らないはずです。キリスト教も罪作りなことをしたものですね。また、案外こんなところに、あの麻原何とかいう「宗教家」が一時信じられないほど教団参加者を集めた秘密があるのかも知れない。 ぼくは倫理学者するのはいやだから、aさんにどうせよと言うつもりはありません。しかし、次のようなことは考慮する必要がある、と述べておきます。
上の命題の「 」を付けた部分に注目して下さい。この部分に即して考えると、以後の選択肢は次の3つしかないです。1)何かに「すがる」、2)キルケゴールと同じように死ぬまで直らないと覚悟する、3)人間だけが「目的を持つ存在だ」と考えることに驕りがあるのではないかと疑ってみる。 都合上、以下順番を逆に説明します。
3)について: 欧米の影響で、「人間だけが目的を持つ」という命題は疑いを持たれずに、ごく最近まで理由なく信じられてきました。
目的とは人間だけが持てるのだから、この人間は何をすることも「自由」なのです。(自由とは、人間だけが目的を持つことの代名詞とされたのです)。家畜をペットにしてしまうことも、エネルギーを無闇に使うことも、大量消費を野放しにすることも...。近世以降欧米で(個人の)「自由」と呼ばれてきたものは、このようにして生じ、現在私たちが経験しているような深刻な結果を、地球上にもたらしました。
2)について: みなこの覚悟が出来ないようです。若い人ほど出来にくいかも知れないですね。
1)について: 「すがる」何かとは、笑止としかいえないほどに馬鹿げた単純なものらしいです。他人と同じささやかな流行を追うとか、他人よりちょっとだけ上等な家に住むとか、話題のグアム一泊旅行をするとか、ペットを飼うとか、専門家(医師やカウンセラーなど)になぐさめてもらうとか...。 aさんにはすこし心外なことを書いたかも知れない。貴君が言うのはそのような「病的」精神状態が求める「目的や意味」ではなく、学生時代に何をしたらいいだろうかというような、当面の問題に過ぎないようだから。
それなら、ぼくは「やりたいことをおやりなさい」と言います。貴君がそういわれて遊び呆ける人ではないと、確信できるからです。ぼくが比較文化論で講じているハンス・ヨナス『グノーシスの宗教』(人文書院)には、「過度の禁欲は過度の放逸と紙一重だ」と書かれています。この書物は、西洋の人間がなぜこのような「病気」にかかったかを知る上で重要な書物です。お読みになっては如何ですか。それから、時々空の雀を見て、彼は目的を持っているのかな、と考えてみて下さい。(彼=雀が持つ「目的」については、この後の講義で考えてみるつもりです。) もちろん大量消費に関しは、aさんの言うとおりです。現代の大量消費は、無意識に人々が「すがる」から成り立っています。マスコミとは「環境問題」やら「福祉問題」やら「教育問題」などで脅かしながら、同時に「すがる」のはしかたがないじゃん、となぐさめてくれる道具です。 「意味の世界を定義するとしたら、どのような文で表されるだろうか」(Ms b)。上の文がそうです。定義らしく言い直します。1)人間は自由である、2)自由の証明として目的を持つべきである、3)その目的があるまとまりを持ったとき、これを意味という、4)この中に浸ることによって個人は安心を得る、5)浸らせることを「社会化 socialization」という...。 「国家と個人の中間項の〔開発合戦〕の中で、社会学者はただサボっているだけ?」(Mr c)。トンデモナイ! 多くの社会学者は「開発合戦」の中に参加し、寄与していると考えているようです。ただぼくの場合はうそが下手なので、両端に重要な項目が二つあることを、諸君からうまく隠せないだけです。
隠すのはわりと簡単ですよ。「国家」といわれれば、アッ、それは政治学の問題...、「個人」といわれれば、アッ、それは哲学の問題...、といえばすむらしいよ。これをやっていればぼくも「教育改革問題」審議会とか「生きがい開発株式会社」相談役とかになれるかも...。あいにくその気はないけど。 「今、"マクドナルド化する社会"という本を読んでいます。合理化、脱人間化という言葉が多く出ていて...(市場経済の実態に唖然とする)」(Ms d)。アー、ナホド! ウエーバー『社会学の基礎概念』(岩波文庫)や『宗教社会学論集』などで読むと「合理化」とは何のことなのか分からないけど、「合理化」とは企業組織の「リストラ」のことなのですね。正規社員を解雇して学生アルバイトに代えるとか...。きわめて分かりやすい、明快な定義ですね。今度からそのように読んでみます。
このほかに、dさんの質問は「神保町で新書や文庫ばかり」の店を知っていたら教えてほしいというものでした。もともと書店名を覚えたことがなく、最近変わったかも知れないが、お茶の水駅から道路の右側を駿河台に向かって進むと、駿河台交差点のすぐそばに岩波文庫ばかり集めた古本屋があります。新書はもうすこし面倒で、店頭の「百円とか二百円均一」とかの箱を丹念に探すと、たいていのものはあるようです。 「1)適応できる=合理的ということではないですか? 2)社会学は...合理化を進めてむしろ今の社会を作ってしまったのではないですか...」(Ms e 番号は後で付加)。これはきわめて重要な問題提起だと考えます。 1)(自然に)適応できること=合理的というべきではないか、ということに関しては全く同感です。
チータに追われたカモシカは、予測できないようにジグザグの進路を取りながら、全力で走って追跡を振り切ります。これは「合理的」だと言えます。
しかし、ここで思い出してもらいたいことは、ウエーバーなどの社会学者がいう「合理的」とは、そのような「自然の中の事実」ではなく「個人の思考」や「個人の意図」を指している、ということです。 上の例に無理に当てはめると「カモシカの主観性」が「合理的」といわれるのです。これではカモシカは、到底生き延びることができない(適応できない)でしょう。このような病的な概念が、社会学の「合理的 rational (理性的ともいう)」という概念です。 2)上のように奇妙な「合理性」「理性」概念を平気で使用するから、社会学者が「今の社会を作った」と非難されても、ぼくはいたしかたないと考えます。特に第二世代以降の社会学者の多くは、この非難を免れないでしょう。eさんは「教授によって内容が違うので、どれが正しいか誤りか分からない」と言っています。しかし、ぼくが言っていることはそれほど考え難いことと思えませんので、どうぞ時間がかかっても、ご自分で判断できるようにして下さい。その際の決め手は「人間は動物ではないのか」という問いでしょう。(その問いは生物学者...、とたらい回しにはしないように願います。) 携帯電話に関する感想と、ペットを飼う人間の身勝手さに関する感想とが、両方合わせると7通ほどありました。どれも個性的で興味深かったのですが、といっていると全部引用しなければならなくなりますので、申し訳なく、かつ残念ですが掲載は割愛させていただきます。お許し下さい。 「マスコミを現代の道徳といったが、そのマスコミが先人の残した道徳を破壊することに努めている。(このこと、心外だ)」(Mr f)。心外は同感ですが、f君「計画的陳腐化」という経営学の常識をご存じですか。現代企業は市場での競争力を獲得するために、頼まれもしないのに海外投資を含む巨額の設備投資をします。この投資で大量に生産した商品を可及的速やかに「消費」させ、投資を回収しようとします。この回収が終わると同時に「消費」させたものに「消費者」が飽きたり、あわよくばその商品が壊れたりしてくれれば、最高に順調な「合理的」経営ができます。要は資金の回転なのです。 この回転を意図的に操作するテクニックが、計画的陳腐化です。形が変わったり色が変わったり、とにかく「消費者」が古くなったと思ってくれればいいのですが、マスコミはこの消費者の「心理操作」になくてはならない手段なのです。流行の正体もこの辺にあります。「現代の道徳」といった意味には、これも含まれます。それにしても、何百年ももつ刃物を作ろうとか、染め物を作ろうとかと心がけた、過去の職人とは実にかけ離れたもの作りをしていますね。このような企業活動を厳しく批判した社会学者が、『有閑階級の理論』で知られるヴェブレン(T. Veblen)でした。ヴェブレンは自分を、社会学者スペンサーの学説を継ぐものと考えていました。リンド夫妻(R.&H. Lynd)は、ヴェブレンの流れの中から出現し、シカゴの都市開発が近隣コミュニティを破壊することを長い年月かけた調査で明らかにしました。 「台湾は独立した国家かどうかについて、(ぼくの)見解を聞きたい」(Mr g)。ぼくが台湾生まれだと言ったので、このような質問をされたようです。お分かりのように、ぼくはどっちでもいいのです。たかが「国家」のことですから。それに、ぼくの理解では中国人はこのような問題で本気になって戦争を始めるほど愚かな人々だと思っていません。むしろ中国人ほど、根っから国家を信用してはいけないことを骨身に沁みて知っている人々は、割合少ないとさえ考えています。ここがパレスチナとの違いです。 ついに今日も10時を過ぎてしまいました。研究室には11時までしか居られないので、この辺で終わりにします。ではまた次週教室で。
11/15
講義でお断りしたように、今週分は一日遅れですみませんでした。おかげさまで演習生のプログラムのバグも、無事取れました。 早速本題です。昨日書いて下さった方々の中から、13人の方を選び出しました。いずれも内容の濃いものばかりでした。有り難うございました。この中に学籍番号だけで、氏名を忘れた方がいました。正確な番号なので学籍簿からお名前を割り出しました。悪しからず。
この機会に再度お願いしますが、番号などは結構です。お名前(フルネーム)だけお書き下さい。 便宜上、この無名氏のものからはじめます。「風土・生業を持つ社会は、その社会固有のシステム(風土・生業)に従った生活しか行われていないから、この意味で機械的なのではないか」(Mr. A)。
ぼくにはこの方の見解はよく分かりますが、若干具体的解説を加えた方がよいかも知れないのでやってみます。
海岸に住んでいる部族には漁労しか出来ない。山岳に住んでいるものには狩猟・採集しかできない。草原に住んでいるものには遊牧しかできない。この意味で(風土によって「生業」が機械的に決まるという意味で)デュルケムが「機械的」といったのではないか。多分、これが真意ではないかと思います。(間違っていたら、次回にでもまた教えて下さい。) 興味深い見解ですが、これに関してはぼくはコメントせずに、結論を諸君の『社会的分業論』の読書とそれをもとにした判断に任せた方がよいと感じます。現にデュルケムの論拠がそのようであったかどうか、という結論をです。各自、同書第一編などを慎重に吟味してみて下さい。
ただし、その際に次のことには充分の注意を払って下さい。1)機械的といい有機的といい、デュルケムの議論は国家という権力装置の存在を自明の前提としていないかどうか。2)一方に「国家」が存在し他方に「個人」が存在するという図式の中で、デュルケムのいう「集合意識」という領分が社会の社会たる所以を成していないかどうか。 もし、1)でありかつ2)が成立するのであれば、デュルケムの社会学はすでに国家と個人の仲介物として「社会」を考えるという、第2世代社会学特有の構図を形成していることになります。これが最大の問題点です。この講義は「社会」を「国家」と対立するものと見なす前提から出発していることは、過去数週間にわたって再三注意を喚起している通りです。 「行為論など話が複雑になってきたが、どのように勉強すればよいだろうか」(Mr B)。「社会学の世代の話を聞いて、ここに登場した学者たちの思想はいまの自分には理解できそうもないと感じた」(Ms C)いや、B君、Cさん、簡単ですよ。「行為」という学術用語には、一方に「自由な個人」が居て、他方に「国家」に代表される強制装置がある、という矛盾(カントの言葉を借りると「アンチノミー Antinomie」)が、そのどこかに見え隠れしているのです。この事実さえ見失わなければ、行為論などは簡単きわまる手品ですよ。
一般に、手品には必ずタネがあることは誰でも知っているでしょう。行為論のタネは、「自由な個人」という虚構と、有無をいわせぬ「国家」という現実とを同時に仕掛けて見せることです。でも、どうしてこの程度の手品に人は引っかかるのだろうか。ぼくにはこの方がはるかに難しい疑問です。サルトル(J.P. Sartre)という、ぼくが全面的には好きにはなれない人が、『嘔吐』という戯曲の中で次のように書いています。ナチスドイツ占領下という状況の下で「わたしたちは自由という言葉の意味を最もよく理解できた」。剥き出しの権力に対峙する時に、はじめて「自由」は理解できるでしょう。現在のぼくたちは、これほどの身に降りかかる極限状況ではなく、もっと中途半端な状況下で自分を「自由みたい」と思っているのではないだろうか。一方「国家」の方は福祉国家というくらいだから、「ナチスは悪い子だけど、ぼくいい子だもんね」という顔をしているのではないだろうか。だから手品にかかるのだね、きっと。詐欺にはかかる人が悪いそうだよ。
このような現実を見ていると、たしかに次のような感想に達しますね。「集団に色々形態があるが、どんなものでも作られていくのは何か不思議な気がする」(Ms D)。大学で知らなかった者たちが友人になれるし、新に企業や組織に入っても何とかやっていけるし。このようなことを考えれば、人間の適応力も捨てたものではないと思えます。
もっともこの適応能力が人間に対しては発揮されても、自然環境に対して発揮されなくなったことが、今日の大問題です。この点には目をつぶらないようにすべきでしょう。友人、隣人には非寛容で、市場経済の中で活動する企業活動の弊害には寛容、というのは適応能力のせいです。自分と直接関わらない他国の悲惨は気にしないでいられる、というのも一種の適応能力ではありますから。 「共同体的なものが良くて機能集団的なものが悪いということか?プレモダンな社会がいいということか?」(Mr E)。どうぞそのように、二分法だけで結論を急がないで下さい。問題は終始一貫上に述べた国家を知らない共同体か、それとも文明化した社会かということです。共同体が国家の下部組織に組み込まれたときの悲惨は、戦前の日本で経験ずみです。プレモダンという言葉がこのどれを指しているのか不明ですが、もしヨーロッパ人が鉄器を持ち込む以前のアメリカ原住民(インディアン)や、オランダが植民地にする以前のチモール島などを指しているのなら、答えは「しかり」です。
現代にもこの意味の共同体の記述は、講義で紹介した『ヌアー族』(平凡社文庫)などを始めとして多数存在しますから、お読み下さい。また、中国の古典に属する『荘子』(岩波文庫)や、ホメロス『イーリアス』などを、学生の間にぜひお読み下さい。『イーリアス』には、なぜか青銅の武器に対するギリシャ人の驚嘆の念が至る所に書き込まれていて、好奇心をそそられます。なお外国語をいとわなければ、Albert Lord, The Singer of Tales, 1960 Cambridge という復刻を重ねた名著があります。はるか古代のものと思っていた『イーリアス』が、1930年代にユーゴスラヴィアの山地の農村で現に歌われていたことを、この著者の先生である古代学者が発見し、その資料を弟子が整理、研究して出版したものです。ユーゴスラヴィア内戦の中で、この習慣はどうなっただろうか。 「ジンメルの名を聞いて意外だった」(Mr F)。短いからかえって難解かも知れませんが、『愛の断想・日々の断想』(岩波文庫)という名作があります。この中の後者をじっくりお読みになると、ある感触が伝わると思います(このような短いものは、理想的には指導者が付いて読む方がよいのでが)。しかし出来るだけ早急に『貨幣の哲学』(著作集所収 白水社)を通読されることをお奨めします。 「インフォームド・コンセントは昔の時代には全くなかったものであろうか」(Mr. G)。ありません。率直かつ具体的にいうと、これは訴訟対策だからです。医師を例に取ると、治療法に(a)(b)の二つがあり、そのどれを取るかはあなたの意志によりますと提示することが、もう一つの治療法があったではないかという訴訟の余地を消しているのです。
ただし「インフォームド・コンセント」といわなくても、また医療とはかけ離れた分野で良ければ、私たちは日常的にこれをやらされています。今回の米国大統領選挙で最大の争点だったのは、財政黒字の使途だったと報じられています。分かりやすくいうと、ゴアは企業による経済活動の基盤を整備するインフラ投資、医療保険(やはり企業活動のインフラになります)、教育(これも先端産業技術開発など同様に使うことが出来ます)などの「スペンディング spending」であったのに対し、ブッシュは減税であったということが知られています。ぼく自身は前者の方が国際的にストレートにアグレッシヴな政策になりうると感じていますが、それはともかく、提示された米国民は早い話が「インフォームド・コンセント」と同じことをやらされているわけです。世界の難民人口を救済するために、米国民の消費削減を前提に、黒字は全額放棄する、などという政策は選択肢の中に入っていないのです。
同じように、地球環境を救うという旗印でCO2の削減国際会議が開かれますが、削減もビジネスチャンスになり得ます。CO2ではなく、エネルギー消費そのものを一律10パーセント削減する、という選択肢は、残念ながらまだ国際会議の俎上に上がっていません。 「国家から既得権益をなくすことは不可能なのだろうか」(Mr H)。根本的な問題ですね。租税がなくなれば、既得権益は発生の余地がなくなるでしょう。しかしその時には、国家ではなくなるでしょうね。現代には、国家の機能を強化する方向性はあるようですが、遠い未来の消滅を視野に入れた国家機能の削減は、まだ視野に入っていないのではないかとぼく自身は判断します。しかし、機能強化に明らかな限界が見えていることも事実のようです。いわゆる「第三セクター」や「民営化」がもてはやされるのは、そのせいです。かつて英国のサッチャー首相は、教育を含むほとんどの活動分野の予算を削減し、民営化を進めて顰蹙を買いました。ちなみに、民営化とは多くの場合営利企業化と同義語になります。 「1)自分はインフォームド・コンセントにより死期を選びたい。先生(ぼくのこと)はどうしたいか? 2)(ぼくは)死後の世界を信じるか?」(Ms I 番号は後から付けた)。毎回 I さんの質問は手厳しい。ぼく自身のことに関しては、別に知りたいとは思いません。というのも、多分自分で分かるような気がするからです。あまりご参考にはなりませんが、ぼくは過去約三〇年間健康診断というものを受けたことがありません。めんどくさいから、というだけですけど。
一昨年のお正月に、耐えられないような激しい腹痛が起きました。半ば失神状態で救急病院に運び込まれたところ、胆嚢に結石が140個も詰まっていました。手術の時には「あー、これがインフォームド・コンセントか」と感じさせられる書類に「はんこ」をつかされましたが、手術中は麻酔がかかっているし、麻酔からさめたらICUの機械に縛られているし、コンセントなんか考える余地がなかったです。こんなの、全然参考にならないですね。すみません。
死後の世界に関しては、私たちはそのような習慣を失っているので、これまた何ともお答えできないです。ただし、お書きになった小説のような世界ではありませんが、死後の世界に関する過去の習慣(生き残った共同体員の)を理解することは出来ます。お盆の迎え火は理解できる、という意味です。これまた、お答えになったかどうか、自信がありません。 「遺伝子操作やクローン技術によって、人の生命の始点と終点が曖昧になり、神様の世界に越境しているような恐ろしさがある」(Mr J)。過日の同窓会でぼくが医師たちから聞かされたことも、「越境者」にさせられる深い困惑でした。現場ではそう感じているのに、どこかの国の製薬企業が開発すると買わざるを得ないのは、何のせいなのでしょうか。講義で話したマイケル・クライトン(『ジュラシック・パーク』の作者)は、技術開発が営利企業と結合し、これを国家が支援する構造が出来上がっているからだと考えているようです。
同じ見解ですが「...生命らしさは現代にますます失われつつあるような気がする」(Ms K)。数週前のこのページに「プロメテウス神話」の話を書きました。ギリシャ神話の中には、通行人の足を自分の寝台の長さに合わせて切り落としたという盗賊である「プロクルステスの神話」などと同じように、「パンドラの箱」という神話もあります。皆ご存じでしょう。一旦開いたらありとあらゆる怪物があふれ出て、人間に収拾がつかなくなった、という箱です。詩人ヘシオドスは、この箱の中に「希望」だけは残してくれました。
ギリシャ人は、その折に書いたように、なにか決定的にまずいことをやっている、という意識があったのではないかと、時折感じます。
それにもまして、現代の私たちが自分らの「希望」に合わせて事実を切り落とすことだけは、したくないですね。いまぼくが大学で一番強く感じる「希望」です。都合のいいことだけ「勉強」するのは止めたいですね。ではまた来週。
11/08
先ほどまでニュースを見ていました。4時30分にフロリダ州が決まってブッシュが「勝利」したところまでつきあった後に、研究室に戻りました。エレベータの中で何年生か分からないが2人の女子学生と同乗し、「ブッシュらしいよ、関係ないけど...」と教えてあげたところ、はっきりと「関係あると思います」との答えが返ってきました。
法大に在職していつも驚かされることは、優秀な学生がどこの大学より多いのではないかと思われることです。教室でぼくたちに向かってそれが表現されるかどうかは、別問題のようですが。 先週優れていると感じ取り上げた人々の数を、記し忘れました。16名でした。総数はこの約2倍あったと思います。
本題に入ります。今週は9名でした。総数も9名でした。今回は質問形式が多かったですが、後に見るように重要な問題提起がありました。 早速内容に取りかかります。 「civitasの意味がいまだによく分かりません。社会?文明?...」(Mr a)。反問ではないけど、「 社会」や「文明」という言葉なら分かりますか?ぼくはこっちの方が、きっと分かりにくいかと思っていました。どうぞ日本語の「慣れに頼った」分かりやすさにだまされないでください。
「慣れに頼った」分かりやすさは危険だということを説明するために、a君の質問をやや後回しにさせてもらいます。辞典には「社会」とは人の集まりと書いてあります。お分かりのように、これは回答になっていません。2人ですか、2千人ぐらいだろうか。また、センタープラザを歩いている人の集まりは「社会」だろうか。顔が見えたり電話で話したり出来る人だけをいうのだろうか。そうではなく、この講義で特定しているように「親族集団」「氏族」「部族」をいうのだろうか。それともとにかく自分にすこしでも関係あるあらゆる人を含むのだろうか。
以上の質問に何と答えるか、全員が考えてみて下さい(同じことは「文明」にも言えます)。 以上は各自考えてもらうことにして、a君の質問に答えます。civitas はつねに1)「国家」と訳して下さい。2)法とこれを強制する暴力装置を持つものと考えて下さい。「社会」はつねに1)親族集団を基礎とする拡大家族(氏族、部族)であり、2)固有のテリトリー(風土)を持つもの、と考えて下さい。この定義はこの講義での取り決めです。「慣れに頼った」理解は、この講義ではできるだけ排除する方向で話します。 「図がよく分からなかった。何で女だけで群がるのですか」(Ms b)。一般に誤解が起きるといけないので、この方の質問に答える形で答えておきます。今回書いた図の「円」は女ではありません。最初の方で描いた図と混同しないで下さい。今回の「円」は「部族」です。 「共同体の破壊」に関するものが3通ありました。次の方に代弁してもらいます。「共同体の破壊がもとに戻った例があるだろうか。(あるとすれば)どんな場合だろうか」(Mr c)。壊れかかったが戻った例は、多分あるだろうと考えます。
「多分」というのは無責任に聞こえるかも知れませんが、そのような事例は従来無意味と考えられ重視されてこなかったから、代表的な事例が知られていないのです。社会学でも経済学でも、「共同体は破壊されるべきだ(なぜなら破壊されないと市場経済が発達しないからだ)」というのが、なぜか研究の大前提でした。この点ではマルクスもウエーバーも、思想的には両極端なのになぜか見解が一致します。ウエーバーの有名な「世界の合理化」という命題は、端的に「共同体の破壊」と同じことです。そっちの方の研究は、いやになるほどたくさんありますが。<P> c君の疑問に回答になりそうな歴史上よく知られた事例として、前6世紀アテナイの「ソロンの改革」といわれるものを上げてみます。アテナイでは貨幣経済の発達の結果、農民が金を借りると「土地や身体」を抵当とすることを求められました。結果は想像に難くないが、多くの農民が土地を奪われまた奴隷に落とされました。
ソロンが行った改革はこの「債務の帳消し」です。また、奴隷化された人々の解放でした。(もちろんこの「帳消し」は「公費導入による不良債務の帳消し」とは何の関係もありません。)ぼくが「多分」と言葉を濁したのは、このソロンの改革も当の時代には「共同体の破壊」をもとに戻すことにある程度の役割を果たしたと思いますが、まもなくアテナイは僭主政治時代に突入し、完全に元通りには戻れなかったことです。
実は、c君の疑問は別の点で他人事ではありません。日本は「政府開発投資ODA」総額の点で先進国の中でも多い方に属し、年間1.5兆円を支出しています。この中には「無償援助」も含まれますが、同時に「開発経済」資金として東南アジア各地に工場やダムや港湾やビルを造成することに直接間接に「貢献」しています。ぼくたちは東南アジアなどの後進地域に対し、ある種の金貸しをして「共同体の破壊」に手を貸しているかも知れないのです。これは税金ですから「日本人としては被害者、日本国民として加害者」のような当惑する状態に置かれていることを、考えてみて下さい。ぼく自身は「従軍慰安婦」問題も重要だが、ODA問題はことによると将来に向けてより深刻かも知れないと感じます。このようなことを話せるのはオンライン講義ならではのことなのですが、ソロンに言われなくても日本が対外投資を官民すべて一切放棄する、という選択もあるかも知れません。この事実をぜひ諸君が考えてみることを希望します。 「親族集団のテリトリーから離れた状態とは、単身赴任や核家族化などでバラバラになるものにもあてはまるか」(Ms d)。「アイヌや沖縄の文化や共同体もそうではないか」(Mr e)。もちろんどれもその通りです。そのためか、現在政府関係者の中からは教育改革論議の中で、家族に教育責任を持たせる方向で立法を検討したいとか、アイヌ・沖縄経済振興策をさらに講じようとかの声も聞こえます。これが解決として有効かどうかはd、e両君や諸君皆が各自お考え下さい。 以上2名の方と関係あるかどうか分からないが「地方行政団体(都道府県)の権限拡大は実現の可能性がないだろうか」(Ms f)。「経済の中では終身雇用に頼れなくなったのに、政治の世界ではいまだにそのような動きに関係なしに続いている」(Ms g)。これら2つは言葉足らずです。したがって、真意を推測するしか方法がありません。<P> 前者は、これが「共同体の破壊」を止める方策となり得ないか、という期待だろうか。今日の講義で述べたのは、次の主題として国民国家について述べる布石としての共同体の破壊ですから、当面関係がないことではあるが地方自治振興は共同体破壊に対する対抗策となるか、といい変えてみます。実状はなっていない、というしかないでしょう。理由はいくつかあります(なぜ都道府県のような大きな単位なのか、市町村ではいけないのか、質問したくなりますが)。第一に現在の大企業主導型経済活動は、都道府県などの範囲をはるかに超えて展開されます。これを放置すれば、都道府県は産業廃棄物の尻拭いや、原子力発電の危険の受け皿だけをさせられることになりかねません。第2に、実際問題においても都道府県は中央政府の政策の下請け機関におとしめられています。産業、運輸、福祉など、どれをとってもそうです。他にも色々あるが、きりがないので止めます。「地方自治の振興」は、過去30年間中央政府がくり返しくり返し強調しています。できないのになぜかけ声をかけるのかを、fさんは考えてみるべきではないだろうか。後者はおそらく、国民は能力主義やリストラで痛めつけられるのに、なぜ国会議員はいつまでも議員を続けるのか。また2世議員を担ぎ出してまで「シマ」を守るのか、という不快感の表明だろうか。一言でいうと、利権がともなっているから止められないのでしょう。止めさせてもらいたいと思っている議員さんもいるかも知れないですよ。しかし、議員さんや後援会側にいわせれば、皆さんが選ばれるのでやるしかないでしょう、という言い分になるのではないだろうか。そういわれると選んだ(といっても gさんは選ばなかったかも知れないが)側が抗弁できないのは、民主主義の不思議なところです。ただし、投票権は「最悪の場合に合法的に止めさせられる手段として」、歯がゆいでしょうが保持した方がよいと思います。
つぎの方のものが、おそらくはよく本を読んだ裏付けがあって、もっとも優れたものでした(用紙全部にわたっているので、番号はぼくが付けさせてもらいます)。
1)について。「生物は...」ではなく、「哺乳動物は...」という方がベターだと思います。母乳に依存しない生物なら、昆虫や魚類や鳥やは虫類などの中に、父親が飼育を受け持つものはいろいろ例があります(ペンギンなど)。哺乳動物は、すくなくとも母親が飼育しないと子の動物は育つことができません。したがって共同か単独かは別として、母親の役割が決定的に高くなります。しかし「母系」動物という表現がありうるとすれば「群が母(たち)と娘(たち)を中心に成り立つ」という形態を言い表すために使われるでしょう。ライオンの「プライド」がこれに当たります。オオカミや類人猿などの群もそうだと思います。しかし、群を作るものは「すべて」この意味で母系かという問いには、いま確信を持ってそうだと言えません。ご免なさい。群をオスが主導権を持って作るケースは、類人猿などに見られるからです。
「1)マレー山岳民の人々の生活スタイルは面白かった。日本でも弥生時代には母系だったという...説がある...生物は本来母系動物だろうか。2)(多摩校地周辺でも)暗闇祭りの名で「夜這い」の習慣があったとされ、(同じことが)司馬遼太郎の本にも書かれている。セックスの相手を生涯一人とするのが当然になったのは、いつ頃からだろうか。戦後、欧米の習慣の影響だろうか。3)母系動物だとすると、性的役割分担を主張する人々の格好の論拠にならないだろうか。4)現代日本のシングルマザーと、マレー山岳民の母親との違いは何だろうか」(Ms h)。以上、大変重厚な論点と疑問です。
群を作らないもの(ライオン以外の猫属など)は、雄雌に関わらず授乳期を終わって成人(?)すると、母親のもとを追い出されます。追い出されて自分のテリトリーを作るのです。2)第2次大戦後というよりは、明治以降キリスト教道徳が奨励されるようになってからだと思います。
3)そうはならないことは、貴君の方がよくご存じと思います。授乳は母以外はできない、といっているに過ぎませんから。育児をする「べき」かどうかというのは「道徳」が、そのように主張するだけですから。 4)マレー山岳民の母親には(正確にはその子供には)、複数の夫(父親)がいるのです。シングルマザーは、知り合いがいないので自信がないけど、「夫を持つ必要を認めない」女性をいうのではないかと考えます。ただし、両者は夫(父親)は irrelevant (無関係)だ、という点では一致しています。この意味の irrelevance に関しては、『生殖と世代継承』の中で社会人類学者の見解を読むことができます。特に、オス(男)が居なくても生活資源を得るのに特に不自由しない場所ではこのような傾向が存在しやすいと思います。(男の子どもに男の学習を誰がさせるのか、という興味深い問題が残ります。これに答えようとする試みの一つが、母方のオジavunculateという問題点です。) 全部答えたわけではありませんが、このような親族集団に関しては別に時間を取って話題にする予定です。
次週も(1)「社会学」は何を主張して出現したか、(2)第二世代以降なぜ社会学が不透明になったか、について講義を続けます。ではまた。
11/01
事前予告:これは今週水曜日からの講義に関するものです。気が付いた方はつぎのファイルに目を通して下さい(10/30)。(今日からは事前予告ではありません。実行して下さい。11/01)
1)この場所に「figure03.pdf」というファイルへのリンクを張っておきます。このファイルはAdobe Acrobat 4.0のファイルなので、自宅の方はAdobe Acrobat Reader 4.0がインストールされているかどうか確認して下さい。
2)もしインストールされていなければ、ここからReaderをダウンロードし、インストールを済ませて下さい。無償なので料金は不要です。プログラムサイズは約6メガです。インストール状態で多分10メガ程度と思います。
3)大学の多摩センターのPCには、すでに全てにインストールしてあります。
4)このファイル「figure03.pdf」は、このリンクをクリックすれば読むことが出来ます。画面上不鮮明な時には、拡大してください。しかし拡大すると画面に入り切らなくなるので、下を参考に印刷することをお勧めします。
Reader を閉じれば、この画面に戻ります。
5)この「figure03.pdf」は、このままReader内から印刷できます。印刷すれば、A4版の横位置で一枚に収まります。
6)このファイルが必要になるのは、実際には今週より来週ですが、気付いた方は知り合いの方に伝えてあげて下さい。
では以上です。
以下が、実際に今日書いてもらったものに対するコメントです。11/02/14:30の加筆があります。
休講が多い週に、雨をいとわず出席された方々に敬意を表します。今週は、書かれたものの密度と水準がきわめて高いものが見られました。
単純なものからコメントし始めます。「動物園はどうしてできたのでしょう」(Ms No-name)。どうぞこのようなものは自分で調べて下さい。図書館に行き"Encyclopaedia Britannica"で ”"Zoo"の項目を読むこと。同じ傾向がある諸君は、他山の石としてください。 「テリトリー(風土)は文章等で出てくるテリトリー(範疇)とは違うものですか」(Mr No-name)。これも大学生にあるまじき誤解です。前者はterritory、後者はcategory。ギリシャ語・ラテン語の語源まで遡って調べて下さい。貴君はこのような言葉が出てくる「文章等」を読むほどだから、良く読書をする学生だと思います。しかし日本語に集中していないのではないですか。多くの学生が外国語が難しくて...といいますが、実際には日本語の方がはるかに怪しいと、ぼくは経験から判断しています。日本語は発音できるから分かると錯覚しているだけです。全員、必ず本格的な『国語辞典』、『漢和辞典』を常備して下さい。これも多くの諸君が、他山の石とされることを期待します。
もちろん以上の2名のお名前は、ぼくはただちに忘れることにします。 「FMとAMの違いは電波が短波と長波のように違うのではないですか」(Mr A)。"Nice Try"ですが、結論は断然違います。波長帯(周波数帯)が違うのは、歴代電波政策の結果に過ぎません。短波、長波のような語の選択も適切でありません。波の式は次です(これを数学と思わないこと。これは自然言語で書けることを簡潔のために記号化してあるだけです)。u( t )=A * sin(F * t + Φ)
Aを波高、Fを周波数、Φを位相と呼びます。Aに信号(音声や画像)を乗せるものを波高変調(AM)、Fに信号を乗せるものを周波数変調(FM)、Φに信号を乗せることを位相変調といいます。
この先はA君ならびに諸君が「波と通信」に関する本を読まれることを期待します。「ジュニア新書」などにあるのではないだろうか。なおコミュニケーションとはもともと通信のことです。社会学者が「I T社会学」と似た根性でメディアがどうの...と言っているだけです。 ぼくが何度か「自分に関係ないものは存在しないと考えよと述べたが、自分は納得できない...病人、けが人、難民...など以外は、かまわない方がよいと考える...」(Mr B)。
これは誤解ではないだろうか。ぼくは無関係なものがあると思わぬことと述べましたが、「かまう」必要があるとは言っていません。B君の真意はこれではなく「I Tがもうけのために使われるならぼくも反対です」ということを述べることにあったようです。もちろんこれにはぼくも同感ですが、ほとんど確実にそうなるという方向でI Tという名の公共事業については社会的にも述べられているとしか思えません。さらに困ったことには、「よく分かりません」グループが多いから、この手のローマ字だと簡単に誘惑されるようですよ。ぼくがこれを許容できると考える場合については、前週に述べてあります。「政府・自治体のあらゆる情報や特許を含む企業の内部情報の全面的公開」です。当面田中康夫知事が、過日の冬季オリンピック関連で長野県が関わった、あらゆる業者・組織、金銭の流れ、流れた結果、などを公約に従って全面的に公開できることを期待し、監視しようではないですか。ちなみに、長野オリンピック関連予算は1.7兆円、蠅のようにたかったメディアの、公開された放映権料だけで650億円ということが分かっています。
I Tに関しては他にペーパーレス化が過去に空文になったのでI Tにも「あまり期待していない」(Mr C)、I Tをいう人間に限って「満足にパソコンも使えないと聞いている」(Mr D)、「将来的にはI Tと違うものが大々的に重要だといわれることになりそう」(Ms E)、などの懐疑的な見解が数名ありました。
ぼくも同感で、きわめて憂鬱な現実ですね。しかしこの憂鬱さは今から10年前に「持続可能な成長」というキャッチフレーズが政府や企業から唱えられ始めた(この言葉を主唱したのはゴア氏です)とき以来、ずっと続いています。UCバークレーのベラー(R. N. Bellah)教授は、1992年のわが法大社会学部創立40周年記念講義の中で、すでにこの語に懐疑的だと表明されました(『思想』1993年2月号の同教授の講義を参照)。これだけ地球に重圧を掛けて、諸君はそれでも「持続可能」だと思えますか。 というわけで、I Tに関連した動きはいやでも次の方のような、重要な疑問を呼び起こします。「現代の私たちが生きるために食べるということにならないとすれば、人間にとってふさわしい本来の姿は自給自足ということになるのでしょうか...」(Ms F)はい。ぼくは最終的にそうなるしか道はないと考えています。
