この図版は、日本の印刷・版画の歴史的トピックから選んだものである。時間的順序で言えば、この図版の前に、「本の歴史――国会図書館・ディジタル貴重書展」で見られるような歴史があり、それから、ここで見せる江戸時代特有のヴィジュアル本の文化がある。時間的な順序を追って見る場合は、まず本の歴史――国会図書館・ディジタル貴重書展を見た上で、この図版を見た方が、よりわかりやすい。
流れが分からない場合は、年表を見るとよい。
以下の図版は様々な資料から写したものだが、講義用に使う図版なので、クレジットは入れなかった。個人の学習以外に、出版物への掲載や営利目的に転載しないでほしい。使いたい場合は、所蔵者をこちらに問い合わせるように。
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黒本『煙草恋中立(けむりぐさこいのなかだち)』(1725〜60)
黒本は江戸に起こった絵本。ここに見えるような煙草とキセルの抗争事件など、荒唐無稽な話が多く、その絵の使い方や発想法は、後の黄表紙のもとになった。

黄表紙『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』(恋川春町・1775)
黄表紙(「青本」とも呼ばれた)はいわば「SF漫画」である。江戸の駿河小島藩邸に暮らす小島藩の武士、倉橋格が、恋川春町(こいかわはるまち)という名前を使って、江戸でこの「黄表紙」というジャンルを作った。これは、黒本・赤本など子供向きの絵本を、大人が読んで面白い大人向きの漫画に作り替えたものだった。倉橋格は同時に酒上不埒(さけのうえのふらち)という狂歌師でもあった。
黄表紙は大人が読むものなので、黒本より字数がかなり多くなっている。黄表紙最初の作品であるこの作品は、江戸で一旗揚げようと農村から都会に出てきた若者の話だ。黄表紙はSFのような極端なフィクションでありながら、常に時代を反映していた。

黄表紙『無益委記(むだいき)』「大通と初がつお」(恋川春町・1781?)
黄表紙のSF的側面はこのような作品に現れる。「むだいき」という題名は、「無駄な未来記」という意味。つまり未来を描いたSF漫画だ。左側に歩いている二人の若者は、今から遊郭に行くところ。ちょんまげが棒のようになっている。この時代、髷は細く長くするのが流行だったので、このままどんどん細く長くなると未来にはついにこうなる、という予想図である。長い羽織や太い帯も同様。脇をかつお売りが通って行く。5月から売るはずのかつおは、初物買い好きの日本人があまりに多いために、とうとう暮れに売り出すまでになり、一尾の値段は今で言えば億の単位にまでなる、という未来予想である。

黄表紙『無益委記』「女が強くなる」(恋川春町・1781?)
女が強くなって何もかも逆転し、遊郭では女の金持ちが男の遊女(遊男)を買う、ということになってしまった、という未来図だ。ちょんまげのまま女装する、というあり得ない図が気味悪い。

黄表紙『無益委記』「高齢化社会」(恋川春町・1781?)
これは、世の中が高齢化社会を迎え、若者の領域だった遊郭が老人ばかりになる、という未来図。

黄表紙『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』(山東京伝・1782)の夢
この黄表紙は、うたたねの夢に流行の本たちが登場して、誘拐事件やメディアの攻防を繰り広げる、という黄表紙である。人間でないものが人間の姿をして出現するのは、黄表紙のひとつの特徴。山東京伝(さんとうきょうでん)は、恋川春町の発想をもっともよく受け継ぎ、さらに大胆な発想でストーリーを作った黄表紙作家だった。

黄表紙『御存商売物』(山東京伝・1782)の本たち
メディアが町を歩いている図。黄表紙(漫画)、細見(さいけん・ガイドブック)、赤本黒本(子供向け漫画)、錦絵(にしきえ・全カラー印刷浮世絵)そして、様々なゲーム類が歩いている。山東京伝は浮世絵師、作家、デザイナー、コピーライター、たばこ入れ店の経営者など、様々な顔をもった天才だった。これほどリアルに面白く当時のメディアの攻防を描いた作品は、他にない。この本はその年の書評で最高の評価を受けた。

黄表紙『人心鏡写絵(ひとごころかがみのうつしえ)』(山東京伝・1796)
この時代、レンズの普及にともなって、レンズを通すと心の中まで見える、という黄表紙が作られた。新しい機器による新しい人間の見え方をいちはやく黄表紙にしたのは、山東京伝だった。まさにSF漫画である。

