以下は日本とアジアの織物の図版である。
各図版は解説をつけてあるが、その全体の意味と脈絡や、これらを文化として、歴史として、コミュニケーション・ツールとしてどう考えるべきか、という基本的考え方はここに述べていない。それらは講義で述べる性質のものである。以下の図版はあくまでヴィジュアル資料であり、講義に代わるものではない。
図版は順序立てて解説してあるので、一度は順番に見た方がわかりやすい。
図版はクリックすると大きくなる。
なお、以下の写真は様々な資料から転写したものが多く含まれている。これらはスライドのかわりに用意した講義用の資料であるから、とくにクレジットは入れていない。そのため、ここからさらに転写して営業、出版、印刷物、ホームページに使用することは、これを禁ずる。必要な時は所蔵者を知らせるので、所定の手続きをとってほしい。
インド・布の宮殿
インドは布の国である。
これは王族が郊外に出た際の移動式宮殿であるが、細部まで豪華な布で作られている。単なるテントとしては不必要なほど布が使われる。
インド・結婚式場
Saurashtra,Bhimalad村の結婚式会場。このような場所も布で作られる。天上には踊るクリシュナ、孔雀、鹿、馬が描かれ、所狭しと布のシャンデリアが下がっている。四方にはのれん状のものが下がっているが、これらにはたいてい鏡が縫いつけられ、魔よけの役割を果たす。布が呪術的な機能をもっていることがわかる。

インド・カッチの男性たち
Kutchという所で、クリシュナの祭に出かける家族。男性の衣装は女性よりはるかに華やかで、刺繍に被われたスカートをはいている。インドでは男性が布を尊重し、男性が仕事として布を織ったり染めたりする傾向がある。

インド・子供
Kutchの祭の子供。様々なアクセサリー類、とくにブラウスに縫い込まれた鏡は魔よけだ。スカートはインドで多く作られている木綿の、文様プリント。

インド・入り口の魔よけ
三角形ののれん状のものだけではなく、袋がいくつも壁にかけられている。鏡やその他の様々な刺繍は魔よけで、家や部屋の入り口にかける。

インド・牛の背中布
インドでは、ラクダと牛の背中に特別な布を載せる。ヤギの毛を使い、男性が手つむぎ、手織で作ったものが背中にかけられる。全面、白黒の格子文様であったり、ここに見られるように、ボーダーに白黒のぎざぎざ文様を入れる。大事な動物を守る魔よけの役割も果たしている。

インドのパトラ
インドの「パトラ」と呼ばれる織物は、アジアじゅうに拡がって大きな影響を与えた。東南アジア各地では、パトラを布の至上のものとした。
これは織物史上もっとも難しい技術である「ダブル・イカット(経緯絣=たてよこがすり)で織られたものだ。糸の段階で何色かに染め分け、その糸を、ずれないように、きっちりとこの文様になるように織り上げて行く。文様は花のつなぎ文様だが、これは正倉院御物に発見される八弁花文と同種に見える。かなり古い文様と思われる。
ダブル・イカットの技術はインドで完成され、インドネシア、日本に渡った。日本では江戸時代に各地で織られるようになるが、現在では久留米絣がこの技法をもっている。インドネシアでは後述する、バリ島山中のトゥガナン村のみが、この技術をもっている。

インド北部・ヴァラナシの布
インド北部はかつて、ムガール帝国というイスラム国家が栄えた。そのムガール帝国崩壊後の混乱を逃れるために、多くの貴族と裕福な商人がVaranasiに逃げてきた。その結果、金糸、銀糸を使った豪華、繊細で洗練された布が、Varanasiに多く発見される。