しかし、この道は気が遠くなるほど困難で、多分長い道のりです。説明しましょう。過日レスター・ブラウン(L. Brown)の『地球白書』をもとにしたNHKドキュメンタリーで、地球が毎年算出する人間たちへの贈り物を仮に金額に換算すると22兆ドルになる、という試算が語られていました。
一方、日本のGDPだけでも、ドルに換算するとおよそ5兆ドルになります(詳細は経企庁の統計などを参照)。米国やEUなど先進国のものを合算すると、軽く22兆ドルを超えます。この額はもともと地球の贈り物ですから、先進国だけですでにこれを消費し尽くしていることになります(飢餓が発生しているのは当然ですね)。
さらにご存じのように、現在の地球全体の人口は60億人。これがまもなく21世紀前半で100億人になると推定されています。これだけの人口重圧が、地球にかかるということです。では次に何を考えるべきだろうか。以上の事実から考えると、どうしても「先進諸国の消費水準を計画的、かつ継続的に引き下げる」という選択がなされなければ、先進国の過剰な消費と後進地帯の人口圧力との両方に地球が耐えられるとは、到底考えられません。「持続可能性」など口にするだけでも馬鹿げています。この延長上に、Fさんのいう自給自足がある、ということです。
上の「計画的・継続的引き下げ」の選択は実行できるでしょうか。ちょっと考えてもらいたいが、諸君たちの多くは、後進国民より多分かなり贅沢だが、だからといって呆れるほど「過剰な消費」をしていますか。諸君の両親の家計はどうですか。ぼく自身は平均値より「していない方」だと考え、でもこの選択を受け入れる用意もあります。諸君はどうですか。
このようにして考えていくと、どうも問題の本当の所在は、ぼくたちだけではないらしいと思いませんか。ぼくたちは「現代社会という動物園社会」の中に生きていますが、この動物園を管理しているのは実は政府、企業、その他営利・非営利の組織などです(組織には軍隊と将軍たちが入っていることもお忘れなく。またこれらは国際的にコングロマリット化していることも忘れてならないことです)。この管理人たちにこの選択を受け入れさせたり、もっと望ましくは管理の檻を取り払わせる方向の構想が、容易に立ちますか。しかし、これしか選択の余地が見あたらないと、ぼくは考えます。
これが問題の本当の核心です。今度「持続可能性」をいう人がいたら、その人の見通しをしっかり聞いてみて下さい。講義の中で再三述べているように、大学生としての諸君の使命は問題の核心を、誤魔化されることなく、くっきりと把握できるようにすることです。そのような人ばかりが、横領や使い込みをやっている人に代わって組織の管理者になれば、数十年来(『成長の限界』というローマ・クラブの報告書が出てから40年になります)続いている憂鬱に、かすかな光がさすかも知れない。間に合わないという悲観論もあり得るが。
「最近は、政府の叫ぶ教育改革も気になる。なぜ、ゆとり、ゆとり、というのだろう。驚くべきことに少年法改正が成立したし...。人間が生きる意味が変わってしまったのだろうか。自分のやりたいこと(職業など)を選んで実現できる可能性がある、ということは幸せだと思っているけど、実は違うのだろうか」(Ms H)。
以上Fさんだけでなく、ぜひ全員が考えてみて下さい。例えば「農家の人もやはり動物園の動物なのだろうか」(Ms G)という問いには、上が答えになっているはずです。農家の方がまだ救いが多いと思います。しかし、現代の社会学者にいわせると人間は「国際化」しているのだそうだから、だったら一人だけ出ているなどはできないみたいだよ。
少年法改正に躊躇いがなかったことには、ぼくも驚きました。このやり方で行くと、どんどん落第させる方が教育になるのかなー。B以下は落とすとか(ぼくはやりませんけど)。諸君は自分を、罰で動く人間だと思いますか。それとも罰を受けるのは「悪い子」だけで、自分は「いい子」だから関係ないと思いますか。やはり後者の人が多いのだろうか。「罰で動かす」ということに関しては、先週の最後の部分を読んで下さい。功利主義者はこのような発想の下に近代国家を構想しました。そこはもう一度じっくり読んでもらうとして、現実はHさんが直感した通りのようです。
もともと、人間の生きる意味など人前で話すような次元のことではないのです。意味など考えても「いい職場に就職して、いい人と結婚して、ほどほどに外国旅行など余暇を楽しみながら過ごそう」とか、「競馬、競輪、その他ギャンブルをやりまくり、異性に狂って快楽を追求し、なるべく仕事場では働かない」とか、その程度にしかならないのです。人生の意味を考える程度で満足してくれれば、大学教授や物書きは、これ位楽な商売はないよ。Hさんが自問していることもこうしたことで、この程度のことで私たちはよいのだろうか、ということと思います。Hさんが感じるように、人生の意味はどうぞ各自思う存分空想に浸って下さい。ただし、はしたないから断じて人前で語らない方がよいですよ。その程度のことより、繰り返しになりますが、あらゆることを自分に無縁と考えることなく、現実を冷酷に徹底して透視できる人になる訓練をして下さい。とりわけ、ぼくがFさんに答えて上に書いたことを皆が自分で考え、判断してみて下さい。
新医療技術、新生殖技術などに関しては、賛否両論に似た見解の分布がありました(だから世論調査などあてにならない?)。クローン技術に関して「現在人間には禁じられているが(他にも自然の摂理に反することを許容し始めているので)、人に使われるのは時間の問題のように思われる」(Mr I)。「延命治療で生きている人を見ると、生ける屍に思える。医療がこんなに発達してよいのだろうか」(Mr J)。「私の弟は幼少時に死亡した。自分も病気で死にかけたらしい。もし医療が進んでいなかったなら死んだだろう。私は本来生きていてはいけない命だったのだろうか」(Ms K)。これらは、一見賛否が分かれているように見えます。本当に対立しているのだろうか。 そういえば、ぼく自身産まれたばかりで新生児肺炎にかかり、医師が見放したのだそうです。なぜか生き返ったそうです。それはともかく、Kさんの論点は、個々の人に向かってその当人が生きるべきか死すべきかを、誰か他人が判断してよいか、と問うていることと同じではありませんか?この点は重要なので、ぜひ理解して下さい。自分ならその判断をしてよい、と言い切れる人がいますか、またはどこかにいますか。問題の核心は、ここでも「そのような人間はいない」という点にあるのです。それなら、他人が死ぬべきだといえないのと同様に、生きるべきだとも言えないのではないでしょうか。「死ぬべき」は言えなくても、「生きるべき」は言えると思いますか。どんな人間にも、どちらも言えないのです。だからこの前提を認めれば、上の三人は同じ見解になるのです。ぼくの同級生たちの苦しみは、言えないのに「言っていい」とされている医師になってしまった、というところにあるのです。
やや話題が変化するように思えるかも知れないが、本質的に同じなのでここに書いておきます。Kさんは「死刑」に賛成か反対かは知りませんが、人間がだれかを「死ぬべき」だといってよい領域が、ここに露呈しています。法(実際にはそれを施行する裁判官)にはこれができるのです。(いま戦争は話題外としますが、これも実はそうです。)極刑を申し渡す裁判官は(ぼくの知人にはいないが)ものすごく苦しいのではないだろうかと想像します。
そのちょうど逆のことが、「生きるべき」と言わされる医師にある、ということです。最近は彼らの苦悩が増えています。「脳死」の判定をさせられるからです。これも、法がそう指定しているからです。I、J、Kの3人にあらためて尋ねます。同じことをさせられたら、あなた方は平然と、または喜んでやりますか。また3君以外の方はどうですか。 ギリシャ神話の中に、有名な「プロメテウス神話」と言われるものがあります。アイスキュロスがこれをもとに『縛られたプロメテウス』という悲劇を書きました。プロメテウスは(異説が多くありますが)人間に火、文字、医術、航海術などを天から盗んで与えた、とされます。この結果ゼウスの怒りに触れ、コーカサスの岩に縛り付けられて肝臓を鷲に食いちぎられる罰を与えられたそうです。その肝臓は翌日には再生してもと通りになるので、プロメテウスは毎日この責苦に苦しんだとされます。関心を持った方は図書館で読んで下さい。
アイスキュロスの時代は、『生殖と世代継承』の作者フォックスがギリシャで国家の萌芽が見え始めたとしている時代に、一致します。ぼくは古代ギリシャの友人(本で話した人という意味)の気持ちが、気のせいか分かるように思えます。彼らは自分たちが「何か決定的にまずいことをやってしまった」と感じていたのではないかと、思えてなりません。すくなくともローマ人のように、あのような馬鹿げた大帝国を作ったことを後になって後悔している人々より、ぼくは好きです。「決定的にまずいことをやっている」という意識が、ギリシャ人に大ギリシャ統一国家を作らせず、古代からちりぢりになり、現代もEUの後進地帯に甘んじさせているような気がします。比喩的には、科学のギリシャ、科学技術のローマというべきか。 ぼくたち日本人は「決定的にまずいことをしている」という意識があると思いますか、ないと思いますか。日本社会学だけ見ていると後者にしか見えない場合が多いのは、ぼくのもう一つの憂鬱です。諸君はぜひそうならないようにと、希望します。ではまた来週。(最初のファイルの件よろしく。)
10/25
午前0時以降の加筆・訂正あり。
アウグスティヌス『神の国』に関するバートランド・ラッセル(B. Russell)の簡潔・明快な評価が、ここに、掲載されています。今日は分類を無視してなるべく多く引用します。中に重要な講義の補足があるので、どうぞ最後までお読み下さい。(今週分だけ印刷するとA4版で4枚になります。注意事項をお忘れなく。)
何とかfirstというから、女性の方々を先に上げます。
冒頭から10月4日の書名の訂正です。「(正しい書名は)岩波ジュニア新書『DNAが分かる本』ではないですか」(Ms A)。そうでした。ぼくの間違いです。Aさん有り難う。皆さんもこのようなことに気付いたらぜひ教えて下さい。あわせて訂正です。『「いき」の構造』の著者は九鬼周造です。造の字が違っていました。「『いき』とは異性に対する媚態の洗練である」。「セクハラ防止とは、もっと洗練させよという意味」だと、九鬼周造もかろうじて許してくれるかも知れない...。ハイデッガー『言葉についての対話』(平凡社文庫)では、この今世紀最大の哲学者が九鬼の「いき」と日本文化を理解しようと真剣に努力しています。なお、19世紀最大の哲学者ならぼくは躊躇なくニーチェを上げます。18世紀にはいなくて(哲学以外ならマルサス)、17世紀はライプニッツです。Aさんからは、「I T」に関して意見を聞かせて欲しいという要望がありましたが、政府がさわいでいるのでそのうち「I T社会学みたいなケッタイなものも出来るだろう」といっただけです。しかしコンプロ先生でもあるので、こっちの方の資格で一言答えておきます。
「I T社会というものがTV、雑誌でやたら騒がれるので、よけいに怪しいなと思います」(Ms B)。Bさんの直感は非常に健康だと思います。出所は来年度予算に11兆円計上予定、というところにあります。金に集ってるだけなのです。
I T に関して世界の政府(特に米国と日本の)が騒ぐのは、公共投資先として道路もビルも落ち目になったので、税金を注ぎ込むには目下最適なインフラだというのが、大きな理由です。諸君に聞きたいけど、現状のインターネットでは遅くて使い物にならないと思いますか。ぼくはそう思いません。大学でこうして使用したり、人々がメールで用をたしたりするのに遅くて全然使い物にならない状態ではありません。
このインフラを光回線を使用して高速化するのは、企業活動に便利になる部分の方がはるかに大きいと思います。ぼく自身は、そんなことに使うくらいなら政府・自治体の情報や、特許を含む企業の内部情報の全面的公開に使う方が――もっと一般化していうと「情報公開」に使用する方が――重要だと思います。だが、これではインフラ投資として「うまみ」がないので、I Tなどという人々が食いつきそうな変な新語を使って煽っているように思えます。もともとインターネットはマスコミと対立する発想から出たものですが、やっていることはマスコミと同じになりかけている、というわけです。「1.私はcivitasを作り出せるのは人間であり、2.また秩序を作り出せるのも人間であると思う。3.個人とcivitasの妥協点がモラルなのではなく、個人とcivitasは対立しておらず、4.モラルは個人と個人との妥協点であると思う」(Ms C)文中の番号はぼくが付けました。それぞれ違った論点のように思えたので。また、civitasは国家と直訳します。
前回述べたように、Cさんの見解がぼくと違うから引用しているのではありません。期せずして功利主義の論点を良く再現しているように思えるので、長く引用しただけです。Cさんだけにでなく全員に講義で述べたことをくり返しますが、諸君が近・現代社会の問題を、ただちに解決する方策を見つけようなどと考える必要はありません。自分の論旨を徹底的に突き詰めてみることが最も重要です。大学とはそのような場です。(ぼくのこの見解に賛同された方が2名、それだけでは終わらないと反論された方が2名いました。)<P> 「人間は法やきまりがないと生活できないのだろうか。きまり、というけどそれを決めたのも人間なのだ。道徳を決めるのも人間」(Ms D)。実はこの問題、ものすごく(おそらく一番)見極めが難しい問題です。どの時代のどの民族でも、生活の「きまり」を作ったり守ったりするのは人間に違いないから、「人間が決めた」というしかないです。しかしぼくたちが太古の縄文人だと考え、「裏山のドングリの木を切ってはいけない」という「きまり」に従ったと仮定します。このときぼくたちは「きまり」に従っているのだろうか、それとも「自然」に従っているのだろうか。ぼくは後者だと考え、これをあえて「習慣」「掟」などと名付けました。法律にはこの側面が欠けています。下の「臓器移植」のことと比較してみて下さい。 「私=個人でないとすると、脳死臓器移植は成り立たなくなる恐れがあります。ドナー・カードに署名したけど悩んでいます。ちなみに先生はサインしましたか?」(Ms E)。ものすごく重要で深刻な問題ですね。ぼく自身がドナー・カードに接したのは、1979年米国で自動車運転免許を取ったときでした。免許証とともにドナー・カードが送られて来て、よかったら提供してほしい旨の書類が入っていました。しばらく考えて、ぼくは署名しませんでした。
1.には逆の意味で同感です。前回述べたように「ライオンの国家」のようなものはディズニー映画にしかなりません。動物には「種の維持」のために同類を増やす傾向があります。しかし国家が人を増やす(近年も「少子化対策」などというキャッチフレーズがある)のは、兵隊を増やす、税収を増やす、労働者を増やす、などが動機で、種の維持とは無関係です。
2.に関し、前提としてすべての人々がCさんと同じ思考と行動であれば「秩序」などはもともと無視していい程度の問題です。現に多くの功利主義者は暗黙裡に「理想の人間」を考え、これを市民と呼びました。また、すべての功利主義者が「教育」に関心を持ったのも「理想人間」を作るためです。中でもロックの教育論が後世に影響が大きく、またルソーは一風変わった教育論を書きました。教育改革論議が起きるのは、下線をした前提が成り立たないためではないのだろうか。
3.は4.につながる論点のように思えるので、まとめて考えます。4.で主張したいことは多分、モラルは個人間の争いを調停(というより回避)するためにある、ということと思います。これなら、モラルを法によって補強する必要はないわけですね。「法人」も法によって個人と見なされますから、不良債権・債務処理などもモラルで解決することになります。この理解でよいですか。
決めるのはEさんの「自由意志」だから、ぼくは指図できません(こういうところだけは「自由」なんだね)。だが法律はこれを認めているので、臓器移植は違法行為ではありません。「自然」に反すると思うが、法律には反しないのです。ただし、悩んでいるのはEさんだけではありません。貧しい人や後進国の人々が金銭で「臓器提供者」にされてしまう、という問題は早くから起きていました。フィリピンなど東南アジアに、腎臓などを金で売った人々が居ることはすでに事実です。また米国では、カリブ海地方からの移民が「臓器提供者」にされていることも、指摘されています。
「麻薬は許されないが煙草がまかり通るのは何故か。法が取り締りうる範囲はどこからどこまでか」(Ms F)。法理論上は憲法に反しないかぎり、ということになります。憲法も法だと言われると、ぼくは答えに窮しますが、しかしそういうことです。 「小林よしのりは功利学者ということですか」(Ms G)。「功利学者」という言葉はないから「功利主義者」の書き間違えか? 図書館のある友人に、こんな名前の人知ってると聞いたら、ゴーマニズムの人だとのことでした。そういえば随分以前にそんな言葉を聞いたことがあり、チラッと見て全く関心が持てなかったから、よく知りません。漫画だのテレビだのは衰弱しきっているから、どっちでもないのじゃないですか。それよりその図書館の友人に、こんな本をやたらに大学図書館で買わされるけど、先生方それでいいのですかと、随分叱られました。みんな、流行に気を遣って生きているのですね。 「人間は理性的で無秩序な動物ということだが、この2つは矛盾するのではないだろうか。それとも人間は両方を有する複雑な動物だということだろうか」(Ms H)。参ったなー、今日はぼくが叱られる日みたいだよ。
Rene FoxとJudith Swayzeyというれっきとした「社会学者」が出版した"Spare Parts"(1992 Oxford)という本があります。これによると、2人は1980年代から「臓器移植」は有意義なことと考えてさまざまな事例研究に取り組んできたが、実状に接すれば接するほど移植自体が「いけないことだ」という判断に達し、この本を出版したと書かれています。2人は「人工臓器」の開発にも否定的です。(この本には邦訳があると聞いています。探してみて下さい。題名は原題と違うそうです)。
17世紀にHobbesは「人間は人間に対して狼だ」という前提から出発しました。20世紀末以後は、狼などという人に優しい動物ではなく、「人間は人間に対してスペア・パーツだ」ということになりそうな予感です。人間はどこまで落ちるのだろうか。これも、ぼくには顔の見えない、しかしまだ脈々と生きている功利主義の仕業としか思えません。
それはいいとして、これはぼくが言ったことではありません。功利主義者の人間観、として話したのです。ただし、どんな動物でも群や生息地から引き離して「個人」(個体)だけにすると、「理性的」の方は別にして行動が支離滅裂になります。「動物園」がこれです。『生殖と世代継承』によると、かつての霊長類研究は動物園の中のサル(マントヒヒなど)を研究対象にしてきたので、サルでも近親相姦など平気でやるから他の動物は当然やるだろうと考えた、と書いてあります。
サル学は、ノーベル賞こそもらわないけど日本の学者が世界に貢献した代表的事例で、この革新的意義はなるべく野生のままサルを研究するという点にありました。サル学のこの精神にもとづく霊長類研究や、同様の動物行動学研究の結果、人間が「理性的」だから近親相姦をしないのではなく、もともと野生の動物に近親相姦が存在しないのだ、というのが今日では広く認められた定説になっています。この結果、エディプス・コンプレックス説などは人間が頭の中で考え出した心理学説に過ぎない、と書かれています。 ぼくは「理性的」というのは、上の例のように端的に人間が頭の中で都合よく考えだした自画像に過ぎないと考えます。そうではなく、もし環境に適応して生存してゆく能力を「理性的」というなら、あらゆる動植物の方がはるかに理性的ということになるでしょう。もちろんこの動植物の中には「野生の人間」(未開人)も含まれます(文明人のせいですっかり絶滅しかかっているけど)。 この話題をきっかけに、男子諸君の方に移ります。「人間以外に理性的な動物は絶対にいないのでしょうか。唯一、というのがエゴっぽく聞こえますが」(Mr A)。「人間が唯一理性的動物とはいえないのじゃないか」(Mr B)同感です。上に書いたのがぼくの見解です。生物学者や生物生理学者はこれを認めると思います。社会科学者は認めない人が多いらしい。諸君ももっと生物学の本を読みましょう。その一環として「ホミニード研究」をやる方が正解ですよ。
「法律の根源に人間が唯一の理性的動物という大前提があるとは!」(Mr. C)。本当に「!」だね。ただし、アジアのために一言弁解しておきます。今日講義で話した功利主義の形成には、アジアは全くコミットしていません。これは西欧キリスト教圏で起きたことです。アジアは、大砲で功利主義が市場経済まで発展したツケを支払わされました。
ただし、第2次大戦後の日本は無関係とはいえません。欧米に輪を掛けて功利主義の隆盛に貢献しました。ぼくの学内サイトの中から、「過去70年間の日本の就業人口」というグラフを見つけて下さい。ずっと60パーセント程度はあった農業人口が高度成長以後急落し、今では7パーセントにまで落ち込みました。この結果、市場経済とそれを後押しする国民国家が跳梁する国になりました。それだけではなく、開発経済と称してアジアの農業破壊と工業化にも、残念ながら「先進的」役割の一端を担いました。そのプロセスの中で、社会学も他の社会科学も「自由な個人」と「法と国家」の妥協点(この妥協問題を社会問題といいます)探しで他のことを考えられなくなった状態でいます。
『荘子』には「人間が知っていることなど、知らないことに比べればものの数ではない」という意味の文章があります。中国人も、気の利いた人は人間が「唯一理性的」などと考えたことはなかったようです。 「習慣と法律とが調和することはあるのでしょうか」(Mr D)。
ここでの「習慣」とは、心理学的なものではなく、特定の生息地に長い間生き延びることによって形成された群としての「習慣」という、ぼくが講義で断って使用している意味に取ります。したがって、宇宙の中で出来た「自然の行動様式」です。
この意味に取れば、残念ながら調和することはほとんど不可能と考えます。法律とは「人工物」だからです。『社会システム論と自然』(挾本 2000 法大出版)に、次のような興味深い計算式が掲載されています。あるシステムに起きるフェイリュア(不完全さ)を k % とし、何回もこの不完全さを修正していく場合に可能なシステムの完成度を p とすると、p = (1-k / 100) + Σ(k / 100) ^ n < 1 ( ^ は羃乗)
仮に100世代(約3000年)掛かって出来上がった「習慣」の完成度を限りなく1に近いとすると(この位の時間をかけると、不完全なものは生存を続けられなくなる)、法律などはこの10分の1にも及ばない人工物だからです。
なおD君の参考のために言い添えますが、西欧にも法律の不完全さを断言した人がいます。それは『法の精神』の著者モンテスキュー(Montesquieu)です。このために、彼もあまり社会科学の中で取り上げられない人です。 「若者に...健全なモラルは法によってはぐくまれるものだろうか」(Mr E)。
出来そうな気がしないですね。もし出来ると思われる方は、法の本質は刑罰にあるのだから、お申し出下さればどんどん落第させます。そんな人、居ないでしょうね。 その他、同様の「理性」懐疑論がなぜか男子諸君に数人居ました。この事実と関係ないと思いますが、功利主義者や啓蒙主義者は男女の差について笑ってしまうような見解を持っていました。「男子は理性的である。女子は感情的である。だから、男子の理性と女子の感情を融合させると道徳の花が開くのだ」。要約するとこんな具合になります。何しろどっちも善意の固まりで必死の結論がこれだから、ふるっているね。こういう人の作品を読むと、漫画なんか目じゃないくらい面白いですよ。ぼくも男子だから疲れる部分もあるけど。 「ルソーの本は色々なことが提唱されていて、理解に時間がかかる」(Mr F)
F君、そんなことないですよ。彼はボルテール(Voltaire)のような狸じゃないから、言ってることは単純ですよ。信じるかどうかは君次第だけど。彼が言う「特殊意志」というのが個人の自由意志で、「一般意志」というのが今日述べたcivitasのことです。 ヴォルテールがらみで「先生はタレント学者についてどう思いますか」(Mr G)。うーむ、あまり考えなかったけど、職業に貴賤はないそうだから食うためにやってるタレントだったら、止めろと言うのは可哀想だけど、大学から給料もらうのはどうかなー。それより、一般論としてはマスコミにとってはタレント学者というのは安あがりなお弁当の佃煮みたいなものなのですね。「料理評論家」とか「トイレ評論家」とか居るでしょう。あれと同じで、この番組は「若者諸君」も支持していますという象徴というか、混ぜご飯のコンニャクというか...。見る学生の方が悪いのじゃないだろうか。ぼくはニュースとドキュメンタリーと、あとNFLとか以外は見ない人だから、あまり詳しくないです。ご免なさい。 「Utilitarianism をなぜ功利主義と呼ぶのだろうか」(Mr H)。これは重要な質問ですね。この機会に、功利主義という言葉の説明をすこし補足しておきます。今日ぼくが上げた人々は、他にいろいろな呼び方がなされます。しかし細々呼び分けたら妥協点が見つかるというものではないから、7項目にわたって説明したような考え方をする人々を一括して「功利主義」の名の下に大づかみにしました。 もっとも狭い意味では、功利主義者とはジェレミー・ベンサム(J. Bentham)とその影響下の人々を呼びます。これは重要な講義の補足なので、記憶に止めて下さい。彼は18世紀末の人です。その影響下の人の代表が、ミル(J.S. Mill)だとされています。このあたりの話は次週になります。
そのベンサムですが、彼はどのようなことを言ったかというと、結論的には今日講義の中で述べたのと同じことです。 質問の中心に戻り、ベンサムは「最大多数の最大幸福」というモットーで知られています。utilitas というラテン語は、この「幸福」や「福利」を指す言葉です。utilitas publicae という成句があり、これをロックなどが早くに論じましたが、イギリスの学者はロックのこのラテン語を commonwealth と英訳しています。辞典を引くと公共の福利、国家、などと訳されています。特殊な国際法上の用法としては「自治州」という訳があります。米国の属州であるプエルト・リコがこれに相当します。
このように考えれば、utilitas を追求したいと考える utilitarianism を「功利主義」と訳すのは、漢語の熟語から取ってきたにしては、むしろ名訳だと思います。残念ながら、この名訳を誰が考えついたか、ついに分かりませんでした。おそらくラテン語も英語も漢語もしっかり理解できる、明治時代の日本の知識人ではないかと思います。
「功」は手柄、「利」は褒美。手柄を立てたら、国家が褒美をやる。褒美をやれば、みな国家のために働く。ベンサムの言っていることは、結局そうなるので、けだし名訳です。
ただし、功利主義には「罰も重要」という側面があります。国家にとって手柄を立てないものには、罰によって苦痛を与えるのです。この問題が近代国家の根底にあることは、有名なミシェル・フーコー(Michel Foucauld)の『監獄の誕生』(邦訳は新潮社)の中に活写されています。この本はきわめて有益な本なので、ぜひ早めにお読み下さい。同じフーコーのものに、『狂気の歴史』という対になる著作もあります 最初に言い忘れましたが、今週最後に残った人々は30名でした。何とかその半分まで引用しましたが、まだ独自のものが2通ほど残っています。「国家と経済とは違う」(Mr I)。これはどういう意味だろうか。政治と経済は学科が違うなどという単純なものではないと思います。ぼくは学生諸君の見解はなるべく善意に解釈する主義を取るので、国家には企業活動などに帰すことが出来ない重要な活動領域がある。外交とか軍事とか財政とか。このような意味に解してみます。それなら、取りあえず同感です。
ぼくは、自民党だけに限ると橋本龍太郎のファンで、彼は不況を承知でこれらの重要事項に正面から着手しようとした首相でした。しかしその結果、参議院選挙で惨敗させられました。それを受けて小渕内閣が「経済再建内閣」を標榜して成立したことは記憶に新しいところです。米国でも、大統領テレビ選挙最大の争点は財政黒字の使途だと報道されています。現代では、国家はひたすら経済の後追いをさせられる存在ではないだろうか。後追いの中で「違う点」があるとすると、利益は企業へ、リスク(不良債権処理に公費を投入するとか、戦争とか)は国家へ、という廃棄物処理場状態なのではないだろうか。こうなる理由は簡単です。国家は国民から税金を取れるから。I君の真意は「これではいけない」という意味だと、当面解しておきます。ぜひ真意を教えて下さい。もう一つは、ぼくのマイクの使い方に関する「個人の癖」を止めてほしいというもので、これは公表するより、ぼくが気を付けることにします。
では次回もよろしくお願いします。来週は予告に従い、「社会学の意義」という主題に移って話しを続けます。おそらくベンサムやミルや、最近彼らを歴史の中でにらみ付けた、ミシェル・フーコーなどが話題に上ると思います。では教室で。
10/18
更新が終わりました。これが最終版です。
これだけでは頭が寂しいから3行分だけ書き足します。米国の大統領選公開討論を見ましたか。どんな時に米軍派兵をするかに関し、ブッシュは「米国の国益に適うとき」と論じ、ゴアは「アメリカの価値を守るとき」といっています。ゴアによると「アメリカの価値」とは何と「市場経済」なんだそうです。これが歴史的事実に反するのは措くとしても、米国農産物を買わないと派兵するのかなー。もっとも「国益に適わない」という理屈も成り立つから、ブッシュでも派兵はできるけど。
ニヤケさんと七光りさんのあの2人、著しくやる気をなくさせるね。米国有権者に同情しているこの頃です。諸君、米国大統領選挙直後を警戒しょう。 「ヌアー族についてもっと知りたかった」(mlle a)「国家がない社会は人類にもまだ残っていると思いますが、それについて知りたい」(mlle b)
aさんのお陰で、肝心なことを教室で一言述べ忘れたと気付きました。『ヌアー族』を読んで下さい。著者は「ヌアーには国家がない」ということを特に論じています。またbさんの希望は、講義の始めの方で述べた口蔵幸雄『吹矢と精霊』を読むことによってよく満たされると思います。
ただ、非常に残念なことにこのような社会は今世紀後半になって加速度的に減少し、ほとんど消滅しかかっています。わたしたちは、他生物の絶滅種についてだけ危惧するのではなく、人間の文化の絶滅についても同じほど危惧すべきではないだろうか。なお、bさんから「ピラミッドは公共事業だったという説が主流にはならないだろうか」という質問がありました。若干補足すると、某君が「ピラミッドは奴隷に作らせたのではなく、労働者として雇ってちゃんと給料を払ったとする説がある」(この方名前が書いてないので下の35人に加えられないのです)と、解説してくれています。面倒だから労働者だと仮定してしまいましょう。そう仮定すれば、エジプト文明は悲劇でなくなるだろうか。やはり巨大な悲劇です。湾岸戦争を戦った兵士も、双方奴隷ではなく給料を貰っているのです。兵役は失業対策だという説があります。裸だけど狩猟採集で自活しているのと、国家なり組織なり軍隊なりに「雇われて」働くのとどっちが動物園に似ているか、とお考え下さい。「公共事業」について今詳しく説明しませんが、現代経済のようなものを前提としないと公共事業は意味がありません。
さて、今週は35人の方々から、実質のある興味深い文章が寄せられました。以下コメントします。内容は、例によって強いて分類すると:
また仮にエジプトで王が献身的に、食べられなくなった「労働者救済」に身銭を切ったと仮定したら、あのような黄金にまばゆい壮麗な王墓を作るものなのだろうか。考古学者も結構自己主張するのに大変なことは分かるし、色々な説があってかまわないが、それとは関係なくやはり人類の巨大な悲劇のモニュメントという考えには、別に変化はありません。
1)四大文明グループ(5通)
2)「まつりごと」グループ(10通)
3)「国家論」グループ(15通)
4)その他〔端的にいうと「動物園」グループ〕 5通)
でした。
なお分類は、どんなトピックがあったかを多くの諸君に分かりやすくするための便法で、これ自体にはあまり大きな意味はありません。複数の分類にまたがる文章もあるし。
さらに、文の主旨がぼくの見解に一致するかどうかは判断対象ではありません。異論を排除するつもりはないから。取るのは叙述の強靱さ、美しさ、などです。
とにかくこの35人の方々のリストは、一括して作ってあります。 2)が数多かったことは心強いです。日本人が今のようなエコノミック・アニマルでなかった遠い過去にどのような宇宙観を持っていたかは、もっと知る必要があるからです。 1)は、ほとんどが「四大文明は人類の過去における悲惨の遺物」という見解に対する賛同や、驚きの表明でした(「表明」の文体が優れていたものという意味です)。なお、この衛生放映を見られなかった人は、とても損をしたことになります。だが、紀伊国屋仮想書店というオンライン本屋に、このビデオ・DVDを売っている場所があります。5回分で2万円程度します。ぼくは高くないと思い、全巻DVDで注文しました。VHSかDVDのプレイアーをお持ちなら、諸君にもお奨めします。講義で上映などは、半期講義ではとても無理なので堪忍してください。悪しからず。
ところでこの数字、どこかおかしいと思いませんか?四大文明なのに、5枚というのは。その理由は、『謎のマヤ・アンデス』というのが加わっているのです。中でも、不思議さで際立っているのはテオティワカン文明と通称されているものです。新大陸の多くの文明は、スペイン人などヨーロッパ人の征服によって滅びました(他民族の征服も国家の行為なのです)。しかし、このテオティワカンはその(15〜16世紀)以前に、大規模で壮麗な遺跡だけ残して、消滅したらしいのです。今この付近には、おそらくこの中の人々の子孫に違いないメキシコ人が、粗末な野良着でトウモロコシや豆を栽培しています。
これは、「文明が滅びても、別に人間が必ず滅びるわけではない」(言い換えると、国家が消えても人間と社会がなくなるとはいえない)という当たり前のことを目撃させてくれる、貴重な遺産だと思います。このことは、「国家論」グループの人に特に考えてもらいたいと思います。皆に聞きたいが、現在の文明と国民国家がなければ人間は生きて行けないと、本当に思えますか? 次2)です。民俗学と国語学は、「まつり」という大和言葉と「まつ(待つ)」は同じ語幹を持つとしています。「まつりごと(祭事)」はまた「まつらう」ともいいます。待つ対象は、八百万の神、すなわち祖先の霊などです。うるさい理屈ですが敢えていえば、祭りの意義は、過去と未来にわたってわれわれにつながる祖霊たちと一堂に会し、一体性を確認することです。悪いことをした人は、この折に悪かったと非を認めるのです。このことを「穢れを払う」と言います。
「祭りに何かの政治的意味があったのだろうか」(ms c)。一体性を確認することが、今日の意味とは全く違うが政治的意味です。
「室町時代の惣は小さな国家だろうか」(mlle d)。室町時代の、と特定してあるので、これは難しい質問です。惣はもっと以前からあったと考えられ、同じ部落農民の祭りの単位だったに違いないと思われます。国家ではありません。しかし、自治的単位を国家が騙してその下部組織(下請け機関)にすることは、国家が洋の東西を問わずよくやることです。開けた地方ほどこれが起きやすいので、この時代には国家の下請けに取り込まれたものもあったに違いないと思います。
室町時代まで下らなくても、古代文書にすでに「まつろわぬものを平らげ」という表現が現れます。「まつろわぬもの」というのは、国家から見て命令に従わないものの意味です。これを「武力で従わせた」という意味です。まつりごとに「政」の字が当てられることが、すでに国家の生理の登場を物語っています。中央集権国家が早く出現した中国では、話はもっと露骨になります。甲骨文字・金文の日本における専門家白川静の『字通』によれば、「政」の字は正しいに戟(武器です)が加わった会字で、矛で正しくさせるの意とされます。国家から見て「正しくないもの」を武力でやっつけることです。「政教一致」について述べた人がいますが、「政教」とはもともと征服し、かつ国家の断定する下等な人間を「教育」することです。文明の生理丸出しだね。
一方、政教一致はどちらかというとヨーロッパによく当てはまる概念です。国家が登場すると、祭りそのものの意味が、上にのべた親族集団なり部族なりの一体性を確認するものなどとは、大いに異なってきます。軍隊の栄誉礼ではないが、祖霊などにではなく、国家にさえ忠誠を誓ってくればいいのです。ところが、土俗の中にあった祭りは破壊されるから、それに代わるものが必要になります。キリスト教などです。専制君主はほとんど例外なく、君主の権威はこれら世界宗教(文明化が作った普遍宗教)の神に由来すると自称しました。これが政教一致です。
「バチカンは国家ですか」(mlle e)。(1)バチカン(正式にはバチカン市国)は、手っ取り早くいうと神聖ローマ帝国のわずかに残った痕跡です。(2)今日の国際秩序は、国家同士が国家であると認めたものだけによって構成されます。その都合上、この国家たちはバチカンを国家と「認定」しています。以上2つのの意味で、バチカンも国家です。「まつりごと」グループにはもっと取り上げたいものがあるが、先に進み3)に移ります。
「(ゴリラの社会は規模が小さいが)武力を持った人間社会の紛争は被害が大きすぎる。国家は絶対に必要だ」(ms f)。これが、現在標準的な国家論です。普通の人なら、多くをこれで納得させられるでしょう。それとは別に、f君にぜひ考えてもらいたいですが、人間集団はもともとこれほど大きかったのだろうか。それとも国家が出現し、その上に市場経済が成立し、その結果として多くなったのだろうか。もし前者なら、国家は論理的にいつでもどこでも存在しなければなりません。もし後者なら、前提と結論が逆転していることになる。どっちだろう?
