日本の織物年表

 
紀元前2〜3C  絹織物が中国から伝来

100ぐらいまでのあいだ  日本製絹が作られるようになる

200年代前半ごろ  朝鮮半島からの渡来人によって織絹技術が伝えられる

4〜5C  中国と朝鮮の渡来人が大量に移住

668  高句麗滅亡。王族が亡命し、高麗氏を名乗る。今までの高句麗人たちは、狛、大狛を名乗るようになる。

8C〜  京都の市には、羅、糸、錦、絹、綾、紗などを扱う業者がいた。また宮中には織部司と縫部司とがいた。織部司の中の文様織りを担当する挑文師(あやのし)は、地方に派遣されて指導にあたっていた。

1052  この年に成立した『新猿楽記』では、安波の絹、越前の綿、美濃の八丈、常陸の綾、紀伊国のかとり、石見の紬が書かれている。

13C  京都の市には、大舎人織手座、練貫座、小袖座、帯座、絹座、糸座があった。

1229  堺に中国の唐綾織の技術者が来ていて、京都から多くの織手が堺を訪れ、その後、京都で唐綾織が盛んになる。

1392  南北朝合一。

1407  「長講堂領目六」には、絹、糸、真綿を年貢として納めている地名として、尾張、美濃、遠江、但馬、出羽、加賀、丹波、越後、越前が記載されている。

1402  義満、日本国王となる(1408死去まで)。勘合貿易での輸入品の筆頭は生糸、絹織物だった。

1418〜  朝鮮の木綿生産が急成長を遂げ、朝鮮王朝から日本の使者への回賜品の中心が綿布になる。

1426  朝鮮半島に日朝貿易のための三つの港「三浦」成立。

1429  中山王、琉球統一。

15C後半  日明貿易によって堺に巨額の商業資本が蓄積される。

1467  応仁の乱が始まり、織工たちは地方に分散。

1469  このころできた『節用集』には、養蚕や機織りが盛んな地名として、1407年の記録に加えて、上総、常陸、信濃、上野、能登、丹後、因幡、伯耆、出雲、播磨、備前、伊予、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅があがっている。関東、九州、四国などに普及していることがわかる。

1477  応仁の乱が終わり、西軍が陣をかまえていた場所で綾織りを再開する。

1479  筑前国の資料に、日本国内生産木綿の初見(『金剛三昧院文書』)

1526  博多商人・神谷寿禎、石見銀山の採掘。

1532〜  風流踊り全盛期。1555ぐらいまでに、綿の種が朝鮮経由で入る。

1533  神谷寿禎、石見銀山で、朝鮮の灰吹き法による精錬に成功。

1538  日本銀の多量輸出はじまる。17世紀はじめには年間20万キログラム、世界の生産量の30ー40%を供給。

1542  生野銀山開発。このころから唐木綿の輸入増加。

1543  ポルトガル人を含む中国船の種子島漂着事件。この後から、ポルトガル人による中国生糸、絹織物の売り込みが盛んとなる。

1549  ザビエル、王直の倭寇船で来日。

1550  50年代に、紋織りのできる高機が中国から西陣に導入される。

1571  長崎開港

1576〜  金銀襴、緞子、繻子、辻が花、薩摩がすりなどが、はじまる。

1584  スペイン商船が平戸に来るようになる。生糸、絹織物を持ち込む。

1585  秀吉、関白となる。

1588  秀吉、海賊禁止令。日本人の南海進出はじまる。

1590〜  生糸購入の目的で、中部ヴェトナム(交趾=広南)への日本船が急増する。

1593  マニラのディオラに日本人町建設。

1600  リーフデ号の漂着によって、オランダ、イギリス商船とかかわるようになる。

1601〜03  家康、フィリピン、ヴェトナム、カンボジアに、朱印船制度を通告。

1603  江戸幕府。おくに、北野神社で傾き(かぶき)踊りをはじめる。

1604  糸割符制度できる。ポルトガル船の持ち込む白糸の価格決定の購入は京都、堺、長崎の商人に限られるようになった。

1608  遊女歌舞伎全盛。

1620  このころ、ヨーロッパ各国は生糸絹織物の熾烈な日本への販売合戦を展開していた。

1624  スペイン人の来航禁止。フィリピンと国交断絶。美濃、近江の和糸が京都へ入るようになる。

1633  日本、奉書船以外の海外渡航を禁じ、帰国を制限。このころ、在日華商が中国、台湾、ヴェトナム、日本のあいだを行き来している。

1636  この年、オランダ船から購入した品物の80、4%が生糸と絹織物で、毛織物が5、5%、綿織物が0、9%、麻布が0、5%、繊維の合計は全体の87、7%だった。(『オランダ東インド会社の歴史』

1639  日本、ポルトガル人の来航を禁止。一方幕府は対馬に対して、薬種、糸、反物の朝鮮からの調達を依頼。
1644  明、滅亡。

1646  このころの長崎貿易の利益の46%はヴェトナム産生糸(東京および広南)の輸入による。しかしこの後、次第にベンガル生糸がヴェトナム生糸を圧倒。運び手はオランダ東インド会社。(『アジア交易圏と日本工業化』)