黄表紙『朧月猫の草紙(おぼろづきねこのそうし)』(山東京山・1845)
山東京伝の弟、山東京山の黄表紙。登場するのはすべて猫。こういう奇妙さも黄表紙的世界。

黄表紙『悪言鮫骨(あくたいのきょうこつ)』(山東京伝・1785)
山東京伝の作ったシュールな世界。悪態をつくと、そのとおりのことになってしまう。これは、「顔に祭が通る」「祭がつかえる」という喧嘩用語がそのまま実現されたところ。

『小紋雅話(こもんがわ)』「本田鶴」(山東京伝・1790)
山東京伝の着物の文様集の中のひとつ。ジョークとしての文様だ。右上は、流行の髪型をした男たちが歩いているところを、頭の上から見た情景を文様化したもの。一見鶴に見えるが、「ほんだ」という書入れで気が付く。「ほんだ」は当時、最新のヘアスタイルの名称。

『小紋雅話』「なべぶたつなぎ」(山東京伝・1790)
同じくジョーク文様集の中のひとつ。いちばん右はなべのふたが散らされている文様だが、ふたの下から何かが出ている。脇に「地ねずみに染めてよし」と書いてあるところで、気が付く。これはねずみのしっぽだ。台所で料理の最中、ねずみが出てきた。思わずなべのふたでおさえた。が、その後どうしたらいいか。おさえつければなべのふたは汚れ、放せばねずみが逃げる。そういう、にっちもさっちも行かない状態を文様化したもの。

『腹筋逢夢石(はらすじおうむせき)』(山東京伝・1810)蝶々
逢夢石というのは、芝居のせりふ集のことである。おうむのように真似をするためにあったからだ。カラオケの歌舞伎版である。この本は、動物をたくさん登場させる中国の演劇(京劇など)にならって、様々な動物の物真似を絵本にしたもの。いわば、身体によるカラオケ教本である。座敷芸としてできるようなマニュアルになっている。大のおとなが真剣に遊ぶのが、江戸だった。

『腹筋逢夢石』(山東京伝・1810)蛇
同じく身体カラオケ教本。大まじめで蛇を演じているのがいる。おなかが出ているので、「かえるを呑んだ蛇」とからかわれている。

『御慰忠臣蔵之攷(おなぐさみちゅうしんぐらのかんがえ)』(馬琴・1798)
絵と文字の合体だけでなく、文字を絵にしてしまったものも作られた。絵を駄洒落で解いて、言葉に変換しなければ、読めないようになっている。

『和唐珍解(わとうちんかい)』序文(唐来参和・1785)
洒落本をジョーク化した本。洒落本はもともと中国の艶本から来ているので漢文が多く、知識人のための娯楽本だった。これはその特徴を使って、長崎の遊郭で繰り広げられる会話を、日本人と中国人に分けて表現したもの。序文は、漢字をはさんで両ルビで書かれた。カタカナは福建方言の中国語、平仮名は日本語訳である。

『和唐珍解』本文(唐来参和・1785)
同じ本の中身。洒落本は会話で書かれている本である。このままカタカナを読めば、中国語会話ができる。日本の書物が活字を捨てて版木で発達した理由のひとつは、このようなルビの活用が必要だったからである。漢字とルビの組み合わせは、非常に多くの情報量をもつことができた。

『唐詩選画本(とうしせんえほん)』
むずかしいはずの『唐詩選』も、日本の市場に入ると楽しい絵本になる。文庫本とほぼ同じサイズで売られた『唐詩選』はベストセラーだった。さらにそれが絵本になり、様々な書体で印刷された。

『唐詩選画本』
別の頁は別の書体で書かれている。このように、文学の本でも、ヴィジュアルの要素をふんだんにもっていたので、武士以外の庶民たちの教養もいちだんと高まった。

黄表紙の表紙
江戸時代の出版物は表紙に凝った。

続き表紙(2冊)
出版業は様々な商法を編み出した。2冊買ってはじめて一枚の絵になる。

続き表紙(3冊)
3冊買って、はじめて一枚の絵になる。

貸本屋
店をかまえる本屋(出版元)の他に、各家をまわる貸本屋が活躍していた。

芝の和泉屋市兵衛
当時の本屋は、小売業者と出版社が一緒になっていた。

通油町の鶴屋喜右衛門
色彩版画の表紙や浮世絵を売っていたので、店頭は美しかった。貸本屋がまっさきに仕入れにくる。

通油町の蔦屋重三郎(耕書堂)
山東京伝、写楽、歌麿、北斎、十返舎一九を育てた、著名な版元である。

絵草子屋
本屋は、浮世絵や戯作を出版する「絵草子屋」と、漢文、学問、和歌の本などを出す「物の本屋」に分かれていた。もちろん、多くの庶民が絵草子屋に行った。

墨摺り(1690頃〜)の例「中村源太郎の道中姿」(清信)
浮世絵はもともと、肉筆(手で描く)の屏風や、白黒印刷の本の挿し絵から発達した。版画(印刷)の浮世絵はこのような白黒の時代が長い。