「国家論」グループはさらに2つに大別されます。
(1)文を引用しませんが国家起源がいつ頃、どのようにして起きたのだろうかというもの(4通)。これはものすごく重要な問いだが、答えられません。四大文明にお分かりの通り、約4000年以前であったことは分かります。どうしては、具体的に分からないのです。意外に思われるかも知れないが、『荘子』(岩波文庫)などを読むと、おぼろげに浮かんでくるものがあります。ぜひやってみて下さい。この本は大学生の必読書です。
この機会にぜひ分かって欲しいことを書きます。国家は、決して「どこにでも」出現したわけではありません。ここに載せましたが、紀元元年前後(弥生時代?)の地球人口は3億人程度だったと推定されています。この中でこの頃都市化が進んで国家がはびこっていた場所(地球上で4カ所程度)に居住した人口をそれぞれ一〇〇〇万人(実際には多すぎる)としても、10分の1以下です。これは往々忘れられる重要な事実です。
「国家が本当に必要かどうかは、そこにいる人々が決めるべきかなと思った」(ms g)。いわゆる自己決定ですね。自己決定は来週講義する功利主義が自明としていた大前提なのだけど、何で今頃こんな言葉を流行らせるのか、怪しいね。でもディベートだともてはやされるかも...。それは別として、どうやって決めますか?東チモールが「インドネシアから分離したい」という住民投票をしただけで、部落皆殺しの大惨事が起きたのは昨年だったですね。国家とはよくよく厄介な代物ですね。
このような疑問に対して、hさんの文は重要な考慮事項を提供してくれます。「国家の役割が争いの調停だとすると、その国家に信用性があることが必要だが、私たちはどれだけ信用していいのか疑問」(mlle h)。この通りです。信用できないことが、国家という怪物の最大の弱点です。さらに、時代とともにこの信用度は低下していると思われます。
もっとも、テオティワカンのところで書いたように、国家がなくなっったら人間社会がたちまち生存できなくなるのでもないようだから、じっくり腰を落として私たち(国家ではなく)がどうするか、どうできるか、考えれば充分ではないだろうか。hさんの見解はきわめて重要でした。 「国家論グループ」の中に、次のような真意不明のものがありました。「国家より社長がえらい」(ms i)。今回は「やけくそ」に書いたのではなく、よほど深い内容があるかも知れないと「好意的に」解釈して、一応取り上げました。よかったら次回にぜひ真意を教えてくれることを希望して、その前提ですこし解釈してみます。「a 政治家より経営者になりたい」。これは、頑張ってねと言うしかないね。どっちにもなれなくのはやめてね、と。「b 経営者は放漫経営で不良債務を出しても国家が公費(税金)で補填してくれるから、前者がえらい」。これは、hさんの言う信用性の低下に大いに関係していることですね。もっとも、経営組織一般の方の信用性も、これで大きく低下するのじゃないだろうか。
『有閑階級の理論』(岩波文庫; この本も読んで下さい)で有名なヴェブレンは、今世紀初頭に経営組織を「不在所有制 absentee ownership」と名付け、経済学が作り上げた最悪の組織だと論じています。この本は邦訳がありません。図書館で「absentee ownership」のキーワードで引いて下さい。都合が悪いから訳されないのじゃないかと疑いたくなるが、大学生で外国語が出来ないのはものすごくハンディキャップになります。
まだ他に解釈の余地があるかも知れないが、i君自身の真意の告白を待ちましょう。「動物園」グループは、例によって個性的です。
「ケンカすると裁くところがあるからケンカするんですね。しかし動物にはそれがない...」(mlle j)。ホント、離婚調停を申し立てるゴリラなどは、漫画だね。「野生の動物は、人間のように管理されなくても強く生きている気が...」(ms k)。これも本当だね。人間は何故これが出来ないのか、不思議だね。管理されることが好きなのだろうか?「動物のように単純に頂点を目指す生活はシビア...今の国のシステムに乗って生きる方が楽なのかも知れない」(ms l)。つまり管理されるのが好きなのかも知れない、ということですね。人間を、嫌いになりそー!
「野生動物は生態系に組み込まれた存在だが、動物園の動物は生態系から外れた存在...」(ms m)。そういうことです。これは今回の最秀作の一つでした。「『ソフィーの世界』を読んで、プラトンが理想国家論を述べ、智恵ある者が統制すべきだとしたことを知った。動物には先を見たり、物事の違いを考えたりする力がない...(から理想国家論が出来ない)。しかし、人間はなぜ国でなければいけないのだろうか。理由が分からない」(ms n)。
n君の勉強に敬意を払います。その上で言いますが、ここに関しては著者のゴルデルは誤っているのです。『生殖と世代継承』の第2部第3章をお読み下さい。以下はの中に明記してあります。
次回は予告したように、過去200年にわたって国家の存在意義を説明する理屈として今も信じられている「功利主義」について、なるべくわかりやすく解説する予定です。
ヘラス(Hellas)の地にやってきたギリシャ人は、まだ部族社会だけで生きていました。ヘラスは土地の名前であると同時に、多分部族名です。しかし、プラトンの時代には、アテナイを先頭に国家の形成が進みました。プラトンの師匠のソクラテスは、部族と国家の板挟みになって死にました。プラトンはこの国家が良くないと感じたはずです。それが理想国家論を書いた動機です。プラトンには理想の法律を論じた『法律』という作品もあります。
良くないから理想国家を考えよう、という知恵の働きのようなものが、躓きのもとです。「国家」はどうやっても「理想」にはならないからです。理想監獄を考えるようなものです(実際にやった人がいます。ベンサムです)。諺に「地獄への道は善意によって敷き詰められている」というではありませんか。動物は知恵がないから考えないのではないです。ぼくは人間と知恵比べをやって勝つ自信があるけど、動物とでは負けると思います。
ぼくが動物なら、理想国家なんか考えずに逃げてしまいます。実際そう考えたかどうか証言はないが、多くのギリシャ人はあの土地から逃げ出しました。塩野七海の新作『ローマ史』によると、ローマ人はギリシャ人にだけは頭が上がらずコンプレックスを持っていたそうです。塩野はその理由を書いていないが、あの馬鹿げた大帝国にずるずると堕していったローマ人がギリシャ人に頭が上がらなかったのは、無理もないと思います。
n君の最後の問いが重要です。「国」と考えたのが、いわゆる敗因でした。プラトンの理想国家論も、四大文明と同様に悲劇を間接に証言する名作なのです。ゴルデルも人間ですからおかしなことをたくさん書くでしょう。読むことはよいこと。しかし信用できるかどうか、自分で考えて下さい。今考えても分からないときには、ペンディングにして先に進みましょう。社会学者ジンメル(G. Simmel)は、人間から人格性(動物らしい人間らしさ)を剥奪したのは「法と貨幣と知性」だとしています(『貨幣の哲学』)。プラトンは、その第一歩を踏み出した人です。
明白な法則性を説明することはさほど難しくないです。「水は熱すれば沸騰し蒸発する」のように。でもこの功利主義というものは、たとえていうとまるで「水は熱すれば冷たくなり」「沸騰はするが蒸発せず」みたいな議論で、易しいと保証できないけど極力努力しますから、諸君の協力をお願いします。
何でこんなものが200年も持ち、今現在も社会学者・経済学者・法学者・政治学者、考えられる限りの分野の学者に信用されているのだろう。天動説のようなものか?人間は、とくに近・現代の文明人はあまり賢くないみたいだよ。
10/11
今回は67人の中から44人のものを選び出しました。実際には一人一人顔が違う(生物の多様性ですね)ように分類できないのですが、ここにお答えを書く必要上、何とか4つ程度に分類して見ます。意見も質問も一緒にします。 1)大学全体に関わるもの(12名)
2)言葉の汚染に関するもの(6名)
3)習慣と法に関するもの(18名)
4)その他(前回の講義にも関連し、分類しにくいが重要なもの)(8名)この中で4)は名前こそ「その他」ですが、個性的なもの、興味深いもの、など重要度の高いものです。
まず順に1)から。
正反対の具体的なものだけど「テストの形式の説明などが今後あるのだろうか」(Bさん)。質問だから答えます。必要なことは『履修要項』にあります。Bさんの名誉のために一言付け加えると、Bさんはこれだけを書いたわけではありません。最初に述べたとおり、44人(今回の数)の中に選んだことは毎回記録に止めています。良いものは評価に加味します。どうか単位のことなど忘れて内容に関心を持ち、書き続けてください。それは単位という「儀式」に良い結果をもたらすと思います。 1)のこれ以外は、講義の特定内容が、従来考えてみなかった問題だったが「考えるに値すると思った」(C君)とか、「自分で考えよと言うことだと理解した」(D君)など、ぼくとしてはぜひそのように受け止めてもらいたい具体的なものでした。 次に2)です。
「この講義は社会学なのでしょうか。ちょっと馬鹿な質問なのですが」(A君)。A君の質問は端的で明快です。決して馬鹿な質問とは思えません。それより、社学のすべての講義について、同じことを(先生にとはいえないけど、自分自身に)問うてみて下さい。
ぼく自身の答えは次のようです。ぼくは社会学とは、「国家」や「法」や「組織」や「お金」をあらかじめ前提とした社会科学を拒否し、社会はそんな所に出来ないよ、と主張する学問だと考えます。それ以外の何ものでもありません。だからぼく自身は「社会学」の本質を諸君にわかってもらおうとしているのです。
逆に、この事実を認めない、または認めたくない人は、社会学じゃないというでしょう。社会学は現代社会の様子が分かればよいとか、とにかく就職できればいいじゃないかとかと考える人です。この手の人は当面放置するしかないです。
言葉の汚染問題に関するものはすべて、「集団という言葉が汚染しているとはどのようなことかさらに知りたい」(Eさん)「言葉が汚染されているとはどのようなことかもっと知りたい」(Fさん)などの疑問に尽きるものでした。「言葉の汚染」と社会学の「集団」概念の汚染とは、結局的には同じことですが、一旦区別して、前者から説明します。
次に「集団」です。まずどれでも良いから『xx社会学事典』のようなものを引いてみて下さい。手許に偶然『社会学小辞典(新版)』(1997)というのがあるので(これは署名記事でないので好都合なのです)、ごく一部だけ「集団」の項を引用してみます。
「言葉の汚染」の最大の根源はマスコミ、その次は大学です。前者も後者も、諸君の年代の人々にとっては、家庭以外に接触できるほとんど唯一の外界です。前者の特徴がステレオタイプ(紋切り型)にあることは説明の必要がないと思うが、最近は大学がマスコミと連動するようになりました。「人口爆発」「高齢化」「援助交際」「ジェンダー」「公的介護」など、どれもよく考えると重要ではあるけど、そんなこととは無関係に、最近5年ほどの間に騒がれ、ついで泡沫のように消えていこうとしています。これらが流行するのは単に世間が騒ぐからで、騒がないとマスコミは商売にならないから今後もそうするでしょう。
大学の方は、世間が騒ぐから「解決する理論」なるものを諸君に提供しようとし、学生がこれらの話を聞い満足し、世間が騒がなくなれば次の社会問題に向かい、というように、大学がマスコミ同然の繰り返しに陥りつつあるのです。ぼく自身はこのようなことを経験し、演習の諸君には「大学にいる間はなるべく無駄なことをしよう」と呼びかけていますけど。小手先の流行語でなく、もっと根本から考えるようにしよう、という意味です。大学は「問題解決」を教えるところではないからです。「集団: 社会学では社会集団のことをいう。複数行為者のあいだの相互行為や......人間と社会とを媒介する中間項として働き...成員要求の充足を行う点などが挙げられる...」(p.285ff)
その上、では人間が居て、社会があって、という前提はそんなに自明なのだろうか、と考えさせられます。さらに、こんなどれでもかまわない「集団」で人は満足に生存できるのだろうか。講義で言及した親族集団のような基本的なものを欠いても平気なのだろうか。そのような問題が大いに気になります。
内容がない割りにあまりにも長文なので、随分割愛しました(どれでもよいから、各自実際にやってみて下さい)。だがこの中で注目に値するのは、下線を引いたところです。この部分は「人間」が居るのは自明、「社会」があるのも自明、という前提がないと理解できません。そう思いませんか。こう考えれば、この長大な記事は「複数の人間がいるから出来るものが集団。その集団は社会の下位組織だ」といっているだけです。サークルでもクラスでも県人会でも、何でもいいらしいです。
これ以上は次回の講義の内容だから割愛します。しかし、親族集団とか、入会地を共有する地域集団とかのためにあった「集団(ドイツ語でGemeinschaft、英語でcommunity)」を何だか訳の分からないどうでもよいものと一緒にしてしまうことを、ぼくは「汚染」と呼んだのです。何故これが起きるかの理由は、次回にします。 ようやく3)です。
習慣と法は、今日の講義の主要な内容だったこともあり、さまざまな見解が寄せられました。この問題は次週からの主題にもなることでもあり、かつは数が多くて全員に言及できません。そこで、今回は典型的な両極の見方を上げて、それぞれを代弁してもらいます。(ア)「法は国家のためで国民のため。しかし習慣は自分のため」(Gさん)「ぼくは朝起きて歯を磨く習慣だし...」(H君)
この両極の中に、現代の非常に濃厚な内容が凝縮しています。G、H両君が「習慣」をこのような意味で使用することに、異論は全くありません(できれば「個人の習慣」と言葉を添えればさらに申し分ないです)。
(イ)「習慣と法とは異なるものなので、時として対立するはずだ。一概に言えないが、法治国家では法の方が正しいことになる...理不尽がある」(I君)「所有権が...裁判でしばしば争われる。入会地には争いは起こらなかったのだろうか?」(Jさん)「所有権など権利が発生することで、社会はいろいろと変化する。群を作って生きていた時代とどちらがよいか一概に言えない」(Kさん)。
しかし、両君の言いたいことはそのことだけではないように思えます。(1)現代人は、習慣を個人心理レベルでしか主張できない状態になっているのが実態ではないか。(2)群のルールを「習慣」と言い表すとしても、群のイメージが立たないように感じられる。このように両君は言いたいのではないだろうか。これなら、現代人が予期せずに追い込まれてしまった状態を、両君の文は期せずしてよく言い表していることになります。自分の「癖」なら分かる。しかし、自分を越えたものにルールを認めるのはいやだ。このように言い換えると、これはぼくの中にもある気持ちです。I〜K 3君のものは、このような対立・衝突が存在すると考えつつも、国家によって保証された法と権利とでしか物事を考えられなくなった現代人の心の葛藤(居心地の悪さ)を、よく言い表しています。実際、「一概に言えなくなる」というKさんの表現の通りの心境になります。来週はこの問題を、さらに露骨に掘り下げねばなりません。
この中で、Jさんのものには重要な質問が含まれていますので、これに答えておきます。「入会地には争いは起こらなかったのだろうか」。そんなことはありません。人間もただの不完全な(ということは自然な)動物ですから、入会地の争いはよく起きるのです。時には部落同士血を流す喧嘩もあったはずです。未開状態はユートピアだなどという話は、ルソー(J-J. Rousseau)や、その後の左翼などが作り上げた幻想に過ぎません。
ただし、喧嘩だけしている未開状態では、人間が長く生存することは出来ません。喧嘩は腹が減るし...。それはともかく、このような喧嘩には、どこかで飽きるなり仲直りするなりの妥協点がひとりでに出来上がるのです。同じ種の動物同士は、餌や配偶者をめぐって季節的に喧嘩するが、決して相手を殺すまで戦わない傾向がある、というのが動物学者の結論です。同じことが、人間という動物にもあります。青銅や鉄などの武器を使用して相手を皆殺しにするという戦いは、国家の成立と共に起きました。人間が生存のために持っていた良識を絞め殺した結果、争いが止まらなくなったのです。
さらにそれが発展すると、自動小銃や武装ヘリや爆弾を積んだ航空機が出現し、これが国家の名において使用されるようになります。「入会地の喧嘩」には、これは起きないのです。争いが起きないかという問いには、対人地雷を埋めるような「入会地の喧嘩」は存在しない、とお答えしておきます。
つい先頃まで、ウガンダの内戦で何十万という人々が一度に、しかもあちこちで虐殺されました。この地方は、1940年代まで国家が存在しなかったところです。ここに国家を持ち込んだのは西欧の文明国です。虐殺の武器を供給したのも、国連で「常任理事国」をしている国を中心とする文明国です。今午前2時過ぎ。明日も講義があるので、先を急ぎます。
最後に残った4)です。
「例えば王の一族が己の私利私欲のためだけに作った法律は法だろうか」(L君)。残念ながらこれも「法」です。それより、願わくばぼくたちの中央官僚はそんなことしないことを願いましょう。天下りとか...。東洋ではインドも中国も宇宙の法則性と人間の理論化した法則や法を混同しなかったが「西欧では混同されたとうのは、宗教が深く関わっているだろうか」(M君)。ご指摘の通り、宗教が深く関わっています。詳細は今は割愛します。
人間は宇宙の法則性を不完全にしか把握できないと聞いて「科学には永遠に終わりはないだろうと思った」(N君)。おっしゃるとおりです。完全だと考える科学は、凶器のようなものです。ところが困ったことに、上のM君がいう混同をやりやすい西欧が、なぜかこの科学の発祥の地なのです。だからいまだに、科学は危険なものだと注意すべきだと思います。科学技術となると、これは危険の域を超えつつあります。
小説家・劇作家カミュ(Albert Camus)『シジフォスの神話』という小品があります。人間が、どこまでいっても終わらない、危険なことをし続けることについて書かれています。今世紀の最も重要な哲学者ハイデッガー(Martin Heidegger)には『存在と時間』という書物があります。これには、現代人は探求すればするほど対象が遠ざかる、と書かれています。カミュもハイデッガーも、文庫で優秀な翻訳が買えますから、ぜひ読んで下さい。どちらも、今世紀の人間がすでに危険な動物と化したと感じさせるものです。もう一度申しますが、ぜひ読んで下さい。
今週までは、なぜこのようなことが起き始めたのかという最も重要な鍵に、なるべく触れないようにしてきました。来週は、そろそろこのような核心に触れないわけにいかないでしょう。では来週。
10/04
諸君がせっかく書いて下さったので、熟読しました。3時間以上かかりましたけど、面白くかつ有益なものが多数ありました。最初にお礼を申します。 もちろん、中には例によって「もっと易しい話を」とか「難解だから水準を下げてほしい」などの意見もありました。
ご免なさい。ぼくなりに把握しやすいようにする努力はしますが、水準を保持しながら、これ以上内容そのものを易しくすることは出来ません。大学の講義は、自分で咀嚼し、自分の胃液で分解しなければ無意味なものなので、これらの意見にはお応えできませんので、悪しからず。一方、意欲的に「では法は何を律しているのだろう」(Ms. A)、「自給自足社会には法は必要だろうか」(Mr. B)「もともと法と法則は別物だったのだろうか」(Ms. C)などの深い問いがありました。これらの方々は、もうすこしお待ち下さい。3回目以降にこのような問題に立ち入ることになると思います。
さらに、「人名は黒板に書いてほしい」という要望が、複数ありました。今日の講義で上げた人名は、ジョン・ロック(John Locke)、ライプニッツ(G. W. Leibniz)、ゲーデル(Kurt Goedel)、口蔵幸雄の4人です。折角だから大学のOPAKなどを検索し、なるべく実際にたくさん読んで下さい。寄せられた意見や質問は、大別して4つに分類できると思いました。
1)数学に関するもの。(4通)
2)「法と法則」に関するもの。(23通)
3)所有権に関するもの。(5通)
4)遺伝子組み替えに関するもの。(9通)
以下、この順にお答えします。1)これには、両極に別れる見解が見られました。「数学はそれだけで―現実と無関係に―洗練されているという言葉が耳に残った」(Mr. D)。それとは逆に、「数学がなくても世の中は動くのだろうか...大変なことになるのではないだろうか」(Mr. E)、「日常に使っているが、本当に関係ないと言えるのだろうか」(Ms. F)。
両方とも興味深いです。ただし、数学と算術、平たく言うと「ものを数える」こととは、別のことと考えて下さい。a+b=b+a は直感的に正しいですが、この法則を「認識」しているから教室の中の人数を数えるのに、右の列から半分程度数えた人の数と、左の列から数えた人の数とを無造作に足すわけではありません。これは可換法則(commutative law) といって、代数学が成立するための大原則です。証明はせず、逆にこれが成立すると見なすところに代数学を成立させるのです。
このあたりの問題は弥永昌吉著『数の体系』(岩波新書上下)などを、腰を据えて熟読して下さい。E、F両君の疑問は「20世紀後半の先進国になってしまった日本などで生きる人間は」と但し書きをつけないと、成立しないと思います。人間の条件一般を言い表したものではないといえます。
「お宅の羊は何頭居ますか?」「そんなこと知らない。」「じゃー、どうやって羊が全部囲いに入ったと分かるのですか?」「そこに石ころが転がってるだろ。あの石ころの分は囲いに入ってる」などというやりとりは、文明圏から行った人類学者が、最近までよく経験した事実です。
さらに、一つ、二つ....九つまではあるが、それ以上の言葉がない(「たくさん」しかない)という、のどかな人々も、1世紀ほど前までは存在しました。むしろ、このような人間らしい(とぼくは思いますが)人々を、ぼくたち文明人が駆逐しているのではないだろうか。駆逐し、絶滅させることが「理性的」だろうか。ぼくたちはホモ・サピエンス以外の「絶滅危惧種」について何となく知っているが、ホモ・サピエンスの多様な「暮らし方の絶滅」に、無関心すぎるのじゃないだろうか。
2)法と法則に関するものは数が多いので、その要旨をぼくの言葉で言い換えさせてもらいます。(もちろん、個々人を捨てるという意味ではありません)。
23通の要点は、次の2つに尽くせると思います。(1)ゲノム組み替えと特許権の例は分かったが、それ以外には法と法則が癒着するとグロテスクなことが起きるという事例が思い当たらない。(2)ゲノムだけでなく情報の特許などもあるのだから、政府がよく監視して規制するべきだろう。(1)については教室でぼくの所に歩み寄られ同じような質問をされた方々と、ぼくは次のような応答をしました。ちょうどよい答えになると思うので引用させてもらいます。「ロケット工学の法則に従い、また核融合反応の法則に従った核ロケットの引き金は、法に従ってブッシュ氏かゴア氏が握ると思うが、不気味ではありませんか。江沢民氏ならよいですか。ブレア氏ならよいですか...」。この方々は、不気味だと理解を示してくれました。
別の例も多々上げることが出来ます。人間に欲望もあるという法則*を知って、自分の所有する不良株式を買わせるとか、国民が税金を払うという法則*を知って倒産大企業に国家資金を注ぎ込む法を作る、とか...(お分かりと思いますが、「法則*」と書いたものは、実は法則ではありません。)そうです。そこで(2)が登場するのです。このようなことをさせないために「法」「規制」が必要になります。だがこうして作った「法」「規制」も、人間がやるのだから当然不具合が存在し、さらにその不具合を是正する「法」「規制」が作られます。これにももちろん不具合があるから第3の...このような成り行きの結果、私たちの社会は法が爆発的に増殖し、役人と法律屋が肥大するのです。これ自体充分に、奇妙も不気味も通り越して、不快きわまる事実です。
まるでこれは「矛盾」という言葉の由来そっくりです。矛を貫かせない盾を作った。その盾を貫く矛を作った。その矛を...これはとんでもない悪循環で、矛盾という言葉はこのような状態を表現するために作られました。武器屋だけが儲かったそうだよ。
こんなことに関わってお金持ちになったのが、米国の社会学です。しかし今や、日本やヨーロッパの社会学も全く同じことに手を貸そうとしています。ぼく自身も社会学者だが、このような社会学は許せないと思っています。別に社会学者でなくても、文明社会の矛盾につけ込んで金持ちになる人間は許せないよね。諸君はどう思いますか。3)所有権に関するものは、正確にはぼくが人間とものとの関係はもともと人格的なものだ、と言ったことに関するコメントの方がやや多かったです。「彼女の髪の毛の話はよかったですね」(Mr. G)。「ジョーダンの靴に人格性があると知ってもっと欲しくなった」(Ms. H)。
もちろん、3)には正統派の重要な見解もありました。「世界史で教わった、所有権が人類同士を結びつけるのではなくその逆だと聞いて、驚いたが納得した。人格的結び付きが弱まった社会が現代かなとも思いました」(Ms. I)。「ものが人格の延長であるということは、大量消費社会と相容れないと思った」(Mr. J)。
G君良かったですね。彼女によろしくお伝え下さい。Hさんにも、意外なところで役に立てて嬉しいです。
ところで両君にお尋ねしたいけど、現役時代のマイケルと例のゴルフの何とかウッズという人は「ナイキの動く広告塔」と言われました。何億というお金が彼らのイメージで売られました。あなた方の懐に入ったとは思えないけど、そんなに好きな人がこのような「人寄せパンダ」に使われるのは、嬉しいですか?万一機会があったらファンの心理など教えて下さい。
両君の考えは、きわめて重要なことへの着眼と展開です。敬服します。 4)遺伝子情報について、最初に質問に答えます。「ゲノムって、どこの言葉ですか?」(Ms. K)。
ゲノムは造語です。ご存じのように遺伝子は gene とも呼び、ジーンと読みます。この言葉の語源はラテン語の gens、または genos で、語意は「一族」「出自集団」などです。gene は20世紀になって遺伝子を意味する語として使われるようになった、新しい言葉です。
一方、遺伝に関わる何かの要因だと考えられてきたものが「染色体 chromosome」です。クロモゾームと読みます。染色体とは、細胞の中で特定色素によく染まって、顕微鏡下で観察されるところから命名されました。こっちの方が、数十年早くから使われていました。その後今世紀五〇年代に、例のワトソンとクリックの二重螺旋モデルが提出され、正しいと認められました。
その2つを足して、genome という言葉を術語として作ったのです。従って、ゲノムという言葉は非常に新しいものです。最近はこっちの方が多く使われるようですけど。この機会に、遺伝子とかゲノムとかの言葉を耳にすることが多いのに詳しく知らないと言うのは困るから、参考図書を推薦します。『DNAがわかる本』(岩波ジュニア新書)。ジュニア新書だと言って馬鹿にしないように。高校生程度を読者に想定して書かれた本だと思うが、非常によくできています。大学生がこの程度の知識がないのは問題なので、よく知らい人は早急に読んで下さい。もちろん他にもあると思いますけど。
4)のこの方以外のものは、遺伝子操作に関する賛否両論でした(個々人からの引用は省かせて下さい)。ある人々は食糧危機を打開するには遺伝子操作しかないのではないかという判断を持ち、ある人々はこれが安全かどうかに危惧を表明されていました。
ぼくが教室で取り上げたのは安全性の問題ではなく、これが特許権と結合して世界の農畜産業を独占する企業手段になるということです。安全性の問題には触れませんでした。そのせいか、「立花隆の考え方をどう思うか」(Mr. L)と問われた方も居ました。
ぼくは立花隆がなまじな学者よりはるかに学識豊かな人だと敬服していますが、残念ながら遺伝子組み替え食品については彼の楽観論にだけは抵抗を感じています。営利的な私企業の独占が危惧される他に、植物は昆虫や風によって、動物は移動や捕食によって、組み替えられた遺伝子を見えないところに運びます。このすべての連鎖を人間がコントロールすることは、ぼくには到底不可能に思えます。これにたずさわる人間が聖人君子ばかりだと仮定しても、レイチェル・カーソンが書いた『沈黙の春』のような現象が起こらないという確信が持てません。
なお、ぼくのような否定論を共有していると思われる人の中に、『ジュラシック・パーク』の作家であり科学者であるマイケル・クライトンがいます。関連して、17世紀にライプニッツは「無限」は人間がもてあそんではならない概念だ、と述べました。無限概念なしに構想できない微分学の創始者のこの言葉を、ぼくは重く受け止めています。
そうそう、うっかり書き忘れるところだったけど、次のような心温まる感想もありました。「私の実家は岩手で、第1次産業就業率が全国第一位です。家の周辺は田や畑に囲まれ、夏休みには一晩中虫が鳴いていました。先生の故郷はどんな感じですか」(Mr. M)。
ぼくはねー、台北の郊外で生まれたのです。だから故郷がないのです。場所はあっても、開発経済の工業化政策で見る影もなくなっているそうです。羨ましいなー。
それはともかく、明治以降の日本の農業改良は、政府の政策によって、役人と科学者主導で進められて来ましたが、岩手だけは農民自身が(篤農家といいます)自分の経験と努力だけを生かして、米作の改良に取り組んできた土地です。「ささにしき」など、今もてはやされている稲の原品種は政府ではなくこうやって岩手の農民が作った品種がもとになっているという歴史があるようです。『稲』(法大出版局)という本に、くわしく書いてあります。しかしその岩手でも、減反政策を採用させられているのだろうね。もったいないね。
それに、こんな話をしながら一年掛けて講義したいものですね。半期講義では無理だから、このHPに掲載しておきます。その他、えらい大きな話になりそうだからこのページを慎重に読まなくっちゃ、という決意表明をされた方が、数人居ました。本当に、ぜひよく参照なさることをお奨めします。
では来週また教室でお会いします。また...
09/26
この日は諸君に書いてもらうことはしなかったので、これに関連したコメントはありません。それ以外のことについて、教室で述べたことの一部だけ、掲載しておきます。1)次の書物を後期を通しての参考図書に上げました。
『生殖と世代継承』(R.フォックス)、『秩序問題の解明』(左古輝人)、『社会システム論と自然――スペンサー社会学の現代性』(挾本佳代)。書肆はいずれも法政大学出版局です。2)関連して、雑誌やCDが買えるなら(まして装飾品が買えるなら)本を買ってください、といいました。ある人によると、エラスムス(Erasmus, D: 1469?-1536)は「お金があったら本を買う。その残りで食物を買う」と言ったそうです。大学生にとっては、書物は食物とすくなくとも同程度に必須のものです。それ以外は一切無くても差しつかえない無駄なものと、覚悟すべきだと思います。
3)黒板を、テレビのテロップと思わないこと、と述べました。このこと重要なので、呉々も気をつけて下さい。
では来週から...