19Cグジャラートのタイ向けサンプル
グジャラートは古くから東西交易の要所で、13世紀にはイスラムに征服され、15,16世紀には ポルトガル、イギリスが入り、16世紀にはムガール帝国の領地となった。イスラム教徒の「グジャラート商人」は海の貿易商として大規模に活躍した。織物も盛んで、世界各地へ輸出していた。インドでは輸出にあたってきちんと相手国の要望を調査し、相手に合わせてサンプルを作り、希望に沿う商品にした。そのため、江戸時代の日本をはじめとするアジアじゅうの国に、インドの織物が商品として、またひとつの目標として、浸透していったのである。これはタイ向けに作られたサンプル。

インド産古渡り更紗 徳川家 花唐草
更紗は、今は「バティック」と呼ばれる。織り上げた布に、鑞で文様を描いて防染し、それを繰り返して鮮やかで詳細な文様を作る染め物だ。鑞より簡単な、スタンプ式のプリントで文様が作られることもある。インドの花唐草の更紗は、日本でもヨーロッパでも好まれた。これは江戸時代にオランダ東インド会社から徳川家に送られたものと思われる。

インド産古渡り更紗 徳川家 黄地
更紗は花唐草だけでなく、非常に多様な文様と色彩をもっていた。オランダ東インド会社は幕府への贈答にするだけでなく、非常にたくさんの更紗を日本に売った。

インド産古渡り更紗 三井家 帯
日本人にとって、更紗は値段の高いあこがれの品物だった。多くの生地が手に入らない場合、端切れをつないで帯、着物の一部、茶入れの袋、たばこ入れの内側の仕切などに使った。

インド産古渡り更紗製 前田慶寧(よしやす)の陣羽織
更紗で陣羽織を作ることは、よく行われたようだ。もう戦争のない時代だから、実際に使ったのではなく、まさに男のお洒落であり、あこがれのもので作った宝物だったろう。

インド産古渡り更紗 井伊家
日本には更紗ばかりでなく、インドの絣(かすり)も入ってきた。絣そのものはそれ以前にも、中国経由で入ってきたり、琉球から入ってきたりしているが、本格的に絣の国産化がすすんだのは、江戸時代になってからだった。国産化すると、絣はもはや上層階級だけのものではなく、むしろ庶民のものとなった。かすりは国際語で「イカット」と言う。インド、ペルシャのものだったが、18世紀以後は全世界にある。

インド産古渡り更紗 仕覆
更紗はとくに、茶の湯の中で珍重された。茶の湯には、「島もの」という名でインド、東南アジアのものを喜ぶ傾向があったのだ。仕覆(茶入れの袋)は、様々な更紗を組み合わせて、美しく洗練されたものに仕立てられる。当時は、数が少ないから多くする、という発想はなかった。限られた量のものをいかに配置してうまく使うか、を考える知恵、工夫、精神の力の方が、重要だった。

インド産古渡り更紗 茶杓袋など
更紗は茶杓の袋、筆の袋などにも仕立てられた。このように、素材の量が少ないものは、少なくて済むものを作ればいいのである。

和更紗 清長「吾妻橋下の涼船」部分
更紗は国産化された。とくに有名なのが、彦根で作られた和更紗だった。
このような浮世絵の帯に出てくる更紗は輸入品か国産かにわかには判断できないが、国産ではないかと思われる。和更紗は染料の関係か、あるいは好みの関係か、インド産のものより地味な色が多い。

インド産古渡り更紗 トゥンパルの袱紗
インドの布の端には、日本で「鋸歯文」といい、インドネシアでトゥンパルという、ぎざぎざ文様がよく現れる。これは植物の芽を表わすとも、山を表わすとも言われる。この山型文様の中には、花や草が描かれることが多い。

邸内遊楽図屏風
江戸時代になるとそのトゥンパルが、日本の着物の裾や袖口に見えるようになる。しかしその山の中は無地になり、インド的なものが消えている。

北尾重政「東西南北の美人 深川」
18世紀の後半に描かれた浮世絵の中に、深川の芸者がトゥンパルの帯を締めているところが見える。これは山型の中に花が描かれ、恐らくインドかインドネシアの輸入品だと思われる。オランダ東インド会社は幕末まで更紗を日本に運んでいたので、芸者の世界に流れ込む可能性は高い。
ちなみにこの浮世絵は、深川におけるビロードの流行に取材したものだった。ここでは着物の襟に使われている。ヨーロッパ生まれのビロードも国産化されたが、この襟は輸入品かも知れない。もう一方の芸者が締めている帯には金字で漢字が書かれ、中国産であることがわかる。江戸時代の遊女や芸者が舶来品好みだったことは、あまり知られていない。

