*日本への絹織物技術の導入は、ヨーロッパ諸国や東南アジア諸国より早いが、朝鮮半島やヴェトナムより遅い。
*日本が絹の技術習得に熱心なころ、中国はすでに木綿の技術習得に力を入れていた。日本が木綿の栽培をはじめるのは16世紀になってから。
*15世紀は日本の養蚕、絹織物がもういちど関東に拡がってくる時期だが、武蔵はそのなかに入っていない。
*多摩は滝山城下町ができる16世紀前半になって、市を中心に紬を商業化していったようだ。それまでは、家庭の必需品として織られていたか。
*1569の滝山城落城、1590の八王子城落城をきっかけに、市の活性化が見られる。日本全体が、鉄砲と銀をめぐる攻防を繰り返している。そのころ、アジアはスペインが南米銀を持ち込んだことで、大きな経済変動を迎えていた。日本人も東南アジアで貿易を展開。巨大な購買力でアジアの経済を動かしていた。
*絹の輸入制限がなされる前に、すでに国内市場を通じて多摩の紬嶋は知られていた。16世紀末からの莫大な輸入がかえって国内産業を活発化させている傾向が見られる。
*17世紀前半のオランダ東インド会社のインドでの木綿買い付けのうち、東南アジア向けのものがジャカルタに入り、日本にも売られた。しかしこのころはまだ、生糸絹織物が8割を占めていた。
*17世紀後半に展開される和糸生産の開発と流通、江戸の呉服商が地方の生産物を買い始めたことを受け、多摩地区では女性たちが養蚕、紬嶋の織り、木綿織りを日常生活とするようになっていく。現金収入を得るようになる。
このころアジアは木綿交易のピーク。日本もインド木綿をかなり購入している。
*18世紀前半の多摩は、市場独占の動きや反発、シェアの奪い合い、活発なせりなどの動きが出てくるようになり、かなり取り引き額が多くなっている様子。 日本は銀輸出の禁止のため、生糸の輸入量がどんどん減り、最後は朝鮮貿易でカバーするが、とうとう、和糸に転換する。そのため、江戸の業者はどうしても地方の品物が必要になる。木綿布もまた、インド木綿の模倣品が作られ普及する。
このころ、東南アジア各地も独自生産に入って、外のマーケットを求めて活発化している。ヨーロッパは、イギリスとフランスがインド布の輸入制限をするがききめなし。
*19世紀前半は、ヨーロッパの養蚕と絹生産のピークだったが、1853年に繭の病気のために生産が落ち込む。日本の生糸輸出は当初、それに乗ったもの。
木綿は機械化がすすみ、インドを植民地化して巨大マーケットとみなし、搾取がはじまる。
多摩の織物年表
日本の織物年表
世界の織物の概観
総合年表
参考文献紹介
A comparative study of textile production and trading from the beginning of the 16th century to the end of the 19th century
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