開講に当って 本年度の履修要項に、講義内容に関して次のように予告しました(履修要項参照)。
前言。
1)第一世代社会学以来現代までの社会学史概観。
2)欧米社会学は一般に「合理的行為」にもとづく秩序を前提する。どこが誤謬か。
3)organiqueということについて。
4)権力とは何か。また現代の権力(国民国家)について。
5)性愛と家族について。
その他。後期に実際に今年度の講義を開始するに当たり、最近の社会事象なども勘案した上で、上記の内容を次のような、もっとも基礎的な問題側面の順番に論じていこうと考えています。
前言
1)法・法則・法則性について
2)社会 対 国家について
3)社会学の意義、または有機性の意義について
4)国家と権力について
5)家族について
その他どれも日常にわれわれが使用する言葉ばかりですが、講義の内容はおそらくこれらに関する常識的理解を覆すことになると思います。講義中は、既存の社会学の知識にとらわれず、これらの言葉の恐ろしさを考えるよう希望します。根元的な問いの無い社会学など、やっても意味がないと思って下さい。
その他の事項は、履修要項で予告した通りです。これを十分参考にして下さい。なお、毎週のオンライン講義はこの上にプッシュダウン方式で書き加えていく予定です。これもよく参考にして下さい。
教室で述べたとおり、今後このサイトを講義と併用します。新しいものが上に来るように、プッシュダウン方式で掲載します。古いものを読み直すときはスクロールして下さい。12月9日
まず、このページをご覧になった方々にお願いがあります。このページの存在を知らない人が今日現在いることを知り、驚いています。恐縮ですがそのような人が皆さんの周囲にたまたまおいでになったら、「オンライン講義を含む講義に関連することについて各自自由に論述してください」のような出題になる可能性があるから、読んでおいた方がいいよ、とひとこと教えてあげて下さい。よろしく。今年は昨年の倍近いファイルサイズで、仮に印字すると20ページ程度あります。
このページを読んでいただきたい理由は、お読みになる方には理解していただけると思いますが、具体的な歴史上の事例に触れるにはこちらの方が有利だからです。半期講義ですから、教室ではどうしても骨格だけのものになります。歴史事例とは、どうしても冗長さを避けられないものだからです。(当然だね。生身の人間が集まって作るのだから。)これらの歴史事例は、これまで毎週紙に書いてくれた諸君の多くの疑問や見解に答える形で書かれています。この機会に、内容のある紙を提出してくれた諸君にお礼を申します。つぎに、ごく具体的なことです。履修要項にも書いてあるように、この講義の試験は、定期試験の中で行われます。B4用紙論述式、参照不可です。
定期試験の日程と時間割りは、別途2階の教務課窓口で配布されます。どうぞ、日時を間違えないようにご留意下さい。定期試験の遅刻などについては、ぼくの裁量の余地はほとんどありません。呉々もお気をつけ下さい。(病気など不慮の事故によって出席できなくなったときには直ちに教務課に連絡し、必要な証明書を持参して欠席届をして下さい。この場合は追試験の対象になります。)
余計なお世話かもしれませんが、論述にあたっては各自適切な主題をあらかじめ考えて用意しておかれることをお奨めします。その主題は大きくても小さくてもかまいません。各自がいま熱中していることの方が、書きやすいでしょう。今日は、最終的に19名の方を採択しました。名前のなかった人、試験などに関する(今更な)質問、その他(以上合計7名)を除く、ほとんど全員です。
これまでに尋ねられなかった質問がかなりあるかと考えていましたが、ほとんどありませんでした。1名の例外を除くと、18名の方のものが後述のような内容でした。
まずこの例外の方に簡単に答えます。「...動物の国家はありえなくても、動物の結婚はあるのではないか。生涯を同じ相手と共にする動物がいるのだから。そういった動物には何らかの感性、理性というものがあるのではないだろうか...」(Ms. A)。何か涙ぐましい疑問ですが、まず「結婚」とはどのような意味だろうか、と疑問に思いました。まさか「民法」など法律が合法と見なす結婚などの意味じゃないでしょうね。
そうでなく、さまざまの「mating」という意味なら、すでに講義の中で回答済みだと思いますけど。「母と幼児」の組み合わせがあり、この基本単位を扶養するために社会が成立することは、別に人間と他の動物とを問わない問題です。その社会がメスだけの群か、一匹のオスか、複数オスたちか、母の親族も加わるか、さらには父の親族も加わるか、などは種によって、また生息場所によって異なります。これらは、自然界の中に生きる動物にとって当たり前ではないだろうか。
それとも「生涯を共にする相手」というところに主眼があるのだろうか。まさかAさんは、国家や法などといった無粋なものに守られてでも、同じ相手と生涯を過ごしたいと考えているわけではないよね。(その程度の相手なら、はじめから選ばない方がいいですよ。)だとすると、後半の「感性、理性というものがある...」とは、どういう意味なのだろうか。感性とか理性とかがあるから法とか国家(またはそれと同等の強制権力)があるはず、といいたいのだろうか。
Aさんの議論は、問題の立て方が逆なのではないだろうかと感じます。人間だけに感性、理性があるから「特別」と考えて、人間自身が墓穴を掘ったなれの果てが現代なのじゃないですか。次に、他の18名が書かれたのことは、ひとことで要約すると「秩序における自然と人工」という、講義全体の主題に集中していました。
まず、若干の人たちにあるのではないかと思われる「自然と人工」の概念に関する躊躇や当惑にコメントしたいと思います。次の2例は、どこが違うのだろうかを考えてみましょう。1)人間がやることはすべて「人工」「人為」のようには、まさかいえないですね。日本では魚を刺身で食べるが、他の国では焼くか煮るかして食べる。日本人は生卵かけご飯を食べるが、あの中国人さえ(?)これは気持ち悪がる。以上の例は、どっちが自然でどっちが人工だろうか。まさかだれもそのような疑問は持たないのではないだろうか。これは、単に習慣の相違です。
2)怪我をしたときに薬草の汁を塗ったり消毒薬を使用するのと、抗生物質を使用するのとでは、どうでしょうか。後者は明らかに「人工」的です。抽出された抗生物質は自然界に存在しないものです。それだけでなく、抗生物質は抗生物質耐性菌を自然界に作り出します。その耐性菌を叩くために新しい抗生物質が必要となります。このプロセスはどこまでも「いたちごっこ」のように続きます。最後に取っておきのバンコマイシンもバンコマイシン耐性菌が出現し、困った問題が生じていることはご承知と思います。
ついでですが、バンコマイシン耐性腸球菌が大規模畜産業者の家畜に対する使用によって出現したことも知っておく必要があります。「規則」(法の一種)によって人間に対する使用はコントロールしていたのだが、この規則には家畜が含まれていなかったというわけです。多分、家畜に対する使用を制限する規則がその後急遽作られたことは間違いないでしょう。
おわかりのように、この二つをどのように区別するかが問題なのです。過去に講義の中で、ジンメル『貨幣の哲学』(G. Simmel, Philosophie des Geldes, 1901)について、重要な点を口頭で述べました。「法、貨幣、知性」が人間を傷つける三要素だ、という意味のことです。(このテキストはHPの中に翻訳付きで手短に抄録してあるので探してみてください。またジンメルは、同じ主旨で晩年に遺書として『断想』(Fragmente, 1923)を書きました。これには『愛の断想・日々の断想』(清水幾太郎訳、岩波文庫)という邦訳があります。)
彼のいう「法」はいうまでもなく国家の産物であり、権力の意志です。「貨幣」は(工場制工業によって有害さを加速され)市場経済と巨大企業とを作り出しました。「知性」が生みだしたのは「科学技術」というパンドラの箱を開く行為です。20世紀は、これらが絶頂に達した世紀でした。これらに共通点がいくつかあります。
1)どれもが普遍性を要求します。普遍的だから「万人に適用されるべきだ」と考えるのです。
2)どれもが(上の抗生物質の例で述べたような)「いたちごっこ」を生み出します。中国人は、すでに戦国時代にこれを「矛盾」と言い表しました。(矛が出来たから盾が出来、その盾を貫く矛が出来、その矛を防ぐ盾が出来、その盾を切る矛が出来...というわけです。)こうして止めどもない法の爆発や利殖行為の増殖を生みだしそれらを防止する科学技術を生みだし...のようになるのです。これって、社会的「自転車操業」ですね。
3)さらに、「いたちごっこ」は、これらに対する人間の欲望が限界を持たないところから生じます。食物は満腹以上には食べられないが、これら三つはいくら食べても満足ということはないのです。
すでにおわかりと考えますが、人間のやることすべてに「人工性」を見る必要は、ほとんどの場合ありません。これら三つのどれか、または全部が絡んだときに、「人工の秩序」の恐ろしさが牙をむくのです。というわけで、どうぞ社会学者ジンメルの書いたものも、いつの機会かにお読み下さいと申し上げて、当面このオンライン講義を一旦終わりとします。
ではまたどこかでお会いする機会まで、皆さんお元気で。
12月2日
記憶の間違いが見つかったので、この機会に3日早朝かなり加筆しました。すみませんが読み直してください。
今日は寒かったですね。そろそろ講義内試験とかあって世間が騒がしくなるので、風邪など引かないように気を付けて下さい。早速ですが、今回のものは「夜這い」および「秩序の本質とは」という2点に集約されました(以下この順番を逆にします)。過去の週の問題に関する質問は特になく、意見は後者の中に盛られていました。(教室で述べたように過去にさかのぼる質問ももしあればお答えしますので、次週もご遠慮なく。)
例によって、直接回答を必要とするものからはじめます。
「脳に直接性欲を刺激する信号を与え得るようになり、生殖技術がさらに進と、国家が人口を支配しうるようになるだろうか」(Mr. A)。
前提条件の前半は『デモリション・マン』のバーチャル・セックスのようなことを指すのではと想像します。後半は代理母などさえ必要なくなる(人工子宮)ようなことを指しておいでではないかと想像します。
「支配することが起きうるか」という質問なら、ぼくは起きうるとお答えします。今世紀は、そのような前提条件さえ存在しなかった時代に国家がこれに手を出した前科を持つ世紀です。
ひとつは1920年代の米国の「優生学」です。黒人や東欧からの移民の知能や体格を「改善する」という名目で、この研究が盛んに行われました。何のために「改善する」かというと、折から増加しつつあった「ホワイト・カラー White Collar」層に適当な人材を確保する、という意図でした。
もう一つの例は1930年代のナチスドイツです。「純粋のゲルマン人種(アーリア人)」を作るという名目で、純血(と見なされた)青年と、純血(と見なされた)処女(処女というところが嫌らしい)とが、国家によって結婚させられた例があります。「The People's Century」(全23巻)という英国BBCと米国PBSとの共同制作になるドキュメンタリーの傑作に、現にこの結婚システムに選ばれた女性の証言がありました。このビデオはLL委員の金原瑞人先生のご尽力もえて大学と交渉し、おそらく近日中に買ってもらえるのではないかと期待しているところです。(エアチェック版はぼくが持っています。自分で購入するにはwww.amazon.comを利用すれば手に入ります。)
なお、現実問題として「少子化対策」という言葉使いにもぼくは大きな不快感を感じます。自分で原因を作っておいて「対策」というようなことを、通常「マッチポンプ」といいます。「対策」という語も(「社会のニーズ」などの語と同様)美しい日本語を汚す不潔な表現ですね。「金融不正対策」「登校拒否対策」「臨界事故対策」などなど。
正直いうと、ぼくは倫理という言葉の最近の使い方にも不潔感を持ちます。「金融人の倫理」「学校倫理」「原発事故防止倫理」などなど。諸君、これらの不快で、かつ原因の所在をぼかす卑猥な言葉を使うのを、皆でやめようではないですか。核心はぼかす。対策だけ強調する。こういうのを不潔といいます。
「多国籍企業をM & A というが、MとAは何だろうか」(Mr. B)。Merger & Acquisitionです。なお、これ自身は多国籍企業と訳すべこものではなく、M & A の結果が多国籍企業を作るのです。特に最近は、国境を越えて価格管理(価格の支配)をするために企業買収・企業合併が増加する傾向が顕著に見られます。なお、同じBさんから「腹違いの兄弟の結婚はどうなんですか」という質問がありました。法が結婚として認めるかという意味なら、認めないです。エッチしてもいいかという意味なら、ご随意にとしかいえません。
「秩序問題の秩序とは、厳密にいうとどのような状態をさすのだろうか」(Mr. C)。
社会学者がいう意味のことなら、『秩序問題の解明』をご覧下さい。これに尽きます。
「状態」とわざわざ書いてあるところを見ると、「どのような状態なら秩序があるといえるのか」という普通の意味でしょうか。固有の土地に固有の生業を持って暮らしている状態と人工の状態が人々を緊縛している秩序の間には、天地の差があります。11月18日のページを再読してください。私たちの状態は残念ながら後者です。この機会に、「複雑系」という流行語まで作ることになった「ローレンツのカオス」について述べておきます。1961年に、米国のローレンスという気象学者が天気予報のための大気流シミュレーションを12元連立方程式を使ってコンピュータで計算していました。再度検算のために値を入力し、休憩のためのコーヒーを飲みに行って研究室に帰ったところ、コンピュータからそれまでの計算と似ても似つかないとんでもない大嵐の計算結果が出ていました。
不審に思った彼が真相を追及したところ、入力すべき本来の値は「0.506127」であったのですが、検算の際に「0.506」に省略して入力したことが原因であったことに気づきました。切り捨てた端数は入力全体の1/5000程度に過ぎないので、結果に影響がないと判断したのが間違いだったのでした。この時コンピュータは、この程度のわずかな初期値の相違が結果に大きな変化をおよぼす領域で計算をしていたことが、偶然に発見されたのです。この気象学のシミュレーションをもとに提出されたのが、ローレンツのカオスです。ここにいう「カオス」は、俗に秩序の反対の意味でいうカオスとは違います。でたらめ、という意味ではないということです。方程式もコンピュータも整然と作動しています。その上でなお、人間がわずか「0.000127」の「初期値」の違いを作ると、結果が予想できないほど大きく変わってしまうという意味です。「初期値にセンシティブ」ということです。比喩的にいうと、自然は全く一義的・法則的に振る舞っているが、人間にはその結果が予想できないほど大きくなるという意味です。これのような初期値敏感性を「バタフライ効果」ということがあります。通俗には「ニューヨークでモンシロチョウが飛ぶと北京が大洪水になる」などという喩えによって知られています。ローレンツのカオスは、コンピュータを持っていれば容易に実行してみることができます。
それから10年ほど後に、マンデルブロートという数学者が「フラクタル」の考えを発表しました。これもまた同じように、値がある領域に近づくと変数の初期値の微細な相違が、結果に予想もつかない大変化を引き起こします。なお、コンピュータの高速計算サイクル1回が、1年と考えてみてください。カオスもフラクタルも、センシティブな領域では、たかだか数十回で十分大きな変化が観察できます。これもコンピュータで実現できます。簡単なプログラムですが、興味尽きないものがあります。見通しのよい本として、山口昌哉『カオスとフラクタル』(講談社ブルーバックス)などを推薦します。最近本屋の店先に積んである、「複雑系」の理論を株価予測に応用しよう...などという山師の偽物のような話に誤魔化されないように。それで株を買ったら、後述のDさんのいうように、その欲が初期値となってとんでもない金融バブルなどが起きるのです
こうした発見の本質は、人間が無限を内蔵する自然を操作することはできない、というところにあります。「人知は時間をかけて起きる自然の働きの奥の深さに到底手が届かない」ということです。最初にこれを指摘したのはライプニッツです。
カオスもフラクタルも若干の数学知識を必要とします。ぼくは、大学生は数学と国語を含む語学と哲学と地歴だけ勉強すれば十分。あとの単位などは適当に取ればよい、という見解の持ち主ですから、高校で数学を全部やらなかった人はこの機会に数3まで全部やってみるとよいのではないかと、やや過激なことをお奨めします。さて、以上を参考に考えてみます。
ある時西洋の誰かが「所有権」というローマ法の法観念を試してみたとします。そしたらうまくいって国家の覚えもめでたく、その人は大もうけをしました。それを見ていた隣の人が同じことをして...
やがてこの人も真似した人も自分の金だけでは足りなくなり、株式を発行して利息よりお得な配当を支払い、会社という法人を組織してこれに所有権を行使させ...国家はこうした所有権だけ守る「夜警国家」で十分だ(アダム・スミス)と主張し、これこそ「レッセフェール=自由経済のたまもので」といっているうちに、たった百年かそこらで現在のぼくたちの置かれた地点まで来たのです。これは、ちょうど「ニューヨークでモンシロチョウが飛ぶと北京が大洪水になる」という喩え通りの経過です。
「多数者が合理化の名の下に欲に従って回っている」(Ms. D)という現代の秩序に関する感想は、さながら「ローレンツのカオス」において起きたことと酷似した問題が起きてしまっている、ということを指摘したものと考えます。触ってはいけない微妙な誤差に触れてしまったというのが、現代の人工秩序に対するぼくの認識です。「一日法をなくしたらどうなるかという日を作って体験してみたい」(Ms. E)
同感ですね。多分大したことは起きないだろうと思います。法よりはぼくたちの方がはるかに賢明ですから。次に「夜這い」です。まず典型的な反対論(たぶん?)から。
「(ぼくが)夜這い制をよいとお考えのようですが、男に優位を感じる制度ですね。もしいろんな相手をためして探している中に妊娠した女はどうなったのでしょうか」(Ms. F)。
最後の部分が質問と思いますが、その前に若干。第1)にぼくが「よい」と考えている、という部分は誤解です。そのような「習慣」(これも、社会学者のいう秩序とは異なる、長い年月の作った秩序)が存在したという事実を端的に述べたのです。では、ぼくはそれを非人間的、ないし非合理と考えるかと問われれば、このほうが人間的で合理的だと答えます。この意味でなら「よい」と考えます。第2)「男に優位を感じる」という感想は感想ですから、素直にうけたまわります。おそらく、男はたくさん経験する方を好み、女は少なければ少ないほど好ましいと感じる、という信念をお持ちなのですね。では質問ですが、Fさんは「女性にはもともと性欲は存在しない。女性の性欲は男性によって教育ないし強制された結果にすぎない」とお考えですか。ぼくは男なので、残念ながらこの質問には答える資格がありませんが。
ただし「夜這い」自体は(現代の用語を転用すれば)男女両方に対する性教育として存在したもので、どっちに有利というものではありません。誤解しないように願います。詳しくは赤松啓介『夜這いの民俗学』1994 明石書店などをご覧下さい(多摩図書館閉架に所蔵あり)。また日本ではありませんが、たしかマリノフスキーがメラネシアにおける観察を通して、この島の人々が男女の子供がセックス遊びをしていてもせいぜい「あっちに行って遊びなさい」程度にしか叱らないことから、性にきわめて寛容だと結論しています。(彼のどの本だったか今すぐに思い出せません。マリノフスキーも多摩図書館に多く所蔵されていますので探してみてください。)要するに、第2点に関する感想は、上に記した質問に自分でどのように答えるかにかかっているでしょう。今すぐ答える必要はありませんが、女性に性欲がないと断言できるなら、日本であれメラネシアであれ、「性に寛容な社会は悪い社会」ということになるかもしれません。以上を前提に、質問に対するお答えをします。上述の赤松さんの研究などを総合すると、子供が産まれたら、相手が分かっておりそれを望めばその人と所帯を持たせます。そうでなければ連れ子で所帯を持ちます。また里子に出すこともあります。要するに現代でもやられていることと、基本的に何も変わりません。市役所に届けを出すわけでないから、嫡出か庶子かなどと面倒はいわないわけです。むしろ女性も子供も重要な生業のための働き手ですから、現代よりはよほど大事にされたでしょう。貨幣経済によって債務による隷属と貧富の格差が拡大すると、事情は変わってきます。農業が悲惨なのではなく、貨幣経済の浸透が悲惨なのです。この区別を忘れないようにして下さい。
関連して、次のようなユーモラスな意見がありましたので参考して下さい。「高校の時『源氏物語』を読んでただのエロ小説じゃないかと思ったけど、ただのエロ小説がこんなに長く読まれているわけはないし...」(Ms. G)。
そういえばそうですね。紫式部の性欲は「男に強制された結果」といえるのかしら、と考えてしまいますね。それから、Gさん、もう読んだかもしれないけど、西鶴の一連の好色ものは、ただのエロ小説としては最高に笑えますよ。バルザックの『風流滑稽譚』など足元にも及ばない、世界に冠たる笑えるエロ小説です。まだだったら、ぜひ読んでみて下さい。「...法律がなければ親と子の結婚も兄弟の結婚も認められる。法律のコントロールがあるからそういう結婚をしていないのだ...」(Ms. H)。
やだなー。近親相姦は(法律なんか持たない)動物でさえ自然に避けるのです。おそらくその話をしたときに欠席していたのだと想像しますが、突然出席してあやふやな論点で脅かさないでください。欠席してもいいけど、そのかわりにこのONLINEには必ず余計に注意深く目を通してください。それから「認める」とは誰が認めるのですか? このような曖昧な言葉遣いもやめましょう。「...農村・漁村などに見られる『青年団』が『若人宿』の名残だろう。...それにしても村落にほんとうの若者が少なくなって高齢化しているが...『娘衆』の名残はどこにあるのだろう」(Mr. I)。
よく本や現実を観察していますね。あなたのものがもっとも事実に忠実です。
歴史的にいうと、最も古くには、「宿」といっても場所が特定されていたところはそれほど多くなかったらしいです。平凡社世界大百科は「庵とか社務所(つまり寺や神社)などを使用する所もあった。民家の場合は、気やすい家、新婚の家、大きな家、網元の家などが選ばれ、謝礼として食料、履物、薪などの日用品が贈られた」としています(「若者宿」の項)。
つまり民家がそのまま使われた例も多かったようです。その際にもちろん男宿と女宿とは別々にできるのです。この同じような年齢集団を「若者組」と呼びます。
この組に加入を許されることが Iさんのいう「通過儀礼」であり、日本だけのものではありません。アメリカ・インディアンやゲルマンなどにも、同じような年令集団と通過儀礼があります。それから、話題がたまたま性だったから話が「夜這い」になっただけで、Iさんのいう通り、入会地の共同管理の方法とか、水利のこととか、漁村では網入れの共同作業の注意事項などを教わる、ということです。その中の「科目(?)」のひとつに「夜這い」もあるというだけです。農漁業の村落は「夜這い」ばかりやっているほど暇なところではないです。セックスのことで頭がいっぱいな現代人には、この当然のことが見えないだけです
明治期以降は公会堂などの名称で、国策によって場所が固定する傾向が生じたようです。これが青年団に受けつがれました。もともと場所が特定していなかったせいで、青年団の誕生と共に(おそらく男尊女卑思想という国家イデオロギーの強化にもともなって、次第に女性が排除され)女宿(娘衆)は消滅した、という経過のようです。その他、このことに関してはまだ多数の面白い見解がありましたが、残念ながら割愛します。
学者のやる歴史研究は圧倒的に政治史か経済史が多く、このような民衆の「習慣 usages」の多くがすでに失われ、自分たちの住む日本でありながら民族誌的研究が進まないのは残念なことです。「過去を知らないものには未来も見えない」といいます。学問も、近代の動きには過剰に敏感なくせに、近代化に反する「習慣」には実に冷淡なのですね。国際関係には記事を裂いても、失われつつある民族文化には記事を裂かないニュースと同じなのです。そのことには、このような「習慣」を野蛮だとする「常識という偏見」も、大いに手を貸しています。学問のこのような偏りにも、どうぞ注意して下さい。
ではまた。
11月25日
26日に加筆した部分があります。今日も時間を間違え、すみませんでした。次回から間違えないように気を付けます。
最初に、この場所から、サイト内の『有閑階級の理論』の枢要な場所に行けるようにしておきます。知っている人は知っているでしょうが、ここは原文です。しかしその下の方からこの箇所の邦訳に行くことが出来ます。『有閑階級の理論』に書いてあることに関しての質問が2名ほどありましたが、当面この場所をご覧下さい。これ以上は、重要な本なのでぜひ直接お読みになることをお奨めします。
まず、「私が感じた秩序問題(秩序の崩壊)について書いてもいいんですか」(Ms. A)。
はい。もちろんかまいません。それに、ぼくは主張の内容(秩序の崩壊か、秩序の再建かなど)の是非を見るのではなく、文章の説得力を見たいと思いますから、心にもない秩序の再建を論じるよりは「崩壊について」お書きになった方がお腹に力が入って、よい文になると思います。是非そうして下さい。他の方も同じようにお考え下さい。まだちゃんと考えた結論ではありませんが、「講義およびONLINE講義に関連したことを何でも書いて下さい」のようになると思います。自分であらかじめ考えておかれる方がよろしいと思います。「ボディーイメージが消費対象になる」ということおよび「ダイエットが現代の最大の営利行為一つであること」(この人類にとっての食糧危機を前にして!)に関する諸君のコメントが、5名ありました。Stuart Ewen, All Consuming Images, 1988 Basic Books(邦訳『浪費の政治学―商品としてのスタイル』 1990 晶文社)は、訳者のぼくがいうのも気が引けるのですがこれぞ現代史というべき米国社会学者による第一級の作品ですので、「バーレスク女王の話」(第6部第8章から)に限らず、お読みいただければ有り難いです。
なお、この場所にユーエンさんの最近の活躍を盛り込んだサイトがあります。また上の本は最近ペーパーバック版が出て(米国で売れているらしい)いますので、<http://www.amazon.com/>などに直接注文すると18.5ドルで買うことが出来ます。現代米語の名文と思います。上記以外に、14名の方が「結婚」や「親族集団」について、実にさまざまな角度から書いておられました。これらはどれも重要ですがぼくにとっても難問が多く、さらにどの一つも個性的で、選択に悩みます。ただ、事実関係に誤解があるといけないのでまず次の方々の疑問に答えます
「工業化と共に核家族が発生する理由は何だろうか」(Mr. B)。「労働力の再生産にははなぜ核家族が一番効率がいいのか」(Ms. C)。
下記のように、いくつかの複合原因です。1)「プロ倫」の言うように、工業化が真っ先に進んだところはプロテスタントの場所(英米)だったからです。キリスト教倫理では結婚しないのが一番よろしく、その次によろしいのは「一夫一婦制」です。これ以外は「けがらわしい野蛮」とされました。
2)生業が土地に根付いたものであれば大家族が必要となりますが、工業化は人間を土地から引き剥がすからです。大家族は必要なくなります。
3)女性が社会進出し収入を得るにいたる前には、「母と子供」の基礎単位の扶養を男子に押しつけました。この男子に払う賃金は、もちろん基礎単位一組に限る方が安上がりだからです。(金持ちに事実上一夫多妻や一妻多夫が可能なのはこのためです。)
4)法が結婚を契約と見なすのも理由の一です。男または女の「性愛的財(erotic property)」は分割譲渡できないとしているわけです(「重婚」刑法上の違法行為です)。もっとも、結婚と離婚と結婚...を繰り返し、a、b、c、d...とか、a、b、c、a、b、c...のように相手を時間割りで所有するのは「合法」とされます。ただし、これも金持ちでなければ実行不可能ですが。
それ以外で最も多かったものは、「結婚」や「性愛」の将来像はどうなるだろうか、という疑問です。
たしかにこの問題が気になる方が多いだろうと想像できるのですが、ぼく自身は「結婚」だけを切り離して考えない方がよいと思います。上述のように「結婚」には、法による介入と「扶養」という経済問題の両方の複合関係が存在します。近代的「結婚」からこの両面の干渉度が低下すれば、いわゆる「結婚」問題の困難さははるかに少なくなります。
法的には、「別姓問題」とか「嫡出子と非嫡出子」の区別の廃止とかの法による介入の中身を無力化することを進める方が先決問題でしょう。その中において各自が各自の信念に従って行動できるような場が作られる必要があります。さらに「扶養」問題が事柄を複雑にすることに関しては、貧富の格差の解消の方がはるかに重要に思われます。生活の手段を考えることと「結婚」とは、元来何の関係もないように見なされますが、現実がまったくそうでないことは周知のことです。
この意味で、近代社会の「結婚」は暗に男子を「消費世帯」の「扶養者」に擬していたのです。そしてこの矛盾は、性の開放などとはまったく無関係に、いまだに隠れた主役になっているのです。そのような点に鑑みれば、日本の「結婚」像の未来がどうなるかよりも、世界の総所得の85%が世界人口の20%にすぎない消費者に流れ込んでいるとか、1日1ドルたらずで生活する貧困者が世界で10億人を越えるなどの国際的「所得格差」や、それに決しておとらない国内の「所得格差」を解消することの方が、結果的に「結婚」問題の解決に役立つのではないか、と感じます。この点で、北欧の事例などが参考になるのではないかと思います。ひと頃、北欧は性関係が乱れているなどと騒いでいたことがありますが、経済に先進国ほど大きな格差がなく、多様な関係はあってもそれなりに円滑に生活が営まれていると聞きます。
結局「結婚」問題は他の問題と切り離れて存在するわけではない、ということですしょう。
11月18日
昨夜は獅子座流星群を観測できましたか? ぼくはだめでした。
余談はともかく、今日紙を出してくれたのは15名の方でした。数は少なかったが今回のものは全部内容豊富で、どれも非常に重要かつ面白かったです。毎年のことですが、この頃になると書くことのある人が急激に減少し、ほぼこの程度の数になります。その分だけぼくも楽になりますから、どうぞ講義に関係なくて結構です。別の質問などありましたら尋ねてみてください。ぼく自身は皆さんの前の世代として、学生諸君のいかなる質問にも回答できるように、コンディション調整をしているつもりですので。
直接回答を必要とするものがかなりありましたので、早速それから取りかかります。
「『国家』と表現する場合と、『国民国家』と表現する場合との意味の相違は何か」(Mr. A)
なにげない質問ですが、考えるには重要な主題ですね。
まず、OEDは「国家」に相当する「state」の字義として第1に「Condition or manner of existing.」というのを上げています。「もののあり方」ですね。
うんと後ろの方になって「(Without article) All that concerns the government or ruling power of a country; the sphere of supreme political power and administration. 」というのがあります。冠詞抜きで使うということです。「nation state」の方はもちろん18世紀以後の造語です。これが「国民国家」です。ヨーロッパで「国家」が強力になり競争し始めると「なぜ俺たちは同じ国家に属するといえるのか」という人民の疑問に答えなければならなくなります。
そのとき「なぜならお前たちは同じ民族(nation)だからだ」と答える国家側の言い訳(イデオロギー)が必要になり始めるのです。
もちろんこれはフィクションです。ブルボン王朝の版図はほぼそのままフランス革命によって継承されましたが、中身は同じ民族どころではありませんでしたし、現在もそうです。
このような「国民国家のイデオロギー」が出現し始めた時期を、ボッブスボーム(Hobsbawm, E.)という歴史学者は「Nation and Nationalism」という本の中で1780年以前ではない、と述べています。残念ながら、この重要な本には翻訳がありません(原書は多摩図書館にあります)。漢語の方では「国家」は相当(紀元前)古くからあるもので、「国(旧字は國)」だけでも同じです。旧字体から分かるように、戈を持って城郭に立てこもる状態です。(この機会に、諸君が漢和辞典を頻繁に引くことをお願いしておきます)。一方、「国民国家」は単なる「nation state」の翻訳であり、第2次大戦後のようなごく最近のものです。
もっと最近では「福祉国家」などの造語が使用され、「国民国家」は「わたし、皆さんの福祉のためにお役に立つ、ぜひとも必要な存在ですよ」というイデオロギーを愛用しつつあります。関連して、「人工の秩序の中で、ベルトコンベアーに乗って生きてきた僕には、先生の講義に反発する気持ちがまだある。しかし、その気持ちをなくせたとしたら、どうやって生きていけばいいのだろうか...」(Mr. B)
Bさんの反発は、ぼくには痛切に理解できます。
ぼく自身も、このような現状を伝えるのではなく「明るい未来」を約束する講義が出来る用意を持っていてば、どんなに気が楽だろうと感じます。
しかし、ぼく自身のことをいえば、適当な術語を覚えさせて暇つぶしをさせるのも嫌だし、勉強ごっこで時間を殺すのも嫌だし、事実は事実として「露骨」でも伝えるしかないと思っています。「持続可能な成長」などという美辞麗句は、すでにはるか昔に空念仏になりました。2050年には世界人口が100億人に達すると推計されています。わずか半世紀後のその時までに、世界の食糧が完全に平等に全員に配分できる状態が来るでしょうか? ラルフ・ネーダー(Ralph Nader: 彼のサイトはwww.nader.orgです)によると、ビル・ゲーツの個人資産だけで、1億2千万人の米国低所得者の資産に相当するそうです。教室で言及した「Fortune 5 Hundred」の企業リストを見ていると、なんだかとても不可能そうで頭がくらくらします。
だからといって、遺伝子加工食品が「人類の福音」になるという思考は、危険すぎてとうてい是認する気になれません。Bさんにどうやって生きていけばいいかなどと口幅ったいことは申し上げる気になりませんが、ぼく自身がいま残されているほとんど唯一の「生存」の可能性と考えていることに関しては、11月4日のこのページに書きました。しかし、この際のもっとも困難な国内・国際政策に関しては、どの政党からもまだ提案がなされていないようです。Bさんの「反発」はぼく自身の現状に対する「反発」でもあることについて、正直に認めます。
「人工の秩序が暴走している世界で、私達はなんとかして生きていかなければならない。しかしそれがますます国家を強大にする結果になるのですね」(Ms. C)
Cさんのものも、Bさんと同じ、またぼくとも同じ当惑を表明されたものでしょう。商品市場が暴走しているだけでなく金融市場が暴走し、その暴走の結果を「国民国家」が数十兆円、いや数百兆円のわたしたちの税金を注ぎ込んで「後始末」している、というわけです。せめて社会学がそれに荷担することだけはしたくない、としか言いようがないですね。社会学者が「功利主義」の修正と称して「価値」や「意味」というものを提唱したが、基本構図にはまったく変更がなかった、ということに関連してか、次のような質問がありました。文字通り引用すると難解になるので、すこし言い換えます。
「市場が血縁・地縁集団の内部で発生したのではなく、集団1と集団2の間で形成されたとする。集団1の中で<意味A⇒価値A'>、集団2の中で<意味B⇒価値B'>という価値の形成が行われたとする。相互間に交換が存在するためには<価値A'≒価値B'>が成立するはずだが、この中の<≒>が何であるのか理解しにくい。価値の多元性を前提にするとよけいにそう感じるのだが...」(Mr. D)。同じような質問として、「自給自足を自然秩序とし市場を人工秩序とすると、中間形態である物々交換はどちらに属すると考えるべきか」(Mr. E)。
これも重要なので、回答を箇条書きにします。1)まず、「市場経済」がこれほど優勢になり人間の生活を首まで浸してしまったのは、工場制工業による大量生産が、19世紀後半に(もっと一般的には20世紀のフォードシステム登場によって)出現したからであるという事実を押さえておいてください。つまり、「市場」が徐々に徐々に大きくなって市場経済を形成したのではないことです。イギリスの木綿織物工業がインドの綿織物に壊滅的打撃を与えたのは、工場制工業がこの分野ではこの段階ですでに、イギリスでもヨーロッパでも消費しきれないほどの生産力を獲得していたからです。
2)ではそれ以前の「市場」はどんなものであったかというと、一例として地中海貿易がそうであったように、王侯貴族だけを対象とした、「奢侈品」市場でした。香料や砂糖などです。
3)Dさん、Eさんの文に見られる市場とは、それよりももっと以前のものだと考えることができます。例えばDさんのいう<≒>の片方は、「塩」のようなものであったとお考え下さい。もう片方は「山菜」のようなものだったとお考え下さい。したがってこの場合には、<A'≒B'>のように厳密に考える必要は必ずしもありません。集団1を構成する「海の民」(または「岩塩の民」)にとっては、塩はある量以上は必要ないものであり、「山菜」と交換できればメッケモノなのです。集団2を構成する「山の民」にとっても、同様に「山菜」はある量以上は譲ってもかまわないものなはずです。
4)ここで Eさんの質問にも、事実上お答えしたことになります。すなわち、この例に限れば物々交換は自然の秩序からさほど遠くにはありません。
5)ただし、次のような問題があります。「交換」は「貨幣」をともなうとそうでないとに関わらず、どの集団にとってもある程度の危険を伴うものです。集団外と接触し「交渉」という集団内にありえない利益主張をすることになるからです。ローマ人も、ただの都市国家にすぎなかった早い時代にはこれを通常の生活活動と区別し、「negotium」と呼び、集団内の祭祀を中心とする生活である「otium」と区別しました。地中海商業が発達するにつれて「negotium」は金儲け、営業などの別名になり、今日の営業活動(negotiation)の語源になりました。この問題は今日話したジンメル(Simmel, G.)『貨幣の哲学』(白水社「ジンメル著作集」所収)が論じています。
6)また別の人類学者は2つの集団が交換する時、互いの姿を見ないですむように、特定の場所(岩陰とか木の根本など)に一方が「山菜」を置いて立ち去り、もう一方が後からそれを取りに行き「塩」を置いてくる、のような事例があると報告しています。
7)経済人類学者の中には「値切り」(higgling)という行動の中に集団の「交換」に対する警戒心が観察できる、とする人もいます。
8)さらに、マルセル・モースの『贈与論』(Mauss, M.; Essai sur le don)のように、「交換」とは「贈る義務」「受け取る義務」「返礼をする義務」の3つの要因からなる行動であり、集団1が集団2に何かを「贈る」と、集団2はそれを「受け取」る義務があり、同時に受け取ったものに「お返し」をしないと、贈られた「事物」と集団1とのアニミズム的関係が終了せず、「返礼の義務」を怠る場合にはこのアニミズム関係による「禁忌」から免れえなくなる、とする「習慣」が存在することに注目した重要な研究が存在します。この3つをひとまとめとして「互酬制の原理」と呼ぶことがあります。
モースの研究は新大陸も対象とする優秀な研究で、非常に一般的説得力を持つものです。この延長上に、もらったらもらった以上に「お返し」をするというポトラッチなども位置づけられます。9)以上からおわかりのように、「貨幣」(金銭)を支払えば相手と相手の所持物との関係が後腐れなく切れるという「市場理論」なるものは、きわめて特殊な地域に生じた「契約観念」を無理やりに一般化した「奇妙な」(Dさんの言)理屈にすぎないのです。
『吹矢と精霊』に例を取ってお話ししたように、特定の人間や人間集団と事物との関係は「ニャワ」によって結ばれている関係であると考えるのが、むしろ自然なのですから。(この「習慣」は私たちの中にも歴然と残っています。卑近な例では、恋人にプレゼントをするのは「持っていてもらいたい」からではないですか? すくなくとも、代償を要求しているのではないでしょう。)「自然の秩序」と「人工の秩序」とが混同されたり、後者が前者を振り切って暴走していることに対する危惧の念を表明された方々が、7名いました。上にのべた通り、「遅すぎない」ようであってほしいとぼくも切望します。