前田重煕の陣羽織
国産の陣羽織に、背中に大きく帆船が描かれ、袖口に黒のトゥンパルが見える。トゥンパルが海の彼方からやってきたことを強調しているような構成である。

国芳「誠忠義士肖像・中村勘助正辰」
袖口のトゥンパルは力強い印象を与えたためか、定(じょう)火消し(武士で構成する火消し集団)の羽織に採用されたらしい。それを討ち入りの時に着たのが、忠臣蔵の四十七士である。ただしそれは芝居の中のことだ。実際にはばらばらの格好だった。新撰組のユニフォームにも採用された。

渡来縞
更紗、絣とともにインドからやってきて、日本人の生活にもっとも大きな影響を与えたのが「縞」である。縞は技術的には「絣(イカット)」の技法で作る。糸の段階で染め、複数の色を配色して経(たて)糸を張り、そこに緯(よこ)糸を通してゆく。横糸の色を規則的に変えれば格子になる。アジアの各民族がそれぞれの縞を作っていたが、日本ほど縞のヴァリエーションが多い所は他にないだろう。
これは、インドから入ってきたと思われる。鮮やかな色だ。

渡来縞帳
鮮やかな縞の色はやがて、国産化されるにしたがって渋い色に変化し、縞の代表は茶色、ねずみ色、藍色になった。染料の関係か、江戸における都会化の結果か、どちらか分からない。

輸入唐棧留(とうさんとめ)の羽織
唐桟(とうざん)織り、あるいは唐棧留(とうさんとめ)というのは、「唐」=外国の、サントメという所で作られ、積み出された縞木綿、という意味である。サントメはポルトガル語で、英語ではセント・トーマスという地名が、インドのマドラスにある。
ただし、国産化してからもこのような縞木綿のことを唐桟と呼んだので、同様のものが国産である場合もある。

中村竹三郎の着ているアジアの絣縞
役者が鮮やかな絣縞(縞の中に絣が配置されている)を着ているところを見ると、これは輸入の縞木綿である可能性が高い。江戸時代の初期には輸入品が、後期には国産品が使われたのだ。

鈴木春信「藤原敏行朝臣(秋風)」
鈴木春信の下絵になる錦絵(「印刷と版画」年表・図版を参照)が生まれてから、浮世絵の中に細い縦縞の着物が一挙に多くなる。

鈴木春信「風流四季歌仙 水無月」
これなどは、男性(左)も女性も、縞の着物に縞の帯を締めている。縞の流行と定着は、縞木綿および紬(つむぎ)縞(紬は絹織物)が完全に国産化され、輸入品を必要としなくなった段階で起こったと思われる。春信の浮世絵は1765年から描かれるので、そのころまでには、完全に国産化していたのであろう。

歌川国貞「誂織当世島・金華糖」(1845〜46)
この絵の左上に書かれた「誂織当世島」という文字に注目してほしい。「誂織」つまり既製品ではなく注文を受けて織った、「当世」つまり流行の「島」という意味だ。「島」は「しま」と読み、「縞」のことである。しかし江戸時代では、ストライプのことを「島」という文字で表した。なぜなら、南の島々からやってきた織物だからである。インドは島ではないが、日本人にとっては東南アジア島嶼部の一部に思えた。
ちなみに、子供がねだっているのは砂糖菓子である。このころようやく、砂糖が普及してきた。国産化の前はオランダ東インド会社に東南アジアの砂糖を運んでもらっていたのである。
砂糖菓子が乗っている皿は染め付けの磁器である。日本における磁器の普及は陶器よりずっと遅く、19世紀になってから、やっと庶民が頻繁に使えるようになった。

