多摩の織物関係年表

471  技術伝播の目的で、秦氏を東国にも分住させる。

6世紀ごろ  史、倉人、画師、皮革工などの技能をもつ高句麗人が、多摩地域にも渡来していた可能性がある。

666  百済人の男女約2000人を東国に住まわせる。

687  渡来した高麗人56人を常陸に住まわせ、新羅人14人を下野に住まわせ、僧尼を含む新羅人22人を武蔵に住まわせる。

713  元来、武蔵、相模、常陸、上野、下総は麻布を調する役目だったが、この年より、麻と(あしぎぬ)の両方を収めることになった。

716  駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1799人が、武蔵野国に移され、「高麗郡」となり、現・入間郡日高市高麗本郷に郡衙を置く。郡司は高麗王族の高麗王若光の子孫だったと考えられる。高麗郡では高麗絹を作って朝廷に献じた。中世には若光の子孫が高麗神社を建て、武士として勢力もふるった。江戸時代は84村。明治初期には132村。

729〜  八王子周辺から多摩川沿岸一帯で麻布が生産されていた。多摩川は石灰を有し、麻布晒しに適していた。調布所も流域各所に設けられた。

741  国分寺ができる。布目瓦の布に撚りのかかった精巧な麻布が使われる。瓦は入間郡東金子村小谷田の窯のものだった。

755  新羅とのあいだが緊張。防人の交代があり、その時の歌「赤駒を山野に放しとりかねて多麻の横山かしゆかやらん(宇遅部黒女)」が『万葉集』に入る。

900 このころ、小野篁の子孫、小野氏が横山義孝となって八王子一帯を支配し、横山党を形成。横山庄は54ヶ村。

927  『延喜式』の中で、全国の養蚕国の中では関東は、上糸国、中糸国に対して「麁(あら)糸国」であり、全国の製絹国の中では関東は、「輸絹国」に対して「輸 (あしぎぬ・ふとぎぬ=粗悪で麻布に似た絹織物、つむぎ)国」と表現された。また、浅川は麻川、多摩は多麻と表記されていた。

1213  鎌倉幕府成立後の和田義盛の乱で、横山、屋内、平山、粟飯原(相原)、田名、古那、小山、椚田など横山党31人が鎌倉で戦死し、横山庄は幕府に没収される。横山庄は大江広元の次男、長井左衛門支配となる。

1333  横山氏を含む武蔵七党が、南下してくる新田義貞軍に参加。府中の分倍河原、多摩村の関戸が戦場となった。

1352  府中の金井ヶ原が戦場となる。

1370  このころ、片倉城が建てられ、長井家の拠点となる。

1521  このころ、滝山城(八王子市丹木)が建設されたか。この後、八日市が起こって城下町が形成される。関戸宿(多摩村)、平井宿(日の出村)にも市が開設される。このころから、紬縞は領内産物として織られていた。

1557  五日市の広徳寺門前に農民が来集することに制限が加えられる。農民の商人化が起こりつつあった。

1564  このころ、成瀬村の租税は三分二が麦で三分一が銭だった。貨幣経済の浸透に注目できる。

1569  武田信玄が滝山城を攻撃。鉄砲による戦争となる。鉄砲に耐えられる八王子城(元八王子)の建設が始まる。

1576  このころまでに八王子城への移転が完了。武家屋敷町の中宿、刀剣鍛冶職人居住区の鍛冶屋村、商業地区の八日市、横山、八幡ができる。城下町人口は5千〜1万と推測されている。

1590  八王子城、秀吉軍によって攻撃され、落城炎上する。すでにそのころ、安房、上総、下総、上野、武蔵、相模の88城が陥落していた。落城直後に家康が入り、横山村に他の宿も移り、外部から多くの人が移り住んで市が再建され、六斎市となる。ここには当初から紬座が開かれていた。

1593  甲州から進駐した者たちを中心に常備隊の千人衆が形成され、千人町に屋敷を置く。千人同心たちは農耕もし、甲斐絹、木綿、その他の産物を購入して江戸で売りさばくことも行った。甲斐絹「郡内」は、八王子市場に集められて八王子の名前をつけ、「海機」「改機」と書かれて江戸で売られた。

1624〜43ごろ  寛永年間の津久井の久保沢市、原宿市設立において、「横山之商人衆」「横山領とと相模領の商人衆」が主導権を握った。

1627  「毛吹草」に、武蔵の産物として「滝山横山ノ紬嶋 浅草嶋」と記載されている。

1686  八王子の市には、紬座、麻売座、繰綿座があったことが確認できる。

1688  元禄期(〜1704)には、紬が八王子宿の六斎市の主要商品として取り引きされた。

1689  拝島領大沢村の村明細帳に、田畑耕作のあいまに女性が紬を織っていることが記載されている。

1702  横山村は家数734軒、人口3448人。農民から商人への転出が目立ち、造酒屋32、商人194、大工12その他の職人が見られる。市の取り引き商品は、絹紬袴島、糸綿小間物、麻繰綿紙、木綿布、穀物、肴、塩、茶、たばこ、竹長木薪炭など。また由井領横川村の村明細帳に、女性が養蚕、木綿と紬の機織りを行って年収が四〇両ほどになることが記載されている。

1707  小宮領犬目村の村明細帳に、「男之かせぎ無御座候、女之かせぎ木綿、紬仕候」とある。

1716  享保ごろから養蚕が活発になる。

1732  相模、八王子、青梅で紺や茶の上田島を、また八王子に袴地の「八王子平」があったこと、八王子で鳶色、黄茶など黄八丈に似た紬島が織られていたことが、記載されている(「万金産業袋」)。