トレルチ(Troeltsch, E.)というキリスト教にくわしい宗教社会学者が、西欧のキリスト教徒の究極倫理は「gratia praesupponit ac perfecit naturam」というものであった、と証言しています。訳すと「神の恩寵が自然を想定しつつこれを完成する」となります。「恩寵」とは人工物ですから、ここで見事に「自然の秩序」と「人工の秩序」とが逆転しています。「暴走」の根源は、残念ながらこのようなところに存在していたようです。恩寵が客観的真理に置きかわることによって、今世紀の怪物「科学技術」が完成するというわけです。今回はすこし難しい話が続きましたが、どれも重要なのでどうぞぜひ理解して下さいますように。最後はぼくにとってうれしい話で終わらせてもらいます。ぼくの「HPに行ってみたところ、色合いがかっこよかったです。英語なんで少しビビリましたけど」(Ms. F)。
HPとは表紙のことだろうか。これまで誉められたことないので大変うれしかったです。あの色の上に漢詩を書くのは、これでもけっこう「つかれまんねん」。その文字が陶淵明(陶潜)の詩であったことにも、気がついていただけたでしょうか。下に英訳を付けてあります。「帰去来の辞」の作者陶淵明は、結局郷里に引っ込んであの詩のように生活しました。英語なのは、ライプニッツ(G. W. Leibniz)の多元論に関する論文を載せるために作ったHPであるせいです。欧米人の名誉のためにいっておくと、欧米にも大物の多元論者は居たのです。そのうち「ビビらないで」この論文も、4年間のどの時点かで読んでいただけるともっとうれしいのですけど。「いずれ」で結構ですからお考えおき下さいますように。
11月11日
今日は何故か、諸君たちがやや不調だったかなと案じました。うーんと感じさせられるものが意外に少なかったです。寒かったせいだろうか。
まさかそんなこともないでしょうが、ひとつこの時点で皆さんにぜひお願いがあります。「どうぞ、強引に無理な結論を出そうとしないようにして下さい」ということです。しっくり来ないことは、来るまで考え続けましょう。入学以来これまでの半年余で社会学にどのような印象を持たれたかについて、皆さんから話しを聞くことができないのは残念ですが、次のような質問を自分に発して下されば、きっとぼくの願いが分かってもらえるのではないかと思います。すなわち「a)自分はこれまでに何年人間をやってきたか。b)その結果、どの程度確実に人間を知っているといえるだろうか」です。
人間は自動車やバイクとは違います。同じ態度で接しられては困るはずです。自動車はろくに歴史を持ちません。しかし、人間は数万年以上の歴史を持ちます。最近の私たちの社会のように、人間とはこの程度のもの(「福祉を与えればすむもの」「介護を与えればすむもの」「人工授精を許可すればすむもの」「就職させてやればすむもの」「知識を切り売りしてやればすむもの」etc.etc.)と考えて接してもらっては、迷惑だと思いませんか。たくさん本を読んでもらいたいのも、結局は諸君に歴史そのものを知ってほしいからです。
ではなぜ歴史を知ってほしいかといえば、諸君がこれから私たちの社会の舵取りになるからです。この船の舵がどのように働くのかを、知ってほしいからです。前置きが長くなりましたが、今日は16通を選び出しました。早速諸君のコメントにぼくの所感を重ね合わせてみます。
「集団で行って結婚するということは、恋愛感情はないということですか? 結婚と恋愛とは全く別のものということですか?」(Ms?. A)
実に面白い質問ですね。質問の背景心理が見えてくるような印象です。「集団で行って」とは、交錯いとこ婚において兄弟が別の親族集団の姉妹のところに行く、という意味だろうと理解します。ぼくは、残念ながら交錯いとこ婚の経験がないのでこの方のような質問に正確に答えることはできないかもしれません。しかし、うんと想像力を行使して、お答えする努力を最大限してみます。はっきりしていることは、交錯いとこ婚でも子供は産まれてきた、ということです。だからこそ現在の私たちがいるのですが。では、Aさんのいう「恋愛感情」とは、いったい何を指しているのでしょうか。性交する相手を「美しい」とか「愛しい」とかと感じることでしょうか。もし恋愛感情と呼ばれるものをこのような意味に解するのなら、ぼくは交錯いとこ婚でも断じてこのような感情は存在したはずだ、と考えます。(無ければエッチできないよ。)また『万葉集』の中にも「君はすてきだね」とか、「早く君に会いたいよ」とか、「あなたが遠くに行って悲しい」とか、「多摩川に織物をさらしているとあなたが目に浮かぶ」とかといった庶民の歌が、「相聞」の部を中心におびただしく収録されています。この時代の日本人が交錯いとこ婚だったかどうか不明ですが、現代のいわゆる「恋愛結婚」でなかったことは明白でしょう。
そうではなく、現代の私たちがステレオタイプとしているような、知り合って交際しているうちに、まず個人の中にいわゆる「恋愛感情」が発生し、だから恋愛結婚し、だから子供が産まれ、のような意味なのであれば、そんなものはなかったのではないでしょうか。私たちの意味ではじめに「恋愛感情」ありきのようには、いえないのではないかと考えます。
次のことに注意してください:「動機」となる恋愛感情があり、それが「行為」である結婚を生むとは、まさにベンサム(Bentham)が述べた「犯罪における動機・行為」理論そのものであること、です。つまりAさんの問いは、現在の私たちの意識と行動が、恋愛や性交に関してさえ、いかにベンサム流の功利主義に無意識に従っているかという事実を示唆するものに思われます。もちろん、ぼくはAさんがベンサム主義者だと思っているのではありません。ぼくたちが無意識にこのように考えてしまう、これって自明のことだろうか、と問い返しているのです。関連して、教室では(時間のせいで)割愛せざるを得なかったことを述べます。国家の存在しない状態で、親族集団αと親族集団βとに通婚する「習慣」が存在したとします。ところが、親族集団αに属すある男または女が、偶然遭遇した全く別の集団に属する女または男に急に魅了されたと仮定します。さらに、その結果相手を追いかけることになったと仮定します。そのようなときに発生するものが、まさに「悲恋歌」(叙情詩)です。イスラム圏に『ライラとマジュヌーン』(平凡社東洋文庫所収)という名高い長大な悲恋歌が伝わっています。前者は王女の名、後者は王子の名という設定になっていますが、べつに王女と王子でなくても同じことは起きます。この長大な悲恋歌の中で、二人は果てしなくさまよい続けるのです。
Aさんがこのような悲恋をどのように受け取られるか分かりませんが、悲恋は遠い過去からきっと存在しえたと思います。だが、私たちが想像するいわゆるハッピーエンドの「恋愛感情」のようなものは、私たちの現代の特殊な生活感覚の所産です。これが、うんと想像力を行使したぼくのお答えです。恋愛においてさえ、私たちは明らかな功利主義の影響下にある、という奇妙な事実を、どうぞ真剣に受け止めて下さい。
「私の母方の祖母と祖父もいとこ同士で結婚したそうです(親が決めたそうですが)。...このようにかなり複雑に結婚しあっているそうです。本来タブーであるはずの近親相姦が家と家との話し合いだけで行われていたと考えると、怖くもなります」(Mr. B)。
「怖くもなる」というのはBさんの感想ですから、そうなのですかと尊重します。しかし、この例は近親相姦ではありません。遺伝学的に誤解があるといけないので説明します。Bさんのいう「いとこ」というのが一番極端な事例、すなわち「両親のどちらかの兄弟か姉妹かの子供」を指す、と仮定します。
ある人(γさんと呼びましょう)が、両親の片方から受け継ぐ遺伝子が同じである確率は50パーセントです。γさんの両親の片方が、そのまた両親(γさんの祖父母)の片方から受け継ぐ遺伝子が重複する確率は、同様に50パーセントです。このγさんの祖父または祖母は、両親の片方の兄弟姉妹(オジまたはオバ)の親に一致します。
両親の片方の兄弟姉妹(オジまたはオバ)のうちの一人が、その両親(祖父または祖母)から受け継いだ遺伝子が重複する確率と、さらにその次世代である子の一人(この人がγさんのいとこです)とγさんが、同じ遺伝子を共有している確率を計算してみて下さい。もちろん確率ですからかけ算になります。
Bさんの感想とは別に、これが「近親相姦」であると考えるのは遺伝学的には誤解ですので、どうぞこのような計算をして考え直してみて下さい。計算の詳細はドーキンス『利己的な遺伝子』(Dawkins, Selfish Gene)、メイナード=スミス『進化遺伝学』(Maynard-Smith, Evolutionary Genetics)などをよくお読み下さい。
なお、「家と家との話し合いだけで...」というフレーズは、話し合いでなければ(すなわち上記のAさんの意味の恋愛感情にもとづくなら)よろしい、という意味ではないでしょうね、まさか。
歴史上は、「家と家との話し合い」ではなく当事者同士の意志による近親相姦というのは事実としてもちろん存在しましたし、今もおそらく存在するのではないかと考えます。これに照らしても、Bさんの感想は変わりませんか?変わらないとすれば、Aさんに述べた「恋愛における功利主義」の指摘を、ぼくは繰り返すことになります。(もちろん家の話し合い結婚を奨励しているわけではないので、念のため。)
近親相姦などといった言葉は、CM用語でいうと訴求力が大きいのでポルノ雑誌の表紙にはなりやすいでしょうが、そんな言葉に過剰に反応するのは慎む方が賢明と思います。ぼくなどは、動物なら期せずして回避する近親相姦などよりも、匿名のドナーの精子で人工授精したりする方がよほど不気味なのですけど...関連して、「ネズミは親子でも繁殖をし続ける、と聞いた。これはネズミがライオンより下等だから回避する本能が備わっていないということだろうか...」(Mr. C)。
ごめんなさい、ネズミはいつでもどこでも必ず親子で繁殖する動物だとは、ぼくは聞いたことがありません。多分そんなことはないと確信しますが、動物学者に出合う機会があったら確かめておきましょう。
ただし、多くの動物が「近親相姦(親と子、兄弟と姉妹)を事実上回避する」ということは、長い長い時間の自然淘汰の結果として備わった行動様式なのですが、そのような組み合わせのもとでは子供が産まれないという意味ではありません。その2つの問題が混同されているのではないかと危惧します。すくなくとも法律(民法)が近親婚を婚姻と認めていないのは、自然淘汰の結果を追認しようとしているだけです。ライオンがネズミより高等だから本能があり、人間がライオンより高等だから法律がある、というわけではありません。人間が賢いから法律を作ったというわけではないので誤解ないように願います。結局この種の問題は「生物は生き残るということと、遺伝子を伝えることを達成しようと常にしていものなのだから、人間も動物も近親相姦をしないのは当たり前だと思う...そうでなかったらその種はおとろえてしまうだろう」(Ms. D)の一語に尽きるでしょう。
「...しかし、大勢の人が同じ地域でくらすにはある程度の考えの統一が必要だから国家はなくてはならないのではないか」(Mr. E)。
この方以外にも、どういうわけか男子諸君からのものに国家必要論が多いようです。きっと政治家は泣いて喜ぶかもしれないですね。明日の我が国は明るい、などと。実際には、国家があって喜んでいるのは多国籍企業ではないかと思えますが。それはともかく、Eさんのいう「考えの統一」という意味がよく分かりません。何のための、いかなる内容の「考え」なのでしょうか。
もしかすると、この文章は力点がそこ(「考え」)にあるのではなく、「大勢の人が同じ地域でくらす」というところにあるのかもしれないと考えました。どうぞ、文は漠然とではなく内容が正確に把握できるようにお書き下さい。そのように考えれば、この文はよく理解できます。「人口集中が国家を必要とさせた」というように。都市とは、もともと人間がまともに暮らすところではなかったのです。文明が都市から発生したのは、そのためです。そのほか、では秩序とは「家族と家族の間と中とにあるのだろうか」(Ms. F)「国家の他に身近なルールとしてあるのだろうか」(Ms. G)「自分の中に成立しているものだろうか」(Ms. H)と自問された方々がいました。次回は、自然の秩序と人為の秩序がなぜ混同されるのかを講義する予定です。
11月4日
体調がすぐれなかった上に時間まで間違えて、今日はごめんなさいでした。
早速ですが、今日諸君が書かれたものはどれも内容が濃く、面白く読みました。またぼく自身の参考にもなりました。このこと、最初に感謝します。
例によって、直接の回答を必要とするものから取りかかります。
1)「折口しのぶさんの名前は『信夫』ですか。...」(Ms. A)
はい、そうです。詩をお書きになるときには釈迢空というお名前もお使いになりました。もっとも、この方の質問はわざわざ答えるまでもなくおそらくこの人とわかっておいでのようでしたが。南方熊楠、柳田国男、折口信夫、宮沢賢治などの人々は、民俗学などと一括されて人類学などより何となく「価値が劣るもの」という感覚で受け取られることがあります。何故かと問い返すと、科学的方法論の点で疑わしいとか、世界は近代化して(中にはポストモダン化さえしるという見解?もあるようです)おり、滅び去るものを研究することには価値がないとかいった回答が返ってくることがあります。理解に苦しみますね。ただ、こうした知的雰囲気があるのは残念ながら事実のようですから、そのような人々に重要性を理解してもらうための努力は必要でしょうね。「アニマとは神と同じだろうか。いいかえると、アニミズムは多神教の起源だろうか。もしそうなら、アニミズムと一神教は対立するものだろうか」(Ms. B)
これに関連して、「アニミズムと生命連鎖」との精神的同質性に関する同意や驚きに関する記述が7通ありました。これら7通はどれも文が美しく、感銘を受けました。
それはそれとして、質問に答えます。どうぞこの人だけでなく、全員が以下を理解してください。
「アニマは神か」について。霊魂、精霊、活力、何といっても同じです。animaはanimate、animationの語幹と同じです。生きていることです。それを神と呼ぶなら、神でもかまわないと思います。ただし、ぼくたちと無縁の存在ではなく、ぼくたちの中に生きているものです。そのことさえ間違わなければ何と呼んでもかまわないようなものですが、神は通常ぼくたちの「仲間」でないニュアンスがあるので、あまり適切な表現とは思いません。
「多神教の起源」という表現は正しくないと思います。むしろ多神教そのものです。また、歴史的にも世界的にも、多神教の方がはるかに多い普通の文化です。
「対立するか」について。欧米人はある時代から一神教しか知らされなかったので、タイラーも他の人々も驚いてそのような「特別の」名称を付けたということです。実際には、一神教の方が人間にとってははるかに奇妙なものだったようです。「対立」の意味がやや不明ですが、対立をしかけるとすれば一神教の方からではないかと想像します。
新大陸はもとよりヨーロッパも、はじめからそこに住んでいたケルト人(や後から西進したゲルマン人)も、もともとは多神教でした。歴史的にはキリスト教がそれを押しのけたということになります。しかし、もともとあったアニマは、妖精などとなって生き続けました。「アイルランドは妖精たちの国」という表現があります。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が日本に非常に親しみを感じたのも、日本が滅ぼされるアニミズム、という点においてアイルランドと通じるところがあったからではないか、と理解されています。2)国家または国家権力に関するものが継続してありました。(6名) 「ルソーは『よりよい国家』を理想とし、(ぼくは)『戻る』ことを求めているようだが、自分には『戻る』ことのあまりの難しさを現実の中に見ると、思わずルソーに賛成してしまう。」(Mr. C)「個人的には、戦争などで無の状態にでもならなければ国民国家から逃れることは現在の日本では不可能と思う。理由としては、人間は現状維持が楽だと思うから。」(Mr. D)「(人間は固定したもの[=安定?]を求めるので)国家が束縛するところがあっても、保証されているところに国家の必要を認める人が多いのではないか。(この方の文はやや分かり難いがこのような意味と思われる)」(Ms. E)「人間は枠組みがないと無秩序になり、社会がスムーズに動かないような気がする。」(Ms. F)
ぼくは諸君の結論内容ではなく率直な見解を尊重したいので、あえて国家必要論を多めに引用しました。おそらく、諸君が偶然街頭を歩いている人に国家権力に関する見解をもとめても、上記のような意見が多くを占めるのではないかと相当の確率で予測できるように思えます。ほんとうに、何という地点に私たちは来てしまったのか、とあらためて感じました。
これらの必要論がどのようなニュアンスから発せられているのか、ということに大きな関心を持ちましたが、これらの文章からは推察できませんでした。「理論的(?)に当然だよ」というニュアンスなのか、それとも「残念ながら現実」というニュアンスなのかを、という意味です。ぼくはといえば、これらの見解にも関わらず来週もこの主題で話を続けますので、よかったら耳を傾けてください。
なお、上の中にぼくが「戻る」といったのはどのような意味でどのような方法によるのか、という質問2つがありました。戻るとはまず帰農ということです。このためには人口が現在の半分程度になる必要があります。現在人口は減少傾向ですから、この目標は不可能ではないです。同時に、現在の経済圏が当面アジア程度まで縮小する必要があります。経済学部に「反グローバリズム」を提唱しておられる方がおいでです。細部まで同じかどうかお話ししたことはありませんので不明ですが、同じような考え方かもしれません。そのための国際外交政策は...などのようになります。お断りした通り個人的思考ですからこの程度で。3)文明化のない未開状態に関する見解が多くありました。(9名)その中で人口数に関心を持たれた人(3名)、同じ意味かもしれないが外界との接触に注目された人(1名)、分配に関するもの(3名)、等です。
「もしかしたら、人間は文明を作ってしまった時点で選択を誤っていたのかもしれない。」(Mr. G)「話し合っているうちに決まるのは、それが小さい集団だから可能なのだと思う。」(Ms. H)「外界を見てしまうとこの人々の生活は崩れてしまうのではないか。」(Mr. I)「(文明人とこの人々の)等しく分けると、恵むという行動様式の相違はどこから生じるのだろうか。」(Ms. J)「食物をあげるということを分配の正義といった時に、2つの言葉のギャップに笑いそうになった。ぼくはどちらを取る人間なのかわからない。」(Mr. K)
ほんとうに、思わず笑うしかないほどギャップが大きいですね。どちらが「寒い」かに関しては、ぼくには後者と思えます。おそらく同じ感慨なのでしょう。他の方々の見解にもすべて根拠があると考えます。
人口に関してはイギリスにいまだに冷遇されているすぐれた学者ロバート・マルサス(Malthus, R.)が出現しました。彼は、当時のイギリスが大陸(フランス)から食料を輸入する自由貿易にも異論を唱えています。社会学者スペンサー(Spencer, H.)も人口に着目しています。すべての生物種は、例外なく生息環境との間で人口の平衡状態に到達します。人間という種のみがこの均衡を振り切って人口増加を始めたのは、最初は農耕のはじまり、その後しばらく均衡し、やがてこの自然環境の枠を振り切って人口爆発を迎えたのは工業化の開始と時を同じくしています。これが、数回前に紹介したドーキンスなどが人間という種だけは手に負えない、と指摘している理由です。また、農耕と(化石燃料を使用した)工業化、というところで大きく人類史を区切ることが出来ると指摘した学者として、アルビン・トフラー(Toffler, A.)がいます。マクロな史観としてうなづけるところがあります。
Iさんの見解に関し、事実問題だけを訂正します。この人々の場合は、マレーシア政府によって近代化に「生活指導」されており、その意味では外界を見せられているのですが、それを嫌ってジャングルに逃げ込んでしまうのです。そのこと以上に著者(口蔵さん)が危惧しているのは、貨幣経済の浸透による生活様式の変化(破壊?)です。詳細は本をお読み下さい。4)興味深い話題を書いて下さった方がいます。(2名)
「(先週約束の)ドキュメンタリーを見て『命とは一体何なのだろう?』と思った...ここまで来ると単に『子供が欲しいから』ではなく『〇〇型の子供を購入する』に近いように感じた...ビジネス化したものに倫理を問うこと自体が間違っているのだろうか?...」(Ms. L)「次のような話を思い出した。ある貧しい家族にお米をあげたところ、自分の貧しさにもかかわらず隣の家族にその米をちょうど半分あげた、という...つらい人ほど、つらい人に目を向けることが出来るのではないかと考えた...」(Ms. M)
Lさんが、1週間にわたって約束を忘れないでいてくれたことに敬意を表します。たしかに、上記Kさんの当惑のように、ビジネス化したものに倫理を求めるというのは、釈然としないということに同感です。その割に平気でやる人が多いのはどうしてなのだ、と感じます。その週の講義に関係があるかどうかなど、どうぞ無視してくださって結構です。貴君の持続性を大事にしてください。
また、Mさんの鋭い指摘にも敬服します。きっと、その指摘は非常に正確だと感じます。また、そのつらい人が、つらさを率直に受け止めることが出来ることこそ、人間としての高い「品格」なのだと思います。そのような人々が多くなることを願わずにいられません。
2人とも長文で、胸を打つすぐれた文章でした。すべて引用できないかったこと、お許し下さい。5)最後になりましたが、今日ぼくが口には出さないが全員に伝えたかったことを正確にいい当てた方がいますので、その方のものから引用します。「人間の根源の生活は、とても安定した秩序状態だと思った。」(Ms. N)
Nさんの指摘の通りです。来週も、そこから話を続けます。ではまた。
10月28日
今日はとても天気が良かったですね。関係ないか。
今日に関係なかったといえば、「しばらく取っておいてください」といって渡した図は、Robin Fox, Reproduction and Succession, 1993 Transaction Publishers から取ったものです。この本は来年早々『生殖と世代継承』(仮題)法大出版という邦訳として公刊されます。(ぼくが邦訳者です。)Robin Fox はイギリスの社会人類学者。この本はメチャメチャ面白かったです。今日の諸君の感想は大きく2群に分かれました。「国家権力」に関する講義がまだ途中だったせいでしょう。
第1群は、国家権力に関するものです(15名)。 第2群はそれ以外ですが、その中でJ. S. Mill に関するもの(2名)。どれにも関係ないもの(3名)、となります。この順に回答とコメントをします。
1)「(1)Grotiusが補充的正義を法の立場としたことは理解したが、属性的正義は何であると捉えていたのだろうか。(2)Toenniesの本質的意志とは、さらに詳しくいうと何か。(3)日本の縄文時代もstatelessだろうか。」(Mr. A)。
この人のものは質問に代表性がありますので、単独で回答します。
(1)彼は属性的正義についてそれ以上の立ち入った議論をしていません。いいかえると、法(jus strictus)の性質を明らかにする以上の関心は持っていなかった、とぼくは解釈します。法を超える問題と考えた、ということでしょう。
(2)本質意志(Wesenwille)はゲマインシャフトを成立させる契機ですから、それ自体が共同体的存在(Gemeinwesen)です。ルソーの特殊意志やテンニース自身の選択意志は個人の属性と考えることができますが、これは個人の属性ではありません。
貴君が自分を狩猟・採集民のひとりと考えて下さい。部族の少年たちに、狩猟の仕方を教えなければならない、と考えてください。そのとき、貴君はそれを自分の利益のためだとは考えないでしょう。また、単独でやるのではなく他の大人の男たちと協力して教えるでしょう。意志においても行動においても、それは個人のものではないはずです。そのように、個人意識の回路を必要としないものを、本質意志と呼ぶのです。
(3)弥生時代の吉野ヶ里遺跡などには、国家が存在したことを感じさせるものがあります。しかし縄文時代に関しては、まだ正確にわかっていません。1)を続けます。「補充的正義は属性的正義をとてもいやがっているように感じたのだが、なぜそこまで否定するのだろうか。...2つが互いに長所を発揮できればベストなのだが...」(Ms. B)。「経済的に発展しきったアメリカや日本やEUのような場所では、利害関係で満ちあふれているから、国家は必要だと思う」(Mr. C)。「暴力装置が必要ということだが、人間は利己的なので秩序を保つためには(暴力装置つきの国家が)必要であると思う」(Ms. D)。「国家権力が暴力装置となっているのは行使している側の問題であって、処罰装置、防止装置であると考えたい」(Mr. E)
Bさんの「いやがっている」という擬人法はほほえましいですね。ただし、いやがる理由は簡単です。「依怙贔屓じゃないか」「属人的嫌がらせじゃないか」といわれるのがいやなのです。また、2つが長所を発揮できる、というのは貴君だけが考えたのではなく、実は儒学の理想でした。一方西欧では、そのような発想はなかったと思います。あるとすると、黄色で書いた人々がそうです。もっとも早くはライプニッツ、ということになります。
国家権力に関するものは相当数あったのですが、必要論と不要論が半ばしました。必要論の典型として Cさんに登場してもらいます。いち早く国家を形成し、その結果経済発展が頂点に達し、気がついたら国家なしの生活は考えられなくなっていた、というのはきわめて皮肉な構図というべきですね。
Dさんの思考は典型的に功利主義のもので、「個人主義」と「利己心」を前提とするとどうしてもこのようになるのです。Dさんはベンサムなどに比べると正直なだけです。
Eさんのものも基本においては同じなのですが、すこし異なった問題様相を帯びています。あなたは「核抑止力」についてはどう考えますか。やはり行使する側の問題だ、と考えますか。よい国が持てば「核」は抑止力として有効、悪い国が持てば危険な攻撃兵器と考えますか。ぼくは、あなたのこれへの答えによって、上の命題の含意が変化すると思います。2)まずJ. S. Mill について。「公的ドメインと私的ドメインの両立について、彼は(2つが)対等でないといけないと考えたのだろうか。たしかに小さい(私的領域が?)のを放置すると社会主義やナチズムにエスカレートすると困るが」(Ms. F)。
尺度があるわけではないので、対等というのがどのような状態か不明です。したがって、『自由論 On Liberty』は私的領域を保護すべきだとは述べたのですが、対等という表現が見られるわけではありません。
ただし、私的領域の保護はいかにして可能と考えられるでしょうか。公権力が私権を侵害したとき、その回復も法と国家に期待する、いいかえると公権力に期待することになりませんか。これがミルの論拠の大きな難点です。今世紀の政治状況について、エーリッヒ・フロム(Erich Fromm)という人が『自由からの逃走 Escape from Freedom』という名著の中で、私権が侵害された人々はかえって「甲羅のない蟹」のように感じはじめ、結局もっと頼りになる国家権力を、と希求してファシズムをたぐり寄せることになった、と論じています。どうやら、適当に私権が守られていれば「社会主義やナチズムに」ならない、といえるほど簡単じゃないのです。「塾の講師の友人が生徒のために開いたHPのタイトルが『ライプニッツ』というので、何故かと尋ねてみたら『ライプニッツ』=『夢見るコギト』なのだそうだ。(当たっているかどうか)Leibniz について調べてみたい」(Mr. G)。
そうですか。それはてんで問題にならないピンぼけですね。ぜひ自分で調べてみてください。もっとも、本屋にあるライプニッツの解説本をあまり当てにしないようにご注意下さい。
「精子売買に関してぼくが言及した点に疑問を感じた。『アメリカの精子斡旋の現状』というドキュメンタリーを録画したのでそれをよく見て、女性が自分のためにだけ精子を買うのかどうか次回に書きたい。でも、内容は講義とあまり関係ないですよね...」(Ms. H)。
いいえ、関係がないとは思いません。ぼくも皆も、ぜひ聞きたいはずだと思いますから、書いて下さい。その際に、ぼくが契約という問題との関係で話したことを思い出して録画を見てもらえれば、なお有り難いです。
国家権力に関しては来週また継続します。
10月21日
まず、一日遅れたことをお詫びします。(追記:23日午前2時頃読み直したところ、ファイル・ハンドルミスによる脱落を発見したので加筆しました。)最初に理解をお願いしたいことについて書きます。「人名にカタカナ表記を付けてほしい」という主旨の要望(2通)がありました。(もっともこの方々はそれだけを書いたのではありません。)
そのことなのですが、ぼくもカタカナで書く方が当然楽なのです。しかしあえてローマ字書きをするのは、諸君の中に必ずEncyclopaedia Britannicaなど外国語の各種事典でも引きたいという人がいるからなのです。日本の事典は両方で引けます。しかしこのような人々は、カタカナから原綴りを復元できなくて難渋するようなのです。どうぞ、諸君の同級生を見くびらないでください。そのような人が実際にいるのです。
「ダランベール(d'Alembert)」「フッサール(Husserl)」のように出来ればよのでしょうが、黒板面積から見てそうもなりません。事情を理解してください。原綴りはいらないという人は、もちろんカタカナ書いて下さい。(ただし、名前を覚えてもらうのが目的では毛頭ありません。邦訳でも何でも、とにかく読んでもらうことが目的ですから、その点は今後とも決して誤解ないように。)これからできるだけ不便を最小にするように、努力してみるつもりです。今回書かれたものは予想以上に多義的で、分類に本当に時間を必要としました。また、注意深く読まねばならないものが多かったのも、今回の特徴でした。これら全てを、まったく乱暴ではありますが、つぎのように分類させてもらいます(細かくすると、7つ以上になってしまったのです)。1)ベンサムに関連するもの(13名)、2)ルソーに関するもの(4名)、3)それ以外(モンテスキューなど)(7名)。便宜上、この順に言及させていただきます。
1)「行為が悪いのは動機のせいだとして、では誰がそれを判断するのかについて知りたい」(Mr. a)。「行為・動機論を理解し、(人間が)このようにして生きていることに気づき、自分もこのような経路で動いているのだろうと感じた」(Ms. b)。「動機を監獄で直せば犯罪が起きない(という考え方に関して)...そうした動機が起きる原因は社会なのではないか」(Mr. c)。その他同様のもの多数。
この中で、一瞬ですが「なるほど」と虚を突かれたように感じたのはaさんのものです。これは質問ではなく、彼の自問だと考えてください。いいかえれば、ベンサムは「犯罪」について述べたのですから、それは「国家」に決まっています、と答えるのは実に容易なのです。犯罪は法的には刑事事件とされ、それを訴追するもの(原告)は「国家」であると答えてしまえば、一見問題はそれで終わりなのです。しかし、aさんの問いたいのは多分そこではありますまい。
ではその「国家」とは何なのか、と彼はさらに聞きたいのでしょう。社会契約説に従えば、その「国家」を構成する根本原理は私たち相互の契約です。この契約の当事者は私たちなのです。この中には、aさん自身ももちろん含まれます。ではその契約は、いつ、何の目的で締結されたのか、と彼は問うでしょう。つまり自分は関与した覚えがない、と。
このような深い問いに答えられなくなるのが、功利主義と社会契約論の最大の難点なのです。社会学に引きつけて言うと、行為論の抱えている、目を背けたくなるような深い難点なのです。
このように考えれば、bさんの感慨はとても他人事ではなくなります。彼女の感じる当惑の通りです。それは、何という生き方の中に、いつの間にか引き込まれてしまっていることか、という当惑なのでしょう。しかしこれが、目を背けるわけにいかなくなった現実なのです。そのような重苦しいことを考えていると、ふとメル・ギブソンとダニー・グローバー主演の「リーサル・ウエポン」という映画の1シーンのことを思い出しました。事件の第1目撃・通報者の女性が実は犯罪の現場に居たのではないかと示唆しながら、メルがダニーに、あれって「Officer, officer, I saw it, I sawe it...」のパターンじゃないのかー?というシーンです。
ぼくはこのシーンを、何か深刻な問題(特に社会問題)が起きると、「政府、自治体の善処を期待したい...」と発言をする民放等のニュース番組を見るたびに思い出して、深く憂鬱になります。bさんの当惑もどこか共通のように思えました。このようにして、法律と条令と規制が幾何級数的に増加するのでしょうね。
一方、cさんの指摘は実は犯罪社会学の中の学説としてすでに早くから存在するものです。一般にも、こんなことが起きるのは「社会環境」が悪い、という通念として存在します。cさんが正確に指摘するようなケースが、現実に存在するのは事実です。講義の中で述べた通り、制度を作るのは人間ですから、人間がだめならどんな制度も円滑に機能するはずがないのです。そのような問題を肯定した上で(というよりもそれだからこそ)、なおかつ現代社会の中で起きる様々な問題がすべて、上述の悪循環を免れにくいことを、あえて指摘しておきます。強くいえば「..., I saw it, 」の it が「社会」に置きかわるだけという悲惨なことになりかねません。cさんの真意も社会改良は容易なことではないか、ということではないはずです。
前週の(この下に掲載の)文で「理性」に関する諸君の懐疑に言及した際に述べた通り、ぼく自身は「進歩」どころか、この悪循環がどん底に向かって止めどもなく続いてゆくことを、どこでどのようにしてくい止めることが出来るだろうか、と考えます。2)「ルソーに関して、(ぼくが)彼のいう自然状態と社会状態についてどう考えるか」(Mr. d)。「彼の思想の中に国民皆兵ということがあることを知らなかった。何故今まであまり語られなかったのだろうか」(Ms. e)。「(ぼくは)ルソーの『告白』をすすめたが、自分はアウグスティヌスの『告白』をぜひ推したい」(Mr. f)。
dさん、実はこれが次回のテーマなのです。来週まで待ってください。ただし、次回がルソーに即した「自然状態」論になる、というわけではありませんので、注意深く耳を傾けてくださいますように。
もっとも、折角ですからルソーの自然状態論に即する限りでのコメントを加え、皆さんの参考に供します。ルソーには『人間不平等起源論』という作品があり、この作品が当時のパリにおいて彼の名声を確立させました。この中に姿を現したのが「自然状態」という観念です。自然な状態で生きているとき、人間は不平等をはじめとする醜い悪を知らなかった。ところが「社会」が誕生して、今のような不平等が発生した。これが、すこし大まかですが要約です。
実は、『社会契約論』はこのような議論の続きとして発表されたものです。現状を抜け出し、再びかつての「自然状態」のような人間らしい状態を実現するために「一般意志」にもとづく国家をつくる必要がある、というのです。
ホッブズとルソーは、どちらも社会契約論にもとづく国家の構想と受け取られていますが、実は両者には大きな違いもあります。前者は目前にある国家を「契約」(「信約」)にもとづくものと見なそうというものであるのにたいして(『秩序問題の解明』はこのことを緻密に記述しています)、ルソーはいわば「明日の理想である国家」というものを『社会契約論』によって叙述しようとしたのです。(現社の講義ではこのような細かいところの重要性を詳しく論じる時間がなく、残念に思いますが、そのために諸君にこのページの参照を強くお願いしているのでもあります。この相違が重要であることは、「よくないがやむを得ない」と考えるのと「これではいけないから明日こそは」と考えるのとが、大変大きな差違をもたらすことを考えてみてくださればわかると思います。)
ともあれ、比喩的にいうとルソーの論旨は次の喩えのようになります(喩えなのであまり過信しないように)。「赤ん坊は何の汚れもなくすやすやとまどろんでいた。ところが、物心つく少年になってみると、ありとあらゆる悪事に身を染めてしまった。ここからは、もっともっと理性的になって契約国家を作り、全ての悪と手を切ろう。それが出来るはずだ、理性的人間には」。ルソーの気持ちはどことなく理解できるようなところもあります。しかし、出来るはずだとやってみて出現したのが、フランス革命とロペスピエールの独裁―>ナポレオンの独裁と続く地獄絵だったということです。革命を見ずに死んだのが彼の救いだったろうと述べたのは、このような事情からです。その後しばらくして、フランスは共和国になりますが、前述の bさんの当惑が私たちのものなら、ルソーはそれも経験しなくてすんで、うらやましい人ですね。そう思いませんか、bさん。
eさんの「国民皆兵」について、ルソーのために一言弁明しておきます。彼の論旨を突き詰めると「国民皆兵」になるのは間違いないのですが、ここだけ聞かされるとルソーが何だか戦争のことばかり考えた人のように聞こえるといけないので。もちろん、eさんがこのように受け取っているなどと考えているわけではありません。
自由で平等な人々が、理想社会のために「社会契約」を結んで「国家」を作るのです。その国家が外敵に侵略されたら、他の誰でもなく市民(citoyen)自らが武器を取ってこの「理想国家」のために戦うのです。ということは、論理的帰結として「国民皆兵」になります。事実、ルソーの理想を掲げて戦われたフランス革命以後、ヨーロッパに「市民軍」という観念が定着した、とされています。回りくどくいうと以上のようになる、ということです。別にルソーは戦争が好きだったわけではないので誤解がありませんように。(わかりやすく話すのは、ほんとうは怖いことですね)。
関連して、その直前のアメリカ独立革命を戦ったのもアメリカ市民自身です。フランス革命は、このアメリカ独立革命に刺激されたとする説があります。正しいでしょう。ここにも「市民軍」が成立したのです。その市民軍の結末が、1960年代にアメリカでわき起こった「徴兵拒否運動」であったというのは、歴史の皮肉ですね。今年は「ウッドストック30周年」で、当時の重要なドキュメンタリーなども放映されました。あの中に登場する当時の「若者たち」は、別にロックで騒いだただの若者なのではなく、米国国家とその徴兵制度とが世界平和に矛盾すると主張していたのです。だから、ジミ・ヘンドリックスがエレキギターで変奏する米国国歌が、抗議という歴史的象徴性を持つのです。皆さんには、ジミヘンのギターと『社会契約論』とを心の中で重ねて見るべきだ、と示唆したいと考えます。この抗議の精神は、死んでいません。ぼくの友人である Stuart Ewen 氏のマスメディアに対する抗議声明を読んでみて下さい。ぼくのサイト内に掲載されていますが、ここからもリンクを張っておきます。
上記のルソーが用いた citoyen を「市民」と訳すべきでない、という有力な説があります。山内進『掠奪の法観念史』(1993 東大出版)などが、「国民」と訳すべきであると強く主張しています。「市民」と訳すと、何か「国民」とは別に「バラ色のいい子」がいるような幻想が日本にはあるので、実はぼくも同感です。この本は学位論文ではないかと想像しますが、非常にすぐれています。
citoyen, citizen などの原型はラテン語の civis で、civitas の住民のことです。civitas は、共和制時代には都市国家、ローマ帝国になってからは覇権国家そのものですから、civis Romanus もローマ国民と訳した方が実体に相応しいかもしれないですね。このローマ国民こそ、「国民皆兵」の見本のような人々で、civis Romanus とはまず何よりもローマ帝国防衛に当たる人々なのです。ヨーロッパ人には、何事もすぐれたものはローマ帝国の遺産とする不思議な習慣があり、ことによるとルソーもローマ崇拝に無意識におちいっていた、といえるかもしれません。などなど、e さんの指摘される「国民皆兵」問題は、ほんとうは大変に奥が深い問題なのです。
話題を f さんの推薦書に移します。彼はたいへん博学で、毎回含蓄ある文章を書きます。ぼくなどは、彼がお腹をこわさないように、とひそかにいつも祈っているくらいです。そんな心配は無用だとして、アウグスティヌスの『告白』は、「告白」という文学形式のご先祖様のような位置にいる作品です。ぜひ皆さんがお読みになることを、ぼくからも勧めます。
ただ、バートランド・ラッセルというぼくの尊敬するイギリス哲学者が、名著『西洋哲学史 A History of Western Philosophy...』(この名著は邦訳がないと思います。1950年代のどこかで一度訳されたことがありますが、この訳は残念ながら原書より難解でお勧めできません)の中で面白い指摘をしていることも参考として述べておきます。ラッセル曰わく、アウグスティヌスの『告白』は10章まではクズだ。価値があるのは11章から13章までの内容を成している「時間論」だが、大学ではラテン語の教科書にクズの部分だけは誰もが読まされるけれども、価値のある最後の部分は大学が敬遠する、と。このようなことを指摘する学者がいるイギリスの大学はすてきですね。ニーチェ同様、ラッセルもこの人は我慢できぬ一人だったようです。ぼく自身はといえば、ラッセルの判断に同感です。文学作品としてなら、ルソーの『告白』の方が、数段上と考えます。ただ、皆さんにお願いしておきますが、好き嫌いはどうぞ読んでからご判断下さい。3)「(行為論の難点は自分で理解することができた)。とすれば、一人一人が利己心を抑制して折り合っているのだろうが、それが社会化にしかならないのでは秩序など生まれようがない。何かすこしヒントを下さい」(Ms. g)。「社会や制度が昔の西洋の人の考えで成り立っているとしたら...釈然としない」(Ms. h)。