歌川国貞「誂織当世島・吊り舟」(1845〜46)
これも同じシリーズだが、背景は「ねずみ色」の縞になっている。このシリーズは縞織物の宣伝用であったのだろう。「四十六茶百鼠」といい、茶色とねずみ色は江戸時代の江戸で(上方は異なる)、もっとも洒落た粋な色とされた。縞の着物も粋を代表した。

源氏物語絵巻」部分
平安時代の布は無地、あるいは紋織りという、地の色と同色の織りで文様を出すものか、どちらかであった。平安時代の衣類は文様よりも、襲(かさね)の色目(色の重なり方)の方を重要視していたのである。
また、次からの図版との違いに注目してほしい。平安時代の人物は、その身体と顔が着物と髪にうずもれ、ほとんど見えないばかりか、身体に動きがない。それが、中世を経て桃山・江戸時代になると、まったく変わってしまう。

「花下遊楽図」女性たちの踊り
桃山から江戸時代初期にかけての遊楽図屏風には、人々が踊る姿が多く描かれた。身体の線と顔がはっきり見え、着物はその激しい動きにつれて、躍動する。
着物は現在と異なる着方をしている。まず重ね着をして上半身を脱いでいる。上下のコーディネイトが考えられている。また、帯はひものように細い。そして、ヘアスタイルは髷(まげ)を結っておらず、垂らすだけである。

「花下遊楽図」男装の傾き踊り
歌舞伎は後のあて字で、「傾く」と書いた。標準の生き方からだいぶ傾いていることを意味する。「傾き者」はやくざな生き方、誇張されたファッションを特徴とし、本来は男性について言った言葉だが、やがて女性たちが男装して「傾き者」を真似た。それが舞台に上がって「かぶき」になる。この絵は舞台上の「かぶき」の絵ではなく、花見の宴における踊りだが、女性のかぶき踊りの雰囲気を伝えている。

懐月堂派の美人画
初期の浮世絵はこのように、堂々とした身体を描いていた。向かい風に対して毅然として歩む遊女の誇り高い姿勢はそのまま、当時の遊女のありようを示している。着物は踊りの絵と同様、身体の動きと豊かさを表現している。

誰が袖(たがそで)屏風
江戸時代の初期、衣桁や屏風に何枚もの着物を掛けた様子を絵に描いた、「誰が袖屏風」という不思議な屏風があった。着物はインテリアのための装飾品でもあった、ということだ。このような屏風が作られた背景には、装飾になり得る着物は(中国からの)輸入の生糸絹織物で作られたものが多く、実際に購入するには高すぎた、という理由があったのかも知れない。しかしもう一方で、「誰の袖」を「だれの着物だ?」という謎かけだという説もある。着物からその中身である遊女を想起させる屏風、ということである。
なお、右上の着物の裾に、先に述べた「トゥンパル」が現れている。

上杉謙信の陣羽織
陣羽織は毛織物で作られた。戦国時代の男性は女性よりはるかに華やかでお洒落だった。戦場に出る場合もそのセンスを競った。紫、赤、金という派手な色の組み合わせに、金色の縁取りがしてある。

伊達政宗の陣羽織
大きさの違う様々な色の水玉には、金糸で縁取りがしてある。このように大胆な水玉文様は日本の文様の系譜になかったものだ。外国からヒントを得たのか、それとも独自のデザインであるのかわからないが、アジアはもちろんのこと、当時のヨーロッパにもあまりみかけない文様である。

富士山噴火の陣羽織
富士山が噴火し、その噴火物が玉になって落下している。黒と黄の大胆で洗練されたデザインは驚くべきものがある。襟と袖口にフリルがついているのはヨーロッパの影響だが、このデザイン・センスも影響を受けているのかどうか、わからない。

