1590〜 生糸購入の目的で、中部ヴェトナム(交趾=広南)への日本船が急増する。
1600 リーフデ号の漂着によって、オランダ、イギリス商船とかかわるようになる。
1601〜03 家康、フィリピン、ヴェトナム、カンボジアに、朱印船制度を通告。
1603 江戸幕府。おくに、北野神社で傾き(かぶき)踊りをはじめる。
1604 糸割符制度できる。ポルトガル船の持ち込む白糸の価格決定の購入は京都、堺、長崎の商人に限られるようになった。
1620 このころ、ヨーロッパ各国は生糸絹織物の熾烈な日本への販売合戦を展開していた。
1624 スペイン人の来航禁止。フィリピンと国交断絶。美濃、近江の和糸が京都へ入るようになる。
1633 日本、奉書船以外の海外渡航を禁じ、帰国を制限。このころ、在日華商が中国、台湾、ヴェトナム、日本のあいだを行き来している。
1636 この年、オランダ船から購入した品物の80、4%が生糸と絹織物で、毛織物が5、5%、綿織物が0、9%、麻布が0、5%、繊維の合計は全体の87、7%だった。(『オランダ東インド会社の歴史』
1655 糸割符制度廃止。このころから、諸国より和糸が京に入るようになる。
1660 このころ、日本はまだおびただしい銀輸出(生糸の原価高騰にもかかわらず輸入量が落ちないため)
1661 鄭成功、台湾に上陸。このころまで、鄭芝龍、成功父子は中国の生糸絹織物を日本に売ることで莫大な利益を得ていた。オランダは台湾を失うことによって、白糸の供給ルートをなくす。
1685 銀輸出をおさえるための長崎貿易制限令。中国およびオランダとの取り引き上限額を定める。
1687 越後屋は、綿店を設け、関東絹織物、木綿織物の産地直入をはじめる。
1688 日本に寄港する中国船のピーク。193隻を数え、長崎に降りた中国人は約9128人。寄港中国船数を70隻に制限。
1689 長崎唐人屋敷設立。和糸問屋はわずか9軒。
1692 稲生若水『炮炙全書』=日本産物の記述。このころから、国産へ向かって、本草学調査が盛んになり、都市では植物栽培が盛んとなる。
1697 江戸の呉服商17店のうち、すべてが京都の店。
1698 定められた額以上の中国生糸の買い取りを禁止。
1700 京都の庶民人口のうち21%強が西陣関係で生計を立てていた。
1702 日本で最初の蚕書、野本道玄『蚕飼養法記』出版。この後、幕末まで約100冊の蚕書が刊行される。
1705 (1636と要比較)この年にオランダ船から購入したものは、生糸絹織物が43、3%、毛織物が2、5%、綿織物が20、7%で、繊維は全品目の67、2%だった。
1713 幕府は京都の織物屋に和糸を用いるよう命じ、諸国には養蚕製糸を奨励。問屋も遠隔地の農家に仕入れに行くようになる。
1715 このころ、京へ入る関東の和糸が近江の和糸に迫る量になる。ただし、下糸であった。
1716 このころ西陣で使われた、長崎・対馬を合わせた舶来糸は全体の58%で、残りは和糸だった。
1730 1684からこのころまでは、対馬藩の白糸輸入が長崎貿易をしのぐ。この白糸は西陣に運ばれた。
1734 幕府指導による諸国産物調査はじまる。産物記は現存170点。
1736 これ以後、上田、加古川、結城で輸入品に劣らない品質の和糸が産出される。
1738 西陣の織工が高機による織物技術を桐生に伝える。その後桐生から紗綾、綸子その他の高級織物が京都へ入るようになったため、西陣の訴えで搬入が制限された。
1779 (1697と要比較)江戸の呉服商のうち、14人が京都商人、6人が関東織物の仕入屋、8人が新興商人。
1790 京都から桐生へ紋工が入り、先染めの彩糸と紋織を伝承する。
1803 『養蚕秘録』刊行。後にフランス語版が出される。
1814 このころ東北とくに福島、関東の和糸が長浜を通って大量に京へ入る。
1858 日米通商条約調印の結果、外国商人が国内相場の2〜4倍で生糸を買い出した。
1860 横浜開港。日本の生糸輸出額の60%が横浜から輸出された。輸出先はフランス、イタリア、ヨーロッパ経由でアメリカ。
1861 横浜で生糸の売り込みを行う商人が約100人いた。幕府の「五品江戸廻送命令」=雑穀、水油、蝋、呉服、生糸を横浜へは持ち込まず江戸の問屋を通して輸出するよう命令したもの。翌年には廃止。一人一日、生糸一五〇斤以上売ることが禁止される。数年後に廃止。
1865 幕府より、輸出生糸、蚕種紙に手数料を払い改印を受ける命令が出される。
1867 (1779と要比較)江戸の呉服仲間108軒のうち、66%が江戸商人、21%が京都商人、残りは近江その他。しかし売上高は越後屋が群を抜いていた。無株の上位の商人で、越後屋平均売り上げの2%。
1868 生糸と蚕種とで、輸出総額の三分二を占めた。
1871 田畑勝手作許可の法令が出て、田にも桑を植えることができるようになった。
1874 このころから、士族の職業として養蚕、製糸、機織が奨励され、各地に授産所ができる。
1876 1868年の2倍以上の生糸輸出量になる。富岡製糸工場ができる。このころの機械製糸工場は全国で87ヶ所。
1879 このころ、ヨーロッパではまだ、日本生糸は中国生糸より安く売られていた。品質が劣ったためである。
1888 綿布ひとりあたりの消費量は、1874年の2、1倍になり、国内生産量は1、5倍となった。
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参考文献紹介
A comparative study of textile production and trading from the beginning of the 16th century to the end of the 19th century
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