gさん、ご免なさい。これほどまで正確にぼくが述べたことを把握していただいていることを、感謝します。ぼくがヒントを持っているなどとうぬぼれてはいませんが、次回からは、問題を別の角度から考察する予定です。それをもとに、また意見を聞かせてください。
hさん、残念ながらぼくとしては、事情はその通りになっているといわざるをえません。こんな状態からやや距離を持って暮らしていた東南アジアの土地までが、1990年代になって急速に西洋(20世紀では正確には欧米)の秩序の中で暮らすことを強いられつつあると、ぼくは危惧しています。それが、東南アジアの「開発」と「近代化」であった、ということです。日本のODAが、この開発・近代化に大きな役割を果たしたと考えられています。ということは、わたしたちも同じことの尻馬に乗っていることになります。3)の続きとして、「あれだけ勧められると、何とか本を読みたくなってくる。今時間があるうちに実行したいものである」(Mr. i)。「ホームページを見ると、こういうことが言いたかったのか、と少しわかるところがある」(Ms. j)
我田引水といわれるかもしれませんが、この2人の書いて下さったことには非常に勇気づけられました。i さん、ぼくが勧める本でなくても結構ですから、どうぞ貪欲に読んで下さるようにひたすらお願いしておきます。ほんとうに時間がたつのは早いので、よろしくお願いします。本はテレビ番組と違って、面白くなるのにすこし時間がかかります。そのかわり、解け始めるとパズルが解けるようにワンダーランドが見る見る広がります。信じてください。
j さんのものも、同じように勇気づけられました。ホームページに書くものは大学中からだけでなく、日本中から読まれています。ぼくは、教室で諸君に話す内容をだれに聞かれても読まれても恥ずかしくないようなものにしたいと考えており、このページはそのような自分に対する反省材料と考えています。にもかかわらず、このようなコメントをいただけるとは予想外の喜びであり、大きな声援と感じました。どうぞ今後とも、どのような内容であれ聞かせてください。このことよろしくと、全員にお願いします。最後に、愛校心むき出しで気が引けるのですが、冒頭に「どうぞ、諸君の同級生を見くびらないでください」と書いたこととの関連事項です。法大社学の学生のトップ10%は、本気になると、東大など目じゃないのはもとより、他のどの大学の学生にも負けない、信じられないほどすごい実力の人が多いと、毎年感じさせられます。その代わり、ボトムの方の力の弱さも底なしのように思えます。この大きな実力差がどこから来るのかは、一部いまだに謎ですが、一つだけはっきりしていることも、あります。下の方は早くから投げてしまうからです。どうか、投げないで「学生をやって」ください。また、全員がさらに高い境地を目指してください。それを心から願っています。
ではまた来週教室で。
10月14日
今日は2つの理由で講義が難しかったと想像します。a)今日だけで終われなかった続きがあること、b)諸君全員が過去に(高校時代などで)聞き知っていたことと異なった問題様相を、ぼくが語らなければいけないこと、などです。
それにも関わらず、今回諸君の多くが書いてくれたことはきわめて重要であり、かつ興味深く、いずれも捨てがたい問題を孕んでいました。まず、多くの諸君がこのような重要な問題を書いてくれたことに深く敬意を表します。今回は、それほどに内容の濃いものが多かったです。最初に、秩序問題前史として今日述べたことを、すこし「露骨な表現」に置きかえて述べます。1)自由な個人から出発するということは、「人間の利己心をほぼ全面的に肯定する」ということです。2)秩序があるということは、「利己心を肯定してもなお立派な秩序がある」、ということです。3)「えー、ほんと?どうして!」ということに答えるというのが、秩序問題を解く、ということです。
いかがですか?こう書けば「なんか変なの!」、と感じる人が多いのではないでしょうか。実はぼくも、西欧文明とは実に奇妙な文明だと往々感じます。吉田健一のいう「光芒を失った」時代の後に欧米から文明開化を押しつけられたのは、日本にとってもアジアにとっても、かなり不幸なことだったのではないでしょうか。もっとも、「光芒を失った」が故に、他人に手出しをすることになったのですが。このことに、欧米の人々のどれほどが気づいているのだろうか、という疑問を禁じえません。
以下に、整理に必要という便宜的理由から、諸君の書かれたものを5群に分類し(当然重複しますが)て要約し、各々にコメントします。
1)決意などの率直な表明(2名)。「結構話が難しいので、HPをきちんとチェックし勉強してきます」(Mr. A)。「社学に入ってもう半年たつのに社会学の本を1冊も読んだことがない。『プロ倫』も手に付かないし...こんな私でも読みやすい入門書のような本がないでしょうか...」(Ms. B)。(以下全て「さん」づけにします。諸君もぼくをそう呼んで下さればうれしいです。)
Aさん、「ぜひ、ぜひ、ぜひ、ぜひ...」そうして下さい。
Bさん、残念ながらそのような入門書はないのじゃないかしら。もし見つかったらぼくにも教えて下さい。ただし、例として上げられた『プロ倫』に即していうと、これはたいして難しくないです。
そこに書いてあることは「プロテスタンティズムが資本主義にもっとも適切な倫理である」というだけです。それ以外に何もないです。きみが読めない、というのは、それが難しいという意味ではなく、どうして?とかそれでいいの?とか考えると、どこかしっくりこないという意味ではないだろうか、と想像します。
もしそうならBさん、精神を研ぎ澄ませつつ、待つしかないですよ。しっくりこない恋人と無理してつきあう必要はないのと、まったく同じことです。ぼくの経験では、図書館というのは不思議な場所で、本の棚の間を何度も歩いていると、ある日突然君を呼んでくれる本が恋人のように現れる場所です。どうぞその時まで、くだらない週刊誌とかテレビとかを「代理恋人」にしないようにして下さい、と強く願っておきます。2)社会学全体に関わること(5名)。これはどれも長文で、きわめて読みごたえがありました。全部を引用できないのが残念ですが、とりあえず次の2つに代表してもらいます。
「...ホッブズもロックもベンサムも言っていることはある意味でもっともだけれども、別のある面から見ると全く現実に反していたりして、これはもう社会現象を一般化するなどは無理なんじゃないかという気分になってしまった反面、そういうところが面白いと思った。...国家契約論だが、昔のヨーロッパでは通用したかもしれない仕組みが、日本に入ってきて...無理に根付いてしまったのが今の矛盾を生んでいるのではないかと思った...」(Ms. C)。「...秩序問題については耳にすることも考えることも多いが、どうも腑に落ちない部分がある...日本の教育では人間はみな平等で自由であると教える。しかし現実には不平等がなくせないし選択の自由が本当にあるわけでもない。それを言わずに(平等で自由だと)教えるのはフェアじゃないのではないか、と考えた...ただ、フェアな教育がよい教育といえるのかも最近よく考える...」(Mr. D)
Cさんの見解はぼくの見解と一致します。無理に一般化するために、社会学がおかしくなるのであるはずです。Cさんとぼくとには、教える方と教わる方との相違しかありません。教える方としては、ジャンジャック・ルソーなどという次の難物もいて、次回がどうなることかと緊張しますが。
ここでDさんの自問自答が姿を現します。ぼくのことばで言いかえましょう。「無理にでもつじつまを合わせるのがよい教育か、それともつじつまが合わないことは合わないと述べるのがよい教育か」と。ぼく自身は、Dさんの疑問にもかかわらず後者の道を取ります。
しかし、これはたしかに大きな問題ではあります。フェアネスという見地は別にして、時代ならば第2世代に属するヴィルフレド・パレート(Vilfredo Pareto)というイタリアの社会学者について述べておきます。(時間が足りず教室で述べる機会がないかもしれないので。)
彼は「パレート最適」という術語でもてはやされます。「複数の利己心は衝突しあってどこかで均衡してしまう」というのが「パーレート最適」の直感的理解です(より正確には辞典を引いて下さい)。この考えは社会システム論をやる人々の一部にも採用され、「合理的選択理論」という正義論として継続研究(?)されています。その前身は、ロールズ(John Rawls)の『正義論』(1971)という本などにすでに顔を出していますが、これ(合理的選択理論)も、直感的理解としては合理的人間が利己心をむき出しにしあって「動きがとれなくなった」均衡点を「正義と言う」しかないという、一流の開き直りです。もっとも、研究者は「開き直り」だとは認めないでしょうが。最近の社会学ではRaymond Boudonなどがこれで本を書いています。
パレートに戻りますが、彼は文明を作り上げてしまった人間はさまざまな「たてまえ」で自分を武装する。理屈とデータで武装する科学とか、正義と法律で武装する政体とか、利益と契約とで武装する経済とか...このようないわば「屁理屈」の方を、彼は「派生体derivazioni」と呼びます。一方、何が何でもいい目を見たいという人間のどろどろした内なる声を「残基residui」と呼びます。彼は、歴史の実相はこのどろどろの産物で、派生体は飾りだ、というのです。
いかがですか。きっと都合悪いから無視されただろうな、と感じますか。残念ながらその通りです。パレートを取り上げる社会学者は、きわめてまれです。その反面、彼が経済学者として残した「パレート最適」の理論だけは、教科書にも試験にも必ず顔を出す常連です。彼がもっと後世に生まれていれば、ノーベル賞候補になったかもしれません。ただし、彼が賞を受け取ったかどうかは疑問ですが。なぜといって、彼は経済と経済学は派生体にすぎないと考えていたのですから。ノーベル賞を上げるといったら、笑ってしまったのじゃないかしら。彼なら諸君にどのような『現代社会と社会学』の講義をしただろうかなと、時折考えます。きっと、「人間の歴史を直視せよ」といいそうな気がします。すくなくとも行為論などを講義はしないだろうな、と感じます。3)生物と人間に関するもの(3名)。これも興味深い問題を提示しています。
「私も自然と人間とは同じレベルでは考えられなくなったと考える。(Dawkinsのいうように)福祉国家をつくるような存在は、とても自然とは思えない...理性に関しても、これが人間と動物との区別とはとても思えない...(そんなところに)秩序問題の筋が見えてきた気がする」(Ms. E)。「人間はもはや自然の中に入れられないとDawkinsはいうけれど、我々は自然の一部として地球に住まわせてもらっていると痛感する」(Ms. F)。「遺伝子の乗り物ということは...私たちの身体はロボットのようなもので、すべての行動は遺伝子によって操られているということだろうか」(Ms. G)。
最初の二つに関しては、ぼくもぜひ地球の一部として住まわせてもらいたいと感じます。では、当然そのようなあり方に「帰る」にはどうすべきか、という深い「政策」も考えられる必要があるでしょう。違いますか?また、こちらの方が現代の「景気刺激政策」よりはるかにはるかに困難な、しかしある意味でやりがいがあることだと思いませんか?このことは、社政・社社の両学科のいずれに諸君が所属するかに関わりない問題点です。
最後の方(Gさん)のものは一部質問なので、答えておきます。「ロボットのように」という形容は適切ではないと考えます。DNAから行動を支配する神経系や行動を実行する運動系や、またこれらの連携に至るまでに、どれほど多くの身体要素が関わっているかを考えてみて下さい。無限といっても差しつかえないほど、数え切れない多数の要素が連携し合っています。現代最新のロボットなど足元にも爪先にも及ばないです。きっとGさんは、このように深いところにあるDNAに人間が介入することの恐ろしさを認めるのではないだろうか、と想像します。
その上に、人間を含む動物はすべて両性生殖ですから、同じほど複雑な連携機構を持つ相手たちを種によって様々な形で探し出し、首尾よく性交(ないし交尾)をしないと、遺伝子は目的を達成できないことになります。雄や雌を見つける際に影響する「生息の場の特徴」のことを、生物学者は「秩序」と呼び「社会」と呼びます。このような全てが「ロボットのように」という形容を無意味にします。
なお「生息の場」ということについて一言しておくと、人間は他の生物が必ず持っている「生息の場」(風土)を失っていることに注意して下さい。「田園将に荒(蕪)れなんとす」(陶淵明)ではなく、「田園既に尽く荒廃」に近いです。4)進歩と進化の差について(8名)。3名だけ引用します。(他の方は引用に値しないという意味でないので誤解なく。)
これについては、想像した以上に見解が多様でした。「進歩は理性が命じる方向に変わる意味であることはわかったが、進化が変わらないという意味が理解できなかった。おそらく(ぼくのいう意味は)...」(Mr. H)。「...この差は時間の差ではないかと考えた」(Mr. I)。「進化と進歩は全く違うことがわかった。しかし進歩に理性がどのように関わっていたかが理解できなかった」(Ms. J)。
まず最後の方(Jさん)の疑問から。実はぼくも、どのように関わっていたか、時々わからなくなるのです。「理性が命じる方向」というのは事実です。来週の問題ですが、このような思想を「啓蒙思想」と呼びます。ぼくは、理性が命じるのだからきっとよい方向だと考えたいのですが、科学技術の粋を集めた東海村であの事故が起きたのです。このようなとき、ぼくは「進歩」についての確信を端的に失い、かつは疑います。
これを前置きにして、他の2名の方に答えたいと思います。差が時間の問題だ、というのはその通りです。しかし、もう一つ重要な要因が欠けています。理性は人間が考えるものにすぎません。だが進化は自然が支配するものだ、ということです。
最新の生物学的知見によれば、遺伝子の乗り物である人間は他の生物と同様に、遺伝子に蓄積された「突然変異の乗り物」でもあります。もちろん、突然変異は理性とは何の関係もありません。自然が作り出すものです。その変異のどれかが、先述の「生息の場」との関係で地質学的時間をかけて「形質」として発現するのです。これが生物多様性の正体です。どうかこのことを、しっかりと理解して下さい。
これが理解されれば、ぼくが「変わらない」(言い換えれば変わらない自己複製のために種は努力する)といった意味も、またなぜ2つが異質のものであるかも、理解してもらえると考えます。5)理性について(12名)。数が多かっただけでなく、全員のものがすべて個性豊かで、かつ味わい深く、どうしても一部だけを引用することができません。しかしながら、全員の共通点がひとつ確実にありましたので、それをぼくの言葉で言い換えさせてもらいます。12名の方々には申し訳なく思いますが、許して下さい。
共通点とは、個人の次元における「功利」と公共の次元における「功利」とが、「理性によって」調和・和解・調停などを達成しうるとはどうしても考えられない、という見解や懐疑です。
とても、とても、困ったことに、上に告白したようにぼく自身もこの懐疑を共有しています。理性的である必要を否定するのではありません。しかし、利己心を放任しておいて都合が悪くなったら理性的にやりましょうというのは、契約の自由を認めつつその結果である貧富の差の拡大を嘆くほどに不自然です。投機が引き起こす金融バブルを容認しておいて後から倫理を説くのと同じほど、不自然です。人工授精を許容して性道徳を説くのと同じほど、不自然です。物質的豊かさの快楽をコマーシャルで垂れ流して地球との共生を説くほどに、不自然です。その他、同じような事例はいくらでも上げることができます。
これらは正確に今日の文明の空中楼閣を作り出した近代(モダニティ)のツケです。こういったことはなかったことにしてポストモダンにやろうよ、という馬鹿げた議論がひと頃流行しました。目を空けて寝言を言うな、というべきでしょう。これらのツケはすこしも片づかないどころか、雪だるまのように肥大しています。
最初の回に試みに諸君に尋ねた、日本国だけの国債発行残高の巨大さは、そのほんとうにわずかな一部に過ぎません。昨日日銀は国債の買い取りを決定しました。これだけでも何が起きるかは、説明を要しないでしょう。何という秩序を、理性的動物の名において作ってしまったのでしょうか。これらが、12名の諸君(そしておそらくは何も書かなかった諸君も同様に)が懐疑を表明した対象であった、ということです。とはいいつつも、です。ぼくは来週もこの続きを講義します。なぜこうなったかに目をそらさないことが、やはり私たちに最低限必要なことと考えるからです。人間の歴史を直視することも、結構つらいですね。諸君の集中力と忍耐に、期待したいと考えます。どうかよろしく、とお願いしておきます。ではまた。(なお来週は、前史に締めくくりを付けます。その次から、「権力」とは何かについての講義を予定しています。その時に、例の懸案になっている紙をお持ち下されば幸いです)。
10月7日
例により、困った要望・意見から。「秩序問題についてすこししか(ぼくが)のべなかったのでよく分からなかった。」(類似したもの3)
ぼくはこれを見て絶句しました。絶句しながら深く落ち込みました。ぼくが「秩序問題」という術語を使って話したのは5分程度ですから、すこししかどころか、この人々の意味では全然触れていないというべきでしょう。では、それ以外の数十分を使って話したことは「秩序問題」じゃないと思ったのでしょうか。以下に書く重要なONLINEコメントも、それと関係ないことと思えるのですか。
教室で述べた通り、マイナスはカウントしませんから今後も同じことを書いて結構です。しかし、あまり落ち込ませないで下さい。よろしく。以下、本題です。今回は、諸君が取り上げた問題がいくつかのグループに分散したようです(総数21)。人数がすくない問題の方から紹介し、コメントします。
1)「20世紀が世界戦争、マスメディア、物質的豊かさから成り立つ...その通りだと思った。また、この3つはどこかでかかわり合っていると思う。」(Mr. A)
「かかわり合っている」というところが重要ですね。実は、ぼくも Ann DeLarosbil 君に同じことを書いてあげました。(もしこのモントリオール大学の学生とメールで意見交換をしたい人がいたら、アドレスをお教えしますから申し出てみてください。)
A君には(ということは諸君たち皆に)、さらに踏み込んでつぎの2つのことを考えて下さるようお願いします。a)20世紀がこうなったのは、前世紀にそうなる原因があったのだろうか、それともまったく20世紀だけの理由からなのだろうか。b)具体的にはどのようなか「かわり合い方」をしているのだろうか。
前者に関連し、吉田健一というすぐれた文学者が『ヨーロッパの人間』(岩波文庫)の中でヨーロッパは18世紀を境にすでに光芒を失った、と書いています。理由には言及していませんが、いつからか、という答えにはなるでしょう。この本は面白いですよ。(という意味は、名文であることの他に、吉田健一のいう18世紀に光芒を失った、ということと、第1世代の社会学者と紹介した人々が「社会学」という語を使用して書かねばならないと考えたこととが、互いに関連し合っているからです。)2)「もし...」という想像を加えると「構図が変わって現代の問題になる」ことに気づかなかった。知らず知らずのうちに『単能知識人』になっているのかもしれない。(Mr. B 他)
反省は重要ですが、「『もし』に気づかなかったのは単能知識人の証拠だ」のような強い意味で述べたのではありませんから、どうぞそのように深刻に取らないで下さい。「軽い失望を感じた」と正直に述懐しただけです。どうかあしからず。
ただし、次のことはたしかに別の意味で重要ですので理解して下さい。孔子の時代は、今から約2500年前です。ところが、問題の「もし」を付けると、これは現代に直通しかねない構図に変化します。ということは、人間の生の営みはすくなくとも3000年位にわたって、大して変化していないのです。社会学の中枢部分は、ほんとうは歴史にあるべきなのです。
「古典が重要」という指摘は、多くの人が言葉では聞いていらっしゃると考えますが、その理由の一つもここにあります。古典は、長い人間経験の集積なのです。その上、その中身から、長い年月が、不必要な贅肉を削り落としてくれています。その見地から、どうぞ古典を現代に生きている者の目で見据えて下さい。「人間の最重要なコミュニケーションはまず過去との対話にはじまる」とお考え下さい。
また、諸君が読む本の99パーセントは、100年とはもたずに塵芥と化すでしょう。中には、翌年には無価値になるものも少なくないでしょう。どうぞ、本を読むときに「これは100年もつか」と自分に聞いてみて下さい。人生は短いです。もたないものとはなるべくかかわり合いたくないものです。
なお、単能知識人といった意味についてはつぎを参照して下さい。3)「子が登校拒否になれば親は先生に告げる。先生は...そこで最後に、問題を解決できる人間が登場する。これが万能知識人なのだろう。」(Mr. C)
C君、これは残念ながら違うのです。ぼくが述べたかったのは、子を育てることに関しては「親」が万能でなければいけないはず、学生・生徒(これもある種の子)を育てることに関しては「先生」が万能でなければいけないはず、等々ということなのです。
これらの前提が「破壊されて」しまったから、「専門家」という万能顔をした人がお出ましになるのです。「専門家」が万能顔をするためには「術語をならべて脅かす」必要が出てくるのです。「術語をならべて脅かす」ためにはカリキュラムを...という具合に、いたちごっこ的に事態は悪くなるのです。目下の文教政策の柱である「専門職業人養成」というキャッチフレーズが、こうして出てきます。
米国社会についてのべた「弁護士」と「精神分析カウンセラー」の天国という表現も、この意味です。(ここでも日本は次第に似てきています。)
諸君の中にはこの種の「専門家」を将来職業とする人もいると思います。そうであれば、その人が「術語をならべて脅かす」たぐいの人でない方が、まだしも、よりよく他人に奉仕することができるはずだと思われるでしょう。(その代わり、目立ったり流行ったりしないかもしれませんが。)たまたまそうした職につくことになったら、そのような人になっていただきたいと、心から願います。C君は、きっと同じことを言いたかったのかもしれないですね。その気持ちに、文がよくついてこなかったのかもしれないですね。文とは、きわめて重要なものです。ぼくは大学生は知識人だと考えていますので(諸君の年齢層の半分は進学できないのです)知識人を特に取り上げただけです。単能知識人になってほしくないというのは、いろいろなことをたくさん知っているかどうか、だけではないのです。通常このような場合には「万能」ではなく「全人」という言葉を使うことがあるようです。しかし「全人教育」というと、なんか道徳教育の臭みがあって...道徳とは、こうすれば事故がなくなる、などといったマニュアルらしいですね、今日では。しかし、言葉に贅沢をいわなければ、結局は「人間として信を措くに値する」ということになるでしょう。
そして、人間としてということになれば、20世紀は諸君の悩みをしりめに、単能人間があらゆる場面で歓迎され作り出される世紀なのです。ただの消費者とか、ただの視聴者とか、ただの投票者とか、ただの勤労者とか、ただのタレントとか、ただの余暇人とか、ただの親とか、ただの先生とか、ただの学生とか...これらを並べてみると、まるで自分の顔が鏡に映っているような気が、ぼくはします。なにか、根本的におかしくなった秩序の中に、ぼくらは生きているようですね。4)たったいま上に述べたような事柄の総体という意味で人間の条件を理解された人々が、男女合わせて17名いました。当然ながら、この人々の述べたことは責任ある年長者すべてに聞かせたいほど苦衷に満ちています。ぼく自身にとってもつらい話をして、これだけの諸君と苦衷を分かち合えたのは、やはりつらいことでも話した方がよいかなと感じました。
そのすべてを引用したいですがそうもなりません。わずかの文からわずかの部分だけを引用します。
「想像力の衰えということは私自身も感じていました...社会に合わせて生きる方が簡単な生き方なんだなという考えに、いつのまにか傾いているのです」(Ms. D)「あてがわれたことしかしないようになっています。それがもっとも楽な道だとわかってしまっているからです。しかし、...」(Ms. E)「自分の好きなことは、どんなにつらくても続ける力がわき出てくる。しかし就職とかをかんがえて選んだことはそのような力が湧かない。最初から道が決められていることはとても簡単で楽かもしれないが、私の人生は(これじゃないと思えてしまう)」(Ms. F)「自分自身を見つめなおしてみると、私はドキュメンタリー番組ばかりを好んで見ていることに気づいた。他には目もくれずに...」(Ms. G)
この人々に、ぼくは偉そうな顔をして「気を付けて下さい」などと語るせりふを持ちません。ただ自分が重要だと考えたことを、語り続けようと思うだけです。私たちの文明の秩序が人間を掘り崩すことがすくないことを願いながら。なんかこのまま終わるのも心外だから、「ドキュメンタリー」という言葉で思い出したことをひとつだけ付け加えて、終わりにします。ある若いわかいディレクターが、デルタ・ブルースの今に生きる姿を知りたくて知りたくてたまらなくなり、ようようの思いで、なけなしの取材費を上から出してもらうことに成功し、筆に尽くしがたい苦労の結果作り上げたドキュメンタリーがありました。番組としても冷遇され、深夜に一回放映されたきりでした。そのタイトルは「Into the Music」といいます。ぼくは卒業生に頼みこんでこのテープをわけてもらうことができましたが、すごいドキュメンタリーのひとつだと思っています。ではまた教室で。
9月30日
本論の前に、要望が3種類ありました。仮に、a)、b)おとびc)と呼びます。
a)話の速度を上げてほしい、つまりもっと早く話をしてほしい。(3名)
b)人名を上げたらその人について(多分その場でという意味?)説明してほしい。(2 名)
c)その場で「秩序とは何か」という結論を示してほしい。(4名)
読んで感じたのですが、a)、b)、c)は関連しあっている部分もあるようです。しかし、一応別々に答えます。a)の方々へ:遅いといわれるこの早さは、昨年あたりから意識的に選んでいます。それ以前はもっと早く話していました。つまり、出来るだけ沢山のことを1時限内に話そうとしていました。
この結果、困った問題が派生することに気づいたのです。教室が、私語で非常にうるさくなることです。その理由は、内容についてくることが出来なくなる人が増え、この人々は(いっそ眠ってくれればよいのですがそうしないで)一斉に私語を始めるのだ、と分かりました。
人の集団と呼吸を合わせるのは難しいですね。現在の早さは、私語が少ないことを優先させた「均衡点」だとご理解ください。この3名の人々はもっと詰め込み的に話しても十分理解できる人々だと考えたいですが、その合間に、渡した Xenophon なり『論語』なりの意味するところについて、黙ってもっと深く考えていてください。ただし、ある時からやむを得ず脱兎のように話し始めるかもしれませんので、その場合は私語しないようお気をつけ下さいとお願いしておきます。b)の方々へ:必要が起きればもちろん解説します。しかし、その前になぜ人名を聞いたらその人について自分で調べる、積極的に読む、という気持ちにならないのですか。ぼくの解説を聞けばすむのですか。そんなことではない、とは思いませんか。
ぼくが人名を黒板にくわしく書くのは、とりあえず人名事典だけでも直ちに引けるようにするためです。その都度解説してください、といった要望にはお応えしかねます。教室は「解説」を聞くところではありません。必要な場合にのみ、必要な説明を加えることにします。c)の方々へ:この方々も、残念ですがすこし考え直していただけませんか。今日の講義のテーマは「ヘッジファンド」。ヘッジファンドの有名な例として「LTCM」、「Quantum Fund」などがある。結論、「ヘッジファンドとは市場リスクをヘッジするための派生的金融商品である」。終わり(以上の「ヘッジファンド」を「秩序」と置き換えてください)。講義はこんな風にはいきません。また、そうするつもりもありません。これなら、金融市場マニュアルを読んだ方が早いです。強くいえば、大学に来る必要もないかもしれない。
まあ、そんな厳しいことは言わないことにして、せめて『秩序問題の解明』を読んでみて下さい。その上で、こんな手軽な講義が出来るかどうか考えてみてください。要望には出来るだけ応えるようにしたいと思います。しかし、上記のような理由で、これらの要望にはお応えできないな、と感じています。幸い、少数でよかったです。
面白かった文章のもっとも多くは、『論語』とXenophonに集中していました(19名)。これを、つぎの2名に代表してもらいます。
「父と子の場合については、法律上犯人とされる人物をかくまうと犯人隠匿になるし、また身内の証言は(法廷で)アリバイとして採用されないという問題があります。(結局)こうしたいと考えることと、法律と矛盾が生じてしまうと感じました。 / それに対して、...キュロスの場合には解決の見解が見つかりました。私の考えでは、大きな少年が小さな少年に話をし、自分の考えていることを分からせてから相手のものを取れば、交換になり取り合いにはならないと思いました。大きな少年の行動にすこし言葉が加われば、と思うと、言葉の重要なこと、意志疎通の重要なことに思い当たりました...」(Ms. a)
「孔子の考えはおかしいかもしれません。人はあくまで個人であり、やはり悪いことは悪いからです...しかし、個人的に考えると私は孔子を支持します。たとえ個人の集まりであっても、家族には同じ血が通っているわけで、孔子のようなものが本来の家族の姿であると思います。私の考えは社会から見ると甘いのかもしれませんが、この考えを変えることは出来ないと改めて実感しました...」(Ms. b)まず、前の人(Ms. a)のものはどこが重要なのか考えて見ます。これは、間違いなく最後の部分(「...言葉の重要なこと、意志疎通の重要なこと...」)という部分です。「秩序問題」を論じる社会学者の中には、このような解決策を実際に提案する人がいるのです。『秩序問題の解明』が「意味的アプローチ」と名付けているもので、具体的にはニクラス・ルーマンなどです。ルーマンなどはコミュニケーションと言っていますが、「意志疎通」の方が日本語として美しいですね。
ただし、具合が悪いところもあって、BC五世紀のキュロス王のこの事例は2人の当事者が顔を合わせていますが、社会学者が論じるのは顔も名前も分からない(例えば日本のどこか遠いところにいる多くの人々のように)大衆のことで、その間でどうして意志や言葉が通じるのかと考えると、これでは解決になっていないのではないですか。テレビでしか顔を知らない国会議員の決定によってぼくの支払った100万円の税金は長銀の救済に使用され、毎日カンボジアやアフリカで農民が足を吹き飛ばされている地球上の1億発の放置地雷撤去には使われなかったのだから、ぼくは釈然としません。同じことは諸君にも起きるので、そのときこの意味的アプローチは説得力があると思えますか?後の人(Ms. b)のものには、「家族には同じ血が通っているわけで...」という重要なきっかけが隠されています。このきっかけを、ぼくはまだ教室で掘り下げて展開していません。それは次回以後にするとして、今あえて区別すると、『論語』は「正義」は1種類じゃないと言っているように思えますね。それにたいして王子キュロスの先生は、王子におまえは法律の立場に立て、といってむち打っているように思えますね。Ms. bが「...この考えを変えることは出来ないと改めて実感しました...」と述懐しているのは、では何と何との対立に苦慮する、ということになりますか?
ここまで述べれば、ぼくがなぜあの資料(紙)を取っておいてくださいといったのか、想像がつきませんか? ともあれ、非常に重大な(実は、この問題はスペンサーだけが直視したのですが)問題がこの中に隠れていますので、なおよく諸君が考えてみてくれることを希望しておきます。このことに関連して、「...無責任な言い方になるけど、複数の秩序は必要だと思うし、それをつなぐことの方が手っ取り早い気がする」(Mr. c)という見解がありました。この人の指摘する前半(「複数の秩序」)は、きわめて重要なことです。貴君は決して無責任ではありません。
問題なのは後半(「それをつなぐ...」)です。つなぐことにかけては、社会学者たちがつなぎたくて仕方がないのです。なぜなら、実はつなぐことが難しいと分かっているくせに、つなげないと社会にならない(自分の研究対象が無くなる!)ことを知って、焦っているのです。「利害」アプローチ、「個性」アプローチ、「意味」アプローチ、どれもが答えになっていない答えをしているのです。Mr. cに(つまり諸君全体に)深く考えてもらいたいのは、これってつなげることが出来るのだろうか出来ないのだろうか、という深刻な問題です。このような見地から見ると、「正義と一口に言っても人それぞれの正義があるのかもしれないと思った。そう考えると、法律が客観的であるのはもちろんだけれども、定められた規律がひょっとしたら誰かの正義を否定していることもあり得るのだろう...」(Mr. d)という反省はきわめて重要かつ深刻だということになります。
ではまた、教室でお会いしましょう。
9月16日
t-1回目は悪天候にもかかわらずご苦労様でした。余興と思って書いてみて下さい、といったのは次の6箇条です。1)昨日の野球アジア予選で勝ち投手となった人の名前と略歴。(これはノーカウント)
2)東チモール問題を16世紀から記述できるか。(7)
3)臓器移植は人類の福音と論理的に記述できるか。(4)
4)国債残高とは何か。現在どの程度の額か。進んで支払いたいと思うか。(2)
5)酪農家が、マニュアルでは牛は育てられないと述べていた。では人間はマニュアルで育てられると論述できるか。(7)
6)パケット通信の原理を論述できるか。(1)21人の諸君から回答がありました。各項目の後の( )内はその数です。
内容の出来映えは、正直にいうとまちまちでしたが、今回に限り全滅を救った功労者と考え、全員カウントすることにします。若干ぼくの希望と、教室では述べられなかったコメントを加えておきます。
何よりも、今回書けなかったのは仕方がないとして、同じことが二度起きないようにして下さい。必ず自分で知る努力をして下さい。この部分をやらないと、大学に入学した意味がありません。2)について。16世紀と指定したことで事情がある程度推察できると思います。16世紀後半、ポルトガルがここを香辛料貿易の中継地および白檀の樹木伐採地として植民地化しました。すこし遅れて、オランダとイギリスが東南アジア一帯をほしいままに略取しました。
どちらもプロテスタントの国であることに留意して下さい。知っていると思いますが、社学ではしばしばマックス・ウエーバーの『プロ倫』という本が使われます。ウエーバーによると、工業化、資本主義化、個人主義化、合理化に最適の倫理だそうです。エグイということかしら、言い換えると...。チモールが東西に二分されたのは、ポルトガルが植民地とし、ついで西半分をオランダが略取したからです。
エンサイクロペディア・ブリタニカには、次のように書かれています:「Treaties effective in 1860 and 1914 between Portugal and The Netherlands divided the island(Timor) and set the boundaries that existed until 1975.」
つまりチモール族の父祖代々の土地が東西に分れたのは、ヨーロッパ人が勝手に決めたことで当のチモール族には何の関わりもない、ということです。これが問題の核心第一です。次に、独立したら元の暮らしが戻るかといえば、その可能性は皆無といってよいです。これが核心第二です。
ぼくたちは、日本の慰安婦問題にも心を痛めていますが、これはほとんど数百年前にさかのぼる、慰安婦問題に匹敵する(またはそれ以上の)蛮行です。しかし、欧米諸国がこれに心を痛めている様子はないようです。以下省略します。
3)について。正当化しにくいのを承知で試みているから、どの人も論点が苦しげでした。A)売春・買春(バイシュンと読むこと)と比較して、これはサービス提供者および購入者が快楽を得ている。B)臓器移植は死んだ人の臓器が、死を救うという目的で提供される。だから後者は可である。ほぼこのような論拠、またはそのバリエーションでした。中には、この局面に関与する人々を5つのカテゴリーに分けて論じた力作もありました。
参考までに、ぼくが気になることを、2つだけ上げておきます。私たちが日常茶飯事として行っている商品売買は、A)の考え方から合法的とされます。もし上の論点が成り立つなら、これら商品売買もすべて問題がある、ということになりますね。
そういえば、現在世界中にすくなくとも1億数千発の地雷が埋設・放置されていることをご存じと思います。過日、米国のさる大手地雷供給メーカー(?)の社長さんが、私たちは合法的な商品売買行為をやっているだけだ、と述べていました。さらに、完全に死亡した人の臓器は移植の対象になりません(だから脳死が問題になる)。では、脳死はどのような論拠で死と見なされるのでしょうか。「脳死判定基準」つまり単刀直入には法律が決める、ということです。諸君は、これは気になりませんか?法規を整備して云々という社会的現実の先は、ご存じの通り、例の専門家・学識経験者・法律家・政治家など、かなり人間的教養の怪しそうな人々の独壇場になります。問題が次第にカーテンの向こうに移行するのです。以下省略します。
4)「現在国債残高350兆円。対GDP比70%(これはG7中1位)。国債も地方債も払う気はなし」(a君)。このa君の回答の数値は、非常に正確です。参考までに、たまたま開いた朝日生命のサイトのデータを上げておきます。
(実はぼくも払いたくないのです。なのに毎年税金などで取られるのです。福祉国家とはこのようなものを指すのですね。)5)について。要約すると、マニュアルであってほしくない、というものが大部分でした。ぼくも全く同感です。せめて自分はマニュアル化しないように最大限度力しますから、どうぞその趣旨を組んでご協力下さい。
6)について。まず、コミュニケーションがディジタルであることが、必要条件です。ビット情報を伝送するときに、パケット(1包み)ごとに区切ります。仮に1パケット当たり、512バイトとします。この中に、宛先情報、このパケットが全体の何番目か、誤り訂正用情報、が含まれ、これに基づいた情報本体が続きます。
なぜこうするかといえば、パケット毎に空いている回線を通すためです。四角い漁網を考えて下さい。右上から左下に行く経路はたくさんあるでしょう。この中の空いている回線を、パケット毎に通過するのです。全部で5つのパケットを送ったと仮定すると、2、1、3、5、4、のような順に到着することもありです。
インターネットは大部分パケットですが、もっと気がつきにくい卑近な例として、電話の相手の番号表示というのがあります。サービスということになっているけど、ディジタル化したおまけです。要はもっとディタル化したいのですね、電話会社としては。
これは1名だけでしたが、せめて全滅でなくてよかったです。
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(1998年度)この講義は終了しました。一昨年度1年生であった諸君の感性が興味深かったので、ページを参考のため下に残します。
4月15日分
今日は登録前の偵察という心境で講義を聴いた人がかなりいたようですが、教室で述べた通り半期講義なのでぼく自身としてはあくまでも第1回とします。もし今後も受講するのなら今日の内容は誰かに教えてもらうように。
また、今日以降の講義すべてに共通する問題ですが、「AとB」とぼくが論じたとき、どっちかに丸を付ければ正解という姿勢をぜひ捨てて下さい。そんな人はいないことを強く期待しますが。(もしいたら、10年前にMOFまたはMOF担になるとそこそこ出世していたかも?)とにかく、その程度で答えられる問題をぼくは大学で特に講義するつもりはありません。(諸君が自分自身の深刻な問題として決めなければならない事態に直面しぼくの意見を参考にしたいのなら、もちろん相談にのることにやぶさかではありませんが。)
今日述べた「代理母訴訟事件」は、つぎのことを考えるためです。1)秩序を人間が意識にしたものを法則と呼び慣わしています。ところがこの秩序(⊃法則)にはフュシスに関するものとノモスに関するものとがあり、両者は「まったく別物」であること。
2)両者を二つながら考慮しなくて生きていけるのなら、社会など論じる必要がないこと。
3)この両者が違うことを人間は念頭に置かないと、葛藤、悲劇、惨劇(もちろん人間自身にとっての)などを起こすことがあること。一見何でもない当然のことのようなことに思えますか?