ペルシャつづれ織りの秀吉陣羽織
独自のデザインをした陣羽織に比べれば、単に高価な輸入品を仕立てただけの陣羽織は見劣りがるする。秀吉らしい発想だ。当時は、ヨーロッパ人がアジア各地のものだけでなく、ペルシャ圏のものも日本に売り込んでいた。

小袖・蝶と捻花
桃山時代の大胆なデザイン・センスは、江戸初期の着物にも現れていた。着物全体にたった二つの文様が生きている。
なお、「小袖」という名称は今のふつうの着物のことを意味する。中世までは貴族の下着であり、庶民の労働着であった。室町時代以後、小袖はしだいに上着化した。

打掛(うちかけ)・流水に杜若(かきつばた)
江戸時代に俵屋宗達、本阿弥光悦、尾形光琳が現れ、後に「琳派」と呼ばれる新しい都会的デザインを開発した。それはここに見られるような、スケールの大きい動的(ダイナミック)なうねりをもったものだった。遠くから見ると大胆だが、近くによると、細かな絞り染めで流れを表現した、非常に手のこんだ技術である。
なお、流水に杜若というテーマは『伊勢物語』から取っている。着物は和歌、漢詩、物語からそのテーマをとることが多い。
なお、小袖は上着化したが、まだどこかに下着の観念が残っているため、正式な席にはそのままでは出て行かれない。そのため江戸時代では、女性は小袖の上に打掛を、男性は羽織を着た。明治以降は女性も打掛ではなく、羽織を着た。

振袖・流水に萩
流水は非常に小さな絞り染めの連続でできており、萩は精緻な刺繍でできあがっている。巧妙精緻な技術と大胆なデザインの組み合わせである。なお、五〇年ほど前まで、着物の文様は季節をはっきり持っていたので、特定の季節の植物が表されていた。現在は晴れ着市場のみの拡大により、着物に明確な季節が存在しない。一年中着るためである。

小袖・松原に帆舟と鶴
「縞」「絣」「更紗」のところで解説したように、江戸時代の着物はインドおよび東南アジアの影響を強く受けていた。しかしその一方で、絹織物は中国への依存から抜けだし、早くから国内で高度な織り、染め、刺繍の技術を発達させた。そのプロセスにおいて、世界全体を見回しても日本にしか存在しない「風景の着物」を生み出した。風景は、ヨーロッパにおいてはタピスリーには織られたが、一枚の着物が一枚の風景画そのもの、という作られ方は日本のみに見える現象である。
この着物は空いっぱいに鶴が舞っている。その下を帆船が動いていく。裾には、陸地の松原が見える。

小袖・甕垂れ
この着物は瓶から酒がこぼれ落ちている大胆な文様で、近づくと、絞りと刺繍を駆使した非常に手のこんだものである。

小袖・インド産古渡り更紗の端切れと杜若の継ぎ文様
すでに説明したインドから輸入された「更紗」を継ぎ合わせた着物である。生地が足りず、中心には手書きのかきつばたの絵を継ぎ合わせている。継ぎ合わせの着物は、よく作られていた。

振袖・山桜に鴛鴦(おしどり)と流水
山の流水がこちらがわに向かって流れてくるような風景画をそのまま振り袖にしている。

小袖・黒紅綸子地竹林
竹林がそのまま着物になったような着物。竹は細かい絞りの連続、緑の竹葉は刺繍でできている。

小袖・黒縮緬地嵐山(明治の友禅)
桜の咲く京都・嵐山の夜の風景をそのまま手描き友禅で染めたもの。風景画として見ても秀逸な作品である。

振袖・御簾に草花蝶
風景は外で眺めるだけでなく、室内からも見える。これは室内ですだれを上げ、その下で庭を眺めた様子。草花と蝶が、図鑑のように精密。金箔を押し、春の草花や蝶はすべて刺繍で、すだれの部分は細かい絞りでできている。