1655  糸割符制度廃止。このころから、諸国より和糸が京に入るようになる。     
1660  このころ、日本はまだおびただしい銀輸出(生糸の原価高騰にもかかわらず輸入量が落ちないため)

1661  鄭成功、台湾に上陸。このころまで、鄭芝龍、成功父子は中国の生糸絹織物を日本に売ることで莫大な利益を得ていた。オランダは台湾を失うことによって、白糸の供給ルートをなくす。

1668  日本、銀輸出の禁止。

1673  越後屋、江戸に出店。

1685  銀輸出をおさえるための長崎貿易制限令。中国およびオランダとの取り引き上限額を定める。

1687  越後屋は、綿店を設け、関東絹織物、木綿織物の産地直入をはじめる。

1688  日本に寄港する中国船のピーク。193隻を数え、長崎に降りた中国人は約9128人。寄港中国船数を70隻に制限。

1689  長崎唐人屋敷設立。和糸問屋はわずか9軒。

1692  稲生若水『炮炙全書』=日本産物の記述。このころから、国産へ向かって、本草学調査が盛んになり、都市では植物栽培が盛んとなる。

1695  西川如見『華夷通商考』二巻本刊行。

1696  宮崎安貞『農業全書』(日本初の農書)。

1697  江戸の呉服商17店のうち、すべてが京都の店。

1698  定められた額以上の中国生糸の買い取りを禁止。

1700  京都の庶民人口のうち21%強が西陣関係で生計を立てていた。

1702  日本で最初の蚕書、野本道玄『蚕飼養法記』出版。この後、幕末まで約100冊の蚕書が刊行される。

1705  (1636と要比較)この年にオランダ船から購入したものは、生糸絹織物が43、3%、毛織物が2、5%、綿織物が20、7%で、繊維は全品目の67、2%だった。

1707  西川如見『華夷通商考』増補五巻本刊行。

1713  幕府は京都の織物屋に和糸を用いるよう命じ、諸国には養蚕製糸を奨励。問屋も遠隔地の農家に仕入れに行くようになる。

1715  このころ、京へ入る関東の和糸が近江の和糸に迫る量になる。ただし、下糸であった。

1716  このころ西陣で使われた、長崎・対馬を合わせた舶来糸は全体の58%で、残りは和糸だった。

1730  1684からこのころまでは、対馬藩の白糸輸入が長崎貿易をしのぐ。この白糸は西陣に運ばれた。

1731  和糸問屋が22軒になる。

1734  幕府指導による諸国産物調査はじまる。産物記は現存170点。

1735  和糸問屋が34軒となり、株仲間を構成。

1736  これ以後、上田、加古川、結城で輸入品に劣らない品質の和糸が産出される。

1738  西陣の織工が高機による織物技術を桐生に伝える。その後桐生から紗綾、綸子その他の高級織物が京都へ入るようになったため、西陣の訴えで搬入が制限された。

1750  朝鮮への銀輸出禁止

1779  (1697と要比較)江戸の呉服商のうち、14人が京都商人、6人が関東織物の仕入屋、8人が新興商人。

1790  京都から桐生へ紋工が入り、先染めの彩糸と紋織を伝承する。

1799  オランダ東インド会社解散

1803  『養蚕秘録』刊行。後にフランス語版が出される。

1814  このころ東北とくに福島、関東の和糸が長浜を通って大量に京へ入る。

1858  日米通商条約調印の結果、外国商人が国内相場の2〜4倍で生糸を買い出した。

1860  横浜開港。日本の生糸輸出額の60%が横浜から輸出された。輸出先はフランス、イタリア、ヨーロッパ経由でアメリカ。

1861  横浜で生糸の売り込みを行う商人が約100人いた。幕府の「五品江戸廻送命令」=雑穀、水油、蝋、呉服、生糸を横浜へは持ち込まず江戸の問屋を通して輸出するよう命令したもの。翌年には廃止。一人一日、生糸一五〇斤以上売ることが禁止される。数年後に廃止。

1862  蚕種の輸出が禁止される。翌年廃止。

1865  幕府より、輸出生糸、蚕種紙に手数料を払い改印を受ける命令が出される。

1867  (1779と要比較)江戸の呉服仲間108軒のうち、66%が江戸商人、21%が京都商人、残りは近江その他。しかし売上高は越後屋が群を抜いていた。無株の上位の商人で、越後屋平均売り上げの2%。

1868  生糸と蚕種とで、輸出総額の三分二を占めた。

1870  生糸の品質改善についての警告が出る。

1871  田畑勝手作許可の法令が出て、田にも桑を植えることができるようになった。

1872  政府より生糸の値段維持の通告があった。

1874  このころから、士族の職業として養蚕、製糸、機織が奨励され、各地に授産所ができる。

1876  1868年の2倍以上の生糸輸出量になる。富岡製糸工場ができる。このころの機械製糸工場は全国で87ヶ所。

1879  このころ、ヨーロッパではまだ、日本生糸は中国生糸より安く売られていた。品質が劣ったためである。

1888  綿布ひとりあたりの消費量は、1874年の2、1倍になり、国内生産量は1、5倍となった。

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参考文献紹介

A comparative study of textile production and trading from the beginning of the 16th century to the end of the 19th century

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