今日紙を提出した人の中には(代理母という問題の不思議さを別にすると)、当然のことと考えた人もいるようです。
しかし、人間はこれを本当に当然のことと受け止めながら社会の中で生きているのだろうか?
もしそうなら、なぜ自然破壊や環境問題や公害問題などが起きるのだろうか。起きるだけでなく、止められないのだろうか?
人が決めた秩序が自然の秩序に獰猛に介入しているからではないだろうか?
代理母事件は、人工授精という医学技術が存在しなかった時代には起こり得なかった事件ではないだろうか。
4月22日分
1)ホームページを見るにはどうすればよいか、という質問には教室でないと答えられないので省略します。
2)また要望などぼくに再考すべき点があるものは参考にして応えられるように努力します。数としてはこれが一番多いようでした。書きやすいからでもあるのかなと思います。もちろんどんどん書いてくれて結構です。
3-1)上記以外で取り上げる必要がありそうなものの中では、意外なことに「法が爆発的に増殖する」ということについて、さまざまな角度から自分で考えてみようとした人が最も多かったことです。諸君が深く思考していることを示す点で、喜ぶべきことでした。
3-2)このことは遺憾なことに現代社会の病根の核心なので、ぜひ解明する努力を継続するよう願います。この講義の中では、主題の第三の中でもう一度触れる機会があるかと思います。
4)「専門家」という言葉をぼくが取り分けておいたのを目聡く見つけて書いてくれた人が一人いました。このことには感謝します。しかし、その人の書かれたことはこれまた意外なことに、これからぼくが述べようとしていることと正反対でした。(もちろんこれをぼくは咎めるものではありません)。なぜ取り分けたかは、次回に話します。
5-1)つぎに「合理性(合理的、合理化なども)」の定義を明示的に与えてほしい、という希望が数通ありました。いたって簡単なことですから、次回にやってみます。
5-2)その方々に提案があります。講義の主題第一がこのことの吟味になることはすでに分かっているはずですから、すでにどのような定義がなされているのか、各人が各種の辞書・辞典ないし教科書らしきものでぜひ確かめて下さい。定義を覚えても無意味なことが分かり、かつ文献の探し方の練習にはなりますから一石二鳥です。
5-3)カッコ内は術語の定義です:"A quantum is the smallest amount of matter or energy that there can be."(量子とは物質またはエネルギーの可能な最小量)。しかしこの定義を覚えても量子力学を学んだことには全然なりません。事柄はこれと同じと考えて下さい。定義を覚えることと学ぶこととは別次元のことです。
6-1)次のようなことを書いた人々(すくなくとも)は、すでに自分で考えはじめている人です。目的とは何だろう、手段とは何だろう...など。
6-2)例えば「人工受精児と紙が市場を通せば(市場の中では?)同じものになるのは法律としてはそうかも知れないが人間的に見ると納得がいかない...」。これは多くの人が直感的に同意するかも知れませんが、ただの感想でなく問いである場合にのみ、よい出発点になります。
5月6日分
今週の諸君からの感想や質問は、次の点に集中していました。過半数を超える多くの方が同じように感じられたことにぼくとしては敬意を払います。
1)合理性の理の根元は宇宙にあると考えるとたしかに人間側が微々たるものに感じられること。
2)宇宙にある、という宇宙のイメージをもっと探りたいがよい方法はないか。
3)いま考えると当然に思えるこのことを西欧はどうして逆に考えたのだろうか。便宜上この逆の順序で回答します。
3)はキリスト教の特性の産物です。これはあまりに概括的な回答ですから誤解がないよう付け加えますが、現代のキリスト教はそんなに傲慢ではないと信じます。しかし一般に文明社会の「宗教」とは恐ろしいものです。これ以上は済みませんがこのサイトの中のライプニッツ論などをご参照下さい。
2)について、最新の例では現代の宇宙物理学は宇宙の誕生は約100億年前であったと信じています。別言すれば、半径100億光年の空間に人類が出現する遙か以前から宇宙は存在したことになります。参考になれば幸いです。次に古いものではダーウインの『進化論』などをご覧下さい。(スペンサーに関する質問が1名ありました。かれはダーウインより前に進化論を思考した人です)。非西欧文明ではもともとこの事実を誤解したことはなかったようです。講義で述べた『荘子』もそうですし、やや後に編纂された『淮南子』原道篇などにもこのような規模で宇宙像が記載されています。儒家では遙か後の朱子さえ当時の物理学というべき周濂渓の『太極図説』(太極とは宇宙の象徴である不動の北極星)に接して自分の思想を組み立てようと苦心しています。(これらの古典にはすべてよい訳があります)。
1)についてはぼくも当惑するほど同感です。一つだけ重要なことがあります。お察しの通り、そう感じたときそこからどうするかです。歴史の教訓として三つの類型があるようです。a)そんな大きなことを考るのは無理だから専門の殻に入って忘れよう(これだから「専門家」は恐ろしい)、b)そんなに大きなものが相手なら人間は各自放埒に生活を享楽すればよい、c)知るほど尊敬の念が深くなるから、知ることは尊敬するためである。ライプニッツは17世紀にただ一人C)を主張した人です(彼の作品にはほとんど訳がありません。近代社会には邪魔だったのだろうね)。西欧の名誉のために付け加えると、西欧は19世紀になって深刻に過ちに気づく人が現れはじめました。ただ、困ったことにその時期から米国という若いチャンピオンが出現し、米国知識人が西欧が捨てたくなった旗を掲げてバットマンごっこをやり始めました。米国に過ちに気づいた多くの知識人が出現したのは1960年代になってからです。これこそ The Sixties の核心です。ロックと麻薬の好きな人が出たなどは本質的なことではありません。
では次週にはまた高度を下げてルソーの『社会契約論』から講義をはじめます。
5月13日分
今日はJRの故障(?)があったそうで、一般意志という問題については来週も再度立ち入って話します。
この故障で遅刻した方々への通知を兼ねて書いておきます。今日読んでおいて下さいといったのは次の本です。どれも買いやすいです。
(原書名を書くのは、最低でも100人に1人は原書を図書館で探す人がいると経験上期待するからです)。
ルソー『社会契約論』岩波文庫など (du contrat social)
デュルケム『モンテスキューとルソー』法政大学出版 (Montesquieu et Rousseau)
同 『社会分業論』講談社学術文庫など (de la division du travail social)つぎのような言葉を読むことは、講義するものにとっても大きな励ましになります。自分たちは「考える力を養うべきだと思う」(a君)、「この講義は考えるヒントを与えているのだ理解する」(bさん)etc.. 有り難う。
「一般意志を作っているのは(ベンサムのパノプティコンを例に)フーコーが見いだした内在的権力=常識だと考える...」(cさん)。
ぼくはこれ自体筋の通った見解だと感心しますが、ただどうかあまりに結論を急がないで下さい。この見解にどのような道筋で辿り着くかの方がより大きな問題ですから。
なお、cさんがいつどのようなきっかけでこの本(『監獄の誕生』surveiller et punir だろうと思いますが)を読むことになったか、もし気が向いたら教えて下さい。参考にします。
ついでですが、同じ人による『狂気の歴史』(histoire de la folie)というさらに優れた書物があり、狂気と正気の区別は近代社会の産物であること、ルソーとあまり時代が違わないマルキ・ド・サドが狂気として隔離されたこと、などが書いてあります。ご存知かも知れないが。「個」と「全体」というのがなぜ対立するか、なぜこのような設問を必要とする文明が前提で間違ったのか、などが理解できないという人が約10人いました。
よい疑問ですから、次のような問題に置き換えてみて下さい。「自分の自由」対「公共の福利」。その上で、現代社会に生きる自分の内心で両者が深刻に葛藤する可能性がないと確信できるかどうかを自分に尋ねてみて下さい。
これに関連しては宇宙を前提に考えるとどうなるのだろうと納得のゆく自問自答をした人もいました( dさん)。つぎのような面白い疑問が一つありました:「日本人は連帯という言葉を非常に左翼的に用いているがなぜだろう」( e君)。
なるほどそう言われればそうですね。この連帯はマルクス主義から発生した訳語ですから、多分原語は Vereinigung で、デュルケムの solidarite´と出所が違うことは違います。また、日本ではなぜ...というのはおそらく第二次大戦後の日本知識人の左翼性と関係あることだろうと思います。
だからこれは知識人の習慣の問題ということにして、しかしこの疑問は考えるに値する別の疑問を誘導してくれます。1)デュルケムや前回までのウエーバーは明らかにマルクス以後の人ですが、彼らはマルクスのことが気にならなかっただろうか。2)マルクス主義では個と全体という文脈は問題にならなかっただろうか。
結論だけ述べます。1)への回答は、彼らは大いに気になったのです。特にこの時代は「歴史」というある全体に関する関心が特別に高くなっていました。だからなおさら集合主義と個人主義をなんとか接合しようとして四苦八苦し、余計この迷路の中をややこしくしました。社会学をなんか分かりにくくした隠れた仕掛け人の一人はもしかするとマルクスだったかも知れませんね。
2)に対する回答は、やはりマルクス主義の中でも個と全体の問題は深刻に起きたのです。詳細は略しますが階級意識論というものがこの難点を解決すべく登場しましたが、解決にはならなかったようです。その意味でマルクスとマルクス主義もまぎれもなく西欧近代の申し子だったといえます。第二主題に関する講義は始まったばかりですから、あとはまた来週教室でお会いした時に...
5月20日
この一週間、時間が足りなくなって受講生諸君の意見に関する回答を書くのが遅くなりました。ごめんなさい。
書いてくれた人のうち、約30人もの人の意見の相違がすごかったです。他に各一ないし数名、無視できないものがありました。
全体として、自分でぼくの講義に参加してくれている人とそうでない人との差が歴然としてきました。
もちろん学則から言って履修には単位がつきものであることは知っていますから、参加していないと思われる人をまったく相手にしないとは言いません。
それはそれとして、問題点ごとに回答してみます。
1)もっとも多数を占めたのは、「進歩」に関しての意見です。これが一見するとまるで真っ二つに分かれているように見えます。
「知恵をつけることが人間にとっての進歩といえるだろうか」(f君)、という懐疑論。他に多数ありました。 a君はじめこの人々の意見を要約すると、知恵がつく、賢くなる、理論によって思考するなどと表現されているのは結局人間が小賢しくなるだけのことではないか、ということです。
このような見方からすれば第一回の代理母問題は、両当事者だけでなく弁護士や医師を含めて近代社会全体が小賢しくなった延長上の出来事といえるかも知れません。それと対立するように見えるのは「私は生まれた時から20世紀末の日本国民だし...その環境の中でベターなことをするしかない」(gさん)という意見です。
gさんのような意見は、要約すると過去でも未来でもなく現在にしか生きられないのだから、現状を受け入れるしかない、ということになります。
もっともこれらの意見は「現状を喜んで受け入れる」「それを利用して他人を出し抜く」などとは言っていないようです。事実上そう言ったのは、講義で述べたようにスミスやリカード以来の経済学でした。そのご市場経済が「現状」そのものになると、受け入れるかどうかなどを論じる余地もないようになっていますが。「進歩」は、ジョン・ロック流の自然権から古典派まで、またルソーが属していたとされる啓蒙主義からオギュスト・コントまでを支配したキーワードでした。いやそれ以降も暗にウエーバーやデュルケムを経由して今日の社会学にも影響を及ぼしています。
さまざまな社会学者が書いたものを読むときに、この人はこの問題にどのようなスタンスを取っているか(または取ろうとしていないか)にはよく耳を澄ます必要があるでしょう。
なお最近は「進歩」という言葉は分が悪いせいか「成長」といいましたね。その次には「持続可能な成長」ですか。
数年前(バブルの末期に)日本人は世界の貧困地域に奉仕するためなら生活水準を10%下げる(GNP10%を放棄する)ということに賛成するだろうかと教室で問いかけたところ「自分はやれるが社会としては出来ないのじゃないか」との答えでした。
ここからだと、道はまた二つに分かれるでしょうね。次のような意見をぼくが支持するかどうか聞きたいという具体的な質問がありました:「自ら役割を選ぶことによって結果的に社会が一つに統合される」。
合理主義、理性主義の権化のような意見ですね。もちろん支持しません。役割は考えて選べるものではありません。(わずかな例外はあります。ごく小さな集団は、ごく小さな集団で終わる限りある程度可能です。ガーフィンケルなどの社会学者も同じようなことを言っているようです)。
できそうでできないことを示す典型的な事例は、今日の「しつけ」問題です。そんなことができないから「しつけ」が問題になるのです。欧米型の文明(ぼくたちはその中に生き、先進国として世界をこれ一色にすることに手を貸しています)に典型的な一つの感じ方があります。人間は家族はもとより土地土地の習慣などに縛られずバラバラな状態でいる方がより「自然」で「理性的」だ、という考え方です。これはもともとはキリスト教から来たものです。神と一対一に直面することがいかに『プロ倫』などで重視されているか考えて見て下さい。
今は神の前でなくお金の前でバラバラなのでしょうが。それはともかく、この感じ方の変形が「分節(関節)的社会」から「有機的社会」へ、という思考なのです。「因果関係は必ず成立するというものではない。それで成り立ったら社会は機械仕掛けになる」(h君)。同感です。上のことと関係が深いことですね。
ただしぼくは「因果関係が存在しない」といったのではありません。大きな自然の中には存在しているはずです、無限に。しかし人間がその無限をすべて把握することはできない、といったのです。ライプニッツを読んでみて下さい。つぎのような心温まることが書かれているものがありました。「いま『エミール』の上巻を150ページほど読みました...続きが楽しみです」(i君)。ぜひ楽しんで下さい。
また、「ウエーバーの『職業としての政治』を読んでいるところだが...全然理解できません。いつになったら...理解できるのでしょうか」(jさん)。
気にすることはないですよ。もともと社会学などは社会で生きた経験が理解を大きく左右するところがあるので、ある時「ああそうか、悪魔と取り引きするというのはこういうことか」と気づくかも知れません。縁があればですが。その他、「料理を見てレシピが書けるものではない。またレシピを見て料理が作れるものではない」という喩えにはかなりの人が関心を示してくれたようです。ホントに社会科学者はレシピ書きをやめてもらいたいものだね。
「社学は内容が共通あるいは重複する講義が多いので比較する興味があって良い」という感想が数件ありました。このような感想は、冷静に観察している人の態度として共感できます。ぼく自身はといえば先生とはまず第一に観察される人、と思って過ごしてきました。
では今週は『自殺論』などに即して話します。
5月27日
まず技術的なこと。教室を小さなものに変更した方が集中できる、という要望が5名ほどありました。集中できるかどうかにはやや疑問に感じますが、この段階で変更するのは他の講義への影響もあり、どうぞ堪忍して下さい。最前列でぼくの顔を睨んでいれば周りに関係なく集中していただけるのではないでしょうか。本題に入り、今回最も多くの人が書いたのは『自殺論』ではなく「自殺」という現象に関するものでした。なかでもかなりの数の人が書いたのはあるタレントの自殺でした。
その方の自殺を軽視するつもりはありませんが、この方の自殺も名もない人の自殺も、自殺であることに全く変わりはありません。タレントとはニュースを作るためにメディアが製造する消耗品で、他の人と別に区別する理由はないからです。
ニュースを提供するために自殺しようというガッツのあるタレントはほとんどいないので(未遂は時にあるようですが)、ある意味で当のタレントさんがその自殺まで視聴率用のニュースにされたのは、むしろ気の毒という見方さえできます。
書かれた方の動機が興味本位でないと確信しますが(実際きっとその通りで、ほとんどの方が書かれたのはこの自殺はアノミー的といえるのではないかという問いでした)あまり特別に注目するのは不自然に思われます。万一その人がタレントであるために注目したのだとすれば、ただのテレビ・週刊誌の見すぎですから。ぼくが講義したのも自殺そのものではありません。デュルケムが、人はなぜ自殺するかという問いを通じて規範の存在を確認しようとした、という問題です。したがってこちらの方に関連する質問に主にお答えします。といっても、これらも全部は上げきれないほど多様でした。以下できる限りお答えする努力をしてみます。
まず簡単なものから。「他の講義でアノミー的自殺に関連して宿命的自殺というものがあると聞いたが...」(l君)。「社会学理論で自殺の類型に四つが上げられたと聞いたが(三つでよいのか)」(mさん)。この両君が非常に注意深くすべての講義を聴いておられることに敬意を表します。細かく数えるとたしかに四つあり、その先生が講義で仰った方が正確なのです。
この「宿命的自殺 suicide fataliste」というのはデュルケム自身もなぜかあまり立ち入っていません。また普通は社会学者の解釈の中でさほど重きを置かれず、アノミー的...の変形のように解されるようです。デュルケムがユダヤ系の人であったなどが理由とは思えませんので、規範の存在を論述する目的には大きな参考事項ではないと(デュルケムが)判断した、ということでしょう。ぼくも多くの社会学者の例に従ったので、ぼくの方が省略形です。
実はこの「宿命的自殺」というもの、デュルケムの意図とは別に、よく考えると意外に重要な問題を孕んでいるものです。fataliste とは、読んで字の如く自殺するしか仕方ない境遇という意味です。このような人間状況がユーラシア西半分を広範に覆ったのは「ヘレニズム時代の地中海・メソポタミア地方」でした。上の方で再三繰り返しているキリスト教の特徴の多くは、この人間状況の中で成立したものなのです。ぼくはこのことを「比較文化論」という講義で述べますが、その際の重要参考文献の一つ『グノーシスの宗教』(ハンス・ヨナス著 秋山他訳 人文書院)を上げておきます。ぜひこの際一読をお勧めします。
ヨナスはこの(デュルケム風に言えば fataliste な)歴史状況の中でユダヤ教、ギリシャ哲学、メソポタミアの土俗の三つが混合してグノーシスの宗教が成立したこと、およびキリスト教はこの一つであったこと、を立証しています。もっとも、ヨナスの関心とデュルケムの関心との間にはあまり類似性がないですが。
アウグスティヌス『神の国 de civitate dei』はこの時代が生んだ特異な本です。社会学という言葉こそその時代はありませんでしたが、後世の社会学者は無意識に(または無自覚に)この本の立場と目的を延々と反復しているのです。かれこそ最初の社会学者というべきでしょう。簡単なつもりがとても長くなりました。時間も単位も関係なく諸君と話していられるといいですね。
今度はほんとに簡単なもの。「社会学では”宗教を信じる人”が対象になると聞いた...社会学は宗教を否定する立場の学問か?」(nさん)。ぼく自身は信じる人も信じない人も対象になると考えます。また「宗教を否定する立場か」については、対象にするのだから自分の方から否定したり肯定したりするようでは仕事にならぬと考えます。
「文明化した宗教はもとから文明化したわけではないと思う。未開宗教からどのように中身が切り離されていったのか...」(oさん)。前段、おっしゃる通りです。それぞれどこかに源流があります。ではどのように、というのは文明化の原因と過程とを論じることになり、申し訳ないのですがこの場では無理です。お許し下さい。前述したぼくのもう一つの講義は後期の主題がこれです。そこでお答えしようと努力しています。
ただ大事な問題を考えられたのですから、二つ追加してご参考とします。1)ぼくが述べた意味の「文明化してしまった宗教」をマックス・ウエーバーは世界宗教(Weltreligion)と名付けて『宗教社会学論集』の主題にしました。しかし彼は未開宗教に関心を示していません。2)人類が(地球が)この世界宗教なるものに残らず呑み込まれはじめたのは、たかだか最近2ないし3世紀のことに過ぎません。関連して「イスラム教は文明化した宗教とはいえないのではないか」(pさん)。いつもながら、社学の学生さんが鋭い洞察力を持っていることに敬服します。ウエーバーがなぜ世界宗教にイスラム教を入れなかったかは、学者が一致した結論を出せないでいる問題の一つです。ウエーバーの「世界宗教」の定義(「信徒が世界中に広がって数が多い」)だとイスラム教が当然入るはずなのですが。
それとは別に、ぼく自身はイスラム教はやはり文明化した宗教に加えるべきものと考えています。理由は、と聞かれると長い話になりますのでこの場では許していただくことになりますが、すこしでも答えになればと思い、最近共訳した『大航海時代の東南アジア』(アンソニー・リード著 法政大学出版局)の原著者リードもイスラム教を東南アジアの文化破壊勢力であったと見なし、同じ見解を大変説得的に展開しています。よかったらぜひご覧下さい。その他いちいち引用は容赦していただきますが、「たしかに宗教は規範の基盤にはなりにくいにではないか」「アノミー状態の解決に宗教をという発想には恐ろしいところがある」「マニュアルでない方法解決方法を考えたい」「このページは参考になる...」「現代の規範はPRが作っているという指摘に同感した」など、多くの示唆的な意見を有り難うございました。さまざまなご要望に添えるよう最大の努力をします。
マニュアル的でない解決は、結局ソクラテスのいう「汝自身を知れ」ということに尽きましょう。また最後の問題については、現代史の最重要事項として再度取り上げる予定です。多分権力のところで。終わりになりましたが、「社会分業論のデュルケムと自殺論のデュルケムにニュアンスの差があるとはいかなる意味か」(qさん)。これについては本題に関わりきわめて重要なので、次回は再度このぼくの見解を短時間で敷衍することにします。そのあとで第3主題に入ります。
6月3日
今回は書いてくれた諸君の数は少なかったですが、内容の濃いものがほとんどでした。これらをしいて分類すると次のようになります。1)憂鬱なことですが、犯罪をいやでも意識させられる現状があるからでしょうか、犯罪はなぜ起きるかという素朴な疑問がもっとも多かったです。それらを読みながら、あらためて人間とはなんとしようがない動物なのか(しようがない動物になっってしまったか)という気持ちでぼくは落ち込み、来世はオランウータンに生まれるぞと再度決心しました。(どうかそれまで住みかの熱帯雨林が充分に残っていますように)。 それはともかく、講義最後で述べたように、なぜ起きるかではなく起きる理由はなぜかが従来どのように考えられてきたか、を話している途中ですから、このグループに入ると思われる質問や意見は今回はご容赦下さい。
2)次に多かったのは規範という言葉に関する問題です。e.g.慣習、道徳、法律が連続でないという見方が可能とはどういうことか。法律を含む規範がなければ社会は成り立たないのではないか、など。
このような問題については、次の方が書かれたことが期せずして答えになっているように思われるので引用させてもらいます。規範に関し、2)として上げた(慣習、道徳、法律が連続ではなく)文化(慣習)と法律が対立するという構図は、「以前に『吹き矢と精霊』を上げた講義とオーバーラップしていると思った。なぜなら、原住民は慣習、道徳の中に暮らしているが...」(マレーシア国家が法律によって)定住を促進させようとするのは文化 vs. 国家の法律という対立であり、後者が前者を呑み込むことだと考える(rさん)。
そうです。これが正確にぼくが述べようとしたことに一致します。3)次に多かったのは(Malinowskiの)文化が社会より前にあるという見解はどういう意味か、というものです。
これはぼくたちのように社会があってその中に文化があると考えているものには理解しにくいことかも知れません。事実、Malinowski は後世の社会学者があまり正しく評価できなかった学者の一人でした。
では、いまこの2つの言葉を使用しないで、次のように考えてはどうでしょうか。多摩キャンパスの所在地は相原といいます。郷土史の証言によると、相はもと藍であったとのことです。昔々このあたりは山裾に一面に藍が茂った原っぱだったわけです。ぼくたちは全員この土地に住んでいる部族のメンバーです。その時、ぼくたちはいまキャンパスで会える人々の集合といえます(これを集合Aと呼びます)。
ではその時ぼくたちは集合Aに含まれる人々だけを思って生きているでしょうか。多分そうでないはずです。ぼく自身が過去に死んだ「ヒデ」とかいう人の生まれ変わりです。読んでいる君もまた「アキ」とかいう人の生まれ変わりです。だからぼくたちは季節毎のお祭りにはかならずそれらの祖先を呼んでこの時代を超えた拡大家族の中でお祭りをします。同じ理由でこの拡大家族の中に産まれてきた子供も、これから産まれてくる子供もそこに参加していることになります。この集合は代々同じところに住み、同じく暮らし方をしています(この時間を超えた集合を集合Bと呼びます)。
その上で、次のように自分に聞いてみて下さい。
(1)集合Aと集合Bとは、どちらが他の基盤といえるだろうか。
(2)集合Aと集合Bとは、どちらが現代人の社会の通念に近いだろうか。いずれも解答は自明でしょう。集合Bは Malinowski が人類学者として気づくことになった「文化」です。一方集合Aはわれわれが通常「社会」と呼んでいるものです。
ぼくが過去のことを語っているなどと誤解しないで下さい。ぼくが言っているのは、ぼくらの社会に関する通念など、たかだか1世紀程度しかたっていないことを忘れるなということです。(おかしなことに、そのころ本格的な第2世代社会学が成立したとされています。これが本当だと社会学はたかだか1世紀間の予断と偏見の産物と言うことになりますから、ぼくはこの説を信じたくありません)。自分のまわりの常識を出発点にするのは、せめて学生の間くらい止めたいですね。
4)最近「デブ」といわれてがっくり来たけど生活は楽しいよとか(デブでなく豊饒と言うのです)、理想の人間関係とはどんなものだろうかとか(まわりの人間がみな上等なら理想など考えません)、直接この日の講義に関係ないけどなかなか捨てがたいものが個々には相当ありました。
しかしなんといっても次のような感想には考えさせられました。「高校の世界史で教わった産業革命の背後に実に色々なことがあったというのは発見であった」(s君)。
そうなのですね。実はぼくは高校の社会科(だけでないけど)については日本史とか世界史とか止めて「歴史」、それ以外の教科を止めて「地理」の2つにしてくれないかなと時々思います。しかし急にそうも行かないだろうから、せめて「歴史」はあらゆる機会にかならず自分で摂取するよう心がけて下さい。5)「セクハラ」に関するもの2点。この種のことは次週の主題に関係するので割愛します。それとは別に、あることを一つ。
数年前に社学においでになったロバート・ベラーさん(『徳川時代の宗教』 岩波文庫の筆者)が、その頃出版された Good Society という本の中でつぎのように言っておいでです。この種の人権ドグマの一番まずい点は、利害が食い違った場所からこそ本当に意味のある人間同士の真剣な対話が始まり発展するのに、この場所に権力が介入することで人間の絆に欠かせない対話の機会が奪われている、と。その通りですね。では次週は途中で終わったこの日の続きを...