丹緑本(たんろくぼん・手彩色 1600頃〜)の例「貴船の本地」
色が欲しいときには、そこに筆で色を入れた。

丹絵(たんえ・1682頃〜)の例「八百屋お七」(政信)
手彩色の一枚絵

紅絵(べにえ・1716頃〜)の例「吉原仲之町」(政信・浮絵)
紅を使った手彩色

漆絵(うるしえ・1716頃〜)の例「忠臣蔵」(政信・浮絵)
にかわで漆様の光沢を出した手彩色

中国遠近法と浮絵の事例
浮世絵の印刷技術上の発達と、構図の変化に、中国大衆版画の影響があった。ヨーロッパの遠近法は中国を経由して日本に入り、浮世絵師は盛んに遠近法を使った。

紅摺絵(べにずりえ・少数色の色彩版画 1731頃〜)の例「鳥追い」(豊信)
ようやく、少ない色数なら、印刷で出せるようになった。

絵暦(えごよみ)・富士山
さらに色数が増してゆく過程で、絵暦(絵入りのカレンダー)の作成が関与した。

絵暦・鶏貴族
江戸時代は曜日がないので、一年を一枚の絵で表わすことができた。その年の大の月(30日)と小の月(29日)を示すのが、カレンダーの役割だった。数字を絵の中に隠し込んで遊んだ。

『芥子園画伝(かいしえんがでん)』(1701)
浮世絵の技術の上では、絵の手本として作られた中国のカラー印刷本の輸入が大きな影響を与えた。

<『蘿軒変古箋譜(らけんへんこせんぷ)』(1626)
中国の便箋印刷の技術も浮世絵に多大な貢献をした。これは、色を使わず紙のエンボスだけで形を印刷してある。

春信「夏は来ぬ」
紙にエンボスをする技法は、浮世絵の多色摺りの完成とともに、浮世絵に持ち込まれた。白い部分は紙に凹凸をつけているだけで、色をつけていない。また構図も、中国の蘇州版画の構図と同じである。女性と子供がともに出てくる浮世絵もこのころから出現するので、中国版画の影響を受けたと思われる。

鈴木春信(はるのぶ)「絵暦・清水の舞台から飛び降りる美人」
日本ではじめて多色摺り(どんな色でも重ねながら印刷できる技術)を完成した鈴木春信の絵暦グループは、これを「吾妻錦絵(あづまにしきえ)」と呼んだ。江戸の技術がようやく、上方を超えたからだった。春信浮世絵の登場人物は、体重がないかのように、空中にただよう。

春信「見立達磨」
達磨は葦の葉に乗って、インドから中国へ仏教を伝えたとされる。春信浮世絵はそのような古典の話を、すべて女性の姿にして物語った。それを「見立て絵」という。やはり、体重がない。

春信「調布の玉川」
春信浮世絵のもうひとつの特徴は、躍動的なところにある。動きが身体をエロティックに見せた。

蘇州(そしゅう)版画と春信
春信浮世絵には、中国の蘇州版画と構図の酷似したものが相当ある。浮世絵はヨーロッパ、中国など、多彩なものに影響されて作られたのである。

鈴木春重(はるしげ)「楼上縁端美人図」(春信落款)
春信の偽物、とされる。描いたのは鈴木春重を名乗る絵師だが、この人物は日本史上に残る学者となった。この絵でも、遠近法を使っている。

司馬江漢(しばこうかん)「両国橋」
鈴木春重は、後に司馬江漢と名前を変えた。司馬江漢はアジアで初めて、自力で銅版画を完成させた絵師である。銅版画は化学薬品を使う「エッチング」だった。