小袖・吉原細見
初期の吉原遊郭の様子を手描きで染めたもの。細見とは、ガイドブックのこと。洒落のきいた文様だ。

能衣装 唐織 松
能衣装は今日なお、技術の粋を尽くして作られる。通常の着物のように風景画の画面展開はないが、草花の連続文様は極めて精密で、しかもすべて、刺繍でも手描きでも型染めでもなく、「織り」によって文様が作られる。グラデーションも織りによって表現される。

能衣装 唐織 紅葉
風景画ではないが、ぎっしりと埋め尽くされた紅葉は、風景のようにも見える。

能衣装 唐織 松と帆船
海上を動く帆船と波、陸地に見える松と雲、という組み合わせは、連続文様ながら、風景である。

能衣装 唐織 冊子と源氏車
着物の文様は物語からとられることがある。これは源氏物語から作られた文様なので、本が配置されている。現在ではあり得ないが、本が着物の文様になることは多かった。本そのものが、美しい存在だったからである。
なお、ここまでの4種の能衣装の文様はすべて、ニューヨーク製のラッピングペーパーから撮影したものである。着物は現代でもいかようにも使えるものであるにもかかわらず、日本では、このように日用品のデザインに使おうとする発想がない。

イギリスのチンツ・中国僧侶(1770〜80)
これは、すでに説明した日本の「古渡り更紗」に関連するものである。未見の場合は、まずその項目を読んでほしい。
日本に来たインドの更紗は、同じ時代、大量にイギリスに運ばれ、それは「chints」と呼ばれた。その流行があまりに激しかったためイギリスの毛織物業者は圧迫を受け、政府は18世紀のあいだ、幾度もチンツの輸入およびコピー商品の生産、販売禁止令を出したが、効果はなかった。
これはインド更紗の模倣品であるが、枝には中国の鳳凰と中国の僧侶とがとまっている。インドと中国は彼らにとって同じ様なものだった。

<イギリスのチンツ・中国奇岩(1770〜80)
これは同様にインド更紗の模倣品で、ここには、中国の庭園で見かける「奇岩」が文様化されている。
イギリスの産業革命は、アジア製品による圧迫が原因だった。そこで、植民地にプランテーションを作り、そこで栽培された原料を安く輸入し、国内の機械化された工場で大量に加工し、それを逆にインドへ大量販売して富を蓄えた。インドの産業はそのようにして衰弱し、イギリスの植民地となって自由を失った。

ウイリアム・キルバーン作のチンツ・海藻(1790)
Kilburnはチンツのデザインを躍進させ、ヨーロッパ独特のものを作り上げた。これは海藻を文様化したもので、インド製品には見られないデザインである。

ウイリアム・キルバーン作のチンツ・枯れ草(1787−92)
このように、陰影のついた立体的な文様の作り方はヨーロッパ美術の系譜上にあるもので、アジアからは生まれないデザインである。

19C中頃のペイズリー
ペイズリーとは、イギリスの町の名である。インドで「ブーター」と呼ばれ、ペルシャで「ボテ」と呼ばれた花文様が木綿とともにイギリスに入った後、それを使ったウールのショールがペイズリーという町で作られた。

19C中頃のウイリアム・モリスの布の部屋
Morrisは画家であり、詩人であったが、産業革命以後の大量生産品にいやけがさし、中世のデザインと手仕事を基本にした、新しい工芸品(日用品)を作る会社を設立した。それは一種の社会運動、芸術運動(アーツ・アンド・クラフト運動)ともなり、日本の柳宗悦の芸術運動もここに発している。

ウイリアム・モリスの布(1884)
Morrisは紙や布のデザインも手がけた。チンツはさらに大きな変貌をとげ、イギリスの生活に多大な影響を与えた。

日本の影響を受けたリバティ商会の布(1887)
Libertyは1875年、ロンドンにインド、中国、日本の商品を扱う店を出し、やがてアーツ・アンド・クラフト運動の工芸家たちとともに、独自のデザインの布や家具を作るようになった。リバティ風は、アールヌーボーと同じ範疇をさすことがある。これは、日本的コンセプトでデザインされたプリント。リバティは現在でも、世界に類を見ない高層の木造デパートとしてロンドンに建っている。