6月10日
今回はレスポンスが遅くなりました。まずお詫びします。ワールドカップのせいじゃなく、機械のメンテナンスということです。
毎週書いてもらうものはもちろんぼくが読んで楽しむのが当初の意図ではないけれども、学年も今時分になると数がめっきり減ると同時に読んで面白いものが増え、特に回答を要するというより、なるほどと感心させられることが多くなりました。この日も12枚ほど感心させられるものがありました。内容はひとつひとつ異なっていて分類など意味がなくなっています。そこで今回は回答するということにあまりこだわらず、読みながら感じたことを中心に書きます。
とはいうものの、「ガイドライン」というものについて所見を述べた人がやはり複数人いました。ある人は「これほど人間が信頼できない現状は情けない」と述べ、あるいは「ガイドラインは小さな犯罪を作ることに結果的に等しい」と述べ、またある人は「こうして結局玉虫色の規則が人間を縛るのか」と述べています。ぼくもその通りだと考えて教室で言及しました。またある人はガイドラインは「契約の有効性に疑問を感じさせる」結果になる、と述べています。
すでに新聞で読んでいると思いますが、当の医師は臨時倫理委員会への出席を拒絶し「厚生省に諮問委員会設立を申し入れる」意向とのことです。厚生省が主体となった「上級(?)ガイドライン」が再び作られるのかどうかは見守るしかないです。しかし産婦人科学会のガイドラインはだめで厚生省ならよいか、という問題があらためて出現することにはかわりないでしょう。
この問題、さまざまな見地から論じることが可能です。たとえば、1)不妊はいつの時代にもあったはずだが、なぜ今これほど問題視されるのか。これに関しては、一部マスコミ(民放)のお涙頂戴ぶりはまたもきわめて不快でした。2)不幸にも民法上の係争となった時には、どのような慣行が実例が俎上に上がるか。3)「ガイドライン」というグレーゾーンの存在は係争そのものを無くすことに貢献できるか(これについては一部上記)。4)医療行為に限界は存在するか。最後の問題は(安楽死などとともに)結局今後最大の(そして最も不愉快な)問題点にならざるを得ないでしょう。これ以下は今回の講義とは直接かかわらない事項です。「社会調査について自分も対象と同じ状態で暮らし調査することが重要と思うが、この場合客観性が保てるだろうか」(uさん)。なるほど。社会調査の教科書などで「客観性あそび」について読んでしまったのですね。お気の毒に。ぼくなら次のような3点を考えます。
1)「客観性」という問題を必死になって論じたのはマックス・ウエーバーです。詳しくはそれを読んで下さい。かれの意図は、社会調査が客観的かどうかなどとは関係のないことでした。真意は、はたして人間は他人を「理解」できるかというものです。教室ですこし述べたように、彼は「合理的であるという前提でなら理解できる」として社会学(という科学)を正当化しました。教科書はこのようなことを忘れているだけです。
2)貴君はある対象を知りたいと考えたとき、自分が偏見を持って見るかどうかに自信が持てないですか。真相と願望とを混同するほどいい加減な人間だと考えますか。たとえその観察対象が自分であったとしても、冷静に見つめられないほど自分に自信が持てませんか。持てないようだったらそもそも社会調査など考えない方がよいです。そのような人に自信を持たせるような「社会調査の手続き」など存在しません。
もちろん、貴君の書いたものを読めば決してそんな人でないことは確信できます。
3)社会調査で最も恐れる必要があるのはそんなことではありません。最も恐るべきははたして自分は問題の必要な全貌を捉ええているかどうかということです。この側面の問題も保証してくれる手続きは存在しませんし、むしろ手続き化し数値化するほどより恐ろしい様相を帯びます。
ご存知かと思いますが現代社会では社会調査はマスメディアの独占と連携して世論操作に使用されます。「知らせつつ知らせない」方法です。ぼくのサイトの中に「Archie Bishop」という人の文章へのリンクがあります。20世紀アメリカはこの2つを駆使した世論操作によって作られたいう本を昨年書いた社会学者(本名 Stuart Ewen)です。PR! A Social History of Spin (Basic Books) という本に詳細があります。これがアメリカだけの問題かどうかは考えてみて下さい。
逆の例ですが、ジェーン・グッドール『森の隣人』(朝日選書)という本はゴリラの仲間になって観察する女性学者のレポートです。併せてお読みになるときっと面白いと思います。「私と父とはことごとくそりが合わないが唯一PPMだけ共有している」(vさん)。
なるほど。そういうこともあるのですね。LPかCDが手にはいるのですね。それに彼らはまだ現役でやっているし。今度お父さんにジョーン・バエズは好きかと聞いてみて下さい。お好きなら「David's Album」というLPをご存知か聞いてみて下さい。徴兵拒否で服役した David という仲間の保釈金を集めるために出したLPです。これは傑作LPです(CDはあるかどうか知りません)。
昨年だったか、落ち着いて感じ良くなったブルース・スプリングスティーンが日本で「ジョードの歌」というのを弾き語りしていました。ジョード(Tom Joad)は『怒りの葡萄』の人物です。おそらくジョードにはウディー・ガスリーの像が重なっていたはずです。
つまらぬことを書いて失礼しました。この人が紙の残り裏表全部を使って書いてくれたのは、ぼく流に要約すると今日に至る罪と罰との変遷です。中でも(近代人に)「にせの主観」を持たせるために罪と罰とが用いられた、という指摘です。その通りですね。自己同一性に疑いを持った人間が懐疑と折り合いを付けるよくある方法は「あの人たちと違う」という異常と正常との作られた垣根だからね。もう少しよく練って洗練させて下さい。「人はなぜ人を好きになったり嫌いになったりするのかが目下最大の疑問。医学書や精神科学を勉強するのは無駄ではないかも知れないが、それで納得の行く答えが得られそうな気がしない」(wさん)。なんかぼくがテストされているようですが、これにはぼくも答えられません。ただ、好きになるという言葉は「仲間としてやっていける」という意味か「性愛をもって接する」という意味かのどちらかによってすこし答えが違ってくると考えます。
後者なら「人間も生物である」(好き・嫌い共に)ということに尽きます。ところが前者は話がかなりややこしいです。霊長類研究者からは両側面が限りなく接近しているボノボのような事例が報告されていますが、ヒトの間では一応違うことになっているらしいです。本屋で『嫌いな人とつき合う方法』というハウツー本を見つけて唖然としたことがあるので。以前大学から海外留学の期間をもらって長い間米国の砂漠をたった独りで放浪したら精神が快晴になりました。ぼくは人間が嫌いじゃないけど心のどこかにウザッたさも感じていたのではないかと...。ごめん、全然答えになってないね。だがもし小集団で「仲間としてやっていける」かどうかという意味だけなら、別に好きも嫌いも関係ないのじゃないかと考えます。またそんなことは歯牙にもかけない人になってもらいたいです。「秦の宰相は商鞅でなく李斯ではなかっただろうか」(x君)。失礼しました。貴君の指摘される通りです。前者は秦の法治主義の骨格を作った人、後者は秦帝国成立後宰相(丞相)として実行した人です。お詫びして訂正します。
ではまた教室で。
6月17日
前回同様、最近のものはぼくだけで読んでいるのはもったいないと感じるほどです。それらはすべて次回の講義を進めるのに大変参考になり感謝します。
それはそれとして今回も前回同様の方針でぼくの感じたことを書きます。その前に、なるべく考えたくなかったのですが7月になるといやでも試験をすることになります。
一般的な注意は教室でしましたが、諸君の大学での最初の試験になるので念のため繰り返します。
1)定期試験は時間割が別途作成され教務課窓口で配布されます。これをいただいて日時と場所(同じ教室とは限りません)を記憶して下さい。
2)定期試験は理由なく欠席できません。詳細は履修要綱に譲りますが、うっかりして間違えたということのないように呉々もご注意下さい。つぎにぼくの試験です。残り講義時間をようやく数えはじめた程度ですからまだ確定していませんが、今日書いてくれたものを読みながらつぎのようにしようと考えました。歴史を読み、あるいは今の世に生きていない人々の残したものを読みながら考え深く思考している人々がかなり居ることが分かったので、その人々の現在考えていることに耳を傾けたいと思い、1)自由に書ける表題(たとえば「...について自由に論述しなさい」のような)と、2)ぼくが講義の中で言及した作品について論述する課題と、2通りから選べるようにします。
前者を選ぶ場合は、答案用紙(次回に実物を見せします)が現在までに使用した紙の4倍の面積なので途中で息切れしないように流れをまとめておいて下さい。
後者を選ぶ場合は、その作品の「背景」「他の作品との関係」当の作品の「内容」がよくまとめられるようにして下さい。(この機会にルソーの書いたものをじっくり読んでみるなどは意義あるのではないでしょうか。一例に過ぎませんが)。ぼくは試験勉強も勉強のうちと思っているので、これを機会に中身がないと文章は書けないのだということをぜひ知ってもらいたいと考えます。一度事前に書いてみることはよい方法です。ただ、参照は不可ですからそれを試験中参照はできません。(参照不可とするのは同じ答案を何枚も読まされて人間嫌いになりたくないからです)。
なお試験に関してはこれ以上述べることはありません。上記の範囲内で質問・疑問・意見打診などがあればそれは結構です。書かれたものの大部分は1)犯罪および刑罰(特に死刑)という問題に関するものと、2)人間社会と権力という問題に大別されます。しかしそれらの中身は実に千差万別で個性的でした。ひとまとめにするのは気が進みませんがそうもいっていられないので乱暴にまとめてしまうと、つぎのようになります。
1)と2)とに共通する認識は、犯罪や刑罰は権力を予定するということです。マックス・ウエーバーが合理的な行為者に介入しうる権力は「合理的」か、という問題にどう答えようとしたかは次回に若干関説することになりましょうが、この2つの問題はあらゆる社会学者が(ひいては人間が)、もはやきれい事ではすまなくなる限界点です。
したがって諸君たちの見解も矛盾を承知で刑罰を位置づける(例えば「権力と刑罰がなければ秩序は不可能なのではないか」など)と、このようなことになっている人間社会の現状に不快感を表明することとの両極に分かれていました。
ともに真剣なもので、両者はいい表し方の相違であって対立ではなく、相互に見解を許容しうるものと読めたことが救いでした。ぼくも含めて、これにはどちらの態度が正解などというものは残念ながらないです。国際関係でよく強調される「抑止力としての核」という主張にだれも無条件に賛同できないのと同じです。「終身刑より死刑の方がよい。税金で養わずにすむから」という人がいましたがマジでいっているのじゃないよね?テレビの世論調査じゃないからこんなところで目立っても仕方ないですよ。
その他、回答を要すると思われるものにすこしだけ触れます。「目には目を...に対して、右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい、といったキリストは権力をどう考えていたのだろうか」(Ms.A)。キリストは「カエサルのものはカエサルに返せ」とも「死せるごとく生きよ」ともいっています。一般に文明化の進行する過程の最中に生きた、後世の文明宗教が始祖と仰ぐ人には、文明に対する深刻な絶望があります。現世をうまく生きることなど考えられていないのです。
そのキリストからほどない時代にキリスト教が成立するのは、ガンジーの非暴力抵抗から現在のインド国家が成立したのと同じほどの陰鬱なイロニーです。「尭舜の話でふと疑問になったが、独立戦争におけるワシントンは権力者だっただろうか」(Mr.B) なるほど面白い疑問ですね。人望のあった人という定評があります。それに彼が大統領職にあった時期からあまり遠くない時代に、Alexis de Tocqueville というフランス人が『アメリカの民主主義』という本(これも面白い本ですが)を書いて、理屈は省略しますが、大陸と比較してしきりにアメリカをうらやんでいます。土地は無尽蔵にあるし、いやになったらアルゲーニを越えて処女林を伐採し開拓地にすればよいし、地理的条件にも恵まれていたといえます。権力者らしくない感触はたしかにありますね。
ただし、当時もアメリカ原住民や黒人はこの見解を決して支持しなかったでしょう。また、恵まれていたのは資本主義化の前提に恵まれていたのだという人もいるでしょう。質問の意味はどっちかに必ず分類してくれということではないと思いますが、ぜひそうせよといわれれば答えは自明のようです。
「死刑が刑罰として疑問視されるのは報復という色彩が強すぎるからか」(Ms.C)。おもてむき論じられるときは人権の見地から、ということです。
「もめ事の解決法として何がベストと(ぼくが)考えるか」(Mr.D)。もめ事を起こさないことです。
権力の誇示は犯罪とさえ思えるが「観光で大仏やピラミッドを見て回るのは犯罪の記録を見ているような気がしてきた」(Ms.E)。これは今回一番おかしかったです。おかしいというと失礼だがどこかいえていますね。私事で恐縮ですがぼくが大学1年生だった時、生物学の教授が講義で「桜花は prunus yedoensis の生殖器である。蜂はその生殖を助けるが人間はそれを見て酒を飲み騒ぐ。人間というやつは変な動物じゃ」とぶすっとしたお顔でおっしゃったのを突然思い出しました。なんか笑えるような笑えないような複雑な心境ですね。
次回は市民主権論と近代社会という講義を、次次回は20世紀と大衆民主主義についての講義をする予定です。気が重くなるかもしれないけど我慢して下さい。
6月24日
この日は権力という人間社会特有のパラドックスに関して、具体的な質問の他に、多くの人から感想が寄せられました。これを読んで感じたのはつぎのことです。
「秩序は必要。だから権力は必要」という社会学者が泣いて喜ぶ前提を置いて考えると、討論会のディベート風の思考から抜け出せなくなるようです。たとえば「権力を平等のために奉仕させることが必要」とか「権力を正しく行使させるには政治家の自覚が必要」とか「やっぱり主権者である国民の自覚が必要」とかです。
お分かりの通り、これらは今日の大衆民主主義に関する最大公約数的な見解で、それ自体は社会的に是認されている意見です。だからどこに行ってもこの辺を発言しておけば討論会は格好が付きます。討論会が終わって、なんか釈然としない感じを持ちながら家に帰るということも少なくないようです。現にこの程度のほどほどの建て前で現代社会は半世紀続きました。現代が深刻だと言っている割にはみんな豊かでほどほどに幸福なのではないだろうか。諸君はフィードバックという言葉を聞いたことがあるでしょう。現代の社会は言ってみれば正のフィードバック・ループに入ってしまったような社会です。社会学者がこれは社会問題だ、という問題に合わせて何かやるとかえって現状が悪くなる、という類のものです。大は投票率から不良債権まで小は援交から登校拒否までこの有様です。
どうしてこうなるのだろう。2つのケースしかないでしょう。1)既得権益を守る隠された巨大なメカニズムがあり、何をやってもこのメカニズムの望むとおりにしか動かない。2)みんなほどほどに豊かで幸福だから(中流階級社会ということ)口で言うほどには深く考えていない。多分両方が持ちつ持たれつしているのでしょう。帝政ローマじゃないけど典型的な「bread and circuses」状態ですね。突然妙なことを言いだしたようですが、それというのも社会学というのは社会から社会問題を探し出して何とかしようとする学問なのだろうか、ということを一度考えてもらいたいからです。
それに学問とは必然的に実際的で実用的なのだろうか。じゃあ古生物学とか考古学とか霊長類研究とかは何の応用のためにやっているのだろうか。まさか村興し博物館や動物園作りのためにやっているわけじゃないでしょう。
「学問のための学問じゃだめだ」などという科白があることは承知の上です。そんなものは気にする必要はないです。科学技術というように学問が応用と直結したから現代のような状態になっている面もあるし、冷徹に知るほうがこらえ性なく何かやるよりはるかによい場合も多いのですから。一般論はこれで切り上げ具体的質問や諸君の自問自答に答えてみます。
1)市場経済が国民国家を不動のものにしたのはなぜか。また主権(summa potestas)と国民国家との繋がりは何であったか。(Ms.F, Ms.G, Ms.H)
当面の投票率をどうやって上げるかよりも、このような根本的問題を深く知ろうとする態度の方が重要です。時代的に後者の方が早いので後者から。
1.1)諸君は人の家にはいるとき挨拶をするはずです。なぜならその家が他人の「テリトリー」だと見なしているからです。potestas とはもともとこのテリトリーにはなはだ近いものでした。砂漠のベドウィンの誇り高さを表現する諺に、ベドウィンは弱った旅人が自分の天幕のロープにすがりついたらあらゆるものを犠牲にして救う、というのがあります。天幕が potestas(原意は力)の範囲だからです。
potestas がこのようなものに止まれば権力はあまり肥大しません。
ローマ法に patria potestas という概念があります。「父の権能」という意味です。ローマ法は「子は父の権能のもとにある」「結婚した子は父の権能下を離れる」のように決めていたのです。この辺はすでに法と権力との臭いが濃厚に漂いはじめています。
もっとも、ローマもはじめから法を持って生まれたわけではないはずです(何かそのように理解されがちですが)。(父系制という点を別にすれば)親が子供を自分のテリトリー内で養育するのはいつの時代にも(いやどんな動物にも)普通のことです。この限りではローマ法は生活習慣を法としたのです。ではなぜ法としたか(またはせざるを得なかったか)は通常の歴史記述(これはぜひ自分で調べて下さい)以上のことは分かりません。
このローマ法のケースは法と権力との固い結びつきの一例でしょう。なんでも法にするという悪くなって(国際帝国になって)からのローマ人の伝統を、後世ヨーロッパはそのまま継承させられました。(この点は現代の米国流「人権思想」とどこか似ています)。ヨーロッパはケルト人(のちゲルマン人)が普通に暮らしていた場所にキリスト教が入り、二重生活状態であったことは教室で話したとおりです。前者はごく普通の生活、後者はローマ法を模範とする教会法の支配する生活です。徐々に後者が優勢になったというべきか、前者の中から後者を道具にするものが現れたというべきか。ともかくこの中からジャン・ボダン Jean Bodin 流の主権論が生まれるのです。
かれの著作は Six livres de la republique といいます。(アクサンがありますがこのドキュメントではアクサンはうまく表示されないので注意して下さい)。教室で躊躇した通りやはり邦訳は入手できぬようです。でも英訳なら(上等かどうか請け合えませんが)ありますよ。
主権はあらゆる potestas に優越するという論旨です。往々主権者はいかなる法にも拘束されない、とも表現されます(正確には神と教会法以外の、ということです)。これが summa の意味したものです。
最初の例に戻ると、家の中で犯罪が起きれば警察は立ち入り捜査できます。これを拒絶することはできません。なぜなら警察権は主権に由来するからです。お分かりのように、主権論は国民国家の卓越性を打ち立てる最有力な論拠です。この論拠を契約論的国民国家である近代国家は受け継いだのです(これが市民革命と呼ばれるものです)。
この結果権力の主体であり客体でもあるという今日の国民(市民)ができました。1.2)市場経済は、所有権、債権、その譲渡や売買(に関する契約の遵守)などについての関係が規格化されていることを必要とし、また規格が保証されることを必要とします。国民国家こそうってつけの保証なのです。
『プロ倫』にはこんなデリケートな事情は書かれていませんが『宗教社会学論集』全体を読めばプロテスタント的合理主義こそ資本主義に適合的、としている理由がよく分かります。どうか大学生は『プロ倫』止まりでよいなどと決して考えないようにして下さい。時間はいくらあっても足りないです。重要な質問なので長くなることを気にせず書きましたがまだ全部とはいえません。点と点の間はぜひ自分で埋めて下さい。
3)書いていて感じたことですが、難点が多い欧米型近代国家だけれども、そこでさえ守られる常識も怪しくなっているのが現代です。例えば国庫による不良債権の処理とは借金を返さないものがどこかにいるということです。G7もまさかそうせよとはいえないけど日本の景気を回復させろと要求しているのだから結局やることになるでしょう。
こんな問題を抱えているから市民主義やら人権主義やらの方がまともに見えるという皮肉な現象がある、ということは忘れないで下さい。
というわけで「日本が近代化=西欧化したというのは表面だけであったのではないか。だから失敗するのではないか」(Ms.I)。という論旨は以上の全部を理解した上で、なおかつ表面的でないような近代化を取るしか選択肢がない、という結論と(そうであってほしいと)受け取りたいです。さもないとテレビなどでふつーの知識人がよく言っているコメントやディベートと同じことになりますので。4)「国民国家と帝国主義とは関連があるか」(Mr.J)。もちろんあります。最近左翼が世界的に反省気味なのでこの言葉が使われることもめっきり減りましたが、市場経済は典型的な正の FB で供給と需要が均衡することなど日本チームの決勝進出より確率が低いのです。供給過剰は困るので、列強は外国市場の武力獲得に乗り出しました。これは企業の利害の名ではなく、国民国家の利害の名の下に行われます。進出された先は、例えば平和に暮らしていたインドやアフリカです。阿片戦争は1830年代ですからアダム・スミスから半世紀、自由経済の権化リカードから20年後です。
第2次大戦後さすがに武力だけで獲得するというのはやりにくくなりました。でどうしたか、は例によって自分で調べて下さい。
今日(6月29日)米国大統領が中国訪問し、両国の友好について双方が演説しています(全貌を読んで下さい)。米国側の主張は「人権尊重をしてくれ」という論調の繰り返しです。これを「人権外交」といい最近10年間に目立ちはじめたものです。人口問題、男女雇用差別から政治犯まで、なんでもを意味します。人権そのもの(sui generis)を軽視するつもりではないが、人権主義が市場獲得の武器になるのは人権という思考が例の規格品だからです。5)「中国で民衆と権力との距離が遠いというのは直感に反するが」(Mr.K)。
貴君は現代の(または1947年以降の)中国を考えていませんか。共産党革命以後は近くなりました。ぼくは遠かった、といったのです。なぜか調べて見て下さい。6)「明治以降ヨーロッパ的国家を日本が採用せざるを得なかったことは正しかったか。また適切であったか」(Mr.L)。
究極の「 if 」ですね。普通歴史には「 if 」は無いことになっていますが、重要な思考実験ですからぜひやってみましょう。
正しかったかどうかより、まず採用しないことが可能だったかどうかが大問題です。ここまでの項目で分かる通り、列強がアジアにやってきた目的は開港と自由貿易です。したがって武力に訴えてでも欧米型に「近代化」させないとやってきた意味がないのです。だから採用しないということはよかれ悪しかれ従来の政治体制を維持し(できればSF的には『もののけ姫』的認識まで逆戻りしつつ)、なおかつこの武力侵攻を武力・外交その他あらゆる手段で追い返すことができたか、という問いになります。
さすがに司馬遼太郎さんもこの可能性までは肯定していないようです(『坂の上の雲』その他参照)。それはともかく、日本にとって大きな誤算は阿片戦争で清国が手もなく屈服したことでした。また東南アジア各地(現在のASEAN)はすでに早くから、利用されているという自覚も持てないうちに植民地として利用されていました。
かりに日本と清国とが協力して全アジアについてアジア人の自主性を守りきったとしても問題はこれで終わりません。それに代わる多元的政治体制が構想できたかという問題が残ります。これこそ司馬遼太郎さんの力説して止まなかった論点であり、つまりできなかったのです。富国強兵と対中国進出など自分も同じことをやりだしたのです。残念ながら、これまでのところ歴史は人間の愚行と劣性とによって作られて来たようです。
そのことが分かったとしてこれからはどうか、というのが我々の問題なのです。ここまでで欧米も入れて少なくとも2〜3世紀かかっています。これは少年非行対策をどうするかなどと違って諸君がその位のスケールで英知を傾けないと取り組めないのです。それまで人類が地上に生き残っていることを切実に願いましょう。
7)ほんとうの英知を要求するそのような問題の中には、つぎのような重い問題ばかり含まれています。
「世界史を通じてなぜ同じことが繰り返すのだろうか」(Mr.M)。
「法がなくなれば権力はなくなるか」(Mr.N)。(当面の混乱はあるでしょうがやってみる価値はあるかも知れませんね)。
「ヨーロッパ型の国家が主流でなかったら、どのような国家ができただろうか」(Ms.O)(上記の if と本質的に同じ問いです。それを参照して考えて下さい)。
「革命は権力の集中を憎んで起きるのか、それともより巨大な権力を求めて起きるのか」(Ms.P)。(意図は分かりませんが結果はことごとくより強大な権力になっています)。
「今日の日本の自治体は中国の郷のように機能できるだろうか」(Mr.Q)。(できないだろうと考えられています。できないと地方自治じゃないけど)。
「法がなく人が自由で犯罪もない状態というのは実現可能だろうか」(Ms.R)。(ユートピア思想といわれるでしょうが、科学的合理主義よりましな点もあるかも知れないね)。では次回は現代の大衆民主主義と権力です。
7月1日
今週書いてくれた人々の中から意味があるとぼくが考えたものを数えてみると全部で26枚でした。登録者数は正確に知らないけど仮に200人程度だとすると、10パーセント以上の人が最終回までつき合ってくれたことになります。このことに感謝します。この中にはつぎのようなものは一切入っていません。都合上全文引用します。
「何度か書いていますが、インターネットで全てを解決しようとするのはお願いですからやめて下さい。パソコンを持ってもいないし使えもしない私は、正直テストのことが何もわかりません。授業前に少しお話ししてくれるくらい、してもらってもいいのではないでしょうか。インターネットを使うなとは言いません。ただ、学生にとって重要なテストのことを、インターネット『だけ』ですませようとするのはいかがかと思います」。これはLクラスの人です。そこで今これをご覧になる方がLクラスの方であれば、その貴方にお願いがあります。
この部分をコピーしてクラスでそれとなく回覧していただけませんか。授業(!?)とは何という無神経な言葉使いだとか学生にとって重要なテストととは何と嫌みな表現だとかこの人1回でも耳を澄ませて出席していたことがあるのかなどと、ぼくはかなり呆れていますが、あまり切なそうなので紙に印刷して掲示し(もちろん匿名にして)、なぜ正直に人に頼めないのか、といってあげようかとも一時考えました。だが不見識過ぎるので止めにします。大学で教師が講義中に試験のことを口にする習慣はごく最近のことで、そのせいでこんなことになるのかとも反省します。そのかわり、恐縮ですがLクラスの貴方から、インターネットもPCもいやならやらなければいいけどそんなにテストが重要だと思うのならこのページの見方だけなぜ誰かに正直に尋ねられないのか、また誰かにどうぞ印刷して下さいとなぜ素直に頼めないのか、とぼくが非常に不思議がっていたと伝えてあげて下さい。 ぼくはLクラスの諸君に以上をお願いして、あとはこの人の名前もクラスも今すぐ忘れてしまいます。どうかよろしく。
26人の人々が書いたことは、それぞれ個性の差はあるが、情理共にたいへん均整の取れたもので、このまま人に読ませても大丈夫だとさえ思えるものでした。ここまで来ればすでにぼくが回答する次元ではなくなっています。こちらの方を全文引用した方がよいのかも知れないけどそうもなりませんのでお許し下さい。そのかわり、今回も前回同様ぼくは安心して諸君の文章にぼくが触発されたままを書きます。最終回だからいつもよりリすこしラックスしたいとも思います。ぼくが答えやすいように、知っていると感じられることも質問の形に書き直して下さった方々の好意にも答えたいと思います。
「昨夜一生懸命勉強したけど今日のX語のテストは最悪の状態になってしまいました。プロセスも評価してもらえたらなと思いました...」(F.a)実に残念ですね。プロセスも見てもらいたいと言うくらいだからきっと好きで普段からやっていたのだね。ぼくもプロセスも見られたらと思うことがあります。何が一人一人の足かせになっているかについての些細な助言が、一気に何かを乗り越えさせることがあるからね。
ただ、結果がすべてということも真実ですから、次はそうならないようにしようとどうぞ前向きに考えて下さい。また、これでX語が嫌いにならないように呉々もお願いします。この機会に語学のことについて一個人として感じていることを話します。かつて語学は大学教育の根幹でした。なぜなら、問いに向かって刻苦している時にどこか他の国で同じことを解こうとして成功しつつある人がいたら、謙虚にその人に学ぶ必要があるからです。
個人的なことですがぼくが最初に大学に職を得ることができたのは金沢大学でした。大学院を出ても就職の当てなどなく、電車に乗ると背広を着て鞄を持っている人々を見て「ああこの人たちは職というものを持っているのだ」とひもじいお腹に悲痛な感じが走っていた最中に、行くかと言っていただいたので行きますと有り難くお受けしたわけです。しかしこの偶然から専任講師のぼくはとても得をしました。日本に昭和初期にハイデッガーの業績を紹介された哲学の鬼頭教授からはハイデッガーやカッシーラーについて細かいことまで教わり、東洋史の増井教授からは中国の銀銭と鉄銭の動きを通して歴史の肌触りを教わり、英文学の大沢教授からは...というように驚くことばかりでした。この旧制第4高等学校の教授たちは一流の碩学である他に、語学の達人ぞろいという共通点を持っておいででした。法文学部という、いわば今の社学のようにいろいろな分野の方々がいらっしゃる恵まれた環境でした(お金にはひどく恵まれなかったけど)。その方々がみな、語学について上に書いたのと同じようなことをおっしゃいました。知識人というのは全世界を相手にしているのだなと痛感しました。法政大学に個人文庫を残された三木清や戸坂順や和辻哲郎などなどの学者もすべてそうです。重要なものが必要になると必ず原典があることに舌を巻きます。多摩図書館では学生が閉架に入ることも可能ですからぜひ一度近いうちに色々な個人文庫に行ってみて下さい。
最近世界中がアメリカンサイエンス(この要点は講義で述べた科学技術という20世紀の怪物です)の脅威に、経済競争力の見地から怯えるようになりました。何度か講義で言及したベラーさんが前出の本の中でハーバード大がこの科学技術のメッカになり「社会学者のパーソンズを中心に応用科学をコアにしたコア・カリキュラムという思考を作り上げて米国の教育に重大な損失を与えた」と指摘しておいでです。米国人自身による反省です。
米国では社会学もただの応用科学です。例えばこれをコアにして他の関係薄い科目をどんどん削り落とし最短距離でこれに着くようにする体系がコア・カリキュラムです。(curriculum とはどんな意味か知ってますか?駆けっこcurroすること、駆けっこする場所です。いまなら競馬場か)。この結果当然のように語学がどこでも邪魔者にされます。中でも日本が一番ひどいです。研究者が邪魔にすれば学生が歓迎しなくなるのは時間の問題だから。いまは学生が全部研究者として一生を過ごすわけではないことを承知でなおかつ言いますが、語学で決定的に重要なのは読む力です。次にあるとすると書く力です。話すことは、話せなければ食べることもできないとういう状態に放り込まれれば、社学の諸君の力なら数日あれば当面大丈夫、1ヶ月あれば全然大丈夫状態になれます。これはぼくの経験から請け合えます。話すより読み書きが難しいのは外国語も日本語も同じです。
実は前回書いた海外留学の期間を大学からいただくまで、ぼくは外国語を話すことはおろか書くことも一度もやったことはありませんでした。必要なかったから。強いて耳から入った外国語はせいぜい「You'd be so nice to come home to...」などという歌詞の断片か西部劇の科白の切れ端程度です。(だから今でもアメリカ英語が聞きたくなって Pelican Brief とか Murder at 6000なんか見るのかしらん?)それはともかく、正確に読める人は書く必要が起きれば必ず書けます。いつかX語が好きでよかったと思う時がきっと来ますよ。それにあまり日本の組織・企業が女子の大卒を冷遇するなら外国に流出してしまうことだってありうるからね。ほんとはぼくらの損失だけど。「pax americana 訳すとアメリカの平和ですか。じゃ誰が五賢帝に相当するのかしら」(H.b)。ウーン、この余裕綽々の問いは答えにくいなー。パックス・ロマーナと呼ばれた五賢帝時代は、ローマ帝国の最大版図に近いものの軍事征服が終わり皇帝への権力集中が進んだ割には周囲からの抵抗が減り、属州から帝国に入る収入も安定していた時代です。その意味で今に似ているな、たしかに。うまく五人にはならないかも知れないが次のように考えて下さい。
ケネディーがほぼ境と思って下さい。ルーズベルト死後トルーマンに始まった武力による冷戦体制がアイゼンハウアーで完成します。その後、あのケネディーを境にして米国と米国人自身が自国の民主主義と冷戦の矛盾に気付きはじめます。彼はこの動きを真面目に受け止めすぎたために暗殺されました。それ以降始まった冷戦の(露骨な武力を背後に隠し世界市場への経済優位を前面に出すという)戦術変更がニクソン、カーターと続き、ついにレーガノミックスという名前を与えられ、同じ路線がほぼ今日にまで続きます。その間冷戦が名前だけは終わり、EU統合などが進みドイツなどを梃子としたヨーロッパへの影響力は低下し、ブッシュが中東でイラクに手を焼くことにもなりますが、その分クリントンがアジアに力を入れるという構図です。賢帝かどうか知りませんがほぼこのようになります。
「世論操作に関しもっと知りたい」(F.c 他に2名)。時間が足りなかったことお詫びします。上記のアメリカンサイエンス風邪も、教育における世論操作の結果です。「スポーツにお金をかけることは平和の象徴ではあるが平和を作ることにはならないのに...」(M.d)。そう、このような世論操作もあるでしょう。過日突然出てきた少子化対策も、あまりにも女子大学生の就職難とタイミングが合いすぎて気持ち悪かったです。日本の女子大学生雇用はいずれ企業等への法的強制が必要になるでしょう。その時実行されそうな世論操作も今からおおよそ見当がつきます。さらに、昨年日本政府がかなり必死の思いで着手しようとした財政再建を、個人消費が落ちれば景気失速し日本発世界恐慌になると脅して自民党を割ってしまったのも、国際レベルがらみの世論操作であったでしょう。(この部分ぼくの政党支持とは関係ありませんので念のため。だれがケネディーになるかは別としてこの選択肢=消費削減を呼びかけること=も遅かれ早かれ無しで済まないです。国民はすでにやりつつあるし)。
個々のことは別にして、この問題は次のように考えて下さい。
現代は組織機構が肥大しすぎて権力自身もコントロールしきれない部分が多くなっている。大局が見えにくい分だけ既得権や部分利害が働きやすい。しかし既得権の束をそのまま政策ですということは国民主権の建て前に矛盾する。そこで、巨大な部分利害の束を「国民の合意」に見せなければならない。そう見せることを世論操作というのです。
この場合何といってもマスメディアが独占状態にあることは強力な手段になります。PR! A Social History of Spin は、米国についてこうした権力メカニズムを組み込むことがすでに20世紀はじめから不可欠になっていたということを実証した本です。
Spin という語について、米国の雑誌で読んでいるから意味はわかるけど Astroturf のように直感的にイメージが立つものにしてみてよ、というぼくの要求にユーエンが答えてくれたものが以下です。Part of the fascination of spinning a toy top, is that it provides the sensation of an inanimate object appearing to take on life, seemingly standing by its own power. Correspondingly, spinning an event is an attempt to make an inanimate "reality" assume an aura of true life. Does this analogy help?
明確な説明ですね。大衆民主主義は死に瀕して動くこともできないのです。だから spin doctors が禿げ鷹にように跋扈するのです。禿げ鷹が跋扈するので生きているように見えるわけです。米国同様に社会学がこの一部にはなりたくないですね。この本の翻訳にはまだ取りかかれませんので、当面同じ著者の『浪費の政治学』(晶文社)をどうぞお読み下さい。
「これでは国民主権という言葉が無意味になるのではないか」(H.e)「国民主権という言葉があることによって悪質な政治が出来ぬよう防いでいることはあるように思う」(F.c 前出)。他に同様のものが数通ありました。ユーエンはメディアとデモクラシー会議で次のような主張をしています。メディアは公共財ということは誰も肯定する常識であす。それならこれを独占している米国3大広告代理店およびこれを広告に使用した企業は広告費の25%の使用料を支払うこと。この使用料はすべて国民管理のもと公的教育費に充てる。詳細は Archie Bishop のリンクにあります。
実際にやるつもりかどうか尋ねていませんが憲法訴訟の争点になりうる論拠です。実数を出さないとぴんと来ないかも知れませんが、今かりに日本での数値で代用すると、年間広告費6兆円の25%は1.5兆円です。大学教育を完全に無料化するに足りる額です。F.c が言われる通り国民主権は最悪を防ぐことに役立つことにぼくも同意しますが、同時にこのような積極的主張を(中坊氏と豊島産廃のように時間と労力は大変かかるけど)作り上げる方向にも行使できる、という面があります。そのためにはありとあらゆることを根元から深く知り抜いた優秀な国民が必要なのです。なお関連したことをこの末尾でもう一度別の角度から述べます。世論操作に関連してalternative media ということにも目を向けておきます。 The Sixties はなぜブルースやPPMが注目されたかというと、これらはまったくマイナーな金に無縁のメディアの産物だったからです。それほどメディアの最大問題は独占だということです。金と縁のない alternative media を志向したらこれらが存在しただけで、別に若者が急にロック好きになったわけではないのです。alternative TV or movie を目指す動きも当然ありました。後者に関してアンディ・ウオーホールのような「終わり悲しき」人物のことなど語れば尽きないですがすべて省略します。その代わり、alternative media は日本でもっとも無視されたことを述べておきます。
上記した優秀な国民ということに関連して、相当の数を占めたのは中流階級という問題に関するものでした。「中流階級について述べたことは日本でも当てはまるか」(H.f)とか、「権力機構を担うことは責任もともなうはずだ」(F.g)とかの疑問や見解などです。
ぼくが中流階級について述べたのはつぎの3点でした。1)公的には政府であれ企業であれ制度からなる権力機構の何がしかの部分になる。2)私的には大量消費社会の循環を支える個人消費者である。3)だから、心理的には制度と経験(職業と余暇、仕事と私生活など)との乖離を避けることが難しい人間でる。この3つは奇妙な相互補完関係に立っています。制度の一部だが全部には遠いから届かなさがある。経験は直接的でそれなりにリアルだが通り過ぎる。この餓えを癒すのに何か形あるものを手にしたくて大量消費を重ねるというように。
日本に当てはまるかどころでなくぼくは社学の学生諸君が勉強と遊び、講義とサークルなどの二分法をマスターして、学生時代に卒業後の生活の練習をしていたなどということにならないようにと心から願っている状態です。C.W.Mills が『ホワイトカラー』を書いた時代にはこの中流階級の比率は今より遙かに少なかったのですが内容はそのまま当てはまり、さらにそれどころか比率が増加するにつれて現代の権力の中の問題の深刻さが浮き彫りになりました。中流階級は前世紀の成上り者ブルジョワに比べればプロレタリアに等しく、主権者の責任を果たすには貴族より聡明かつ無欲であることが要求されるような存在です。ぼくが諸君に折々貴族の子女のような名誉心を要求するのはいささかこのことを伝えたいからです。小なりといえども権力機構の一部であるからにはF.gの言う通り責任がともなうはずです。私企業の社員であれ地方公共団体の管理職であれ、背任汚職はもってのほかなのは言うまでもないが、その責任の取り方において、2つのよくある解決法が存在します。
1)中枢部に及ばないようにする。ノンキャリアの係長・課長は秘かに自殺要員と覚悟するとも聞きおよびます。ここが自殺すればそこから上には捜査が及ばなくなるから。
2)身近な対策に置き換えてしまう。例のガイドラインです。交際・供応費の限度額を決めるなど。無意味とは言わないが、これだけで行政機構の抜本的開放や私企業の社会的責任の重視になるとは思えないでしょう。責任の取り方がこのような俗耳に入りやすいものだけでないことを知らしめる必要があります。重要な問題が最後になりました。最も多くの方々が金と権力、関連して効率という問題に深刻な懐疑を表明していました。「市場原理が働くとはいえ公僕たる権力が金で動くことが問題だ」(H.h)。現代の問題の多くが「産業社会の効率主義、非効率なものや人間を排除するメカニズムに起因している」(F.i)。
人間には市場原理と効率主義に馴染まない、馴染ましてはならないものがたくさんあります。端的な例は研究や教育です。アメリカンサイエンスはこの意味でも重大な汚点です。その他にぼくたちが見逃しがちな重要なものをひとつだけ上げておきます。食糧という生き物の生産です。農業や牧畜は国際市場で取り引きされる最重要商品を構成していますが、自然が直接相手のこれらの生産は本当は市場原理に全然適していないものです。それに比較すると工業社会になってからぼくたちは市場適合的な余計なものを作りすぎているといえます。「いつの時代も政治的解決は完全なものでも最終的なものでもありえない。政治は本来中途半端なものだから。対立や紛争を解決し秩序を維持するには一時的で不完全な解決を積み上げていくことが必要になる。政治の曖昧さは自由のコストともいえる。だがしかし、政治が一時的で不完全な解決以外の何ものでもないとすれば、政治に対して不断の批判が加えられなければならない。この考えをどう思うか」(H.j)。これは19世紀英国などに代表的な古典的民主主義論で、不完全だから不断の批判が必要というリアリズムは貴重なものです。
だが、20世紀にはさらに2つの点を追加して見直すことが必要と考えます。
不完全な解決とは当事者が完全には納得できないということでもあります。仮に当時の英国であれば、そのはけ口はアジアなりアフリカなり、人間でない人間が住んでいると考えられた土地に行けば何とでもなりました。しかし20世紀、特にその後半にはこのような余地は無くなりました。分かりやすい例として国民国家内に有害な企業または産業のようなものを考えてみて下さい。国内で咎められても19世紀なら平気で国外に輸出して外貨を稼ぎ経済に貢献したことになるでしょう。20世紀では難しいことです。
政治のことを日本では時折、「足して2で割る」と表現します。20世紀の大衆民主主義においては権力はこうではなく、「足して2で割って付録を付ける」にならないと当事者を承服させられないのです。残念ながらまだ主権者は往々責任の行使より権利の要求をより好みますから。
この付録は、20世紀末に至っても工業化による経済成長が吸収してきました。経済と政治は(つまり金と権力は)こうして手を取り合い前者の肥大を助長しました。近代国家の歴史は、人間社会が自然の制約を振り切り、あらゆる人工的規範の砂上楼閣の上に築かれていたことを次第に露呈させてゆく過程でした。この状態を例えていうと、初心者が乗った自動車のように右に左にフラフラとハンドルを切り過ぎながら、なおかつ止まるに止まれず加速しながら走っているようなものです。
したがって貴君のいう批判は、もはや政治というものに対してだけでなく自分自身を含むあらゆる根本的なものに向けられる必要が出てきているのです。それができる深い英知を持った人間たちが大勢いることが切実に必要なのです。