1733  多摩郡新町村の村明細帳に、男は耕作のあいまに江戸への荷物運搬などで稼ぎ、女は常に木綿嶋織りや木綿糸取りを行った、とある。

1737  由井領小比企村の村明細帳に、養蚕で年に三〇両ほどの収入があり、村内には布・木綿着商売、茶商売、木挽、糸繭商売が各一人、小売酒屋が二人いたことが記載されている。

1747  上相原村の村明細帳に、「女は蚕少々仕、紬、絹、木綿織にて御年貢介に仕候」とある。

1757  縞買商人の三河屋与五兵衛が運上金を払って市場を独占しようとしたことに対して、織屋農民数千人が三河屋を襲撃。一と月半に渡って市場が閉鎖される。

1764  明和ごろから、八王子織物は全国市場に出てゆく。江戸の越後屋、白木屋など大手も買いにくる。

1772  このころから、八王子織物は大阪との取り引きも行われる。このころ、市は縞買い商人のセリが激しくなったため、夜明けとともに始まった。

1784  市の北側に場所を取って農民から織物を買っていた在方(農村)縞買は、買方と売方を区別するため「油箪台(ゆたんだい)」という縁台を使うようになったが、それがもとで宿方(町)縞買との対立が激しくなった。

1793  在方縞買の組合が、女郎屋に増加を理由に宿方縞買組合と分裂し、別個に会合を開くことになった。

1820  八王子の縞買商人が江戸呉服商を経ずに直販をしたため、江戸呉服仲間から八王子織物の扱いを中止され、それに対して織屋農民と縞買は訴訟を起こし、幕府に裁定をゆだねるが、決着がつかない。

1827 谷野村(家数35軒)のうち、35%が農業外の商品流通に従事。

1830  「色八丈織屋仲間」ができる。「糸織八丈」「色八丈」と称して、生産量の少ない黄八丈の代替物を作っていた。

1841  天保の改革で、縞買仲間、色八丈織屋仲間が解体されるが、西陣などの高級織物が出回らなくなったため、木綿織物や黒八丈を生産し続ける。

1843  八王子宿中野村で、農民が撚糸(水車による糸繰)を業として始める。

1855  いったん解散して取り引き自由化をした後、江戸の呉服商の株仲間を再び結成して独占をはかろうとしたため、八王子周辺の32ヶ村が撤回を求めて訴訟を起こした。片倉、相原、鑓水、小山などを含む。ここには織物生産者がいたと思われる。

1865  八王子改所が設置され、幕府検印のない生糸の売買ができなくなる。このころの糸をその形から「島田糸」という。石川村を中心に生産された。

1871  小宮領犬目村の村明細帳に「農間、男ハ駄賃山稼、女ハ賃糸、賃機いたし」とあり、年貢も女性の稼ぎで払い、市での販売もしていたことが記載されている。

1873  生糸製造取締規則を定め、日本生糸改会社ができ、八王子で5名の地方会社の申請者がいたが、八王子生糸商人から政府に取り消しの訴訟が起こされた。

1874  八王子織物会所設立。翌年、組合となる。

1876  八王子に機械製糸工場ができる。

1877  このころから八王子の木綿部門が解体する。絹生産と木綿生産が地域的に分岐したためと思われる。この年の内国勧業博覧会では、生産者名を入れた出展記録があり、たとえば相原村の松井たきは縞八丈を出展している。多くは黒八丈、黄八丈、縞八丈、糸織、河和縞、武蔵平など木綿や絣なども少し入っている。

多摩の織物に関するその他の注目事項

*多摩の織物の特徴は、高級品ではなく生活必需品に近いこと。そのため、京都の品揃えとまったく異なり、競合しなかった。

*多摩の紬は江戸時代以降、庶民階級が絹や木綿の嶋物を普段着として着ることになったために、需要が多くなった。

*江戸時代の布生産は生活のためには麻、木綿、絹が複合して生産されるのが自然だったが、「特産」化して大量生産に入ると、多摩は木綿を分離して特徴を主張した。

*嶋木綿と紬嶋は着る階層が異なるために共存し得た。

*明治以降の日本では、桑園の分布が、1889〜1930が伸長期、1931〜47が衰退期、1948〜1979が停滞期である。繭生産では、1889〜1914が伸長期、1915〜30が急伸期、1931〜40が漸減期である。ピークは1930年だった。(『繭地盤』より)

*江戸周辺の特産は、武蔵の狭山茶、小川町の紙、深谷の瓦、川口の鋳物、野田の醤油、佐原流山の酒・味醂、青梅の石灰、秩父、八王子、桐生、足利、伊勢崎、高崎、藤岡の織物。この中で先染めを特色とするのは、八王子、桐生、足利など。*田畑が狭く、米は半年分に足りない、酸性土壌が桑に適し、繭作りには温度の調節と乾燥が重要なため、木炭が必要だった。

*1921年生まれの女性の聞き書きでは、八王子の中クラスの工場の場合、広さ70坪、従業員12人ほどで、織り子、男衆、年季ッ子の構成だった。

*小学校を終えて住み込みで働く者が八王子の小学校でクラスの半分いた。周辺農村の小学校ではほとんど。

*大学出のサラリーマンの月収が40円の時代、織り子の年収は住居・食事つきで200円〜400円だった。子供達は農村の手伝いより奉公を選んだ。

*工場でのノルマは一日一反(約12メートル)。

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参考文献紹介

A comparative study of textile production and trading from the beginning of the 16th century to the end of the 19th century

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