ヨーロッパ産更紗で作った陣羽織
ヨーロッパで更紗が作られ独自な色彩とデザインをもちはじめると、日本人は早速それを輸入した。これは恐らくフランス製。ヨーロッパ産はインド産よりさらに高価だったという。運び手はオランダ東インド会社。

ヨーロッパ産更紗で作った茶具敷
同様のヨーロッパ更紗。これは恐らくイギリス製。18世紀後半に生まれた煎茶道では華やかな敷物を使うことが多いため、それに使われたと思われる。

バリ島のブバリ
インド木綿は世界中の生活に大きな影響を及ぼした。とくに東南アジア、その中でもとりわけインドネシアに及ぼした影響は顕著である。ジャワ島には更紗が定着して「ジャワ・バティック」を生み出したが、その他の島々では、むしろイカット(絣)が定着した。これはイカットの技法、つまり糸の段階で染める「先染め」によって織られた布。ブバリは、縞と格子の布である。

バリ島の歯削り儀式(ブバリ使用)
インドネシアの中で唯一、ヒンドゥー教を守り続けているバリ島は、インドネシアの中でも、あるいは世界の中でも、もっとも「布の呪術機能」が生き残っている場所である。歯削り儀式は成人式で、犬歯を平らにする儀式である(日本でも縄文時代には大人になると前歯をぎざぎざにしたので、同根の文化である可能性がある)。重要な儀式には身を守るために特定の布が使われる。敷物にはジャワ・バティックが使われているが、身体は格子のブバリに被われ、枕にもブバリが使われている。周囲も布でいっぱいである。

バリ島のお参り(ブバリ使用)
ブバリは神棚にも巻く神聖な布である。また、子供が産まれた時に瓜を子供とみなしてそのまわりにブバリを巻き、神に犠牲として供え、子供の安全を祈願する。この女性は自分自身はジャワ・バティックを着ているが、孫のかわりに縞と格子のブバリを巻いた瓜を神に供えようとしている。

バリ島の祠にいる神様(ポレン使用)
バリ島に旅行すると、あちこちで白黒格子の布をみかける。祠の神々はたいてい、これを巻いている。またケチャ・ダンスの集団は全員、これを腰に巻いている。白と黒は昼と夜、善と悪を象徴するもので、バリ島では、そのどちらも世界に必要なものとして尊重する。祭には必ず使われる。
江戸時代、日本でもこれを「弁慶格子」と呼んで非常に流行し、庶民の普段着に使っていた。

バリ島・トゥガナン村のグリンシン
バリ島の山中にあるトゥガナン村の人々は、もっとも古い時代にインドから渡って来た先住民だと言われている。この村はインドネシアで唯一、「ダブル・イカット(経緯絣)」の技法をもっている。この技法はインドに発生して、インドネシアのこの村と、日本のいくつかの地方に定着した高度な技法である。トゥガナン村では、いくつかの決まったパターンに織る。代表的なのはこの星形である。インドラが天の星を地上に降ろして人間に織らせた、という伝承をもっている。

トゥガナン村の祭(グリンシン使用)
グリンシンはこの村でしか使用されない。村人は、ふだんはふつうのTシャツや、ジャワ・バティックのプリントものを着ているが、祭になると、このもっとも神聖な布を使う。どの家でも必ず織っていたが、今では織り手が限られている。

トゥガナン村のみこし(グリンシン使用)
祭の時のみこしも、グリンシンで被う。神の乗り物だからである。

ブータンのキラ
これはKiraと呼ばれる衣装で、織った布を3枚つなぎ合わせ、それを体のまわりに巻いてとめる着方をする。この布は、そのキラの中で「ノシェム」と呼ばれる青地の織物である。生糸、金糸、木綿糸で織られている。刺繍ではなく、機織り機で織りながら複雑な文様を織りだしてゆく。座機(いざりばた)という、もっとも原始的な機織りの方法で、「縫い取り織り」という、多数の糸を棒で引き出しながら織る、もっとも複雑な織り方をする。非常に時間がかかる。
ブータンの織物は、その技法が沖縄の読谷(よみたん)の花織に似ている。花織の解説書にもルーツはブータンだとあるが、これは確かではない。むしろ、インド起源の技法が周辺諸国に広まり、その技法が点として残っている、と考えるべきだろう。