司馬江漢「西洋樽造図」
司馬江漢は、西欧の図版を学び、西欧の職人の絵を描いた。

司馬江漢「顕微鏡昆虫図」
司馬江漢は天文学をはじめ、昆虫図、機器類の実験などを行い、多くの著書を残した。浮世絵師が蘭学者になり得る時代だった。

森島中良(ちゅうりょう)『紅毛雑話』ぼうふら(1787)
森島中良は、幕府藩医、桂川家の人間である。ヨーロッパの図鑑類を学び、それ写しながら著書を書いた。

森島中良『紅毛雑話』蚊(1787)
前の図版とこの図版は、多くの人の眼に触れたらしく、戯作に取り入れられることになる。

合巻『松梅竹取談(まつとうめたけとりものがたり)』(山東京伝・1809)
その戯作とは、山東京伝の合巻、『松梅竹取談』である。専門的な蘭学書の図版が戯作に応用され、顕微鏡で見たために虫が巨大化し、人間を襲う、というSF漫画となった。

黄表紙『御存商売物』路上の浮絵(山東京伝・1782)
江戸時代は「レンズの時代」だ。望遠鏡、顕微鏡(実際は拡大鏡)、各種の眼鏡のほか、大道では「浮絵」という見世物が出ていた。遠近法の絵画が箱の中に置かれ、レンズを覗くとそれが3次元ヴァーチャル・リアリティとして見える、というエンターテイメントである。この黄表紙の絵では、ろくろっ首の向こうに、西洋の都市図が置かれている。ドレスを着て犬を連れた西洋の女性まで見える。

黄表紙『時代世話二挺鼓』八角眼鏡(山東京伝・1788)
各種のレンズの中に、「八角眼鏡」というものがあった。今でいう万華鏡である。映像が八重に見えることから、この黄表紙は、「八角眼鏡」を使ったら敵も見方も8人になってしまった、というSFである。

黄表紙『栄増眼鏡徳』(恋川行町作・北尾重美画・1790)
眼鏡をかけると、その中に見える映像が現実になる、というSF漫画(黄表紙)が各種出現した。これは、家が広くなってしまった、という図。

黄表紙『福徳寿五色目鏡』遠方(桜川慈悲成作・豊国画・1797)
同様に、これは、眼鏡をかけたら富士登山をしている人や、遠くに住む親戚や、相撲が見えた、というもので、「テレビ」というものの出現を予言している。

黄表紙『福徳寿五色目鏡』夢(桜川慈悲成作・豊国画・1797)
これは前の絵と違って、まだこの世に現れていない。眼鏡をかけたら、見たい夢が見られる、というSFである。

狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(歌麿・1788)
江戸では、絵と文字が合体したメディアが非常に発達した。「狂歌絵本」はカラー浮世絵に狂歌を入れたもので、もっとも美しい絵本である。蔦屋重三郎は狂歌絵本の出版に力を入れ、そこから天才的な新人浮世絵師を排出した。この『画本虫撰』は、蔦屋重三郎が無名時代の歌麿を、有名狂歌師たちと一緒に組み合わせてデビューさせた記念碑的な作品である。植物や昆虫が写真のように詳細に描かれている。歌麿は非常にリアルな博物学的な絵を描く絵師だったことがわかる。

狂歌絵本『隅田川両岸一覧(すみだがわりょうがんいちらん)』(北斎・1801〜06)
この狂歌絵本は北斎によって描かれた。本の頁をめくるたびに、隅田川の流れに沿って川岸を歩いているような気持ちになる本である。とくに両国橋界隈の活気が見事だ。

『名所江戸百景』(広重・1856〜58)
江戸時代は全国の名所が浮世絵に描かれた時代だった。江戸の絵もたくさん描かれたが、広重の右に出る者はいない。その中でもこの絵は変わっている。日本橋の欄干と擬宝珠(ぎぼし)だけが描かれている。が、よく見ると向こうに江戸橋が見え、右下の隅に、桶に入った鰹(かつを)がちらりと見える。初夏の朝、魚市場から初鰹を仕入れて町に向かう魚屋を、配置したのである。まるで写真のスナップショットのように、広重は一瞬の人間の動きと時間の経過を、空間の中に表現したのだ。

『通俗水滸伝豪傑百八人』「旱地忽律朱貴」(国芳・1827〜)
1765年に色彩浮世絵が始まって以来、江戸は、世界でもっとも優れた版画印刷の実験を重ねていった。それは市場の厳しい評価によって発達した。そのひとつの頂点が国芳である。国芳は色彩を駆使して新しい世界を次々と作って行ったが、水滸伝の浮世絵化により、日本に新しい「水滸伝」イメージを定着させた。

『通俗水滸伝豪傑百八人』「浪裡白跳張順」(国芳・1827〜)
それは、色彩刺青の流行という思ってもみなかったものを生み出す。刺青は本来、中国でも日本でも東南アジアでも単色で、小さな文様や字を彫るだけだった。カラーの大規模な刺青は、世界で初めて、このシリーズから始まったのである。
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