ブータンのパロ=ツェチュ祭
最大の祭の様子。女性たちが「ノシェム」を体に巻き、その上から金糸の上着を着ている。一枚一枚が、たいへんな時間と手間と技術力を使った織物であり、それだけに、祭にふさわしい神聖な力をもっている。

ブータンの織りの様子
「ナグシェム」という黒地の織物を織る様子。左上は、糸を紡いでいる様子。その下は整経(経糸をかける準備)の様子。その右は、棒を使った縫い取り織りの方法。下図を見ると、黒い経糸(たていと)がかけられ、ほとんどの文様はそこに棒でひっかけるようにして織られていくことがわかる。

中国(明)の卍つなぎに蓮文様の紋織り
中国は世界でもっとも古くから生糸、絹織物を大量に生産していた国で、その得意とするところはここに見られるような、極めて細い糸で織られ、美しい色で染められる精緻な紋織りであった。機織り機ももっとも高度に進化していた。15〜17世紀にもなると、ヨーロッパ、日本、ベトナムなど、世界各地で絹織物技術は中国に迫るほど発達するが、しかし、美しい色と艶の基本である中国産の白糸に匹敵する生糸は、どこも生み出すことはできなかった。そのため、世界中が銀を中国に渡し、生糸を買い続けることになった。日本も、中国生糸の肩代わりができるようになるのは、幕末になってからである。

中国(清)の刺繍
あらゆる技術、学問、芸術を高度に発達させた明が滅ぶと、満州族の清の時代になった。清は明と異なり、刺繍を発達させた。

韓国の麻のチョガッポ
韓国のテクスタイル文化の中で、他にぬきんでて異彩を放つのは、「ポジャギ」と呼ばれる風呂敷の世界である。(「生命樹の布」のなかのポジャギ参照)その中に、パッチワークで作られた「チョガッポ」というジャンルがある。とりわけ麻のチョガッポは、現代アートと呼んでもおかしくないほど、力強く、洗練され、美しい抽象芸術である。農村の女性たちが、これらを作っていた。

韓国の絹袷のチョガッポ
絹のチョガッポは色彩の組み合わせが明るく見事だ。

韓国のチマ・チョゴリの配色
チマ・チョゴリは草木染めの時代、一色一色が抑制された美しい色で、その色の組み合わせには、どの国にもない独特の美しさがあった。

グァテマラの市場の風呂敷
南米(とくにペルー)は世界の中で、インドに匹敵するぐらい古いテクスタイルの文化をもっている。現在はとくにグァテマラが、見事な色彩のものを作り続け、生活の中に使っている。一枚の布は風呂敷にもなり、敷物にもなる。

グァテマラの市場の女性の衣装
祭でなくても、色彩が乱舞する。

グァテマラの背負い布
一枚の布は背負い布にもなるが、これをおろせば敷物になる。なお、南米のテクスタイルは、非常に多様で長い歴史があり、とてもこれだけではすまない。

ガーナの王の衣装(絹)
アフリカには各地に独特の布と、その呪術的な力の神話がある。ここでは一種類しか見せられないが、調べればもっと多くの興味深い問題が発見できるはずである。これはガーナの王族がガーナの布をまとったところ。

ガーナの織物
ガーナのエウェ族の織物。この民族の織物は、このパターンで無数の色彩の組み合わせを行う。日本もかつて一〇〇種類にのぼる縞文様を織っていたが、そのことに似ている。テクスタイルはこのように、同じパターンの繰り返しがひとつの個性と多様性をもつ、という特徴を帯びている。